今にも雫が落ちそうなほどの蜜を、レンゲの花弁が重そうに支えている。マールムの厚意をありがたく思いながら、男が素直に花を口に含むと、少女はにっこりと笑い、まだ咲いている青い花を愉快そうに、嬲るように弄んだ。
男の口内に蜜の甘さが広がっていく。花特有の香りと、それから――何かの遺志の残り香。
ふわりと、まるで邪魔なものがなくなったかのように、頭が軽くなる。智慧が男の目を、正しい像を映すように作り変えた。
男は今更ながら、目の前の少女、マールムが、信じがたいほどの濃度の神秘を纏っていることを知ったのだった。
このように濃厚な神秘を目にしたことはなかった。ヘムウィックの魔女や、ヨセフカの診療所に居た女狩人の技など、児戯に等しく思えるほどに、強い力だ。男は”神秘のその先“の可能性を、男の悲願こそを、今正に目にしていた。
”これ“こそが、男が求めるもの。男が、少女に愚盲に惹かれながらも、それが”正しい“と断じられる理由なのだ。少女の存在そのものが――男の目的の”その先“なのだ!
降って湧いた悲願の手掛かりに、男は自身の衝動を抑えられない。無我夢中で手を伸ばし、少女が口を付ける前、飲み干す前の、完全なる神秘の塊であろう、青い花を摘み――
「ああっ、駄目!」
少女はすぐさま声をあげ、男は反射的に停止する。彼女の声の、その悲壮さが、ぎりぎりで男の行動を止めた。
「これら全てが、私の一部、私そのもの! 貴公、聞いたことは無いのか? 『花はみな女神が姿を変えたもの。決して、誰も摘んではならない』のだと。……どうか、お願いだ。貴公だけは、私をこれ以上、奪ってくれるな……」
少女は弱々しく男の腕へしがみ付いた。振り払うことは容易かった。少女は小さな乙女であり、男の夢に寄生し、男の集める狩人の特異な遺志を啜り、ようやく存在を取り戻す。そんなか弱い生き物だった。
ここで男が彼女に斧を振り下ろそうと、マールムは決して夢から消えられない。解放されない。縛られたままだ。彼女がこれまで何度も凌辱されながらも、逃げられなかったように。
マールムの青い瞳から、ぽとんと大きな雫が落ちる。男はそれを見、硬直した腕を、ゆっくりと少女から引き抜き、立ち上がる。少女はびくびくと、怯えたように男を見上げていた。
男の中で葛藤が起こる。この花から神秘を得たいという強い思いがあったが――ああ、だけど! 少女は、泣いていた。悲し気な顔は涙に塗れ、男の胸をひっきりなしに波立たせた。男は、我知らず花へ伸びる手をぐっと握り、よろめくように一歩退いた。
少女の瞳が悲しみに歪むのは、見たくなかった。青い瞳は男をじっと見つめており、男の神秘への欲求を恋情の炎がジリジリと焼き尽くし灰にし始める。そうすると段々と男にも(恋をした状態での)平静が戻ってきて、彼女の愛らしい頬に幾筋も涙が通っていること、痛々しく握られた小さな手が震えていることにも目が留まった。
男は深く呼吸をしながら、繰り返し唱えた。「青ざめた血」を求めよ。「青ざめた血」を求めよ……。それこそが、男の求めるものだと。
この神秘は強大だが、それに目を眩ませてどうするというのだ? 男は「青ざめた血」の、”その先“を求めてきたのだ。これは違う。これは、別のものだ。これは、「青ざめた血」ではなく、それと同じ機能を持つわけでもない。これは、マールムのもの。マールムの一部、そのものだった。
気が幾らか鎮まった男は、外套の内へ手を入れる。マールムはそれを青ざめながら見上げ、後ろ手にきゅっと土を握りしめる。やがて、男が――懐から出した何かの封筒を認めると、そっと体から力を抜いた。男が花に手を伸ばすのを諦めたことを、悟ったらしい。
「……ああ、よかった……。ありがとう、やはり貴公は、良い人間で、良い狩人だ……」
男は傅き、首を垂れて謝罪する。彼女はおずおずと、男の頬に手を添えた。彼女の柔い手は、初めて触れた時よりも暖かかった。シルクのような心地の指は、男の頬を数度撫でると、戻っていく。
男はその感触を享受すると、少女に自身に宛てられたと思しき招待状を差し出す。彼女は目を見開き、パッと明るい笑顔を浮かべた。
「これは、カインハーストの招待状! 貴公もまた血族だったのか! そうか、そうか……! ならば、さあ、向かうと良い。そこには不死の女王アンナリーゼが、雪降る城にて貴公を待っているだろう」
少女は白いドレスから覗く足をばたつかせ、少しはしゃいだように言った。
「貴公も血族であるのなら、頼む。もしも彼女が窮地に陥っているのなら、助けて差し上げてくれ。フフッ、きっと女王も貴公を気に入るさ。貴公は、とても……良い狩人なのだから」
◆◆◆
ヘムウィックの辻にて、石碑の前に立つ。何処からか蹄が地を踏む音がして、男は目を凝らした。霧の向こう側、立派な体躯の黒い馬が馬車を引いてくる。ひとりでに開いた扉へ男が乗り込むと、馬車は走り出した。
どれほど揺られたことだろうか。馬車の中にまでひんやりと冷えた空気が入り込む。ヤーナムよりも数度低い気温のようだった。
止まった馬車から降りると、荘厳な古城が、雪に閉ざされた門の向こうに見えた。振り返れば、橋は崩れ落ちている。自分はどうやって、ここへ訪れたというのだろう? 馬車引く馬はとうに息絶え、古い骸がそこへ転がっているだけだった。
正門を開け放ち、古い時代の残り香に圧倒される。ここには未だ息づく何かがあった。ここには、殊更に旧い神秘が宿っている。……そしてそれは、男の求めるものではないようだ。それでも神秘は神秘である。人に触れ得ぬ領域に、男の脳裏には幾度目かの知恵が閃き、彼は啓蒙を受けた。
地に落ちた血を舐める男たちを殺し、まるで手招くように開いた入り口をくぐった。
城内は薄暗く、怨嗟の呻きとすすり泣きが響いていた。彫像や雪に紛れて斃れている死体は、処刑隊の恰好をしているものと、カインハーストの騎士のものとが入り混じっており、過去の凄惨な乱戦を伺わせた。
嘆きを叫ぶ女を切り殺し、値千金の古書が並ぶ書庫を眺める。かつての栄華を盗み見ながら……男は糸に引かれるように、前触れもなく、あらぬ方向へ眼球を動かした。言葉では言い表せぬ何かが、男の気を引いたのだ。男はそれに逆らわず、部屋の隅に追いやられた木の箱を開けた。
箱の中には――これは、家系図だろうか――名簿が収められていた。血族に連なる者の名が記されているようだ。男は思うところがあり、そのページを捲ってマールムの名を探した。
幾人もの名が連なる名簿は分厚く、男はやっとのことで、女王たるアンナリーゼの名を見つけた。マールムの口ぶりからして、この女性の存命の頃に、彼女が居るはずだった。しかし、最新のページに――最も年若く、今は十代と思われる血族の名がある辺りだ――マールムの名は無い。男はどんどんとページを遡るが、これではおかしい。とっくに男の手は、数十年ほど前のところまで戻っている。
最後まで見たが、マールムの名は無い。それらしいと思えたのは、二十年以上前に生まれた不可解な誰かの名である。断言できないのも仕方ない。その名は、名簿の中で唯一黒塗りにされていたのだ。
――血族は何より、流るる血こそを重んじる……だが、私のそれは、枯れ果ててしまった。
マールムの名は、血族名簿から消されていた。
思いめぐらすと確かに、夢の中では、今でこそ彼女は、カインハーストらしい甘く芳醇な血が巡っているが、始めはそうではなかった。それこそ、人形のような無生物じみた姿で、存在自体が希薄だった。指先から解けて消えても、男は何ら驚かなかっただろうほどに。
だが彼女とて、初めから夢の住民であったはずがない。少女には、人として生きた痕跡があった。彼女は血族に連なる貴族だったのだろう。そして、何らかの理由でカインハーストの血を……如何様な手段を以てしてか、その一滴に至るまでの全てを奪われ、一族から血族ではない者と見做された。そういうことになる。
男は黒塗りの名の上に並ぶ、両親の部分を指でなぞる。これがマールムを示すものならば、母の名は……セクンドゥス。父の名は、マニュス――? 男は首を捻り、名簿を遡る。彼女の祖母は、ウェネーヌム。祖父は……同じく、マニュスとある。
男は自身の内から、失われた知識が浮上する感覚があった。自分はこの言葉を知っていた。「青ざめた血」と関連する言葉であったはずで、だからこそ、触れた今はっきりと思い出せた。
マニュスは、ラテン語で「偉大な」を意味する言葉だ。
男は名簿を閉じ、武器を持ち直す。これ以上思考しても、得られるものはなさそうだ。男は女王へ謁見するため、道なき道を進み、屋根を飛び越え城の中核を目指した。中央にある小さな尖塔へ当たりをつけ、男はガーゴイルのような、痩せ細った獣を殺しながら進む。
<●>29
花の蜜+2
カインハースト到着+2
プレイヤーがしそうな行動と、それに伴う「男」の思考を書くのが本当に難しい。
おにいちゃん教えて……。プレイヤー、なんでアンナリーゼ様殺してまうん? プレイヤー、なんで出来そうな行動をとりあえずしてしまうん?
コマンド的に「花を摘む」を選ぶと、啓蒙が3増えてマールムが痛みにすすり泣きます。
話しかけると「どうか、もうしないで欲しい……貴公も、私から奪うのか……?」
夢の中でマールムを殺すと、次に夢に戻ると元に戻っており、話しかけると、
「ヒッ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい! 痛いの、寒いの、冷たいの……! ああ、ああ、もう嫌だ! どうか、もうやめてくれ!」
もう一度話しかけると、
「嫌っ! もう嫌、助けて! 赤い月、赤い月は何処へ行ったんだ? 私はどうして、こんなにも月から遠い!?」