魔法科転生NOCTURNE SS置き場 作:人ちゅら
夜明け前。
洞窟の外は、まだ群青色の闇に包まれていた。
あなたは一人、入口近くの岩へ腰を下ろしている。
わざわざ眠る必要もない。
風が運ぶ匂い。
鳥の羽ばたき。
遠くを歩く獣の足音。
それらを聞きながら、夜が明けるのを待っていた。
洞窟の奥では、避難民たちが束の間の眠りについている。
その中で一人だけ。
眠れずに身を起こしている青年がいた。
片腕を吊っていた負傷者。
関節を外され、頬に大きな切り傷を付けていた。
昨夜から何度も目が合っている青年だった。
負傷は合流した時点で【
痛みで眠れないわけでもなかろう。
あなたは何も言わない。
視線に気がついた青年も、ふいと顔を逸らした。
* * *
朝靄が山肌を覆い始める。
老人は全員を起こし、小さく告げた。
「ここから先は、港まで半日ほどです」
誰もが安堵の息を漏らす。
もう少し。
あと半日。
それだけで助かる。
そう思いたかった。
彼らの思いを背に受け、あなたは先頭へ立つ。
──行こう。
一行は再び歩き始めた。
昨夜とは違い、誰の表情にも僅かな余裕があった。
しかし、一人だけ違う。
負傷しながらも逃げてきた青年だけは、歩みが妙に落ち着かなかった。
何度も後ろを振り返る。
拳を握り締める。
唇を噛む。
まるで置いてきてしまったものを悔いるように。
何かに迷い、心が進めずにいるようだった。
老人も気付いていた。
「どうした?」
「……いえ」
「傷が痛むのか」
「大丈夫です」
青年は目尻を下げ、口角を上げようと試み。
しかし表情筋は無様に痙攣するばかりだった。
* * *
正午近く。
一行は尾根道へ出た。
眼下には森が広がり、その向こうには黒海が青く光っている。
あと少し。
港はもう遠くない。
その時だった。
風に乗って、微かにエンジン音が聞こえた。
あなたは足を止める。
耳を澄ます。
車両が数台。
止まった。
人の気配。
十数人。
それ以上。
老人の顔色が変わる。
「……追いつかれた」
青年は蒼白になった。
震える手が、胸元から何かを取り出す。
小さな布切れ。
幼い少女が刺繍したらしい、花柄のハンカチだった。
青年はそれを握り締める。
そして。
崩れ落ちた。
「……ごめんなさい」
誰も意味が分からなかった。
「ごめんなさい……」
青年は涙を流していた。
「妹が……」
老人が目を見開く。
「妹?」
「捕まったんです……!」
嗚咽混じりの声だった。
「逃げる時に……
妹だけが逃げ遅れて……!」
奴らが……!」
青年は肩を震わせる。
「あなたたちを渡せば返すって……
居場所を教えろって……」
老人は言葉を失う。
青年は叫ぶように言った。
「返してほしかった!
たった一人の家族なんです!」
俺は……!」
そして立ち上がり、尾根の先へと駆け出した。
あなたは止めない。
青年は両手を口へ当て、山へ向かって叫ぶ。
「こっちだぁ――ッ!!」
その声が、谷へと響き渡る。
だが次の瞬間。
「……こっちだぁ――ッ!」
別の方向から同じ声が返ってきた。
青年が顔を上げる。
「違う!」
もう一度叫ぶ。
「こっちだ!!」
「……こっちだ!!」
また違う方向。
さらに。
「こっちだ!!」
「……こっちだ!!」
「こっちだ!!」
「……こっちだ!!」
山全体が叫び始めた。
老人が呆然とする。
青年も動けない。
* * *
谷の向こう。
傭兵部隊が一斉に顔を上げる。
「どこだ!」
「西だ!」
「いや東だ!」
「違う、上だ!」
山彦は止まらない。
同じ声が、幾重にも幾重にも森中を駆け巡る。
隊長らしき男が怒鳴る。
「森へ入れ!」
「探せ!」
どうやら傭兵たちは散開したようだ。
分散してあなたたちを発見しようというのだろう。
こちらは無力な避難民。発見できれば少数でもどうにでもなる……という算段か。
あなたは静かに森を見た。
風一つ無い穏やかな日差しの下、何故だか枝が絶え間なく揺れている。
木々は笑うようにざわめいていた。
あなたは小さく目を伏せる。
──
ただクスクスと笑いながら、兵士たちを森の奥へ招き入れていく。
* * *
日が傾き始めても。
銃声は聞こえなかった。
代わりに時折、怒鳴り声だけが風に乗って届く。
「またここか!」
「さっきの沢だ!」
「道が消えた!」
「地図が合わん!」
「ふざけるな!」
森は兵士たちを帰さなかった。
倒木は何度も位置を変え。
自ら踏み荒らしたはずの足跡もいつの間にか消え去り。
木々に、岩に、幾度も付けたはずの目印はひとつも見当たらず。
鼻腔をくすぐる甘やかな香りに集中力を乱され。
気付かぬうちに同じ場所を何度も歩かせている。
まるで森そのものが迷宮へ変わったかのようだった。
老人はその様子を見つめ、静かに呟く。
「……山神が怒っておられる」
あなたは否定しない。
神ではない。
しかし、この森には確かに主がいる。
今宵はまさに、その
* * *
夕闇が山を包む頃。
青年は一人、あなたの前へ跪いた。
「……殺してください」
あなたは答えない。
「俺のせいで……
もう居場所は知られてしまいました。
妹だって、これじゃ、もう……」
青年は拳を握る。
「結局、誰も助けられなかった」
長い沈黙。
やがてあなたは、小さく口を開いた。
──歩けるか。
青年は顔を上げる。
「……え?」
──まだ歩けるか。
青年は何度も頷いた。
涙を拭いながら。
「……はい」
あなたは踵を返す。
──なら、行こう。
責める言葉はない。
慰めもない。
ただ。
まだ終わっていない。
それだけだった。
その夜。
レーシーは最後まで傭兵たちを森の迷宮に囲い続けた。
しかし。
避難民がこの山に潜んでいることだけは、もう隠しきれなかった。
* * *
夜が明けた。
東の空が白み始める。
夜の支配は終わりを告げ、森は静かに息を潜めた。
昨日まで聞こえていた小さな気配も、今は感じられない。
レーシーは去った。
夜は終わったのだ。
あなたは立ち上がる。
──行こう。
一行は再び歩き始めた。
青年は最後尾を歩いていた。
誰も責めない。
責める余裕もなかった。
妹を助けたかった。
その願いを否定できる者は、ここには一人もいなかった。
老魔道士だけが青年の肩へ手を置く。
「生きなさい」
それだけだった。
涙が枯れるほどに泣いた後、青年は静かに頷いた。
* * *
尾根を越える。
朝霧の向こうに黒海が見えた。
朝日を受けて静かに輝いている。
老人は目を細める。
「……見えた」
誰かが息を呑む。
その向こう。
小さな港町。
古びた木造の桟橋。
沖には一隻だけ漁船が停泊している。
あれが協力者だろう。
あと少し。
あと十分。
その距離だった。
老人は涙ぐむ。
「助かった……」
安堵の息を漏らす人々を余所に、あなたは一人、首を横へ振った。
まだだ。
首筋を撫でる風が、気を抜くなと告げている。
海から吹く潮風ではない。
鉄と油の臭い。
敵意ある
かすかに鼻を突く刺激臭は、火薬だろうか。
視線を西へ向ければ、港へ続くのは一本道だ。
そこへ黒い影が並んでいた。
十人。
二十人。
三十人。
いや、それ以上。
道路を完全に封鎖している。
青年が呟く。
「そんな……」
老人も立ち尽くす。
「追いつかれた……」
あなたは静かに歩き出した。
一本道。
逃げ場はない。
避難民たちも後に続く。
* * *
百メートル。
五十メートル。
三十メートル。
黒装束の男たちは、黙ってあなたに銃口を向ける。
一糸乱れぬ、とはいかぬまでもピタリと構えたその姿は、写真では判断しきれなかった彼らの練度を物語っていた。
中央に、一人だけ異様な男が立っている。
白い法衣。
胸には大きな銀の聖印。
しかし、その眼には信仰者の静けさはない。
あるのは陶酔だけだった。
「ようやく諦めて姿を現したか」
男は笑う。
「悪魔の僕ども」
母子が身を寄せ合い、老人が彼らを隠すように動く。
二人の若者は、それぞれ威嚇するように、手にした木の枝を構えた。
最後まで戦うつもりらしい。
あなたは背後にいる彼らの振る舞いに、思わず頬が緩んでいた。
法衣の男は、その笑みを見逃さなかった。
険しい表情で法衣の男が睨む。
「貴様が案内人か」
答えない。
「面白い」
男は一歩前へ出る。
「顔付きが違うな。貴様も魔術師か?」
さて、あなたは
ともあれ答える必要を認めない。
小さく鼻で笑い飛ばす。
何を感じ取ったものか、男は笑みを深くした。
「ならば話は早い」
両腕を広げる。
「その者たちをこちらへ渡せ。
悪魔へ魂を売った罪は重い。
神の御前で裁きを受けさせようぞ」
老人が前へ出ようとする。
あなたは片手で制した。
男は続ける。
「安心しろ。抵抗しなければ苦しまずに逝けるぞ」
あなたは男を無視し、その奥に居並ぶ傭兵たちを見る。
彼らは男の演説など聞いていない。
引き金へ指を掛け、いつでも撃てる姿勢を保っている。
仕事だからだ。
彼らを動かすのは
だからこそ危険だった。
* * *
男は聖印を掲げた。
「神は悪魔を赦さぬ。
異端もまた同じことよ」
老人が震える。
青年は拳を握る。
子供たちは母親へしがみ付く。
男は静かに宣告した。
「もう一度だけ問うてやろう。その者たちを引き渡せ」
「拒むなら……」
男の笑みが深くなる。
「お前も悪魔と見なす」
馬鹿馬鹿しい。
あなたは小さく首を振り、大きくため息を吐いてみせた。
あなたは一歩前へ出た。
老人たちを背中へ隠す。
傭兵たちが一斉に銃を構える。
男は眉を上げた。
「返事は」
あなたは静かに口を開く。
──断る。
男は失笑した。
「命が惜しくないらしい」
あなたは答えない。
男は聖印を高く掲げる。
「ならば。
神の名において……討ち滅ぼせ」
安全装置が外れる音。
幾十もの銃口が一斉にあなたへ向く。
老人たちは息を呑む。
青年は思わず叫ぶ。
「逃げてください!」
あなたは動かない。
ただゆっくりと右手を持ち上げる。
空気が変わる。
男は眉をひそめた。
「……何だ」
青い火花が爆ぜる。
あなたの前の空間が、陽炎のように揺らめく。
まるで聖堂のように近寄りがたい雰囲気は、しかしもっと古く、もっと禍々しい何かだ。
形容しがたい気配が、周囲の空間を満たしていく。
風が止む。
鳥が鳴き止む。
森が沈黙する。
あなたは静かに目を閉じる。
忌々しくも懐かしい気配だった。
アマラ経絡に落ちたあなたに幾度となく襲いかかり、狂気と憎悪を交わしてきた因縁の敵。
湧き出てきてはその狂える眼光で、幾度となくあなたに死を刻んだ怨敵。
されどこの場に招くには、これ以上ない存在だろう。
戦気を凝り固めた邪悪。
何度殺しても立ち上がる
男は一歩後ずさる。
「撃て」
その命令だけが響いた。
幾十もの引き金が、一斉に絞られる。
鳴り響く銃声の中。
あなたの声は、確かに
感想、評価、お気に入り、ここすき、いつもありがとうございます。
スラヴの妖怪たちがちょいちょい登場しています。
ブランシュ事件に登場したキキーモラも、地元に居ればこんな妖精さんなのです。