魔法科転生NOCTURNE SS置き場 作:人ちゅら
潮の香りがした。
爆煙の向こうから吹き抜ける風は、山の冷気ではなく、どこまでも穏やかな海の匂いを運んできていた。
あなたは振り返らず、前へと歩き出す。
後ろを歩く避難民たちもまた、誰一人として爆心地を振り返ろうとはしなかった。
あの山へ残してきたものは、もう十分だった。
* * *
港は静かだった。
小さな桟橋。
漁網を干す木枠。
古びた漁船が一隻、波間へ揺れている。
船縁に立つ男が、こちらへ気付いた。
「……ヒカワ殿から聞いている」
短い言葉。
それだけで十分だった。
男は避難民たちを急かす。
「早く乗れ」
老人から。
女子供。
負傷者。
最後に青年。
誰も声を上げない。
ただ黙って船へ乗り込んでいく。
やがて甲板へ全員が揃うと、老魔道士があなたの前へ歩み出た。
ゆっくりと帽子を脱ぐ。
「……ありがとうございました」
深々と頭を下げる。
「我らは、あなたに命を救われました」
あなたは小さく首を横へ振る。
──いや、違う。
老人は顔を上げる。
「……違う?」
あなたは森を見る。
朝日に照らされた山並み。
霧は既に晴れ始めていた。
木々の梢。
岩陰。
草むら。
そこにはもう、誰もいない。
昨夜まで確かに感じていた小さな気配は、一つ残らず消えていた。
あなたは静かに呟く。
──助かった。
誰へ向けた言葉だったのか。
老人には分からない。
ただ、不思議と山から吹く風に、嬉しげな笑い声が混じっていた気がした。
* * *
船が岸を離れる。
黒海の波は穏やかだった。
青年は船尾へ立ち、山を見つめている。
「妹は……」
その続きを口にはしなかった。
もう答えは分かっている。
老魔道士が静かに隣へ立つ。
「生きなさい」
青年は目を閉じる。
昨日と同じ言葉。
しかし今は、その意味が少しだけ違って聞こえた。
「……はい」
船はゆっくりと沖へ向かう。
やがて霧が船体を包み始めた。
誰も気付かない。
波間を、小さな影が幾つも跳ねていることに。
船首へ白い鳥が一羽降り立ったことに。
霧の向こうで、小さな笑い声が聞こえたことに。
ただ、あなた一人だけが小さく目を閉じる。
──またな。
船を追うように優しい風が吹いた。
それだけだった。
* * *
港へ静寂が戻る。
船影は水平線の彼方へ消えた。
あなたは一人、桟橋へ残る。
携帯端末が小さく震えた。
受信をタップすると、投影されたのは氷川総司令だった。
『終わったようだな』
あなたは頷く。
──ああ。
氷川は避難民たちを乗せた船を見送る。
『全員、間に合ったか』
──ああ。
短い沈黙。
やがて氷川が静かに尋ねる。
『最後の爆発。あれは何だ?』
あなたは少しだけ考える。
説明は難しい。
理解されるとも思わない。
だから、一番短い答えを選んだ。
──
氷川は黙った。
数秒、その沈黙だけが続く。
『……そうか』
それ以上は聞かなかった。
聞くだけ無駄だと知っているからだ。
『現場には既に各国の諜報員が集まり始めている。
今回の件は、いずれ世界中の軍が知ることになるだろう。』
あなたは興味がなかった。
そんなことより昨日、助けてくれた小さな悪魔たちが、新天地にうまいこと馴染んでくれるかの方が気になっていた。
レギオンの一斉自爆で一時的に場に溢れかえったマガツヒを使い、彼らをアマラ経絡から魔界へと招待したのだ。
氷川はそんなあなたの横顔を見つめ、小さく息を吐く。
『……君らしい』
通信が切れる。
* * *
その後。
クリミア半島から姿を消した白魔道士たちは、各地へ散っていった。
故郷へ戻る者はいなかった。
戻れる者も、いなかった。
彼らが守り続けてきた土地の神秘もまた、静かに歴史の表舞台から姿を消していく。
それでも。
夜泣きする子をあやす鈴の音。
霧の中で道に迷わなかった旅人。
森で助けられた猟師。
そんな昔話だけは、細く長く語り継がれた。
誰も知らない。
あの一夜。
最後まで人を守ろうとしたのが、人ではなかったことを。
そして、もうひとつ。
今はまだ誰も知らない。
その夜、一つの着想が生まれたことも。
これより下ること七十年。
新ソ連軍が完成させる戦略級魔法【
その原型となった発想は、皮肉にも、一柱の悪魔が自らの罪を
霧は晴れていた。
だが、その夜を知る者たちの記憶の中では──
あの行進は、いつまでも霧の中を歩き続けていた。
感想、評価、お気に入り、ここすき、いつもありがとうございます。
感想の方でトゥマーン・ボンバの誕生秘話を予想されていた方、正解でした。
人修羅のコピー? というのも完全には間違ってはおらず、トゥマーンボンバの使い手であるベゾブラゾフは、本作では本事件を起点とした「人修羅研究の末に奇跡的に成功した魔法演算領域拡張技術の適合者」となっています。
……というわけで、設定厨として「これがやりたかったんや」というエピソードのひとつでした。
戦略級魔法トゥマーンボンバの設定を見たとき、最初に思い出したのが『カオスレギオン』の自爆戦術だったんですよね。でもまあ流石にあれとのクロスというのは難しかったので、人修羅さんの方に調整してこんな形になりました。
法衣の狂信者が正体に気付いて「二千頭の豚(比喩表現)」を用意してくれれば、こんなことにはならなかったんですが。