過ぎ去ったものは取り戻せない。そんなことは、当たり前だ。
私はただ、守りたかった。誇りを守りたかった。
それは私自身の。あるいは仲間、立場、集団の。
玉座の上が我が世界。こころの内の一等気高いところに、類ない立派な玉座を建てて、そこに堂々と座っていることが大切だった。
姿勢は崩さず、ちからを張りすぎず、しかしだらしがないことはなく、そして隙もなく、堂々と、強く、美しく。
友を慕い、仲間を信じ、可能性を慈しみ、けれど心は玉座の上にと―――――たとえ現実の頂点から引きずり落とされようとも、その秩序だけは手放せなかった。
有象無象のわめき声に価値はなくとも、気安くかけられた泥は染みとなる。
―――――だから、私は。
君臨する王者。ならばそれは白鳥のように優雅であれ。どれだけ意地汚く足掻くような努力をしても、決してその姿を衆目には晒さない。
王者はただ悠々と。他者はその威光にただ慄く。そうあればいい。そうあるべきだ。見えない苦労なんてものは、見えないままでよかった。
そんな
しかしそれを求めたのだ。それを願った。求めたのなら手に入れる。願ったのなら叶えよう。他でもなく、自分の手で。
―――――白鳥でありたい。けれど私が誇りを持ち続けるには、もう白鳥ではあれないから。
世の中には
そして同じく、世界には
―――――例えばそれは、私が病気になったことだったり
―――――例えばそれは、すでに過ぎ去ってしまったあの夏の日の敗北だったり
悔しくないわけがないけれど、悲しくないわけがないけれど、終わってしまったものを嘆いていてもしょうがない。
ただ、その代わりに。
―――――ただ、これからならば、まだ。
思い返せば、子供にしては難題の多い人生だったのではないだろうか。胸をかきむしりたくなる苛立ちがあった。呼吸を忘れるほどの絶望があった。
けれど今、私が立っていられるのは、その先で得たものがそれ以上に美しかったから。
悩んだ末に、だから選んだ。
この選択がどう転ぶのかなんて、未来に保証なんてないけど。
それでも確実によりよい未来へ進むための布石になると思えたから。
彼らならきっと大丈夫だと疑わなかったから。
大切に思うものを守れる一手だと、信じられたから。
■
「ひッ、ヒッ、ぜんっ、ぜんぱっ、ヒグ、ッ卒ぎょおっ、う、おめ、と、っざいま、あ、あ、ぁああああああ……ッ!!!」
「うっわ赤也お前、顔すっごいことになってるよ」
幼児返りしたようにわんわんと泣く後輩にティッシュを差し出せば、ビービーと鼻をかんでまた泣く。
式の時から泣いていたのは壇上から丸見えだった。その時は嬉しくも微笑ましかったものだが、いまだに泣き止まないとなると何時間泣いてるんだこいつは、と呆れが勝る。
周りの生暖かい目と言ったら。
ギャンギャンと泣き喚く可愛い後輩に、それぞれの友人たちと話していたレギュラー陣が寄ってきて、しょうがない奴だと呆れながら世話を焼いている。
真田はしかめっ面で「みっともない、たるんどる」とぶつくさ言うが、そのくち元が少し笑っているものだから、にやけ面で何をとこちらも笑ってしまうのは仕方がないだろう。
まあにやけ面は全員なんだけどさ。
―――――みっともなく泣きわめく手のかかる後輩。けれど、彼の口から出るのは祝いの言葉だ。決して私たちを引き留めるようなものではない。
寂しい寂しいと泣きわめくくせに、おめでとうございますと嗚咽を漏らす。―――――頑張るから、どうか信じてくれと。
それがこの子の成長を表しているようで。あの子もあの子なりに、前を向いているのだと分かることが嬉しい。
「眩しいなぁ」
あんなやんちゃな悪ガキが。子供の成長を見守る親の気持ちとはかくなるものかと、少し笑ってしまった。
「なあ赤也。懐かしいね。2年前の4月に、お前がテニス部に来たんだ。意地っ張りで言うことを聞かない手のかかる後輩だったけど、私はお前に未来を見たよ」
尊い子だった。愛しい子だった。光のような子だった。どれだけコテンパンにされてもけっして諦めず、喰らいつく、不屈の精神。
ようやく涙の止まった赤也の頬を撫でる。2年前はまろみを帯びていたそこは、いつの間にかするりとしていて、この子がひとつひとつ幼さを脱ぎ成長してきたことを実感させる。
「漫画みたいに果たし状を持ってきたときは笑ったなぁ。字が汚いし誤字ばっかりで、解読するのに苦労したっけ」
思わずというように柳が小さく笑い声を漏らす。真田も思い出したのか帽子を下げて溜息を吐いた。
視線を赤也から上げれば、少し離れたところで他のテニス部の子たちが固まっているのを見つけた。こちらの様子をうかがっている様子に、気を使ってくれていることを察する。
優しい子たちだった。尊い子たちだった。こんなにも大切で、愛しくて。
おいで、と笑いかければ、待っていたかのように次々と駆け寄ってきてくれる。そこに彼らから向けられたこころが見えて、心臓がギュっと重たくなった。
そっと、赤也の頬から手を離す。
「お前にも、みんなにも、たくさん苦労をかけたね」
―――――思い出す。思い返す。今までのこと……積み上げてきた選択と、あやまちを。
「私は、その選択で罪を成したよ」
「私たち、です」
瞬時に柳生が切り込んでくる。眼鏡の奥から射貫くような視線が刺さり、それがくすぐったくて。
―――――そうだね、お前たちは、いつもそう言ってくれたね。
「それでも、―――――私はテニスが好きだ」
真田と柳がグッと私に近づいて、それに倣うように、みんなが隙間を詰める。
とうとう、ぐるりと私を囲んだ。
誰もが私の声を真剣に聞いてくれる。道を間違った、苦労を強いた私を信じてくれている。
「私はテニスをしていたい」
大げさと言われてもいい。―――――テニスは私の人生だ。
病院のベッドで狂いそうな心を必死に掻き毟った日々を思い出す。
例え地獄に落ちたとしても、これ以上の責め苦などないだろうと思った。ただひたすらに絶望が胃の腑を焼く。自分の足で立てない。ラケットを握れない。ボールを追いかけられない。
ころしてくれよと、よく言わなかった。今でも、当時を振り返ってそう思う。
もう二度と、あんな思いはしたくない。私から
「―――――みんなが好きだ」
好きだよ。ずっと、ずっと。コートから見える景色にお前たちが居ることが、どれほど私の幸福だったか。お前たちが嬉しそうに楽しそうに笑うたび、どうかそれが永遠であれと思った。お前たちが私を想って悲しむたび、悲しくて情けなくて涙が出た。
分かるかな。私がベッドの上で、常勝を掲げたお前たちが無理をしていないか、どれだけ不安になったか。
自分と違いテニスができるお前たちが、どうしようもなく羨ましかった。
そんなふうに思う自分が、嫌で仕方なかった。
私が、
そんな私を、どうか、どうか、知らないままでいてほしいと。
「みんなと、テニスがしたかった」
ずっとこのままでいたかったと、わがままごころが顔を出す。手放したくない私の宝物たち。
けれど私は信条のもと選んだ。今度こそ、この選択は間違いではないと思いたい。
「―――――部長でありながら、お前たちに自分たちの尻拭いをさせることになってしまったことを謝りたい。不甲斐ない先輩だった。すまない。」
目を見て、正面から、
目を伏せてひと呼吸おけば、私を囲-いた部員たちが動き出す。輪が裂け、後輩たちは目の前に、レギュラー陣は横につき、同じく卒業する同学年の仲間が後ろに並ぶ。
赤也も、静かに下がって後輩の列に混じった。
並んだみんなを見回す。ああ、そうだ。彼らとともに、精一杯だった3年間だった。
苦労ばかりを掛けた。背負わせるだけ背負わせて、それでも、どうか身勝手ながら言わせてほしい。
「勝ってくれ」
―――――また、夏が来る。
「私たちのテニスは青学のようなテニスではなかった。けれど、それ自体は間違いだったとは思わない。」
「私たちが居なくなった立海テニス部は、また新しい姿になるだろう」
「けれど―――――周りはお前たちに、王者奪還を願う。理想を、重荷を、押し付ける。」
「私たちの至らなさがお前たちに苦労をかける。本当に、申し訳ないと思っている。」
「……それでも、どうかお前たちは」
「お前たちは、お前たちのテニスで」
「自分たちで作り上げた立海テニス部のプレーで」
「勝ってくれ」
―――――1年越しの
スッと静まり返った空間に、後輩たちの嗚咽が響く。…後輩だけではない、後ろに並んだ卒業生たちからも抑えきれない声が漏れ聞こえる。
この言葉を私が言う権利が、どこにあるだろう。それでも、恥知らずだろうと、同じ傷を負ってほしくないと思うのが先輩心じゃないか。
立海のテニスは、『勝つ』テニス。きっとその根本は、新体制になっても変わらない。
―――――けれどどうか、ラケットを振るあの興奮を、魂を揺さぶる幸福を、どうか忘れないでくれ。
「幸村先輩」
一歩、ひとりの後輩が前に出る。
赤也の隣に並んでいた、柔らかな
謙虚で誠実で、その視野の広さで仲間たちを支えてくれて、周りからの信頼も厚い。
次代を任せたいと伝えたとき、「貴女のようになりたいが、貴女のようにはなれない」と言われたことを思い出す。
自分の向き不向きを冷静に分析し、その代わり、様々な先輩たちからつぶさに学び、ひとつひとつを丁寧に重ねていく、努力家の子だった。
石橋を叩いて渡る慎重さが、ときに過ぎることだけは心配だが、そのために副部長に破壊力、行動力のある赤也を並べた。お互いが支え合って、きっと立海テニス部をより良いものにしてくれるだろう。
そう信じて次代を任せた子は、まっすぐ私を見ていた。
「玉川」
名を呼べば、玉川はグッと顔を歪める。泣きそうなのをこらえているのは一目瞭然だった。まぶたの痙攣、噛み締めた唇は震えて、―――――震える手で、何かを差し出してきながら、深く深く、頭を下げられる。
腰が90度になるくらいに下げられた頭と、差し出されたものに面食らってしまう。
それは写真だった。3年生が引退した日に撮った、テニス部全員の集合写真が入った写真立てだった。
人数が多くてひとりひとりの顔が小さくなった、ウチにしては珍しい、整列していないごちゃごちゃとした写真。それが入った写真立ては、木枠に紙粘土と貝殻で装飾された、子供の工作のようなものだった。
手が、震える。
ガチ、と思わず奥歯が鳴る。
ゆっくり、時間をかけて、落とさないようにそれを受け取る。
それでも玉川は頭を上げなかった。
「あなたたちがコートに立つ姿が好きでした。世界で一番カッコよくて、一生分憧れました」
「強豪校として、王者として積み上げた努力も、周りから重い期待を向けられることも、大変ではあったけど苦労なんかではありませんでした」
「幸村先輩を待ち続けた日々も、常勝という道も、我々が自分の意志で選んだ道です。そこにあなたたちから謝罪を受ける理由はありません」
玉川の声が震える。何かを言い出してしまいそうで、とっさに歯を食いしばる。
「―――――確かにっ、俺たちは間違ったけど、責められることだったと思うけど……」
「きっと先輩は、先輩たちは、ずっとそれを忘れないかもしれないけど……!」
『勝つ』ことが立海のテニスだった。そのために、私たちは、私は、選択を誤った。
選んだ
私の
「だったら、一緒にっ、覚えててください…っ」
それでもお前は。お前たちは。
「俺たちは、それでもそんなあなたたちが、大っ好きでした……!」
―――――眩しいなあ。
頬伝った熱が、地面に染みを作る。
赤也が、一歩進み玉川の横に並ぶ。そこには子どものような泣き顔はなく、ひとりの、部を背負う
「勝ちます」
ああ―――――
「いままで、ありがとうございました!!!」
「「「「「 ぁりがとうございましたァ !!!! 」」」」」
「―――――ありがとう……!!!」
とうとう、その苦しさに目元を片手で抑えた。
ああ、息が苦しい。胸が圧迫されている。―――――溢れるくらいに満たされた心が、肥大化して心臓を押しつぶしてしまいそうだった。
全国大会。初めて負けた。
一生知らなくてもよかったとすら思った敗北は、
呆然とした。自分が終わらせたものはなんなのか。現実を前に、今までの選択を思い返した。
―――――どこから間違えたのだろうか。
息の仕方も忘れるような、すべてがスローになった世界の中で、それでも涙は出なかった。
それなのに、今。みっともなくこぼれる涙が止まらない。こんなはずじゃあなかったのに。積み上げた罪過から目をそらすように自己満足に浸ってはいけないと、みんなで決めたのに。
それでも、ごめんなさい。どうかこの喜びを赦してくれ。
よかった。
帰ってこれてよかった。
生きててよかった。
お前たちという仲間がいる幸福が、何よりうれしい。
目元を押さえる手のひら越しに視界が暗くなる。何かが情けない顔を覆い隠すように乗っかっている。
ああ―――――真田の帽子だ。
「 常ッ勝ォッ!! 」
まだ寒さの残る3月の空に前振りもなく響いた、ドスの効いた真田の声。
「「「「「 立海ッッッッ !!!! 」」」」」
―――――それでも、全員がぴったりと声を合わせて叫び返す。
一糸乱れぬその応えが、積み上げてきたものを証明してくれるようで、聞き慣れた掛け声が世界で一番頼もしく聞こえた。
「 っぐ、う、う、―――――!! 」
ちくしょう、馬鹿真田め。お前の帽子から加齢臭するんだからな。汗臭いし。……今だけは、黙っててやるけどさ。
嗚咽が漏れる。肩を抱いたのは柳だろうか。何かを言おうにも喉が震えて言葉にならなくて。
ごめんねみんな、もう少しだけ―――このままで。
■
「幸村」
「うん?」
「いつ引っ越すんじゃ」
―――――あの後、玉川たち後輩一同と同級生たちは「あとはレギュラー陣で、積もる話もあるでしょうから」と退散していった。最後まで気を使ってくれる、優しい仲間たちだった。
残ったメンバーと、お互いに赤くなった目元を恥ずかしげにこすりながら帰路につく。
前を歩く赤也は自分の真っ赤な目元や鼻頭をからかう丸井に噛みついていて、さっきまでの姿とのギャップが面白い。
そんなみんなを眺めていれば、すすす、と寄ってきた仁王が無表情に聞いてきた。
それ今聞く?とは思いながらも、そういえば言っていなかったなあと、明日の朝イチだと答えれば、「ほうか」とちから無い声が返される。
無表情だ。それでも、うつむいた顔が寂しいと訴えてくる。まるで小さな子に我慢をさせている気分になって、しかたないなあ、とその体によりかかれば、ぴくり、と肩がはねた。
歩きながらだから変な体勢で、動きにくくなっただろう。けれどそんなことを気にもしていないのか、仁王はぬくもりを探すように頭を擦り付けてくる。
小さく震えるからだが愛おしかった。ほんとに、仕方のない子だ。
いつの間にかみんなの足が止まって、視線はこちらを向いていて、その誰もが寂しそうな顔をしている。赤也なんて、ようやく泣き止み始めたっていうのにまた涙を溜めて―――――それでも、涙をこぼしはしなかった。
―――――ああ、ここが私の居場所だ。
「大丈夫だよ」
―――――私も、お前たちも。
だからそんな顔するなよ。今生の別れでもないっていうのに。
「それともお前たち、まさか私にもう二度と会わないつもりだったの?学校が変わったからって、縁も切るだなんて、薄情な奴らだな」
「はっあ~~~!?!!?んなワケないじゃないっすかあ!!」
「たわけ!そんな生ぬるい繋がりなわけがあるか!!」
「ちゃんと毎日連絡するよぃ、ジャッカルが!」
「俺かよ!!いやしてぇけど!!」
「そんで俺も電話するから、幸村君はちゃんと出てくれるだろぃ?」
「ほんじゃあ俺は遊びに行くぜよ。週イチでええか?」
「女性の部屋に軽々しく出入りするものではありませんよ、仁王くん。せめて月イチです!」
「新生活一週間でお前恋しさに暴走する奴が出る確率100%、だな」
「ふ、ふふ、あはははははっ」
「それなら俺も!」「たるんどる!」夕暮れに差し掛かった住宅街にご近所迷惑な声が響く。みんなのちからいっぱいの言い分に思わず大きな声で笑ってしまった。
ちょっとした軽口に過剰反応した彼らは、毎日連絡してきて、月イチで遊びに来てくれるらしい。私のこと大好きだなと揶揄えば、恥ずかしそうにしながらも誇らしそうな顔をするものだから余計笑ってしまう。
「連絡なんて、そんなになくていいさ。通信代だって馬鹿にできないんだから。あと、遊びに来るのは家主に許可をもらえたら、ね。私は居候の身になるんだし」
「………ちなみにまだ幸村くんがあいつんちに居候するの、嫌だなって言ったら?」
「あっはっは、くどいね!」
―――――ああほんと、かわいいやつらだよ、まったく。そんなお前らだから、守りたいって思うんだ。
「愛してるよお前ら」
私は守りたかった。かつて玉座の上で愛したすべてを。
美学であり、わがままであったそれを、許してくれることを知っていたから。
同じ世界に立てなくても、共に在れることを、ちゃんと理解させてもらえたから。
だから「行ってきます」と言えたんだ。
「行ってらっしゃい」と返してくれるから。
そうしていつか、もう一度。
「ただいま」と言った私に、「おかえり」と返してくれると、知っているから。