雨が止み、清々しく晴れた翌日の朝。
いつものように泊地へ行くと正門前に五十鈴が立っていて、微笑みを浮かべながら僕を待っている。
こんなふうに正門前へ五十鈴がいたのは初めてで、何かあったのかと首を傾げながら五十鈴の前へと行く。
すると五十鈴は腰に手を当て、胸を張っては力強く言葉を出した。
「私は軽巡洋艦の長良型。その2番艦の五十鈴よ」
それは自己紹介だった。五十鈴の名前は知っているが、あの時は提督から聞いた。今のように五十鈴自身からは初めてだ。
改めての名乗りに僕を同じく自己紹介をすることにした。
「十和田マシュウ。泊地に勤める何でも屋だ」
すでに名前は知っているけれど、今回のは意味が違う。五十鈴からの初めての自己紹介に仲良くなれる道ができた気がした。
お互いに名乗りあうと、僕たちは笑みを浮かべあった。
「えっと、マシュウって呼んでいいかしら。なんだか、あなたの苗字は湖の名前だから変な感じがして」
「マシュウも湖だけどね。親が北海道好きなせいで外国人みたいな名前になってしまって」
「でもマシュウって言いやすくていいわ。……ね、これからマシュウって呼んでいいかしら?」
「いいとも、五十鈴」
五十鈴の差し出してきた右手に手を伸ばし、柔らかく小さな手を握ると五十鈴も握り返してくれる。
今日はいつもと五十鈴と過ごす日。けれど、五十鈴と新しく過ごす日々が始まっていく。
その新しい日にある始まりの仕事は、まだ拭いていない建物外側にある少しの窓。それが終わると今度は建物内側の窓掃除と窓ばかりな仕事だ。
2日前にやったのと同じように倉庫へ行って道具を準備するけれど、今回は率先して五十鈴が手伝ってくれる。
それと僕と目が合うたびに、昨日までのように目をそらすことはしなくなった。代わりに目が合うと、ひまわりのような明るい笑みを浮かべてくれる。
昨日の仕事の時よりはちょっとだけ雑談をするようになったものの、今のところ変化はそれぐらいだ。
僕の仕事を眺め、文句も言わずに窓を拭くという仕事を続けていく。
休憩の時には僕と五十鈴は地面へと座り、建物の壁へと背を預けて座る。その時に座った僕のすぐ隣、肩がふれそうな距離へと座ってきた。
なんだろう。
なんかこんな近くに来るとどうにも緊張してしまう。近くで見ると案外かわいい顔をしている。いや、元から素敵だったかもしれないけれど、最初に見た暗い雰囲気が印象に強く残っていたからだろうか。どうにも緊張してしまう。
五十鈴のツインテールが僕の首筋をくすぐり、どうにも落ち着かない。落ち着かないが、それは決して不快ではなく緊張してしまっているからだ。
あぁ、こんなかわいい子と肩を並べる距離で話をしているなんて。神様、僕の運はもう尽きて死んでしまうのですか?
すっきりとよく晴れた青空を見上げ、24年間はいい人生だったかなと考えていると五十鈴が僕の太ももを軽く叩いてくる。
「ねぇ、ねぇったら」
「ん、あぁ、何か用かい?」
「ううん、なんでもない」
僕が青空から五十鈴へ顔を向けると、満足そうに笑みを浮かべてはそんな不思議なことを言ってくる。でも五十鈴が楽しいなら小さいことは無視していいかとも思った。
そろそろ仕事をしようかと思って立ち上がろうとすると、五十鈴が慌てて立ち上がってはまだ座っている僕へと手を伸ばしてくる。
僕はその差し出された手を掴むと、五十鈴の力を借りて立ち上がった。
それから五十鈴は何かと僕の隣にいて、僕の手や体をちょくちょくさわってくるようになってきた。
そのことが嬉しかった。五十鈴は僕を信頼してくれているのだと感じることができて。
五十鈴も僕が悩みを受け入れ、理解しようとする姿勢に安心してくれたのだと思う。
長いこと1人で仕事をしていた僕は、もう五十鈴といるのが当たり前で、五十鈴がいないと寂しくて仕事がはかどらなくなるなぁなんて思う。
もし五十鈴に愛想を尽かされたら、なんてことを想像することがある。今のところは五十鈴に必要とされているから大丈夫だろうけど。
必要とされていると感じる例としてあげると、五十鈴が提督に呼ばれていたときに僕が食堂でイケメンな加古とふたりきりで向かい合ってお昼を食べていたことがあった。
男友達のように気楽に喋れる加古との話は楽しく、他の艦娘たちについてのバカ話や僕が失敗した仕事のことを話していた。
でもなぜか怒っている五十鈴が食堂へやってくると、加古のことを気にもせずに僕の手を引っ張って強引に他のテーブルへと移動させられたことがある。
加古は苦笑いをして突然のことを許してくれたが、五十鈴は僕の正面へ座ると自分の持ってきた料理を箸やスプーンで食べさせてきた。はじめは恥ずかしいからと遠慮したものの、五十鈴の泣きそうでいて不満な顔を見ると渋々食べさせてもらったけれど。
他にも艦娘たちと楽しく会話をしてくると急ぎではない仕事をやろうと言っては僕を連れ出したことが何度か。
僕の姿を見ただけで他の艦娘と話をしているのにすぐに駆け寄って会話に混ざろうともしてきた。
段々と活発で明るくなってきているのは嬉しいけど、僕のことを気にしすぎだと思う。でもそれは一時的なことなんだろう。優しくされ、受け入れてくれた僕と仲良くしたがるのは。
そんな五十鈴から積極的な好意を受け、日々を過ごしていく。そうして僕と一緒に仕事をし、元気になってきた五十鈴は提督の指示で僕から離れて訓練をする時間が増えていく。
ある日、五十鈴から訓練を見て欲しいとお願いされた。
今の僕は泊地を囲むようにして作られている防波堤の先、テトラポッドへ向けて足を投げ出しながら座っている。
手には提督から渡された望遠鏡を持ち、それを通して他の艦娘たちと海の上で対空、対潜訓練をしているかっこいい五十鈴の姿を眺めている。
その姿を眺めなら、五十鈴が作ってくれた、形がいびつであまり上手ではない手作りのクッキーを食べていく。
両手で持つ必要があるほど大きな袋に入れられたクッキーには髪の毛が時々入っている。甘い味のビスケットの他に、ほのかにしょっぱくて変わった味のものがあったりもするが僕はそれを食べていく。
うまく作れなかったとしても、五十鈴が僕のためにと作ってくれたから。
そのクッキーを食べながらの曇り空の下で、海からの冷たい風にさらされながらも五十鈴のかっこいい姿を見ることはとても新鮮だ。
今までは艦娘の訓練自体、こうやってじっくりと見ることができなかったけど、仕事扱いで見学させてくれた提督に感謝だ。
「五十鈴はかっこいいな」
自然と漏れ出す言葉と共に笑みを浮かべるが、同時にいつも僕の隣にいた五十鈴とは違う姿を見て、どこか遠い存在に感じた。
1カ月ほど一緒に仕事をしていたから、僕の隣ではなく、他の艦娘と一緒に海で訓練しているのを見ていると寂しく感じる。
でもそれはいいことだと思うようにする。海へ出るのも怖がっていた五十鈴が、今は艦娘として必要とされているんだから。
もし艦娘として戦闘能力に期待できないままだと、五十鈴の処分はどうなるか考えると身震いしてしまう。
五十鈴が元気になるほど、どこか遠くに行ってしまうような感覚になりながら訓練風景を眺めていく。
―――少しして訓練が終わったらしく、五十鈴は僕へと向かって晴れやかな顔をしては元気に両手をぶんぶんと振っている。
その姿を見て僕は双眼鏡を脇へと置き、五十鈴へ向けて軽く手を振る。すると五十鈴は近くにいた艦娘へ手に持っていた武器を渡すと、僕の方へ向かって近づいてくる。
艤装を着けている五十鈴は速く、段々と僕に向かって勢いよく近づいてくる。僕がいる防波堤のところまで近づきつつも速度をまったく落とさず、むしろ上げているような。
危ないと思っているあいだに五十鈴はすぐ目の前にあるテトラポッドまで来ていて、勢いよくテトラポッドを駆け上がると僕へと向かってジャンプしてきた。
慌てて手を伸ばして受け止めようとしたが、あまりの勢いに受け止めきれずに押し倒されるような形で倒れてしまう。
僕は勢いよく押し倒されてしまったものの、五十鈴によって頭を抱きかかえられるような姿勢で頭を打たずに助かった。
その結果、五十鈴の大きい胸に顔が包まれてしまっている状況だ。
ブラや服越しでもわかる大きな2つの胸。それらは普段押し付けられているのとは違い、顔で感じる柔らかさは言葉に言い表せないもの。
胸によって口が圧迫され呼吸はできないものの、五十鈴の体温や匂いが僕の頭へと強く感じる。
「マシュウ! 見てくれた!? まだちょっとだけ怖いけど、それでも撃てるようになったのよ! 砲も魚雷も機銃も、爆雷だって投げられるんだから!!」
耳元で言われ、あまりの大声に耳は痛くなるものの、五十鈴が喜んでいるのは僕に取っても嬉しい。
だけれど、抱き着かれたままなのは苦しい。あまりの息苦しさに五十鈴の背中を軽く、次第に強く叩いていくとようやく解放された。
「あ、ごめん!」
僕を抱きしめていた五十鈴は。僕の腹の上に乗る体勢へ変えながら見下ろす姿勢になってくれた。 僕は荒くなった呼吸を整え、五十鈴の申し訳なさそうな顔へと笑みを向ける。
「訓練、しっかりと見てたよ。いつも隣にいた五十鈴じゃないみたいだった。……少し遠くの存在に感じたな」
「何を言っているのよ。私はあなたのそばにいる、いつもの五十鈴よ。私はいつだってあなたのそばにいるわ。いなきゃいけないの。あなたがいるからこそ、私は今こうやって生きていけているもの!」
焦って早口で言う五十鈴がかわいく見え、遠くに感じていた五十鈴がまた近くにやってきた気がする。
そんな五十鈴にこれからも仲良くして欲しいと思った僕は手を差し出すと、五十鈴はその手をじっと見つめてから両手で力強く握りしめてくれた。
「僕が五十鈴にいい影響を与えられたのなら、嬉しいことだね」
「そのあなたに影響を受けた私が訓練している姿を見てどう思った?」
「……綺麗だった」
興奮して笑みを浮かべる五十鈴へ静かな声で言うと、五十鈴は顔をそむけて静かになる。
小さな笑みを浮かべている姿は恥ずかしがっているようだ。
そんなかわいい五十鈴を見ていたが、五十鈴はふと何かを思い出したかのように僕の周囲を見渡すと、近くに置いてあるクッキーが入った袋へと手を伸ばす。
その中からひとつを取り出し、強引に僕の口へと突っ込んでくる。
「ありがとう、マシュウ。私の全部を包み込んでくれるような、そんな優しさを持つあなたが好きよ」
僕は何も言えなかった。口にクッキーが入っていたこともあるが、この告白に呆然としてしまう。
それが恋愛感情、または友人としてなのか。
突然のことに動けないでいると、五十鈴は僕の頬を優しく一撫でしてから来たときと同じように勢いよく去っていく。
訓練をしていた場所まで海の上を移動していく五十鈴の後ろ姿を見送ることしか僕はできなかった。
ようやく頭が働くようになって、五十鈴を含んだ艦娘たちが泊地へと帰ろうとしているときに。
それから今日1日はあまり効率的に仕事ができなかった。
それは、ふとした瞬間に五十鈴の言葉を考えてしまうから。でも仕事が終わるときに見送りに来てくれた五十鈴が普段と変わりないことを見て、あれは友人的な親愛の情という意味だと理解して安心した。
そう、安心だ。
もし恋愛的意味だったら、それは弱っていた五十鈴が優しくされたことによって勘違いをしたと思うから。
僕へ依存もしていないようだし、きちんと自立して日々を生活しているのは嬉しいことだ。
その次の日には昨日言っていた『好き』という言葉はなかったかのように静かな日々が続いた。
僕の仕事を手伝い、時には訓練を。そして段々と訓練へ比重が増えていく。
7月を過ぎた頃になると、提督によって戦闘が可能と判断された五十鈴は哨戒任務をすることに決まった。
僕と一緒に仕事をするようになってから初めての出撃だ。
日が昇る前から準備を始めた五十鈴は出撃する直前まで僕の手を握り、不安そうな顔をしていた。
そんな五十鈴を見て、僕はつい頭を撫でてしまう。優しく、何度も撫でたことに五十鈴は驚いたものの、そのまま僕を受け入れて撫でられ続けてくれた。
そうして短い時間だったけれど五十鈴と同僚の艦娘たちが海へ行くのを合図とし、僕たちはお互いに不安を抑え、五十鈴は僕から手を離して行った。
5人の艦娘たちと一緒に青い海の向こう側へと。
海の上に出た五十鈴は僕を振り返ることなく行った。でもその背中には不安は感じず、生きて帰ってくるだろうという信頼が僕にはあった。
まぶしい朝日の光に照らされ、輝くように見える五十鈴の後ろ姿が米粒ぐらいの大きさになるほどまで見送り、深呼吸して少し悲しい気分を変えてから僕は仕事に戻る。
朝が早かったため、少し仮眠を取ってから僕は仕事を始めた。
今日の仕事は泊地内にある木々の剪定作業だ。
剪定用のハサミ、ノコギリ、薬、竹ぼうきに剪定した枝を入れる大きな収納袋。
それらを猫車に積んで歩き回っては1本1本時間をかけて剪定をしていく。色々な種類の木をやり、今は脚立に上ってリンゴの木をやっている。
リンゴの木は誰かの趣味だったのか3本ほど植えてある。
以前に木々を管理していた人に教えてもらって薬を使っていたから、病気にかかりやすいリンゴは健康的だ。リンゴの葉っぱによくある赤いトゲトゲが生える赤星病は発生していなく、綺麗な葉っぱのままで安心している。
そんな午後の時間に提督がやってきた。
脚立を降りた僕の前に提督がやってきて、その隣には今まで見たことがない子がいて、小学生のような小さい体をした女の子だった。
その子は腰あたりまである、少し癖っ毛な黒髪で黄色の目をしていた。服装は黒のセーラー服とスカートに白いネクタイ。右の胸元には三日月の形をしたアクセサリー。
僕より頭ふたつぐらい背が小さい彼女はまっすぐに僕の顔を見上げてくる。
その遠くを見通すような、彼女の見つめられた目から動けないでいると提督が声をかけてきた。
「その子は4日前に来た三日月という名前の子でね。たくさんの人と一緒にいるのが怖いらしく、君が預かってくれると嬉しいんだが。もしそうしてくれると給料を増やすことができる」
「今は五十鈴を預かっていますが……」
「五十鈴はまだ本調子ではないが、少しずつ元に戻れている。もう少し時間が経てば、以前のようになってくれるだろう。君には感謝している」
「いえ、五十鈴と過ごすのは中々に楽しいです」
もうすぐ五十鈴が軍務に戻ると言われると、五十鈴が離れていくのは寂しく思う。今すぐではないと言うから、その間に心の整理をつけておかないといけない。
「五十鈴も君のことを嬉しそうに語っていた。さて、この子は駆逐の艦娘である三日月だ。三日月、今日からこのマシュウ君と一緒にいなさい。マシュウ君の仕事は軍属で仕事は雑用全般だから危険はない」
それはどういう意味の危険なんだろうか。男として襲わないという意味か、戦場に出ないからの安心か。
意味を考えていると、三日月と呼ばれた子は僕の前へやってきて、下から僕の顔を不安そうに見上げてくる。
その表情を見ていると、守ってあげたいような雰囲気を感じた。
「おにいさんは三日月に……優しくしてくれますか?」
……かわいい。
今までこんな小さくて女の子らしく、かわいい艦娘と話す機会がなかったから新鮮で大事にしてあげたい気持ちが沸き上がってくる。
そう、おおざっぱな加古の奴と違ってガラスのような繊細さを感じる。そんな三日月を、僕は五十鈴と同じように優しくしてあげたい。
「君が僕に望んでいる優しさをかなえられるよう努力する。もしそうでなかったら、苦情を言ってくれると嬉しい」
初めて五十鈴と出会った時のように、僕は三日月へ笑みを向ける。
すると三日月は僕にもう1歩近づくと服の袖を握ってきた。それが意味するのはなんだろう。三日月の気持ちはわからないけれど、たぶん初対面でのイメージは悪くないと思う。
僕と三日月の挨拶を見た提督は、満足そうにうなずいては去っていく。
……あとで誰かを経由して提督に文句を言っておこう。放っておくと、また艦娘が預けられるかもしれない。
僕は医療系の資格は持っていない雑用なのに、なんで失敗したら責任が重そうな仕事を預けてくるんだろうか。ほかにもっと適任がいるんじゃないかと思う。
そんな提督に対する不満は後回しにし、今は三日月のことだ。
「僕はこのまま仕事を続けるけど、君はどうしたい?」
「あなたの、マシュウさんの仕事を手伝っていいですか?」
提督からは何をやればいいと言われていないから、どう扱えばいいか困る。五十鈴とは違い、彼女の状況説明がないのはなんでなんだろう。もしかしたら特別気にしなくてもいいということかもしれない。
他に気になった点といえば、僕の仕事について強調していたぐらい。
「それじゃあお願いしようかな。僕がリンゴの枝を切っていくから、その枝を袋に……あぁ、ごめん。手袋がなかったね」
「いえ、大丈夫です」
地面に置いてある袋を指差して言うも、準備が足りていないことに気づく。
でも大丈夫だと言った三日月は僕がすでに切って地面に落ちている枝を素手で拾っていく。そんな姿を見ると手を怪我しないだろうかと気になって仕方がない。
だけど子供用の手袋なんて用意していない。だからといって、このまま枝拾いをさせたくはない。
そうなると他の仕事をやってもらうことにしよう。
新しい仕事は枝と切った面に薬を塗ってもらうことだ。身長が低いからやりづらいだろうけど、怪我するかもしれない三日月を見ているよりはずっといい。
僕は急いで猫車に駆け寄ると、そこから作った薬が入っているボトルとハケを手に取る。
「三日月……、あー、三日月って呼んでいいかい?」
僕の呼びかけに枝を拾う手を止めた三日月は、拾った枝を袋へ入れると僕の前へと小走りでやってくる。
「はい、マシュウさんの好きなように呼んでください」
「じゃあ三日月。この薬を塗ってくれないかな。手が届くところだけでいいから」
手渡そうとするも、三日月は不安な表情で僕の袖を弱々しく掴んでくる。
「……三日月は何か失敗しましたか? 間違っているところがあったら言ってください。すぐに直します。だから私を捨てないでください」
その懸命で不安と絶望を見ているかのような目が僕は悲しかった。
それは以前いた場所で捨てられるか、1人で生きてきたんだと思えて。
「そういうのじゃないんだ。枝拾いよりも先に薬のほうがいいって気づいてね。リンゴの木は病気に弱いから、枝を切ったら切れ目をすっかり覆うように薬を塗っていく必要があるんだよ」
ボトルを開けて中に入っている、僕が薬と墨汁、木工ボンドを混ぜて作った黒い粘り気のある薬を見せる。すると三日月は僕からボトルとハケを受け取ってくれた。
受け取ってくれたことに安心し、僕は三日月でも薬を塗るのに届く枝のところへと行くと手招きして三日月を呼ぶ。近くに来てくれた三日月へと僕はすでに切られてある枝を掴み、その切断面を見せる。
「手に持っているハケをボトルに突っ込んでから、ここに隙間なく塗っていく。はじめのうちは垂れてもいい。やっているうちに適量を覚えていってくれ。でもその前にこの黒い薬は服に着くと落とすのが大変だから着替え―――」
「大丈夫です。知っているかもしれませんが、艦娘の服は染み込んだ血が時間経って乾いた状態からでも元通りシミのない状態にできます。この着ている服は何度も血に濡れましたが、綺麗な黒色のままです」
僕を心配させないためか、小さな笑みを浮かべる三日月。その怪我をして当たり前という意識が僕は悲しく思えてしまう。
五十鈴は怪我をするのが嫌がっていたが、この子は自分自身の価値を低く見ているか、怪我をするのが当たり前だと思っている。だからといって、争が好きな、戦争中毒ではないと思う。もしそうなら、その言葉を言うときに悲しそうな笑みを浮かべないから。
ついさっきは見捨てられるのを嫌がっていた。そんな言葉も素振りもしていないのに。でも三日月は仕事を変えただけで怖がっていた。
この子も五十鈴みたいに辛い目に遭ったんだろうかと想像してしまう。
ただ、それがどんなのかまではわからない。
「三日月が大丈夫なら、そのままでいいか」
「はい」
僕は今の言葉を特に気にしたふうでもなく、受け流していく。
今まで艦娘が戦争を最前線でしている、というのはこの場所で仕事をしてから多くを見てきた。
血を流しているのも、誰かが死んだのも。だけれど自分で見たとの違い、艦娘本人からの言葉は僕の精神を圧迫するかのようだ。
仲のいい艦娘である加古。彼女とはよく話をし、一緒に外出して遊んだこともあった。
でもそんな辛いことは滅多に聞くことがない。加古は男よりかっこいいイケメンで、寝るのが何よりも大好きな女の子という印象が強い。
加古を含め、艦娘たちは五十鈴や三日月のように辛い気持ちを持っているんだろうか?
僕はそう考え、考え続けてしまいそうになるのを自分の頭を手で叩いて思考を変える。けれど、暗くなってしまった気分のままでしばらく仕事を続けることになってしまった。
仕事の時間中、海を何度も見ては早く帰ってこないかと心配していた。怪我をしていないだろうか、という不安を紛らわしたくなったことも関係していると思う。
それまで一緒にいた五十鈴がいないのは、こんなにも寂しいものかと悲しくなった。
でも三日月と一緒にいるようになった僕は、前向きで勉強熱心な三日月に好意を持ち始めた。
五十鈴の代わりとして扱ってしまっているが、小さい体でちょこちょこと動きながら仕事をするのはかわいらしく、食堂で三日月が小さな口で時間をかけて食べていく姿は小動物みたいでとてもかわいいものだ。
三日月のことを何度もかわいいと思えるのは、妹みたいに感じているからだろうか。女性的魅力というよりも、大事にしてあげたいなぁという気持ち。もしかしたら父性なのかもしれない。
僕と三日月の間には会話が少ないものの、僕と一緒にいる三日月は元気な少女そのものだった。
でもそんな日の4日目、正門にいた三日月は僕の姿を見つけると走ってきては勢いよく抱き着いてきた。腰に回してくる腕の力は強くて痛いが、今までとは違って暗い雰囲気なのがとても心配になる。
「どうしたんだい?」
「……怖い夢を見たんです」
僕は三日月に優しく言葉をかけたあと、続きの言葉を待っていたが何も言わずに抱き着いたままだ。剪定の仕事は急ぎではないわけだから、今日は倉庫で静かにサビ取りをやることにしよう。
僕は腰に抱き着いてきたままの三日月を連れ、事務の人にサビ取りの仕事をやると言い、前に五十鈴と一緒に仕事をしていた倉庫へ行く。
その倉庫に来ると落ち着きを取り戻して僕を離してくれた三日月と一緒に仕事をし、今日1日が終わっていく。
明日は明るい三日月と仕事がしたいなと思う。
でも今日はそれで終わりじゃなかった。
僕が帰ろうとする間際に行った発言が大きな驚きを持った。
「マシュウさん、今日は私と一緒に寝てくれませんか?」
寂しげな瞳と共に、僕に抱き着きながら上目遣いで見てきては、そんなことを言った。
一瞬だけ夜の誘いかと思ってしまったが、そんなわけがない。そんな好かれるほど自分に自信を持っていないし、見た目がいいわけでもない。
僕は頭を2度ほど強く振って、性的欲求を頭から追い出す。
「1人で寝るのは不安かい?」
「はい。どうか今日だけは一緒にいさせてください。あなたと一緒にいる許可は今から取ってきます。提督をなんとかしてでもです!」
焦ったように早口で言った三日月は僕から離れると、走って倉庫から勢いよく出ていった。
そもそも提督から許可をもらうまえに、僕は一緒に寝るとは言っていない。でもあんな寂しい様子を見てしまっては断ることなんてできない。
一緒に寝ると言っても同じベッド、または布団で寝るわけじゃないだろう。三日月は背丈が小さくても1人の女性だ。男を自分の部屋に入れることの危険性はわかるはずだ。……いや、そもそも艦娘は大人の男相手でも簡単に倒せるから危険でもない?
過去現在に、艦娘が人相手に危険な目に遭うことがあったかと考えたが、テレビや新聞でも艦娘に対する犯罪は見ることがない。
でも一般人の常識として寝る場所は別々にしよう。
三日月がここへと戻ってきたら、家のどこかにある寝袋を探してこないといけない。
……まぁ、一緒に一晩を過ごす許可なんて与えられない気もするけど。
そう思っていたのに、短い時間で帰ってきた三日月は許可を得られたと嬉しそうに言ってきた。それは三日月が言っていたとおり、僕が三日月の部屋で1晩を過ごすということだ。
家でする準備は何かと考え、用意するのは歯ブラシと着替えだ。寝る準備はしなくてもいいと言われたから、寝袋を持っていくことはしない。
本当は家で先にシャワーを浴びようとしていたが三日月がダメと言ってきた。
理由は、まだ夏本番ではないものの、7月ともなれば体を動かさなくても汗を出す。自分のために我慢を強いるのは辛いとそんなことを言われたからだ。
だから、艦娘の寮にある三日月の部屋でシャワーを浴びることになってしまった。三日月が1人で暮らしている部屋でだ。
理性が保てるか不安な僕に対し、広さは1Kだけれどもトイレとシャワーがある普通の部屋だから安心してと言ってくれた。
違うんだよ、三日月さん。問題はそれじゃないんだ。
羞恥心が少ないのか、男として見られていないのか。僕はどちらか聞くこともできず、予定は決まっていく。
一緒に食堂でご飯を食べて部屋で話をし、一緒に寝るということが。1晩ぐらいなら変なことはしないかと前向きに考えた。
いったん家に帰った僕が汗をかいたツナギからジーンズとTシャツに着替え、荷物を持ってまた泊地へと行く。