――努は原口の家に赴いた。主を亡くした二階建ての家は静寂に包まれ、物寂しさを漂わせていた。鬱蒼と茂る八重山吹に囲まれた三坪ほど庭は、確かに目隠しになると、努は思った。表札が無ければ、空き家かと見間違えそうな玄関のインターホンを押した。
「……はい」
か細い女の声だった。
「すみません、新宿△署の者ですが、奥様でいらっしゃいますか?」
「……ええ」
「ご主人の件で少しお話を伺いたいのですが」
「……申し訳ありませんが、今、風邪薬を飲んだばかりで……明日にして頂けませんか」
如何にも辛そうだった。
「分かりました。明日、伺います。お大事に」
「……すいません。悪かね」
(……!)
九州弁だった。
「須藤、女房の名前を何て言った」
相棒の須藤に振り返った。須藤は急いで手帳を捲った。
「えーと……なつです」
(!)
努は目を丸くした。……庭に埋められた絞殺死体・九州弁・なつ……。長崎で起きた二十年前の未解決事件と合致した。……仮に、なつと言う女が俺の知っている、あの浦川奈津だとしたら、こんな偶然が果たしてあるものだろうか……。努は身動ぎもせず、原口と彫られた表札に目を据えていた。
――翌日、日は沈んでいた。明かりのない原口宅は、まるで廃墟のようだった。街灯に浮かんだインターホンを押した。努は高鳴る動悸を感じていた。
「……はい」
昨日の、あのか細い声だった。
「……浦川奈津さんですか?」
「!……はい、そうですが……」
「なっちゃんか?」
努は興奮した。
「!……はい」
「木村努だよ。覚えてないか?長崎の」
「……!お兄ちゃん?」
「ああ」
途端、階段を駆け下りる音が中から聞こえた。突然ドアが開くと、そこには、大人になった奈津が居た。
奈津は努の顔を認めると、今にも泣き出しそうな顔で、努の腕を引っ張った。
ドアを閉めると、
「……お兄ちゃん、お兄ちゃん」
何度も呟きながら、努の顔を繁々と眺めた。そして、抱き付くと、
「……会いたかった。ずっと」
と、独り言を漏らした。奈津は空ろな目で努を見上げると、接吻を求めてきた。努は軽く唇に触れてやると、直ぐに離れた。だが、奈津は強引に努の背中を掴んだ。努は覚悟したかのように、奈津の求めるが儘に身を委ねた。
――奈津は子供から行き成り、妖艶な大人の女になっていた。思春期の頃や純情可憐な頃を知らない努には、その衝撃は大きかった。
「――あれから、どうしてた?」
努の傍らで、気怠そうに目を閉じている奈津に訊いた。
「……父と各地を転々としたわ。十九の時に父が死んで、それからは、ずっと水商売で働いてた」
「……苦労したな」
「……そんなことない……それより、何で私がここに居るって分かったの?」
大きな目を更に大きくした。
「昨日、インターホンで喋ったろ?」
「エッ!刑事さんだったの?」
「ああ」
「……へー、お兄ちゃん、刑事さんだったんだ。あの頃は、お兄ちゃんが何してる人か知らなかった」
「あの頃はまだ大学生さ」
「お兄ちゃんから貰ったキャンディやキャラメルを食べながら、お兄ちゃんと一緒に居られるときが幸せだった」
奈津が涙ぐんだ。
「……奈津」
努は敢えて、千草の件には触れなかった。――
「明日、署に来て貰うぞ」
努はYシャツの釦を嵌めながら言った。
「分かった。優しくしてね」
甘えた声を出した。
「……ああ」
努は、奈津を見ずに返事をした。“優しくしてね”とは、千草の件には触れないでくれと言う意味なのか……。
奈津を抱いたことに多少の後悔があった。だが、奈津の激情を鎮めるだけの、刑事としての強い信念はなかった。