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――千島戦線(D-Day)
最初に決着したのは、千島戦線だった。
千島へ向かった攻略船団は日本の領海に入る際、張り付いていた海上自衛隊の哨戒艦から最終警告を受けた。
見るからに軽武装、それもたった1隻で船団の傍に居た哨戒艦である。
船団は、それをせせら笑いながら無視した。
その結果は過酷であった。
日本の領海に侵入すると共に、空中に待機していた航空機による攻撃を受けた。
延べ3桁近い航空機の攻撃は、その真の力とも言うべき空対艦ミサイルではなく、より安価な空対地ミサイルや滑空誘導爆弾であった。
護衛する駆逐艦や、輸送艦の持つ火砲の遥か外側から撃ち込まれる様は無慈悲の1言に尽きた。
その様を見ていた船団に張り付いていた哨戒艦の艦上にあったアメリカの観戦武官が「そこにロマンチズムなどは一片も無く、ただ科学と合理が生み出した鉄の雨は自然現象の様にソ連の船団を崩壊せしめた」と報告書にまとめたほどであった。
護衛の艦艇も含めて大小34隻のソ連船団は悉くがオホーツク海の藻屑となった(※1)。
尚、洋上に投げ出されたソ連軍将兵で1万名程は、救助船を用意していた自衛隊の手で救われ、後にはその多くが千島共和国へ移住する事となる(※2)。
――モスクワ(D-Day)
千島への侵攻船団壊滅の情報をモスクワが、その当日に把握する事は出来なかった。
さもありなん。
5万名近い人間を載せた大船団が全滅と言うのは空前絶後であり、誰であれ想定する事など出来る筈も無かった。
その為、最初の電文から、日本の航空攻撃が強力であったとだけ理解した。
慌ててソ連の持つ航空部隊を樺太と朝鮮へと振り向けた。
千島侵攻船団に関しては、船団に随伴させるだけの航続力のある航空機は無かった為、船団の将兵の努力を期待する旨、スターリンの名に於いて発信した。
既に存在しない船団に。
モスクワの反応速度は決して悪いものではなかった。
只、現実が、日本がそれを優に上回っていただけで。
――樺太戦線(D-Day)
国境線を突破したソ連軍を待ち受けていたのは、地雷と野砲、対地ミサイル、高速滑空弾による歓迎であった。
100m前進する毎に1個大隊が消滅する ―― それはさながら鉄の雨であった。
国境線を1キロ押し込んだ時点で、未だ自衛隊にも樺太共和国軍にも接触しないうちに3割近い将兵を失った極東第3軍の司令部は音を上げ、モスクワへと進退の伺いを立てた。
開戦初日で発生するには余りにも大きすぎる被害に、モスクワも攻勢の停止を許可した。
しかしながら、停止はしても定期的な砲撃を受ける為、部隊を小隊単位で分散配置して塹壕の構築を図り、被害の低減を図る事となる。
既に樺太戦線の攻勢は初日に頓挫する形となった。
――朝鮮戦線(D-Day)
ソ連の侵攻が順調であったのは朝鮮半島であった。
但しそれは、土地を稼ぐと言う意味であり、戦闘に勝っている訳では無かった。
日本側が、投入できる戦力に対して戦線が余りにも広大である為、30㎞程内側へ防衛が行いやすい場所まで引き込む前提で住民の避難を行わせていたからだ。
朝鮮共和国政府も不承不承ではあるが了承しており(※4)、ある意味で至極当然の結果であった。
樺太戦線の情報を得ていた朝鮮鎮定軍司令部は隷下の部隊へ、慎重な前進を下命していた。
だがD-Day初日には接敵する事も無く歩兵師団は13㎞の進出に成功した。
自衛隊、朝鮮共和国軍どころか一般市民すら見ない進軍となった。
――日本側対応(D-Day)
事前の偵察と無線傍受からソ連の動きを掴んでいた日本側は、特に問題も無く作戦を遂行していた。
千島攻略船団への守勢攻撃。
樺太侵攻部隊への守勢防御。
朝鮮侵攻部隊への守勢防御。
だが、それだけで戦争に勝てる訳ではない。
終わる訳ではない。
故に、日本は攻勢防御も開始していた。
1つは潜水艦による間宮海峡での洋上交易路の破壊、そして港湾への機雷の設置。
1つは巡航ミサイルによる北樺太の物資集積所への攻撃。
1つはウラジオストクの機雷封鎖。
日本は喧嘩を売って来たソ連への報復として、そのシベリア域の経済を破壊する積りであった。
――朝鮮戦線(D-Day+1)
初日の順調な進軍に疑念を抱いた2日目。
地獄の蓋が開いた。
空爆である。
航空自衛隊、海上自衛隊、そして在日米軍の航空機による総攻撃であった(※3)。
樺太戦線の悲惨さの連絡を受けて居た為、野営する際に退避壕などの準備を十分に行っていたお陰で、即座に3個師団が壊滅する様な事は無かった。
だが壕から出れば、即座に消滅しかねない程の猛爆撃であった。
又、弾薬や食料その他の物資は尽くが灰燼に帰していった。
その様を前線で見ていた観戦武官は航空機こそが次世代の戦争を決めるのだというレポートを纏める事になる。
だが同時に、この1日だけで日本と在日米軍が消費した燃料弾薬の総量に、恐怖していた。
世界大戦時代の航空機が消費した燃料弾薬とは、文字通りに桁が違っていたのだから。
違い過ぎていた。
――樺太戦線(D-Day+4)
3日間に渡って行われた砲撃の後、5日目の払暁。
樺太共和国軍が反撃に出た。
独断専行では無いが、樺太共和国軍が自衛隊に強く主張して行われた反撃であった。
陸上自衛隊から派遣を受けた戦車を先頭に立てた突進は、防衛線などとは言えない薄いソ連軍の左翼前線を突破、その後、右翼に旋回する事でソ連軍の半包囲に成功する。
見事な機動であった。
自衛隊から提供された無線機やトラックなどの効果も絶大ではあったが、先ずは日本帝国陸軍将兵(現役兵)が基幹となった樺太共和国軍の高い練度があっての成功であった。
その効果は絶大。
補給線を寸断され、後方をかく乱されたソ連軍の士気はみるみると低下していった。
5日目の夕方には脱走兵も相次ぐ様になっていた。
(※1)
大は大型貨物船から小は大型の漁船まで。
34隻もの艦船を喪失した事は、ソ連の極東経済に深い打撃を与える事となった。
更には樺太との間宮海峡が海上自衛隊潜水艦部隊の手で封鎖され、尽くが撃沈されてしまった為、ソ連のオホーツク海沿岸域の経済活動は事実上、壊滅した。
(※2)
降伏する際、主導を握ったのは指揮官たちと同時に政治将校たちであった。
理論的に将兵を説き伏せ、捕虜になった後に人心を掌握する様に、そして責任を自分が取ると明言する様は、娯楽映像作品などでは無い現実を、自衛隊と日本に教えるのだった。
(※3)
D-Day初日に反撃を行わなかった理由は、自衛隊と在日米軍の調整に手間取ったからであった。
この戦争に関し在日米軍は当初、爆撃機の乗員毎のレンタルを除いては関与を予定していなかったが、千島列島へと海兵隊を派遣すると同時に日本政府に対して戦争への参加を伝達した。
在日及びグアムに駐留するインド太平洋軍の全てを。
これは日本とアメリカの間で所属の揺れていた在日米軍の決意であった。
この時点で日本とアメリカとの間では安全保障条約は成立していない。
アメリカが孤立主義を維持していた事が原因である。
関東州権益の売買を元にした日本に対する良き隣人外交は行ってはいたが、その国内の政治情勢として安全保障条約 ―― 同盟関係の締結に踏み込む事が出来なかったのだ。
であるが故に、在日米軍は宙に浮く形となった。
日本と同盟を締結しないのであれば、日本国内に米軍が駐留する法的根拠は消滅する。
だがアメリカと米国は完全なイコールでは無い。
政治的なウルトラCとして、在日米軍の日本への帰順・帰化を成すべきかと言えば、それは難しい。
在日米軍としては米国への忠誠が緩んだ訳では無いし、そしてアメリカにとっても在日米軍の持つ軍事力と科学力はあまりにも魅力的であったのだから。
故に、状況が安定するまで問題の最終的な解決は先送りするものとして、当座は日本とアメリカが在日米軍の経費(維持費)を折半する形となったが、その金額にアメリカは恐怖した。
近代兵器の維持費の余りの高価格さは1つの衝撃であった。
毎年、戦艦の建造費用に匹敵する額が飛ぶ事に、アメリカ政府はそのままの在日米軍のアメリカ軍編入に躊躇したのだ。
又、在日米軍側としても、白人社会として非白人を差別している今のアメリカへの帰順は、もろ手を上げて賛成出来るものではなかったのも大きい。
これが、在日米軍の立場が不確かなものになる理由であった。
であるが故に、在日米軍はこの戦争への参加を決意する。
下世話な表現をするならば下宿代を払うという意味が1つ。
そしてもう1つは将来の在日米軍、そして在日米軍が保護すべき米国の保護という問題解決への回答の為の行動であった。
後の日本連邦構成国、グアム共和国にしてアメリカ準州のグアム特別自治州への流れである。
(※4)
戦意と装備に不足の無かった朝鮮共和国政府としては国境線での応戦を主張していたが、如何せん朝鮮共和国軍の規模が小さく、又、訓練も十分では無かった為、自衛隊の指揮を受け入れていた。
只、国土が蹂躙される危機と、日本連邦への献身を宣伝した為、共和国軍への参加希望者が徴募事務所へと殺到し、臨時の義勇兵連隊が編制される事となる。
尚、日本から移住してきた在日朝鮮人が、ここぞとばかりに反日本を宣伝した所、集会所が襲撃を受けたり、演説に泥玉が投げられる様な事があった。
在日朝鮮人は共和国政府に保護を要請するが、日本連邦ひいては朝鮮共和国防衛に合力しない人間を優遇する必要は認められないとの門前払いを受ける事となる。
2019.04.28 文章修正
2020.01.28 文章修正
2022.10.18 構成修正