タイムスリップ令和ジャパン   作:◆QgkJwfXtqk

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100 チャイナ動乱-18

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 日本連邦統合軍は日本国自衛隊を基幹とし、日本連邦に参加する7つの邦国軍で構成されている。

 統括管理するのは日本連邦防衛総省である。

 とは言え各邦国が予算と人を出すだけで各邦国軍に関与できないかと言えば、そうではない。

 逆に、日本連邦統合軍へと供出した部隊にせよ、していない部隊にせよ、各邦国軍はその帰属する邦国政府の意向を強く受ける事となる。

 改正された日本連邦の規約に於いて、そう定められてるのだ。

 日本は、法治と言うものを厳格に運用する所があるのだ。

 或はそれは官僚的な考えであるとも言えた。

 自らの力の泉源である法。その法の権威を非常事態だからの一言で蔑ろにする、()()()()()()等と言うフザケた事を許す訳にはいかないからだ。

 アメリカとチャイナとの戦争に於いて言えば、日本政府はその憲法の制約故にアメリカに対して、参戦要請を受けても日本連邦統合軍の投入は不可能であるとG4の連絡部会で通達していたが、同時に、シベリア共和国がフロンティア共和国との安全保障条約に基づいて参戦する事を止める事が無かったのが範例と言えるだろう。

 日本連邦は日本政府の方針とは離れ、アメリカとチャイナの戦争と言う沼にずっぽりと首まで浸かる事となる。

 

 

――グアム共和国(特別自治州)軍/第501機械化師団

 SMS社が統括する輸送船団(マル・フリート)によって、一気にユーラシア大陸へと渡った第501機械化師団は、フロンティア共和国領内にて戦闘準備を進めた。

 これはアメリカの強い意向によって移動を最優先で行った事が理由だった。

 しかも、只でさえてんやわんやと云った状況であった上に、政治的な理由から第501偵察大隊を南モンゴル西方域への緊急展開を命じられたのだ。

 第501機械化師団総体としての戦争準備が滅茶苦茶になったのも、ある意味で当然であった。

 米国の力の切っ先として非常時ともなれば世界中に真っ先に派遣される第3海兵師団を前身とした第501機械化師団であったが、既にその頃から数えて20年近くが経過しており、特に兵卒は完全に入れ替わっている事もあって、即応能力は極めて低下していた。

 シベリア独立戦争にも派遣されず、それ以外の細かい紛争にも投入される事が無かったのだから、ある意味で当然であった。

 日本連邦統合軍で随一の実戦経験を持つ第501機械化師団が出動を命じられる事の無かった理由は、日本と在日米軍との間での微妙な、ある意味で政治的な問題があった為である。

 タイムスリップ以来、日本とアメリカの鎹であり、同時に日本への武力支援を担ってきた在日米軍であったが、それは航空及び海上部隊に限られてきていた。

 陸上部隊は陸上自衛隊の、後には日本連邦統合軍の総予備と指定され、常に()()されてきた。

 戦闘を行えば確実に消耗する()()、即ち将兵の補充が難しいと言うのが理由であった。

 グアム共和国の総人口は在日米軍や日本滞在中であった米国人の移住者を含めても300,000人に満たない程度であるのだから仕方が無い。

 労働人口に占める軍人の割合から考えれば、総兵力で50,000人近い規模を維持している事が非難される状況ですらあった。*1

 同時に、自衛隊による在日米軍との友諠に基づいた配慮が原因でもあった。

 日米安全保障条約以来の友軍として、日本連邦統合軍にあってグアム共和国軍は別格とされていた。*2

 又、友軍としての歴史以上に重要視されている事があった。

 世界最強を誇り、様々な戦訓を重ねた米軍としての知見だ。

 米軍の高等教育を受けて来た在日米軍の将校団は、その智を以って日本連邦統合軍を支える参謀(ブレーン)的な位置にもあった事も、グアム共和国軍の地位が特殊化した理由でもあった。*3

 とは言え、1930年代に入ってからはアメリカ陸軍との交流の積極化と共に、将兵の供給(受け入れ)が始まった為、第501機械化師団は実働部隊として動けるだけの余力を取り戻す。

 これに併せて第501機械化師団は部隊を再編する事と成る。

 元々の第3海兵師団が2個歩兵連隊を基幹とし、戦車部隊も保有しない小規模緊急展開部隊(旅団規模機械化歩兵部隊)であったのを、普通科(歩兵)連隊3個と戦車連隊1個を基幹とした日本連邦統合軍の規定する正規(甲種)機械化師団へと拡大させたのだ。

 第501機械化師団は、戦車こそ31式戦車であったが、それ以外は陸上自衛隊と同じ最新鋭装備を持った打撃師団へと生まれ変わったのだ。*4

 

 

――第501機械化師団 第1戦車大隊

 装備練度共に精鋭と言って良い第501機械化師団の将兵は初陣を前に程よい緊張感と興奮に包まれていた。

 第501戦車大隊の将兵を除いて。

 此方は、ほぼ全員がチャイナとの戦争が後1年遅ければと呪詛を吐いていた。

 それはその理由は、今、本土*5で試験中の次期主力戦車が原因であった。

 42式戦車、乃至は43式戦車と呼ばれるであろう試作戦車(TKX-5)は、その構想段階からグアム共和国軍(在日米軍)の士官と研究者が参加しており、その中には第501戦車大隊の将兵も含まれており、彼らも知っていたのだ。

 次期主力戦車の頼もしさ(恐ろしさ)を。

 31式戦車が使えない戦車である訳では無い。

 だが、シベリアの広大な大地での運用を前提に設計された試作戦車(TKX-5)は、90式戦車を上回る巨体と、55tにも達する重量の、堂々たる重戦車であった。

 主砲こそ10式戦車と同じ44口径120㎜滑腔砲であったが、装甲には複合装甲と共に実用化されたばかりの通電式電磁装甲が空間装甲を兼ねて採用されていた。

 エンジン出力は1800馬力。

 泥濘地帯であろうとも、飛ぶように駆け抜ける機動力を持っていた。

 だが一番の特徴は、AI(人工知能)による戦車の一元制御である。

 その能力は、非常時には完全自律(無人運用)が可能な水準に達しており、一部の人間は()()()()()()等と呼ぶほどであった。

 後数年、戦争が起きるのが遅ければ、その様な戦車で実戦に挑める可能性があったのだ。

 第501戦車大隊の将兵が微妙な気持ちになるのも当然であった。

 尤も、彼らが保有する31式戦車自体も日本連邦統合軍以外にとっては垂涎の超戦車であり、近くで慣熟訓練中であったバルデス国第7機械化旅団やフロンティア共和国第21自動化師団の戦車部隊将兵は暇を作っては見学に来ていた。

 そして衝撃を受けていた。

 両国の戦車部隊に対してアメリカが支給しているのはシベリア独立戦争時に主力であったM2中戦車と、その運用実績と戦訓を基に開発したM3中戦車である。

 些か古臭いM2中戦車は兎も角、新鋭として渡されたM3中戦車であっても31式戦車と比べれば見劣りがしていたのだ。

 ソ連の誇るKV-1重戦車などとも戦える様にと、30t級の車体に無理矢理に90㎜砲を搭載した結果、些か車体に比べて砲塔が巨大(アンバランス)化しており、その外観からも差が歴然としているのだから、その反応も仕方のない話であった。

 同行していたアメリカ軍戦車将校は、余りにも31式戦車を羨ましがる両国の戦車兵に面白くないモノを感じ、上層部に対して31式戦車に対抗して新鋭の戦車 ―― フロンティア工廠製の40t級のM24重戦車を持ち込む事を上申した。

 友軍(グアム共和国軍)の戦車が強壮なのは良い事であるが、それによって友軍(バルデス国とフロンティア共和国)の士気が下がられては堪らぬと、東ユーラシア総軍司令部もこれを了承した。

 それどころか、東ユーラシア総軍司令官も見物に訪れる程に積極的であった。

 運用の際の能力比較確認と言う建前(言い訳)で持ち込まれたM24は最新であるE3型、エンジンと足回りを特に入念に強化したモデルであり、46tと言う重量でありながらも中戦車の如く動く事の出来る重戦車であった。

 目の前でM24E3重戦車と31式戦車(Type-31)の両方の性能を把握した総司令官は、興奮と敗北感と納得などの感情がないまぜとなった気分のまま、盛大にコーンパイプから煙を噴き上げさせるのだった。

 

 

――朝鮮(コリア)共和国

 開戦して2ヶ月が経過した戦争の状況は朝鮮(コリア)共和国にとって、とてもではないが受け入れられる状況には無かった。

 送り出した3個師団分、優に60,000名余りの将兵の約2割が死傷したと言う報告が上がって来たのだから冷静で居られる筈も無かった。

 無論、戦死者にせよ負傷者にせよ十分な手当てが遺族、当人、政府にも入ってはいるのだが、それはそれ、これはこれである。

 アメリカ軍が当初説明していた部隊運用は、義勇師団(コリア傭兵部隊)は補助戦力として主要部隊の後方に配置し治安維持任務に投入する ―― 死傷者はそう発生しないと予定されていたのだ。

 だから砲兵部隊も付けられていない自動車化された軽歩兵師団だったのだ。

 にも関わらず、第1次河北会戦ではチャイナ北京鎮護軍の猛攻を正面から受け止める事となり、大損害を被ったのだ。

 機甲戦力すら含んだ北京鎮護軍の攻勢を受け止めてみせた義勇師団は美事であったが、それはそれ、これはこれである。

 朝鮮(コリア)共和国政府は、猛烈な抗議を行った。

 併せて、日本に対しては国連決議に基づいて朝鮮(コリア)共和国軍の派遣許可を求めた。

 その理由は金、ではない。

 劣悪な装備のまま、再度のチャイナの攻勢を受けるであろう義勇師団への支援であった。

 シベリア総軍に派遣している部隊を転用させろと言う訳では無い。

 只、朝鮮方面隊隷下の2個師団、朝鮮(コリア)共和国軍に残されていた正規師団(最後のカード)を切る許可を願い出たのだ。*6

 併せて、チャイナから万が一の渡洋攻撃を想定して第214警備師団の動員が行われる事とされた。

 警備師団は朝鮮(コリア)共和国政府の管理下にある為、問題なく実行された。

 派遣許可の要請を受けた日本政府は、状況を勘案した上でこれを了承する事となる。

 同時に、日本総軍西部方面隊第4機械化師団から1個連隊戦闘団を編成し朝鮮半島へ派遣して、動員される軽装備の第214警備師団の支援を行う事を決定した。

 日本政府は防衛総省からの報告を基に、チャイナ側が渡洋作戦を行う可能性は低いと判断していたが、同時に朝鮮(コリア)共和国の民心慰撫に現地に日本旗が必要(ブーツ・オンザ・グランド)と判断した結果であった。

 兎も角、派遣の許可を得た朝鮮(コリア)共和国政府は、アメリカに対して2個師団の増派と、併せてコリア系日本人義勇師団部隊への支援許可を要請(要求)した。

 要請を受けた東ユーラシア総軍参謀団の反応は芳しいものでは無かった。

 朝鮮(コリア)共和国軍の自動化師団は列国の機甲師団以上の戦闘力を持っていると認識されていた為、義勇師団を統括する第2軍第2軍団に編入するのでは無く、東ユーラシア総軍の予備戦力としたがっていたのだ。

 政治的要求もあって広域に展開する事となった第1軍は、チャイナの反攻作戦を受ければ後方(フロンティア共和国)との連絡/補給線を寸断される危険性が高かった。

 総司令官の強い要請を受けて、アメリカ政府が()()()()の確保に奔走はしていたが、それでも予備があるに越した事は無いと言うのが、参謀団の認識であったのだ。

 これに朝鮮(コリア)共和国政府は激怒した。

 2個の増派する自動化師団は、コリア系日本人の若者の血が無為に流れない為のものであると強く要求する事となった。

 本来、日本連邦(列強筆頭)に属するとは言え朝鮮(コリア)共和国とアメリカとの国力差を見れば無茶な要求とも言えたのだが、事、この戦争に関して言えば通る事と成る。

 何故なら、義勇師団が大きな被害を受けた理由が、東ユーラシア総軍参謀団による事前の戦争計画の杜撰さと、開戦後の戦争指導の誤りが大きかったからである。

 政治的な理由があったとは言え、それで全てが許される訳では無いのだ。

 幾度かの交渉(一方的決着の態を避ける為の儀式)の末に、2個の自動化師団は無事に義勇師団の支援に入る事が出来たのだった。

 

 

――北日本(ジャパン)邦国

 日本連邦成立後は友邦国に囲まれる形となって居たが故に、平穏のままに日々を過ごし実に影の薄かった北日本(ジャパン)邦国は、このアメリカとチャイナの戦争を1つの機会(チャンス)と認識した。

 ジャパン帝国の末裔として、武名を世界に響かせる好機であると。

 極端に血の気の多い名誉乞食の類は軍や政府などの公職から追放されて久しいが、残っていたジャパン系日本人が名誉も要らぬ木石に類される人間では無いのだから。

 更には、ジャパン帝国の末裔として北日本(ジャパン)邦国とある種の兄弟国家的な関係にある朝鮮(コリア)共和国の義勇師団が上げた武勲 ―― 第1次河北会戦にて圧倒的劣勢にあっても、コリア系日本人ここに在りと満天下に示した戦いぶりが、北日本(ジャパン)邦国軍人の血を滾らせたのだ。

 戦場が欲しい。

 日本ソ連戦争に於いて、一部の過激な人間の愚行によって背負う事となった汚名(軍律を理解せぬ愚者の烙印)を雪ぐ機会を北日本(ジャパン)邦国軍人は切実に欲していた。

 又、北日本(ジャパン)邦国政府も別の理由から参戦を渇望していた。

 此方は経済、産業的な意味である。

 北日本(ジャパン)邦国が独自に用意した陸上戦闘車両、41式駆逐戦車(Type-41TDV)のお披露目を狙っていたのだ。

 無論、お披露目の目的は海外への積極的な売却である。

 北日本(ジャパン)邦国は、軍需企業を産業の柱に成長させようと考えていたのだ。*7

 日本政府はこの北日本(ジャパン)邦国からの情熱的要求に折れる事となる。

 国際連盟安全保障理事会の決議に基づいての派遣であるので大義名分はあり、派遣に掛かる費用もアメリカ持ちであるのだ。

 派遣する戦力も前線 ―― シベリア総軍に派遣している部隊は動かさない為、戦力として考えれば特に問題は無く、反対する理由が乏しいと言うのが実状であった。

 とは言え、戦場で死傷した将兵への見舞金その他や、損耗した装備の補充の費用に関しては北日本(ジャパン)邦国に持たせる事にはしたが。

 日本は日本連邦の守護者(ケツ持ち)ではあったが、無条件の庇護者(保護者)では無いのだから。

 いくつかの、義勇軍派遣に関わる取り決めを行った上で、日本政府は北日本(ジャパン)邦国軍からの義勇軍派遣を認めるのだった。*8

 第101義勇自動化師団は、その戦意を表すような恐ろしい速さで派遣準備を整え、SMS社の手で海を渡るのであった。

 到着は、奇しくもチャイナ北伐総軍が攻勢に出る前日であった。

 

 

 

 

 

 

*1

 グアム共和国軍の規模が認められている背景の1つには、独立当初のグアム共和国経済に於ける軍に関連する雇用の大きさがあった。

 タイムスリップ以前のグアム島の産業が、観光を柱としていたが故の事であった。

 有り体に言って、日本の地方経済が自衛隊駐屯地(自衛官と家族の消費)に支えられているのと同一の状況であった。

 とは言えそれで全てが解決する訳では無い。

 在日米軍でグアムの経済が維持されるとして、その在日米軍を維持する金は誰が出すのかと言う問題が残っていたからだ。

 この時点でアメリカはグアムと在日米軍を維持するコストの余りの高額さと、その支えるべき在日米軍とその関係者の大半が非白人層であった為、積極的な支援に及び腰であった。

 純然たる白人国家であるアメリカにとって、非白人層(カラード)へ莫大な税金を投じる事は高い政治的リスクを伴う行動であったのだ。

 例え、100年先の科学技術を収集できるとは言え、それが直近の選挙へ好意的な影響を与えるとは考え辛いのが現実であった。

 民主主義国家の弱みと言えるかもしれない。

 グアムと在日米軍としても、1920年代のアメリカの事情は把握していたし、理解もしていたが、今日明日の生活を、食事を必要としていたのだ。

 故に、グアムと在日米軍は日本を頼り、日本も又、グアムの不安定化を避ける為に莫大な支援(地方交付税交付金)を行う事となる。

 グアム共和国として日本連邦にグアムと在日米軍が参加する事となった背景には、この様な生臭い現実があった。

 

 

*2

 日本とグアム共和国(在日米軍)との関係性に一番嫉妬していたのは、北日本(ジャパン)邦国であった。

 日本連邦が成立してまだ間もない頃は特に顕著であり、統合連邦軍の非公式な連絡部会(アルコールの出る懇親会)の場で北日本(ジャパン)邦国軍士官が酔った勢いもあってか「同じ同胞よりも、外人を優先するのか」等と発言した事もあった程である。

 尚、その後、酔っ払い共の小競り合いになって、最後は日本も邦国も入り乱れての大乱闘と言う酷い事になってしまった為、酔っ払いのバカ騒ぎ(ザ・ブラックヒストリー)事件として全てが無かったことにされた。

 とは言え日本連邦統合軍としての体裁が整って10年以上が経過し、シベリアで行われる大規模演習などでグアム共和国軍(在日米軍)の精強さを肌身で味わった事で、今では偏見は消え失せていた。

 但し、嫉妬は消えなかった。

 16式機動戦闘車を筆頭に、本土軍(陸上自衛隊)と同等の装備が邦国軍(グアム共和国軍)には優先して与えられていたのだから仕方が無い。

 高度な装備への習熟度合いとの兼ね合いと言う理由もあったのだが、人間、そう易々と妬心を消せる筈も無かった。

 

 

*3

 大国軍の末裔と言う意味に於いては、ロシア極東軍の流れを汲むオホーツク共和国軍も同様であったのだが、此方はタイムスリップに巻き込まれたのが千島列島に駐屯していた小規模部隊であり、最上級将校が中佐であった事もあって、歴史的経緯を抜きにしても日本連邦統合軍内に於いて強い影響力を持てる筈も無かった。

 露国軍経験者はグアム共和国軍への対抗意識から、ソ連軍亡命者を組織して邦国軍随一の陸軍を建軍しようと試みたが、オホーツク共和国の人口がソ連からの亡命者などを含めても500,000人にも及ばない為、50,000人規模の陸軍を維持するだけで精一杯であった。

 

 この状況に切歯扼腕していたオホーツク共和国軍上級将官の一部過激派は、シベリア共和国が独立するや否や、ロシア人連帯としての合併を検討した。

 無論、狙ったのは軍の拡大に必要な国力(人口)である。

 シベリア共和国を()()し、日本連邦内での序列(地位)向上を狙った側面もあった。

 とは言え、その検討を知ったオホーツク共和国政府は大いに慌てる事となる。

 それはロシア復活への志向であると見られ兼ねない行為であり、日本政府の勘気に触れる行為であると危惧されたからだ。

 この時点でのオホーツク共和国の経済は、石油資源の使用が国家統制から外れた事によって漁業と水産加工を中心とした産業が隆盛しつつあったが、それでもまだまだグアム共和国と同様に日本の支援(地方交付税交付金)頼りであった。

 又、医療システムを筆頭に、様々な生活インフラが、日本からの支援あればこそ成り立っていたのだ。

 この状況下で日本の怒りに触れる事はオホーツク共和国の経済的破滅に繋がりかねない狂気の沙汰としか言いようの無い危険行為だったのだ。

 オホーツク共和国政府が慌てるのも当然であった。

 慌ててオホーツク共和国は軍に対して検討の中止と、検討資料の廃棄を命令する事となる。

 当然、オホーツク共和国軍首脳部は上級将官を含む過激派も、身内であると庇おうとしたが、オホーツク共和国政府はそれを許さなかった。

 文民統制(シビリアン・コントロール)と言う錦の御旗を以って、反論を封殺した。

 ここで、オホーツク共和国軍が軍事クーデターなどを考えなかったのは、10年を超えて繰り返された日本式の民主主義と法治主義の教育の賜物と言えた。

 そして何より、軍事クーデターを起こした場合、即座に日本が鎮圧に走ると言うのが目に見えていたと言うのが大きい。

 オホーツク共和国軍は忘れていなかった。

 日本ソ連戦争の際、日本に民族的な意味で最も近い北日本(ジャパン)邦国軍が暴走した際、一切の躊躇なく行われた粛清を。

 統治者としては基本的に緩い日本であるが、事、軍の暴走に関してはどの様な規模であれ、その一切を許す積りが無いと行動で示していたのだから。

 オホーツク共和国政府に恭順した軍の過激派には、その潔さから責任者の公職追放こそ行われ無かったが、責任者から末端の士官まで降格や減給などの厳しい処分を受ける事となる。

 尚、日本政府は、個別の邦国連絡会議の場でオホーツク共和国政府による処罰を了承する旨を()()した。

 雑談の中で何気なく行われた通達に、オホーツク共和国政府は恐怖した。

 通達は、シベリア共和国軍での検討が筒抜けであった事を示していたのだから。

 兎も角。

 この様に、日本連邦として1つの国として纏まってはいたが、建国当初の日本とオホーツク共和国との間には一定の緊張感があった。

 しかしそんな2国関係も、日本連邦建国から10年を経た頃には、すっかり弛緩したものになっていた。

 オホーツク共和国が、政府も軍も周辺が邦国(広い意味で自国)である為に緊張感を失いすっかり呑気になってしまったからである。

 男衆は日本製の最新漁船でベーリング海峡でカニ漁をし、内地(日本)に売って金を稼ぎ、ヤポン・ウォッカ(焼酎)をしこたま飲む生活に満足してしまったのだから。

 女衆は日本製の服やら化粧品やら電気家具やらに心を打ち抜かれていた。

 子どもたちは奔流となった文化(サブ・カルチャー)に押し流され、ロシア人であった事を忘れる始末であった。

 気が付けばオホーツク共和国は、日本連邦7邦国のなかで一番に日本化が進む国となっていた。

 

○オホーツク共和国軍(1942年編制)

第601機械化師団 (完全充足)

第602機械化師団 (完全充足)

第603自動化師団 (未充足/ローテーション用の予備部隊)

第604海上機動旅団(未充足/千島列島全域の警備と災害対応部隊を兼ねる)

 

 

*4

 10式戦車が配備されなかった理由は、その運用コストと後方への負担の重さもあったが、何よりも車内空間が手狭過ぎて、大きい身体をした米系日本人が長時間乗り続けるのは辛かったと言うのが大きかった。

 米軍でM1戦車(エイブラムス)に搭乗経験のあった機甲科将校は、試乗した際に「戦闘機かよ(身動きが出来ない)!」と悲鳴のような感想を漏らした程であった。

 この状況で他に選択肢が無ければ10式戦車を受け入れていたのだが、この時点で邦国軍向けとしてやや大柄な31式戦車が実用化されていた為、第501戦車大隊は31式戦車を採用する事としたのだ。

 31式戦車は10式戦車に比べて攻撃力(105㎜戦車砲採用)防御力(複合装甲の不採用)が低く、主砲の自動装填装置が無いなど劣ってはいたが、居住性(アメニティ)に関しては米系日本人(米軍戦車搭乗経験者)露系日本人(露軍戦車搭乗経験者)のアドバイスを受け、彼らの体格を念頭に置いて設計されていた為、極めて良好であった。

 尚、性能に関してだけ言えば、10式戦車(主力)はおろか90式戦車(予備)にも劣る31式戦車であったが、この時代の戦車を相手にするのであれば必要十分を超えている(オーバースペックも良いところな)為、問題視されなかった。

 

 

*5

 1940年代に入ると生粋の米国人であった米系日本人(グアム共和国人)であっても、日本の事を()()と呼称する事が多くなっていた。

 これは、日本連邦への参加後に拡大化した交流によって、いつの間にか染まって(洗脳されて)いたためだ。

 流れ込んで来る豊富な物資と情報が日本語の習得への後押しをした結果とも言えた。

 それは軍人であるが故に、米国への強い帰属意識を持っているグアム共和国軍(在日米軍)であっても一緒であった。

 それどころか、グアム共和国軍へ派遣されていた自衛官や、英語の習得や米国文化への憧れなどからグアム共和国軍へ()()()()日本人の影響もあって、強い日本化が進んでいる程であった。

 そもそも在日米軍、日本駐留部隊であった為、()()()()()()()()()と言うべきだろうが。

 

 

*6

 朝鮮(コリア)共和国軍は正規部隊が6個師団と1個旅団があり、その他に4個の警備(予備役)師団で構成されていた。

 正規部隊は最低でも自動車化されており、国家と経済規模から考えれば過大とも言える戦力であったが、その殆どがシベリア総軍に供出されており、その維持運用費用は全額日本が負担していた。

 日本陸上自衛隊やグアム共和国軍(在日米軍)に比べれば劣るが、充分な装備と練度を誇っている。

 尚、朝鮮(コリア)共和国軍の自動化師団は、フロンティア共和国/アメリカとチャイナの関係が悪化するに伴い増強され、甲種自動化師団として他の地域の自動化師団とは区別されている。

 その戦闘力は機械化師団に準じるものがあると判定されていた。

 

朝鮮(コリア)共和国軍(1942年編制)

第201機械化師団(完全充足)

第202自動化師団(完全充足)

第203機甲旅団 (完全充足)

第204自動化師団(完全充足)

第205機械化師団(完全充足)

第211警備師団 (予備部隊/海外派遣要員の所属部隊を兼ねる)

第212警備師団 (予備部隊/海外派遣用意の所属部隊を兼ねる)

第213警備師団 (予算上の都合から師団司令部以外は存在しない帳簿上の部隊)

第214警備師団 (予備部隊)

 

朝鮮(コリア)共和国軍 甲種自動化師団(主要戦闘部隊のみ列記)

>普通化連隊(自動車化)

>普通化連隊(自動車化)

>普通化連隊(自動車化)

>戦車大隊

>偵察大隊

>特科連隊

 

 

*7

 北日本(ジャパン)邦国が独自の装甲車両を開発、製造出来たのは、国家樹立後から官民一体となって営々と続けて来た努力の成果であった。

 厳冬の大地と言う、環境的に工業化の難しい中で北日本(ジャパン)邦国は1930年代から一丸となって工業の育成に努力を重ねていた。

 軍装備の保守部品(非高度部品)を製造する事から少しずつ積み上げて(ステップアップして)来ていた。

 その努力あればこそ、40年代に入ってから行われた日本の国策 ―― 北日本(ジャパン)邦国に航空製造工場を作り、輸出向けの戦闘機などが製造されていく事に繋がったのだ。

 日本政府の方針があるとは言え、企業は条件が悪ければ唯々諾々と従う事はないのだから。

 北日本(ジャパン)邦国に航空機製造工場が誘致出来た理由は、製造に携わる技術者の育成がかなり進んでいたと言うのが大きかった。

 投資(教育)を大きく必要とせずとも製造スタッフを雇う事が出来ると言うのは、他の邦国に比べて大きなアドバンテージであったのだ。

 航空機製造工場が出来た後は、その取引によって地場のメーカーは技術力を蓄える事が出来ていた。

 この事が北日本(ジャパン)邦国の国内資本による重工業企業の成立に繋がる。

 北日本崎神重工業、略して北崎重工であった。

 41式駆逐戦車は、北崎と北日本(ジャパン)邦国軍が共同で開発 ―― 旧軍(ジャパン帝国軍)の戦車戦経験者と北崎の技術者、そして社長である崎神の伝手によって日本本土から拉致(ヘッドハンティング)されて来た現場を引退した装甲車設計経験者と工学部を出たばかりの技術者の卵(ミリタリー趣味のエンジニア)が喧々諤々と議論を重ね、試作し、完成させた戦闘車両であった。

 重量が20tを切る車体に300馬力級の日本製ディーゼルエンジンとトランスミッションを搭載している為、高い信頼性と共に軽快な機動力を誇る。

 火力は、砲塔の無い固定式の戦闘室にブリテン製6lb.砲を採用している。

 装甲 ―― 鋼材は全て日本からの輸入品となっており、同一厚の諸外国製よりも高い性能を誇っていた。

 射撃指揮システムなど電子装備(ベアトロニクス)は通信設備以外搭載しない、割り切った作りの駆逐戦車であった。

 同一任務向けの車両としては、38式装軌装甲車(Type-38APC)のバリエーションである38式戦闘装甲車(Type-38CAV)もあり、此方も主砲はブリテン製6lb.砲を採用していた。

 にも拘らず、北崎と北日本(ジャパン)邦国が41式駆逐戦車を開発した理由は2つ、否、3つあった。

 1つは、38式戦闘装甲車が大柄であると言うのが理由であった。

 生産コスト削減の為、装甲兵員輸送車(APC)の車体をそのまま流用して開発された38戦闘装甲車は車体高が高く、その上に砲塔を載せている為、全高が3mに達しようかと言う程に巨大であるのだ。

 3mと言う数値は並の戦車よりも遥かに高く、北日本(ジャパン)邦国軍にとって余りにも目立ちやすい車両であった。

 対して41式駆逐戦車は砲塔を採用しなかった事もあって2.2mを切る車高となっており、通常の移動時の被発見率が低く、戦車壕の利用(ダグイン)に際しても比較的安全である事が期待出来た。

 2つ目は値段である。

 輸出を前提に開発された38式装軌装甲車であったが、割り切りが甘く、陸上自衛隊向けに開発された24式装軌装甲車(Type-24APC)シリーズで実用化された人命保護を考慮した贅沢装備がそのまま採用されていた為、どうしても高額になりがちであった。

 しかも、製造は日本国内で行われている為、人件費も高い。

 これに対して41式駆逐戦車は、必要最低限度の装備以外は全て省かれており、人件費の安い北日本(ジャパン)邦国で製造されるのだ。

 如何に基本コンポーネントを輸入に頼っているとは言え、値段の差が歴然と出るのも当然であった。

 尚、3つ目は、日本連邦邦国初の戦闘車両開発と言う名誉が欲しかったと言うものである。

 かの様に様々な理由の下で開発された41式駆逐戦車は、防衛装備庁による審査と試験を終え、日本連邦統合軍の正式駆逐戦車として承認されていた。

 エンジン、主砲、装甲と重要なコンポーネントは全て日本他から輸入し、設計と組み立てだけを北崎が行う、ノックダウン生産の様な車両であったが、この41式駆逐戦車があればこそ、北崎重工業は北日本(ジャパン)邦国工業界の雄として成長をしていく事となるのだ。

 

 

*8

 東ユーラシア総軍派遣部隊は、日本連邦統合軍シベリア総軍からの抽出を認めないと定められていた。

 北日本(ジャパン)邦国軍もそれを守り、派遣するのは2個の軽機動旅団から選ばれる事となった。

 ここで北日本(ジャパン)邦国は禁じ手とも言える行動を行う。

 第102軽機動旅団から歩兵連隊を1個を引っこ抜いて第101軽機動旅団に編入、第101義勇自動化師団へと改編改称したのだ。

 ローテーション用部隊を解体すると言う荒業に、日本の防衛総省は唖然としたのだった。

 部隊のローテーション自体は、各邦国軍が担当するものであり、特に規定がある訳では無いのだが、前線に配備された部隊の士気は下がる ―― そう危惧したのだが、その前線部隊である第103機甲旅団の将兵は溢れんばかりの情熱を持って第101義勇自動化師団を激励し、それを支える為、ソ連との前線で奮闘する事を誓っていた。

 防衛総省のスタッフ(陸上自衛隊と在日米軍将校)は、その戦意の高さに言い知れぬ(ジャパン帝国軍マジパナイ)と感嘆していた。

 

北日本(ジャパン)連邦軍(1942年編制)

第101義勇自動化師団 (完全充足)

第102自動化旅団   (未充足/1個歩兵連隊のみ所属)

第103機甲旅団    (完全充足)

 

※第101義勇自動化師団 臨時編成 (主要部隊のみ列挙)

第1011普通科連隊 (自動化)

第1012普通科連隊 (自動化)

第1022普通科連隊 (自動化)

第101駆逐戦車大隊(臨時編成)

第101重迫撃砲大隊(臨時編成)

 

 




読んで下さる皆様のお蔭をもちまして、第100話まで到達いたしました。
戴いている感想も励みとなっております。
ここに厚く御礼申し上げます。
これからもご笑覧頂ける様な作品作りに邁進いたします。

2020/04/30 文章修正
2020/05/04 文章修正
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