タイムスリップ令和ジャパン   作:◆QgkJwfXtqk

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101 チャイナ動乱-19

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 古来より会戦、乃至は決戦と言うものは、戦う両者が決断して初めて成立するものであった。

 回避すると言う事が可能だからだ。

 だが、この黄河以北に於ける戦いは()()ではなかった。

 軍事的合理性に基づけば戦闘を回避したいのはアメリカ側であったが、民主主義国家の軍隊と言うものは軍事的合理性よりも政治と民意、或は正義と言うものに重きを置かざるを得ないのだ。

 故にアメリカは南モンゴルの人々を守る為、チャイナの攻勢を正面から受け止める事と成る。

 第2次河北会戦。

 アメリカとチャイナの全力での殴り合いが始まる。

 

 

――第2次河北会戦 東部戦線(D-Day+

 第2次河北会戦 ―― 作戦名(カイル)の第1攻勢を担当するのは第1北伐軍集団*1であった。

 3個軍24個師団、400,000を優に超える将兵は、命令が発せられると共に北上を開始する。

 第1攻勢の目標は東ユーラシア総軍第2軍*2の捕捉と殲滅。

 正面から攻撃を仕掛け、これを撃滅する積りであった。

 包囲殲滅などを仕掛けない理由は、第2軍の規模の小ささである。

 この時点で北伐総軍総司令部は、継続して行っていた威力偵察やスパイ活動によって第2軍の中でも前線に居るのが第2軍団であり、その戦力は第1次河北会戦の被害から回復しきれていない3個師団 ―― 40,000名にも満たないという実状を把握していた。

 第1攻勢の目的は東ユーラシア総軍の主力、第1軍の補給線破壊と包囲。

 高度に機械化された戦力の集まりである第1軍は、()()()()()()()()補給が途切れた場合の戦闘力低下は著しいのだ。

 故に、第1北伐軍集団の最終到達地点はモンゴル国国境地帯と設定されていた。

 自軍の優に10倍近い戦力の接近を把握した東ユーラシア総軍第2軍団司令部は、予想されていた衝撃に晒されていた。

 人の津波と言う言葉が交わされる程であった。

 とは言え、この攻撃は予想されたものであった為、その衝撃による司令部の判断低下等と言う事態が引き起こされる事は無かった。

 同時に、前線で防衛ラインを構築していたコリア系日本人将兵の士気も低下していなかった。

 戦意に溢れていると言う事と共に、祖国が支援の手を差し伸べている事が伝えられていたからだ。

 増援の2個師団、朝鮮(コリア)共和国第202自動化師団と第204自動化師団はフロンティア共和国領内を抜けており、近日中に合流が可能な位置まで前進していた。

 又、第23軍団が支援できる位置まで進出してきている事も心強い内容であった。

 この為、第2軍団司令部はチャイナの攻勢に対し、先ずは現所在地での可能な限りの持久を図る事とした。

 チャイナ北伐総軍第1北伐軍集団を出血死させる積りであった。

 尚、第21軍団は第1軍第12軍団と協力し、未だ活動を続けているチャイナ第1騎兵師団の早期撃滅が厳命されていた。

 第1騎兵師団は用心深く、地元住民に紛れ込みやすい10人以下で常に移動し、連続して襲撃を行わない事で所在を東ユーラシア総軍に掴ませ難い様に工夫していたのだ。

 この為、被害自体は低下傾向にあったが、その壊滅には時間が掛かっていた。

 故に、第21軍団と第12軍団を投入し、地元からは義勇兵(ボランティア)を募り、日本による航空支援を集中して受けられる様にして、封殺する積りであった。

 

 

――第2次河北会戦 西部戦線(D-Day+

 北伐総軍第2北伐軍集団*3に要求されるものは、その機動力をもって南モンゴル中部から西方域に掛けて全域で東ユーラシア総軍第1軍*4に圧力を掛け、拘束し、第2軍への支援を行えなくする事であった。

 敢えて、積極的な攻勢は行わず、遠距離からの砲戦を主体として行い、燃料と弾薬を浪費させる様に仕向ける事が厳命されていた。

 全面的な攻勢は、第1軍集団の全面攻勢による後方遮断の効果が出てからとされていた。

 第2軍集団の戦車乗り等は、ドイツ軍事顧問団の猛烈な訓練を潜り抜けた精鋭集団であると言う自負もあって、この方針には批判的であった。

 良質な戦車と良好な戦技を持つチャイナ戦車部隊であれば、アメリカの戦車部隊であっても正面からねじ伏せる事も出来るだろうと言うドイツ軍事顧問団の褒め言葉(リップサービス)を真に受け過ぎて居た部分があった。

 とは言え、この時点でチャイナが把握していた第1軍の兵力は5個師団規模であり、戦車部隊も5個連隊。

 しかも、保有する戦車はアメリカ軍の第11機械化師団こそM3戦車F型*5を装備していたが、それ以外の機械化師団隷下の戦車連隊が装備する戦車は、シベリア独立戦争時代の主力であるM2中戦車*6が数的な主力である為、同数以上のⅢ号戦車C型とC2型投入するのだから対等以上に戦えると北伐総軍司令部では判断するのも当然であった。

 尚、警戒するべきは日本製の16式機動戦闘車(Type-16MCV)があったが、航空優勢を握った上で3倍以上の戦車で戦闘を仕掛ければ、如何に性能が良くとも撃破は可能であろうと推測していた。

 対して東ユーラシア総軍は、第1軍に対して可能な限り現在展開地域の確保継続(≠死守)を命じていた。

 これは、輸送力などの限界から、南モンゴル西方域の住民避難が進んで居ない事が理由であった。

 アメリカはチャイナが(カイル)作戦で第1軍の包囲と補給線の破壊を狙うであろう事は認識していた。

 認識した上で、第1軍に対しては上記の命令を出していたのだ。

 政治的に南モンゴルに住む人々を見捨てられないアメリカにとって、()()()に第1軍がチャイナ軍の包囲下に陥る事は許容できる事であったのだ。

 尚、第1軍が攻勢に出ること自体は可能であったが、守るべき領域の広さ ―― 攻勢を仕掛けた隙を突く形で騎兵部隊の様なものが再度、後方へと侵入されては厄介な為、選択肢として選ばれる事は無かった。

 アメリカは、正義(南モンゴルの人々の為)と言う錦の御旗を下ろす積りも汚す積りも無かった。

 

 

――航空状況

 チャイナ政府軍は航空部隊運用の拠点を北京に定めていた。

 黄河周辺に於いて随一の大都市であるお蔭で、物資の集積が容易であると言うのが理由であり、同時に青島のドイツ工廠からの資材の支援を受けやすいと言う事も理由にあった。

 ドイツは、建前として局外中立を宣言していたが、民間主体の商売は別であると言う屁理屈をもってチャイナに、ドイツ政府管理下の青島で製造した軍需物資を供給し続けていた。

 アメリカはドイツの態度に疑惑を隠す事無く、国際連盟による査察を要求したのだが、ドイツは国際連盟非加盟国である事を理由に拒否していた。

 チャイナ政府軍は投入出来る、そして戦果を期待できるだけの技量を持った部隊をかき集めていた。

 その数、およそ500機。

 数的な主力はレシプロ戦闘機であり期待の新鋭決戦機、FJ-2戦闘機(ヴィーダシュタント・イエーガー)は100機にも届かない量であった。

 だが、アメリカとて全ての航空機がジェット化された訳では無く、爆撃機にせよ輸送機にせよレシプロ機が現役であるのだ。

 チャイナ政府軍参謀団ではFJ-2戦闘機でF-1戦闘機(セイバー)を妨害すれば、攻撃を仕掛けて来るであろうアメリカの爆撃機隊への対応は可能と見ていた。

 ある意味でチャイナは、()()()()()()()()は端から諦めていた。

 アメリカの航空優勢確保を如何に妨害するか、と言う点に絞って航空作戦は立案されていた。

 陸上戦力が圧倒的数的優位を持つが故の割り切りであった。

 空でアメリカを自由にしなければ勝てる。

 チャイナの自信であった。

 対してアメリカがフロンティア共和国に集積出来ていた航空機は800機を超えていた。

 数的な優位は確保していたのだが、問題は、それだけの数の航空機を運用できる基地が、フロンティア共和国内にしか用意出来ていないと言う事である。

 南モンゴル東方域に進出後、補給線は日本の支援もあって日々太くなり、各部隊の自由な行動を支え現地住民を飢えさせないだけの物資が各地に集積される様になっていたが、それでも3桁単位での航空戦力が自由に活動できるだけの量には届いていなかった。

 南モンゴルの広さと共に、散発的ながらも延々と妨害活動(ハラスメント)を継続していたチャイナ第1騎兵師団の影響であった。*7

 この為、アメリカは数的にも質的にも優位であるにも関わらず、不利な戦いを強いられる事が想定されていた。

 唯一、良い話と言えるのは、グアム共和国 ―― エンタープライズ社から購入したF-10戦闘機(アーチャー) ―― アメリカではF/A-3戦闘攻撃機と命名された戦闘機部隊の一部が実戦投入可能な練度に達していたと言う事だ。

 無理矢理な形で先行量産型(事実上の試作機)を揃えた為、この時点で15機と小勢ではあったが、東ユーラシア総軍参謀団は大きく期待していた。

 戦闘機、制空任務の部隊こそジェット戦闘機の導入に成功しているアメリカであったが、対地攻撃任務の部隊に関してはレシプロ戦闘機が基本である為、チャイナの妨害を受けるであろう近接航空支援(CAS)の際には大きな損害を受ける可能性が高かったからだ。

 高速侵入と対地攻撃、攻撃後の制空戦闘が可能と言うF/A-3戦闘攻撃機は、夢の万能戦闘機に見えていた。

 

 

 

 

 

 

*1

 北伐総軍の数の上での主力である第1北伐軍集団は、3つの軍に属する24個の歩兵師団で構成されている。

 装備はドイツ式であり、主要部隊の装備もドイツ製乃至はライセンス生産されたものが配備されていた。

 その質も、ドイツ軍事顧問団による指導を受けて十分な訓練が行われており、極めて良好である。

 残念な点があるとすれば、チャイナの予算の問題で各軍に軍司令部直轄の砲兵部隊が用意されていない事であろう。

 砲兵は、各師団の歩兵砲が主力であった。

 作戦発令時、北伐総軍にあって北京付近に集合していた。

 

○北伐総軍 第1北伐軍集団

第3軍  歩兵師団:8個

第5軍  歩兵師団:8個

第11軍 歩兵師団:8個

 

※標準的チャイナ歩兵師団(1942年編制)

歩兵連隊

歩兵連隊

歩兵連隊

砲兵連隊

偵察連隊

 

 

*2

 チャイナ北伐総軍司令部が作戦開始を発令した時点で、ユーラシア総軍第2軍に属していたのは8個師団2個旅団である。

 偵察などによってチャイナによる攻勢準備を把握しており、遅滞防御戦闘に向けた複数の陣地の構築を全力で行っていた。

 フロンティア共和国経由で持ち込まれた日本製の土木機材によって、塹壕などの構築は予備も含めて二桁以上用意されていた。

 又、地雷に関しても大量に埋設(チャイナ領内故に容赦なく用意)されていた。

 問題は第1北伐軍集団同様に野砲部隊の乏しさであった。

 が、射程も発射速度も段違いな19式155㎜自走榴弾砲Ⅲ型を定数保有する朝鮮(コリア)共和国2個自動化師団隷下の2個の野砲(特科)連隊が居る為、第2軍司令部は2個連隊を暫定的に軍司令部直轄として、この機動運用をもって対抗する積りであった。

 

○東ユーラシア総軍 第2軍

第2軍団 5個師団

 第101義勇師団(kr)

 第102義勇師団(Kr)

 第103義勇師団(kr)

 第202自動化師団(kr)

 第204自動化師団(kr)

第21軍団 1個師団 1個旅団

 第7機械化旅団(Bc)

 第101義勇自動化師団(Nj)

第23軍団 1個師団 1個旅団

 第3自動化旅団(Bc)

 第24予備師団(Fr)

 

※略名

Kr 朝鮮(コリア)共和国

Bc バルデス国

Nj 北日本(ジャパン)邦国

Cr シベリア共和国

Fr フロンティア共和国

 

 

*3

 北伐総軍第2北伐軍集団は、数こそ9個師団と第1北伐軍集団の1個軍と同等程度であったが、戦車、半装軌車、トラックを多数装備しており、展開力と戦闘力は同等以上とチャイナ政府軍参謀団では認識されていた。

 戦車部隊の主力はⅢ号戦車C型及び改良型のC2型である、これをC型Ⅲ号突撃砲で支援する形となっていた。

 Ⅲ号戦車は共に30t近い重量と、7.5㎝砲を持つ堂々たる中戦車である事から、アメリカの主力であるM3戦車相手であっても十分以上に戦えると考えられていた。

 又、第22軍には貴重な、機械化された軍司令部直轄の砲兵師団が付けられていた。

 師団と呼称しているが実態は増強連隊規模であり、射撃部隊だけを見れば旅団の呼称が適当であったが、重量のある重カノン砲を運用する為に周辺部隊が大型化した事と、対外的な宣伝(見栄)も兼ねて師団の名前が与えられていた。

 

○第2北伐軍集団

21軍 4個師団

 機械化歩兵師団:4個

22軍 5個師団

 戦車師団:2個

 機械化歩兵師団:2個

 機械化砲兵師団:1個

 

 

*4

 ユーラシア総軍第1軍は、この時点で書類上では良好な装備を持つ9個師団と1個旅団が属する有力な機甲戦力集団であった。

 10を超える戦車連隊を抱えており、その中にはグアム共和国軍(在日米軍)とシベリア共和国軍部隊が持ち込んだ日本製の31式戦車も含まれて居る。

 圧倒的な戦闘力を誇る集団であった。

 書類の上では。

 この時点で第1軍で最も戦車を保有する第12軍団4個師団は南モンゴル北方域で撹乱を最優先に活動していた第1騎兵師団の撃滅に拘束されており、第1軍司令部が掌握出来ていたのは、第1軍団と第11軍団のみであった。

 

○東ユーラシア総軍 第1軍

第1軍団:3個師団

 第11機械化師団(US)

 第1機械化師団(Fr)

 第3機械化師団(Fr)

第11軍団:2個師団 1個旅団

 第2機械化師団(Fr)

 第21自動化師団(Fr)

 第501増強偵察旅団(Gs)

第12軍団:4個師団

 第4機甲師団(Fr)

 第501機械化師団(Gs)

 第701機械化師団(Sr)

 第707自動化師団(Sr)

 

 

*5

 M3戦車とは、アメリカがシベリア独立戦争の戦訓を基に開発した30t級中戦車である。

 戦争中に鹵獲したソ連のKV-1重戦車も分析研究しており、重戦車を殺せる中戦車として主砲には50口径90㎜砲が採用されている。

 量産性と整備性を優先した設計が行われており、車体の機械的信頼性は極めて高い。

 問題は、主砲の90㎜砲であった。

 M3戦車は30t級とは言うものの初期量産型のA型では32tであり、大威力であると共に重量のある90㎜砲を搭載、運用するには余りにも車体が小さすぎ、そして軽すぎていた。

 しかも、車体正面装甲を厚くした結果と砲重量が相まって、重量バランスに問題(フロント・ヘビーと言う持病)を抱えていた。

 機械的な信頼性は高いが、その運用には注意を必要とする戦車であった。

 第11機械化師団が装備しているのはM3戦車のエンジンと車体正面装甲を強化したA2E型であった。

 チャイナが開発したC型Ⅲ号突撃砲への対応 ―― 8.8㎝砲を想定して装甲を強化していた。

 この結果として、更なる重量バランスの悪化を招いていた。

 この為、アメリカ陸軍は主力戦車としてのM3戦車の改良をA2E型で諦め、次なるM4戦車の開発に注力する事となる。

 尚、M3戦車自体は、量産性の高さから補助戦力向けに52口径76.2㎜砲へと換装し、併せて車体各部を運用実績を基に改良したB型シリーズとして、開発と量産が行われる事となる。

 

 

*6

 M2中戦車は、アメリカがグアム共和国軍(在日米軍)の支援を受けて初めて開発した中戦車であった。

 高い目標の下で設計されたM2中戦車であったが、この時点でのアメリカの技術的限界から試作車両の製造時に少なからぬトラブルを頻発させた。

 その上で運用試験でも問題が発生した為、最初の試作車両 ―― M2A型の実用化は中止された。

 M2A型の試験結果を基に、各部の設計をやり直した新試作車が製造され、此方は十分と言って良い性能を発揮した為、M2B型戦車として量産された。

 現在、アメリカがフロンティア共和国軍などに支給しているモデルは、シベリア独立戦争の戦訓を基に改修されたB2G+型であった。

 最大の外見的変更点は、主砲をフランス製の75㎜からアメリカ製の75㎜へ換装した事である。

 

 

*7

 後方撹乱活動を継続する。

 その1点に目的を絞り、無理な攻撃を行わず、部隊を温存し続ける事を選択した第1騎兵師団師団長の判断が、この結果に繋がっていた。

 とは言え軽装な騎兵部隊である為、物資は攻撃 ―― 収奪が出来なければ困窮する筈であったが、その点は必要に応じてモンゴル国へと離脱し、そこで物資を購入する事で賄っていた。

 無論、モンゴル国政府の許可があっての行動では無い。

 それどころか親G4政策を掲げるモンゴル国政府は、第1騎兵師団の行動を把握すると慌てて軍を出して取り締まりを図った。

 だが小規模な集団で侵入してくるが為に捕捉が難しかった。

 又、何より第1騎兵師団の将兵は、行儀が良く通常の倍以上の値段(収奪した財貨の大盤振る舞い)で物資を買っていく上客(カモ)であったが為、モンゴルの庶民がその活動を支援 ―― 情報の秘匿や、取り締まり活動の情報提供などを行う有様であったのだ。

 これではモンゴル国による取り締まりが上手く行く筈も無かった。

 第1騎兵師団将兵は、正規の教育を受けた兵士の集まりであったが故に、これ程に活動を継続出来たと言えるだろう。

 

 




2020/07/09 内容修正

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