タイムスリップ令和ジャパン   作:◆QgkJwfXtqk

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103 チャイナ動乱-21

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【挿絵表示】

 

 

アメリカ / 東ユーラシア総軍

○第1軍

第1軍団

 第11機械化師団(US)

 第1機械化師団(Fr)

 第3機械化師団(Fr)

第11軍団

 第2機械化師団(Fr)

 第21自動化師団(Fr)

 第501増強偵察旅団(戦闘団)(Gs)

第12軍団

 第4機甲師団(Fr)

 第501機械化師団(Gs)

 第701機械化師団(Sr)

○第2軍

第2軍団

 第101義勇師団(kr)

 第102義勇師団(Kr)

 第103義勇師団(kr)

 第202自動化師団(kr)

 第204自動化師団(kr)

第21軍団

 第7機械化旅団(Bc)

 第101義勇自動化師団(Nj)

第23軍団

 第707自動化師団(Cr)

 第3自動化旅団(Bc)

 第24予備師団(Fr)

 

チャイナ / 北伐総軍

○第1北伐軍集団

3軍

 歩兵師団:7個

5軍

 歩兵師団:6個

11軍

 歩兵師団:8個

北京鎮護軍

 歩兵師団:4個

 第12機械化師団

 嚮導団

 第3騎兵師団

○第2北伐軍集団

21軍

 機械化歩兵師団:2個

 自動化歩兵師団:2個

22軍

 戦車師団:2個

 機械化歩兵師団:2個

 

 

 チャイナ政府軍参謀本部は沸きあがっていた。

 第1北伐軍集団の攻勢は被害こそ事前の想定を上回っていたが、その進軍は予定通りであり、南モンゴルの領域を分断するのもあと少しにまで迫っていた。

 空中の戦いに於いては、当初の見込みよりもかなり健闘していた。

 少なからぬ被害が出ており、航空優勢の掌握など想像も出来ない状態ではあるものの、アメリカ側の自由な爆撃の阻止には成功し続けていた。*1

 渤海周辺の海軍基地を破壊したアメリカ空母の航空部隊を撃退した事に至っては、チャイナの空中勇士による快挙とすら言えた。

 チャイナ国内でも盛んに宣伝され、チャイナ大衆の溜飲を大いに下げる事となった。

 尚、この宣伝の際に北伐総軍の司令官は、記者を前にした演説の際に「アメリカに兵なし」と断言しチャイナ系報道機関の記者たちが大きな歓声を挙げる一幕があった。

 

 

――東部戦線/渤海方面(D-Day+83~91)

 チャイナ北伐総軍北京鎮護軍は第1北伐軍集団第5軍の助攻として、フロンティア共和国国境線に向かって前進を開始した。

 それまで北京鎮護軍の正面に配置されていた東ユーラシア総軍第2軍第2軍団の部隊が姿を消した事が理由であった。

 戦闘機などを投入した航空偵察によってチャイナは、第2軍団の部隊が単純に戦線を下げるのではなく、別方面へと移動したと言う事を把握する。

 北伐総軍参謀本部は、これを第1北伐軍集団の前進に押される形で転進したものと判断、短くも激しい議論の末、北京鎮護軍に対して前進する事を指示した。

 東部戦線東端の前線は、フロンティア共和国との国境線まで50㎞を切っていた。

 それ故に北伐総軍参謀団は(カイル)作戦立案時、この一帯はアメリカが威信を懸けた必死の防衛戦を行うであろうと想定し、前進を考えなかったのだ。

 その状況が変わったのだ。

 堅牢と見える陣地を放棄し、防衛部隊は移動した。

 北伐総軍参謀本部は、これを第1北伐軍集団の前進の圧力に耐えかねた戦力の増強 ―― 転用であると判断したのだ。

 恐らくはアメリカも、チャイナがこの方面は無理に出て来ないだろうと想定したのだろうと判断した。

 実際、渤海に面した地域の突破を図れば陸上部隊の抵抗もだが、アメリカ海軍部隊(TF-7.1)による攻撃を受ける可能性があった。

 特に、渤海周辺の海軍基地を焼き払った空母艦載機部隊の攻撃力は恐るべきものがあった。

 だがその恐るべき空母艦載機部隊は北京への空爆を図った際に大損害を受け、空母部隊も東シナ海より後退している。

 チャイナから見て、今は天祐と言うべき時であった。

 北伐総軍参謀本部は北京鎮護軍に対し、全力での前進を命令した。

 万難を排して前進し、フロンティア共和国領内にまで押し込み、防衛のし易い小凌河一帯までの掌握が目標とされた。

 チャイナは事前の作戦計画に拘泥し、(チャンス)を逃す積りは無かった。

 (カイル)作戦の内容を大幅に変更してフロンティア共和国本土へと軍を進める事で、アメリカに対して講和を強いる事を考えたのだ。

 チャイナはアメリカが如何に満州(フロンティア共和国)へと投資したか理解していた。

 ()()()()()()、その投資の果実が傷つけられるリスクをアメリカに、アメリカの有権者(投資家)へと思い知らせ、早期講和をアメリカ政府へと働きかける様に仕向ける積りであったのだ。

 アメリカ国内の親チャイナ派(チャイナ・ロビー)は、フロンティア共和国利権に近い議員たちが主導したチャイナ排斥運動(イエロー・パージ)によって文字通り消滅していたが、それでもアメリカ社会の中でチャイナ系移民は生き残っていた。

 日本人風の名前に改名するなどして息を潜めて生きていたチャイナ系アメリカ人からの情報でアメリカの行動原理などを認識していたチャイナ政府は、民主主義国家であるアメリカの主権者と世論を狙ったのだ。

 回天の為に、否、この戦争の趨勢を決定づける為に、北京鎮護軍は高い戦意と共に主力である第12機械化師団を前面に押し立てて北進した。

 第1次河北会戦でも活躍した第12機械化師団の将兵は、自分達の手で戦争を終わらせる名誉を与えられたと勇躍していた。

 精鋭と言って良い第12機械化師団はⅢ号戦車C型を戦車大隊の定数一杯 ―― 4個中隊と本部管理小隊まで充足させ52両も装備していたのだ。

 戦車兵たちは、この攻撃力をもってすればフロンティア共和国国境まで迫るのは容易であろうと確信していた。

 だが、思いはフロンティア共和国国境線まで20kmに迫った時、粉砕される事となる。

 そこには第21軍団、北日本(ジャパン)邦国から参戦した第101義勇自動化師団が陣地を構築し周到な戦闘準備を整えて待ち構えていたのだ。

 第101義勇自動化師団は日本連邦統合軍が定める所の軽機動旅団*2を母体としていた為、対装甲火力を持った装甲車両は臨時編成された第101駆逐戦車大隊が保有する41式駆逐戦車 ―― 正規量産型だけでは数が少なすぎて、無理矢理に先行量産型まで持ち込んだ31両が全てであった。

 52両対31両の戦い。

 広大なチャイナの大地、彼我の距離約1000mで始まった砲火の応酬。

 双方ともに自信を持って臨んだ戦いであったが、その結果は(戦車砲)(装甲板)の差が全てであった。

 容赦なく叩き込まれた6lb.砲弾はⅢ号戦車C型の装甲を叩き割り、必死になって撃ち返された7.5㎝砲弾は41式駆逐戦車の傾斜した正面装甲を貫く事は出来なかったのだから。

 41式駆逐戦車は防御側として戦車壕に籠っていたのは大きな優位点(アドバンテージ)であり、対してチャイナ側がこれまでの戦いで慢心してしまい陣地と判っていても真正面から攻撃を仕掛けると言う愚を犯したというのも大きいだろう。

 だが、何よりも大きかったのは、残酷なまでの科学技術の差、日本製の仮帽付被帽付徹甲弾(APCBC)と均質圧延鋼装甲の力であった。

 結果は、31両の圧勝で終る。

 41式駆逐戦車側は1両の損失も出す事無く、Ⅲ号戦車C型を16両も屠ったのだ。

 チャイナの戦車大隊指揮官にとっては悪夢だっただろう。

 正面から腰を据えて仕掛ければ瞬く間に7両が撃破され、であればと地形を利用して近づこうとしても8両が撃破されるのだから。

 そして16両目が被弾し擱座、炎上を始めた戦車から乗組員が脱出を始めるのを見て、戦車大隊指揮官は後退を指示するのだった。

 初陣での大勝利に大きく沸きあがる第101義勇自動化師団。

 対する第12機械化師団側も正面から攻撃を仕掛ける愚を悟り、迂回突破等を図る事となるが、そちらは第7機械化旅団が対応に動いた。

 第101義勇自動化師団は北京鎮護軍の主力、3個の歩兵師団による攻撃を受け防戦で手一杯となっていたのだ。

 第21軍団司令部からの命令に、第7機械化旅団は俊敏に動き出す。

 第7機械化旅団は、元は軽装備の第7自動化(自動車化)旅団であり、第1次河北会戦で全将兵の2割が死傷すると言う甚大な被害を受けて後方で再編成された部隊であった。

 装備こそ更新されはしたが、喪われた将兵の補充は十分では無かった。

 又、補充された将兵は殆どが若者(新規志願者)であった為、練度も低下していた。

 だが、アメリカの支援あればこそ国家が維持されている事を理解するバルデス国(ユダヤ)人は、ここで戦う事が祖国の為(一所懸命)であると奮起していた。

 人員と訓練の不足を、戦意(モラール)が補っていた。

 ユダヤ人の第7機械化旅団は、ドイツ人の教育を十分に受けた第12機械化師団へ真っ向から戦いを挑むのだった。

 第7機械化旅団の戦車大隊が装備する戦車は、数的にはM2戦車 ―― シベリア独立戦争での戦訓を基に各部を改良が施されたB2G+型である。

 最新鋭のM4戦車や事実上の重戦車であるM24戦車、或はアメリカ戦車部隊の数的主力であるM3戦車に比べればいささか古めかしいが、とは言え32tと言う車体に75㎜砲を持っている堂々たる中戦車であり、Ⅲ号戦車C型に些かも劣る所は無かった。

 両者の戦いは一昼夜にも及ぶ事となる。

 東ユーラシア総軍司令部も、ここを抜かれる訳にはいかぬと航空部隊を集中投入した。

 対して北伐総軍も、ここが第2次河北会戦の勘所であるとありったけの航空部隊を投入し、対抗した。

 空は入れ代わり立ち代わりに100機近い航空機が常に飛び交い、戦っていた。

 前線まで直ぐ近い所にまで行ってその様を見聞きしたフランス人従軍記者は、記事の見出し(キャプション)に「チャイナ。晴れ、時々、航空機」と付ける程であった。

 大地と空の激戦。

 最終的に、第7機械化旅団は半壊する事を代償に、フロンティア共和国国境線まで10Kmを残して第12機械化師団の前進を阻止する事に成功するのだった。*3

 

 

――東部戦線/南モンゴル方面(D-Day+83~95)

 北京鎮護軍の攻勢が行き詰りつつあるのに対し、第1北伐軍集団は当初の目的を達成しつつあった。

 モンゴル国への打通 ―― 南モンゴルの分断である。

 これは東ユーラシア総軍司令部の優先順位に於いて、第1北伐軍集団の北上を阻止すると言う事が低かった事が理由であった。

 歩兵主体の部隊故に、その前進速度は高いとは言えなかったが、確実に南モンゴルの大地を切り取って行っていた。

 対する第2軍団は積極的な交戦は控えつつ、その進路をコントロールする事に傾注した。

 南モンゴルの住民を安全に避難させる為である。

 この結果、チャイナ側が掌握した地域の住人は、殆どがモンゴル民族では無くチャイナ民族であった。

 大多数の住人が避難した結果、今度はチャイナ側がアメリカが味わっていた補給の苦痛を味わう事となる。*4

 反アメリカ色の強いドイツの新聞は「アメリカの帝国主義を蹂躙するチャイナの大波」などと持て囃したが、配食が十分に行われなくなって以降は、実態としてはアメリカ側が退けばこそ進む事が出来たと言う側面が大きかった。

 何にせよ、(パイル)作戦発動から1月で、第1北伐軍集団はモンゴル国国境を睨む場所まで前進する事に成功したのだった。

 

 

――日本-チャイナ交渉(D-Day+85~91)

 チャイナ水上艦部隊による日本のタンカー攻撃事件の補償問題は、自由上海市にて断続的に交渉が重ねられていた。

 日本側の要求は渤海周辺を焼き尽くす以前と全く同じであり、その意味で交渉の余地と言うものは存在しなかった。

 チャイナもそれを受け入れており、粛々と責任者(イケニエ)を選んでは原因と責任と理由とを背負わせていた。

 故に、交渉の主題は賠償金額と内容に絞られていた。

 当初、チャイナは鉱山権益などの譲渡を提案していたのだが、それは日本が拒否した。

 ユーラシア大陸利権 ―― チャイナとの関係強化は、日本にとって全く以って好ましいものでは無い為だ。

 緩い日本人(レッド・リベラル)や、乃至は中国系日本人などが利権による関係であっても、コレを梃に日本とチャイナの友好を言い出しかねないからだ。

 その様な()()()は御免被ると言うのが日本政府の本音であった。

 故に、この交渉は可能な限りの賠償金の減額と、支払いの猶予(分割払いの長期化)が話し合われるものであった。

 日本は減額交渉こそ一切応じない構えであったが、その支払いに関しては融通を利かせる事を認めていた。

 但し、チャイナが「()()1()0()0()()()()()」等と言いださない様には締め付けていたが。

 チャイナは減額こそ諦めたが、戦争中と言う事で可能な限りの支払い期間の延長と、猶予を求めた。

 喧々諤々の議論の末、戦争終結年度を起点に10年間で支払いを行うものとされた。

 調印の後、チャイナ代表はおもむろに1つの話題 ―― 依頼を出した。

 チャイナとアメリカとの講和の仲介である。

 滔々とチャイナ代表は状況を語る。

 チャイナに攻め込んできたアメリカは叩きだされる寸前であり、大事であろうフロンティア共和国の存続も風前の灯である。

 だが、チャイナとしては100年の怨讐の元となりかねないフロンティア共和国侵攻は行いたくない。

 故に日本には、チャイナとアメリカの平和への扉を開く協力をして欲しいのだ、と。

 チャイナ代表の長広舌を聞き終えた日本代表は、ゆっくりとした仕草で煙草を銜えて火を点けた。

 アメリカの友人から送られたハバナ産の葉巻だ。

 盛大に煙を吐きだし、灰皿へと押し付けて消すと、秘密を明かすように囁いた。

 実は事前にアメリカの自由上海市駐留代表とお会いしてましてね、と。

 もしその()()が出たならと、伝言を頼まれていたのだという。

 チャイナ代表団の耳目が集まった所で「Nuts!(寝言は寝てから言え馬鹿野郎)」と叫んだ。

 その言葉に目を白黒されるチャイナ代表に、日本代表は、私はブリテン訛りなので正しく言えなかったかもしれませんがと、他人を食った顔で笑っていた。*5

 

 

 

 

 

 

*1

 全力戦闘を開始して10日が経過した頃よりFJ-2戦闘機(ヴィーダシュタント・イエーガー)の活動は、保守部品の枯渇やエンジンの不調機体の続出などから低下していった。

 この為、チャイナは大規模な集団で投入するのではなく、1個編隊3機程度での出撃に限定される様になっていた。

 これではアメリカのF-1戦闘機(セイバー)に対して果敢に戦闘を挑む所では無かった。

 戦場にあって存在を誇示し、F-1戦闘機が迫れば退き、退けば近づくような運用(ハラスメント・タッチ)が精々と言う有様であった。

 この状況をチャイナとて認めている訳では無く、ドイツに対して至急、予備部品などの供給強化を要請する。

 ドイツとしても、貴重なジェット戦闘機同士の実戦の情報を収集出来る機会である為にチャイナの要請に応えたいのは山々であったが、物理的に難しいと言う事情があった。

 高度な科学技術の結晶であるジェットエンジンの部品は、ドイツ本土でしか製造されていないのだ。

 チャイナが如何に札束を積もうとも、ドイツが如何に売りたくて堪らなくとも、距離があり過ぎた。

 この為、次善の策として青島(ドイツ租借地)の工廠で、多少の性能劣化に目を瞑った上で、代替物資(マテリアル)によるジェットエンジンの部品製造を目指す事となる。

 

 

*2

 日本連邦統合軍は、シベリア独立戦争とシベリア共和国の日本連邦への参加に伴って広大化した国土防衛の為、組織を大幅に拡張する必要に迫られた。

 そこで問題化したのは兵員の訓練もであるが装備、装甲車両や火砲の整備である。

 日本政府は、経済循環の為の官需として、日本連邦統合軍への予算投入を認めていたが、如何せん製造力には限界があった。

 この問題に対応する為、日本は国内企業に資金援助を行って工場を拡張させると共に、シベリア共和国のウラジオストクにも工廠を用意していた。

 とは言え、工場施設は簡単に拡張する事が出来ても、作る人材の育成は簡単では無い。

 日本の軍需工場群は、いまだ十分な生産力を発揮するまでには至っていなかった。

 故に、日本は暫定的措置として、陸上戦力の根幹を成す歩兵師団/旅団を大きく5つに区分(カテゴライズ)し管理する事としていた。

 

優先度第1位

 機械化師団/旅団:各方面隊の戦力の基幹として期待される部隊

優先度第2位

 海兵旅団:緊急展開部隊として運用される予定の部隊。外人部隊としての側面がある

優先度第3位

 (第1類)自動化師団/旅団:戦闘への積極的な参加を前提とする自動化部隊

優先度第4位

 (第2類)自動化師団/旅団:戦闘を余り前提としない自動化部隊

優先度第5位

 機動師団/旅団:予備戦力として、郷土防衛と災害対応に軸足を置いた部隊

 

 安全な後方と判断されていた北日本(ジャパン)邦国の軽機動旅団は、特に装甲車両の配備が遅れ気味であった。

 22式装輪装甲車(Type-22APC)は勿論、装甲化トラックと言える安価な 37式装甲機動車(Type-37AMV)すら配備が行われていなかった。

 制式化されていない、装甲キットが()()()に準備されているだけのトラックが主体であったのだ。

 この事が独自の装甲車両、41式駆逐戦車を開発する意欲に繋がった側面があった。

 

 

*3

 この時点で第12機械化師団と共に、第101義勇自動化師団と交戦していた3個の歩兵師団も甚大な被害を被った為、北京鎮護軍は前進を停止して戦力の再編成に入った。

 但しそれは、再度の攻勢に向けた準備であった。

 第21軍団としては残念な事に、北京鎮護軍はフロンティア共和国への突入をいまだ諦めてはいなかったのだ。

 戦争を終結させる可能性を持った攻撃と言う事で、北伐総軍全体の期待を背負っていると言うのが大きい。

 そしてもう1つ、北京鎮護軍には切り札とも呼べる嚮導団が無傷で残っていると言うのも大きかった。

 嚮導団とは、ドイツ式機甲戦術をチャイナが吸収する為のモデル部隊として編制された部隊であり、その人員の練度は極めて高かった。

 そして何より、ドイツが対31式戦車として開発した60t級の超戦車、Ⅳ号戦車を保有していたのだ。

 北京鎮護軍が戦力として期待するのも当然であった。

 これまで先頭に居なかった理由は過大な重量による低い機動性と、貴重なⅣ号戦車を航空攻撃から回避させるべく、慎重に進軍させていた為だった。

 

 

*4

 チャイナ軍の軍需物資、特に糧秣に関しては現地での調達に頼っていた部分が大きかった。

 米などは兎も角、肉や野菜と言った生鮮食材に関しては自動車化の殆どされていないチャイナ政府軍では搬送が難しいと言う側面があり、同時に、そもそもとして国内での活動しか想定されていなかった事も大きな理由であった。

 軍が移動する先で食材を買うと言う事も、地元住民にとっては大事な現金収入の機会であったからだ。

 その前提が、この南モンゴルの地では崩れていた。

 チャイナが自ら行った攻勢的焦土戦術で南モンゴルの民間物流は寸断され、地方の食料は枯渇しており、それを支えていたアメリカが住民ごと退いたのだ。

 残された市町村に食材など残っている筈も無かった。

 伝統的に温食を重視するチャイナの将兵は食材や燃料の不足で、温食どころか充分な食事もとれぬ状況に瞬く間に戦意が低下していったが、それでも勝っていると言う思いが将兵の足を前に進ませるのだった。

 

 

 

*5

 日本政府は、アメリカが多少の劣勢程度で振り上げていた拳を下げる事は無いだろうと確信していた。

 そもそも、東ユーラシア総軍には北日本(ジャパン)邦国とグアム共和国と朝鮮(コリア)共和国とシベリア共和国と、日本連邦加盟国の半数が参加しており、その状況は良く把握していたのだ。

 圧されてはいるが、フロンティア共和国国境線が突破される恐れはないと判断していた。

 この時点で、一番危険であった北京鎮護軍の突進は完全に停止しており、第1北伐軍集団の前進が止まりつつあった。

 チャイナの意気込みとは別に、第2次河北会戦の攻勢は終焉を迎えつつあった。

 であれば後は1年後にでも確実に反撃に出るのがアメリカであると言うのが日本の判断であった。

 尚、この日本によるアメリカ評を聞いたアメリカ外交官は、グアム共和国(在日米軍)関係者に「日本の期待()が重い」とこぼしたという。

 

 


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