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アメリカ / 東ユーラシア総軍
○第1軍
第1軍団
第11機械化師団(US)
第1機械化師団(Fr)
第3機械化師団(Fr)
第11軍団
第2機械化師団(Fr)
第21自動化師団(Fr)
第501増強偵察旅団(戦闘団)(Gs)
第12軍団
第4機甲師団(Fr)
第501機械化師団(Gs)
第701機械化師団(Sr)
○第2軍
第2軍団
第101義勇師団(kr)
第102義勇師団(Kr)
第103義勇師団(kr)
第202自動化師団(kr)
第204自動化師団(kr)
第21軍団
第7機械化旅団(Bc)
第101義勇自動化師団(Nj)
第23軍団
第707自動化師団(Cr)
第3自動化旅団(Bc)
第24予備師団(Fr)
チャイナ / 北伐総軍
○第1北伐軍集団
3軍
歩兵師団:7個
5軍
歩兵師団:6個
11軍
歩兵師団:8個
北京鎮護軍
歩兵師団:4個
第12機械化師団
嚮導団
第3騎兵師団
○第2北伐軍集団
21軍
機械化歩兵師団:2個
自動化歩兵師団:2個
22軍
戦車師団:2個
機械化歩兵師団:2個
――西部戦線/(D-Day+83~96)
東部戦線と比較して、
東部戦線が主軸であると言う認識が相互に存在している事が理由であった。
だがそれは、対峙するだけである事を意味せず、機動をしないと言う訳では無い。
チャイナ側としては出来るだけ前進を行おうとするし、アメリカ側はそれを阻止したいし可能であれば前進したい。
大規模な砲火の応酬こそ行われなかったが偵察部隊は積極的に活動し、戦火を交えていた。
絶え間ない運動戦の最中、東部戦線第1北伐軍集団がモンゴル国国境線までの地域を掌握したという情報が第2北伐軍集団司令部に齎された。
歓声が上がった。
第1北伐軍集団の
この時点で第2北伐軍集団も事前に用意していた燃料と弾薬を大きく消耗しており、又、可動率も危険な水準にまで低下しつつある事も重なり、攻勢の中止 ―― 終了も検討されていた。
そこにこの朗報である。
前線の士気も上がった。
それまで終わりの見えなかった運動戦の終末点が漸く、認識出来たからだ。
勝てる。
チャイナは
この為、第2北伐軍集団司令部は運動戦の中止と、全面攻勢を決定した。
アメリカの第1軍団が燃料と食料の枯渇で動けなくなる事を狙い、第2北伐軍集団司令部は第21軍と第22軍に対して積極的な攻勢を命じた。
動くだけでは無く砲火を交える事で弾薬まで消耗させ、消耗した弾薬の補給に物資を消耗させようと言う腹積もりであった。
対してアメリカは、これを真っ向から受けて立つ構えを見せた。
故に、広大な南モンゴル西部域で彼我併せて10個を超える、最低でも自動化された師団が激突する。
航空戦力は両陣営ともに東部戦線に集中していた為、ほぼほぼ陸上戦力で行われた文字通りの
両陣営併せて1000台を超える戦車装甲車の群が激突し、撃破し、撃破され、野に残骸を晒した。
戦車戦だけで言えば
攻防は一進一退の様相を呈していく。
血のにじむような努力を重ねて作り上げ、そして、無情にもすり潰されて行く戦車装甲車の群れを前にして、だがチャイナ側に焦りは無かった。
撃破される戦車、装甲車、死んで逝く兵こそが、アメリカの消耗を意味しているからであり、それが積み上がった時、アメリカは膝を屈するのだと思っていた。
だが、そんなチャイナの思惑は、決戦が始まって3日4日と経っても実現はせず、それどころかチャイナ側の物資不足が露呈しだした1週間を超えてもまだ、アメリカ側に物資不足の兆候は出て来なかった。
第2北伐軍集団司令部は大きく慌てた。
チャイナ側は息切れしているのに、アメリカにその兆候は無い。
それは即ち、
決戦の前提が全てひっくり返るのだ。
慌てた第2北伐軍集団司令部は、ありったけの航空戦力を偵察に投入した。
投入された機体は、殆どが帰って来なかった。
だが、不帰を覚悟して送り出された多量の航空機は、飽和攻撃の役目を果たし、極わずかな機体が、貴重な情報を持ち帰った。
夕暮れの中、偵察機はモンゴル西方域とモンゴル国とを繋いだ
第1軍団の補給線は、モンゴル国に繋がっていたのだ。
――外交交渉 チャイナ-モンゴル間
第2北伐軍集団から、モンゴル国がアメリカの補給を支えていると言う報告を受け、チャイナ政府は激怒した。
この戦争が始まる前にチャイナはモンゴル国と相互不可侵と不干渉条約を締結していたのだ。
チャイナ政府が激怒するのも当然の話であった。
急いでモンゴル国の大使を呼びつけて、厳重に抗議を行う。
対してモンゴル国大使は涼しい顔で、モンゴル国内の民間企業が経済活動として物資の売却をしているだけであり、モンゴル国政府はチャイナとの対立は望んでは居ないと返事をした。
この返答にチャイナ政府が納得する筈も無かった。
モンゴル国政府は国の方針に従わぬ民間企業を取り締まる必要があるとチャイナ政府は強く主張した。
だが、数時間に渡る交渉においてモンゴル国大使がチャイナ政府の要求に折れる事は無かった。
最終的にチャイナ政府は、武力を以て脅す事を選択した。
モンゴル国との国境線地帯に到達した第1北伐軍集団によるモンゴル国侵攻である。
別に掌握する必要は無い。
統治する必要も無い。
モンゴル国を混乱の坩堝に叩きこみ、モンゴル国を介した第1軍団への補給路を断てれば良いのだから簡単な話だ。
だが、この脅しにモンゴル国大使は屈する事は無かった。
笑みを浮かべて、モンゴル国も同盟関係がありますと返答した。
相手は日本国。
日本-モンゴル東ユーラシア安全保障条約を締結しているのだと言う。
即座にチャイナ政府は駐モンゴル大使に確認を命じた所、事実の裏取りが成された。
既にモンゴル国にはシベリア総軍から抽出された日本連邦統合軍2個師団と航空部隊が展開していた。
余りの状況に絶望したチャイナ政府は、モンゴル国大使に泣き付くように過去の友諠に基づいた親チャイナ外交を採ってくれる様に訴える程であった。
だがモンゴル国大使は、その訴えを鼻で笑った。
友諠のあった国相手に侵攻の脅しを行ったのはどの国であるのか? と。
それどころか、そもそも南モンゴルはモンゴル人の大地であったが、それを国力に基づいて強奪し、支配してきたのはチャイナであると強く批判する程であった。
ここにチャイナとモンゴル国の外交交渉は決裂する事となる。
モンゴル国との外交交渉の決裂を報告された蒋介石は、その夜、痛飲した。
――41式駆逐戦車
20tにも満たない軽量な軽戦闘車両である41式駆逐戦車が実証した能力は、アメリカを瞠目させるものがあった。
アメリカも歩兵師団の対戦車部隊向け装備として、M10
3in.砲を搭載し、火力も十分でありアメリカが自信をもって配備を進めている車両であったが、問題が1つあった。
車体価格である。
アメリカ陸軍に配備する分に於いて問題がある訳では無い。
だが、フロンティア共和国軍を筆頭に諸外国部隊へと大量に配備 ――
アメリカの工業力が本気を出せば簡単ではあるのだが、そこまでコストを掛ける必要があるのかと言えば難しい所もあったのだ。
金満と言って良いアメリカだが、無尽蔵に放蕩出来る程では無いのだから。
だから、41式駆逐戦車に目を付けたのだ。
だが41式駆逐戦車の性能を支える諸要素、日本製の高品位な均質圧延鋼装甲や、民生品を転用したコンパクトで信頼性の高いディーゼルエンジンとトランスミッション等の大部分が、アメリカで製造する事が出来ない*1為、出来るのはノックダウン生産が精々であった。
それをアメリカは呑む事となる。
ある意味でアメリカ陸軍の正規装備としてでは無い事が、それを許したのだ。
アメリカと北崎重工業の協議の結果、41式駆逐戦車はM41
生産は
又、生産数が北崎重工業の当初予定よりも大規模で、かつ早期製造を要求される為、豊原工場を拡張する事となったが、これに対してアメリカが投資する事で、M41の消耗品などをアメリカ側で製造する事となる。
尚、41式駆逐戦車を
主砲の換装である。
6lb.砲が搭載されていた理由は、砲自体の素性の良さ ―― 入手の簡便さと安さ軽さ。そして火力のバランスもさることながら、設計を行う際にスペイン内戦時のバンク機動砲車の情報を参考にしていた事が理由であった。
が、アメリカには同じく軽量な対戦車砲として40口径75㎜砲があった為、こちらに換装される事となった。
基本設計の古い75㎜砲であったが、6lb.砲に比べて大口径化した事による火力の向上が有意であった為、M41駆逐戦車の製造開始以降は41式駆逐戦車も75㎜砲搭載モデルが標準化する事となる。
又、この
日本は諸外国への先進技術の流出阻止に関する政策は緩めてはいなかった。
この為、41式駆逐戦車をアメリカで製造するのに必要な鋼材やエンジンなどの生産技術の供与にも否定的であった。
共同での技術開発こそ継続的に行われてはいたが、日本がかつて韓国や中国に対して行った様な
これはアメリカのみならず、ブリテンやフランスは当然、それ以外の国家に対してもであった。
日本連邦の諸邦国に対してすら、独自の技術の涵養は行っても、技術の供与は行っていなかった。
日本もシベリア共和国などへも
だがそれは日本連邦統合軍の予算で配備や演習での消耗が出来る日本連邦統合軍供出部隊に限っての話である。
地方歩兵連隊はシベリア共和国の予算で管理運営される国境線警備担当部隊であり数を必要とする部隊でもある為、とてもではないがシベリア共和国の予算にATM-6系列のミサイルを装備する部隊を揃える力は無かった。