タイムスリップ令和ジャパン   作:◆QgkJwfXtqk

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A.D.1943
109 ユーゴスラビア紛争-6


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 この数年の国際的紛争に一番頭を悩ませている国は、ソ連であった。

 アメリカやフランスなどG4(超大国)にとっては()()()()()と言う程度であり、その対応で消費する国力は大きな問題では無かった。

 又、チャイナやドイツなどは自業自得で、その上目の前の紛争に対応する事で精一杯なので悩んでいる暇も無かった。

 それ以外の国家、国際連盟の加盟諸国などは紛争と物理的に距離がある事もあって、如何に利益を上げるか(G4から利益を貰うか)と言う事に血道を上げている程度だった。

 当事者では無いからこその呑気さであった。

 だがソ連は、呑気に構える事は出来なかった。

 チャイナにせよドイツにせよ経済関係のある友邦国であり、又、日本(G4筆頭)からは睨まれている立場なのだ。

 同時に国際連盟を脱退した2国と違い、ソ連は国際連盟加盟国であると同時に非常任(常任理事国には劣る)とは言え理事国と言う名誉ある立場でもあった。

 ある意味で複雑な立場であると言えた。

 国際連盟非加盟の2大強国のドイツとチャイナと、国際連盟との橋渡しをする立場であるとも言えた。

 利益を得る事が出来る立場ではあった。

 だが同時に、危うい立場でもあった。

 ドイツにせよチャイナにせよ、()()()()()()()からだ。

 小さな紛争であれば、利益の衝突であるならば中立と言う立場も美味しい。

 だが本格的な戦争と成れば話は違う。

 アメリカとの事実上の戦争状態に入ったチャイナは言うまでもないが、ドイツも又、チャイナの紛争に深く関与し、ユーゴスラビアではイタリアを敵に回し国際連盟からも危険視される様になっているのだ。

 国際連盟と対立してまでドイツを支持する事は、果たしてソ連の利益となるのか? と言う、ある意味で()()()()()()()()()を考えるべきではないかと言う意見が、ソ連の政府内でも持ちあがったのも当然であった。

 ヒトラーに対してシンパシーを感じているスターリンであったが、個人的な感情だけで国の事を決める事は出来ない。

 又、ソ連政府内の意見を頑として否定するだけの判断材料を持たない事も大きかった。

 スターリンはユーゴスラビアを起点にして将来発生するであろうドイツとG4/国際連盟との戦争にどう対処するべきか、悩んだ末に痛飲した。

 翌日は二日酔いだった。

 そして問題を先送りした。

 

 

――ドイツ

 アドリア海を舞台として段々と過激化していくドイツ海軍とイタリア海軍のさや当て。

 共に最低限度の自制はしており、銃撃砲撃などの類が行われる事は無かったが、投入される戦力は拡張し続けていた。

 イタリアの駆逐艦に魚雷艇は弄ばれた為、ドイツは駆逐艦を増派した。

 ドイツの駆逐艦部隊の練度は、この時点で世界第4位の海軍力を誇っていたイタリア海軍の船乗り(水上艦勤務者)にとって脅威と呼べる水準に達しては居なかったが、イタリアはその増派(エスカレーション)に付き合う事を選択した。

 

 先ずは軽巡洋艦、ジュゼッペ・ガリバルディを基幹とした軽巡洋艦戦隊を投入した。

 封殺した(OverKill)

 イタリアの最新鋭と言って良い軽巡洋艦であり、その船体規模、重巡洋艦に準じた9000t級を前にしては、ドイツが持ち込んだ2000t級のZ5型駆逐艦で対抗する事は難しかった。

 この為、ドイツ駆逐艦は密輸船を追いかける所か、イタリア軽巡洋艦に追い回されるのが常であった。

 酷い時にはユーゴスラビア領海内にまで追い立てられ、慌てて空母であるグラーフ・ツェッペリンが前に出る事もある程だった。

 30,000tと言う巨体と15㎝砲を持ったグラーフ・ツェッペリンは、このアドリア海では空母(最重要護衛対象)と言うよりも超大型軽巡洋艦(戦闘部隊のケツ持ち役)であった。

 この事をドイツ海軍としては危険視していた。

 ドイツ海軍の3つの柱である戦艦、装甲艦、そして空母。

 その空母の最初の1隻であり、ドイツ海軍に空母運用ノウハウを積ませてくれるグラーフ・ツェッペリンが損傷するリスクは看過できないのだ。

 そして、それはヒトラーも同様であった。

 観点は政治側 ―― 大々的にグラーフ・ツェッペリンによるアドリア海の安全確保を宣言した手前、偶発的であっても傷つくのは認められなかったのだ。

 それが、グラーフ・ツェッペリンに対する()()()()()()()()を認める指示を出す理由であった。

 積極的自衛行動の自由を認められたグラーフ・ツェッペリンの首脳陣は、大いに苦慮する事となる。

 確かに今現在のアドリア海でグラーフ・ツェッペリンは圧倒的優位な立場を得ている。

 だがそれも、イタリアが艦隊の増派を行わなければと言う但し書きが入る程度のものであった。

 タラント港に集結しているイタリアの機動部隊が出てくれば簡単にひっくり返されるだろうと判断していた。

 イタリアの擁する正規空母アクィラを恐れていたのだ。*1

 この為、ドイツ海軍はドイツ空軍に対してユーゴスラビアへの展開を要請する事となる。

 グラーフ・ツェッペリンの複葉機主体の艦載機では、アクィラが搭載する1500馬力級の水冷レシプロ戦闘機に対抗するのは難しかった為だ。

 この要請に対し、ドイツ空軍は名誉を得る好機であると判断し、精鋭部隊(第2教導航空団)の派遣を決めるのであった。

 尚、ヒトラーは、正規軍のユーゴスラビア派遣と言う行為が持つ政治的リスクの大きさに許可を出す事に躊躇した。

 だが最終的に、ドイツ海軍とドイツ空軍の連名による嘆願に応じる事となる。

 

 

――イタリア

 ドイツが過剰なまでの反応を示そうと言う中で、イタリアの水上艦部隊の運用は抑制的であった。

 別に戦意が折れた(腰が退けた)と言う訳では無い。

 イタリアが未回収のイタリア(ユーゴスラビア北部沿岸域)への浸透を進める中で、陸路でのユーゴスラビア共産党への物流(アクセス)網の構築に成功しつつあったと言うのが大きかった。

 イタリアは出来るだけ労力を掛けずに未回収のイタリア(ユーゴスラビア領フィウーメ等)の奪取を考えており、ドイツとの全面戦争と言う効率の悪い事態(ハイリスク・ローリターン)は望んで居なかったからだ。

 アクィラの機動部隊をタラントに用意しつつもアドリア海に展開させない理由も、そこにあった。

 ドイツが退くに退けない所まで押し込む気は無かったのだ。

 イタリアは、ある意味でドイツに配慮していた。

 だがそれは弱腰と言う事を意味しない。

 ムッソリーニは、イタリアが独裁制と言う、国民の支持(人気)あってこそ政治を纏める事の出来る体制である事を忘れては居なかったからだ。

 空前の好景気に支えられ、圧倒的な国民の支持を受けているムッソリーニのファシズム政権であったが、そこに慢心は無かった。

 だからこそ、ドイツの()()に全力で殴り返す事を選択する事となった。

 

 

――アドリア海クライシス

 発端はドイツであった。

 ドイツ海軍を支援する為にユーゴスラビアに派遣されたドイツ空軍部隊第2教導航空団は困惑していた。

 ()()()()()と。

 つばぜり合いの様な緊迫感はあっても、両陣営の艦艇は砲塔を動かそうとはしておらず、一触即発の緊張感は無かったのだから。

 少なくとも、ドイツ海軍から事前に伝達(ブリーフィング)されていた状況とは異なっていた。

 その誤解は、激しく競り合う時間が夜間であり、飛行機が投入される事の少ない事が原因となっていた。

 そもそも、第2教導航空団が派遣された理由はイタリアのアクィラ対策であった為、アクィラがアドリア海に出て来ない限り役目が無いのが実際である。

 名誉を得んと意気揚々と来た第2教導航空団にとって、想定外の事態であった。

 その事が、パイロットの規律の緩みを齎した。

 又、そもそもドイツ空軍は建軍されてまだ日が浅く、パイロットの多くが年若いと言う事情もあった。

 この緩んだ若いパイロットが蛮行を、イタリアの飛行艇を()()してしまったのだ。

 その日、事件を起こす事となるパイロットは定期洋上哨戒(ストレス発散の空中散歩)に出ていた。

 その際にユーゴスラビアの領海の直ぐ外側の海域で、漁船の傍で海上に着水したイタリアの飛行艇を発見した。

 すわ、密輸船への物資輸送かと判断し、即座にイタリアの飛行艇が逃げられないようにと銃撃を敢行したのだ。

 正に即断即決速攻であり、射撃は過たず飛行艇へと吸い込まれる。

 見事なまでの早業であった。

 問題は、パイロットは戦闘機乗りとして対地攻撃の訓練を受けて居なかった為、翼だけを狙う積りが飛行艇の機体をも直撃し、漁船ともどもズタズタにしてしまったのだ。

 尤も、パイロットは気にしなかった。

 悪の密輸船とその協力者を叩いたとばかりに、意気揚々とした気分で基地へと報告した。

 密輸船撃破! と。

 第2教導航空団はパイロットの報告、撃破した海域の情報をドイツ海軍に伝達し、ドイツ海軍はにっくき密輸船の確保に近隣を遊弋中であった駆逐艦や魚雷艇を走らせた。

 この時点では、ドイツは情勢を把握しては居なかった。

 ドイツ空軍機が何をしたか、知らされていなかった。

 故に、現場に着いたドイツ海軍は破損した飛行艇と漁船の乗組員を犯罪者の様に扱い、そして証拠を得んと飛行艇と漁船とを調査した。

 密輸の証拠を押さえようと乗り込んだドイツ水兵たちであったが、イタリアの飛行艇にも漁船にも、そんな証拠は一切無かった。

 当然である。

 飛行艇は救難機であり漁船は純然たる民間漁船でしか無かったのだから。

 洋上にて邂逅していた理由は、漁船で急患が発生し救難援助を無線で発信し、それを受けたイタリア海軍が飛行艇を飛ばしたからであった。

 その詳細を把握したドイツ駆逐艦艦長は真っ青になった。

 証拠隠滅を考えたが、それを実行するだけの時間的余裕は無かった。

 イタリア海軍が現場に到着したからだ。

 重巡洋艦並の大型軽巡洋艦ジュゼッペ・ガリバルディが現場に到着したからである。

 何時もは自制され動く事など無かった主砲の筒先は、ドイツ駆逐艦を狙って動く事になった。

 但し発砲する事は無かった。

 只、要求しただけであった。

 飛行艇及び漁船の乗組員の引き渡しと、飛行艇と漁船の()()の共同調査であった。

 突きつけられた要求をドイツ駆逐艦艦長は突っ撥ねようとした。

 海域がユーゴスラビアの領海近くである事から、調査権は自分たちにあると主張したのだ。

 だがジュゼッペ・ガリバルディの返答は、ドイツ駆逐艦の逆の方向へ向けた発砲であった。

 発砲後、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と返信した。

 イタリア海軍は、ジュゼッペ・ガリバルディは状況を知っているのだとドイツ駆逐艦艦長は理解した。

 だが状況の分からぬ駆逐艦乗組員たちは強硬と言って良いイタリア(裏切り者)の態度に激高し、駆逐艦の主砲をジュゼッペ・ガリバルディへと向けるべきだと主張するほどであった。

 だが、ドイツの状況(立場)の悪さを自覚しているドイツ駆逐艦艦長は動けなかった。

 ナチズムに染まっていない時代に軍歴を積んできたドイツ駆逐艦艦長は良識的、或は常識に基づいての本音であれば、()()()に捕虜及び死傷者を引き渡すべきだと考えていた。

 だが同時に、それが祖国に尋常では無い影響を与える事も判っていたので、良心に基づいた行動を取れずにいたのだ。

 対峙は一昼夜に及んだ。

 グラーフ・ツェッペリンが参陣しドイツ側に戦力比が傾いたが、その半日後にはイタリアのアクィラと戦艦リットリオが現場に到着し、戦力比の天秤は再びイタリア側へと傾いた。

 現場での睨みあいと同時に、ドイツとイタリアの外交部は中立国であるスイスのチューリッヒを舞台に折衝を行った。

 慇懃なれども強硬な態度を崩さないイタリア代表に対し、ドイツ代表は時間と共に事件の詳細を知り自国の立場の悪さを理解していったが、それでも折れる事は無かった。

 面の皮の厚さ(恥知らず)は列強の外交官の必須事項だからだ。

 とは言え、何処かに落としどころは必要であった。

 落としどころ ―― 折れるのは、面子の横っ面を張り飛ばされる形となったイタリアには無理な話であった。

 喧々諤々の外交の末、最終的に第三者である国際連盟が捕虜及び死傷者を預かる事で決着した。

 イタリアとしては、ドイツ()の懐から同胞を逃す事が出来たと言う外交的勝利である。

 ドイツとしては、直接にイタリアへ捕虜及び死傷者を引き渡さずに済ませ外交的敗北から逃れたと言う形となった。

 このドイツとイタリアの艦艇群が睨みあう海域で、国際連盟からの要請を受けて捕虜及び死傷者の引き受けに派遣されたのは日本艦であった。

 ブリテンやフランス程には反ドイツでは無いと思われたが故に選ばれたのだった。

 ドイツはソ連(同盟国)、無理であればギリシャ(影響力の行使可能な国)を希望したが、当然ながらも却下された。

 日本は万が一に備える形で、中東方面隊としてクウェートに配置されていたすずつきとひびきを派遣し、捕虜及び死傷者を引き受けるのだった。

 

 

 

 

 

 

*1

 空母アクィラは、イタリアが初めて手にした正規空母であった。

 当初は貨客船ローマを改装する事が想定されていたのだが、それが変更されたのは1935年のエチオピア帝国侵攻作戦が原因であった。

 この作戦が日本とブリテンの海洋戦力(空母機動部隊)によって頓挫する事となった為、イタリアに空母と言う艦種の重要性を教えたのだ。

 改装空母では無く、日本は兎も角としてブリテンやフランスの空母とは正面から戦えるだけの空母が要求されたのだ。

 とは言え、即座に建造出来た訳では無かった。

 この頃はヴィットリオ・ヴェネト級戦艦の建造が優先されていた為、研究を継続する事に留まった。

 それがアクィラと名付けられる空母の運命を大きく変えた。

 1938年のリビア油田の発見と、電撃的に行われたイタリアとG4陣営の和解である。

 リビアの油田はブリテンとフランスが市場に供給した分を全て買い取る様な勢いで売れ、イタリア経済に大きく資する事となった。

 又、和解した事でG4陣営の市場、特に日本に参入出来た事はイタリア経済を活気づかせる事となる。

 重工業などの面で日本の市場に参入する事は出来なかったが、職人の技が関わってくる分野ともなれば話は違う。

 服飾やワインに芸術品、果ては趣味性の高い自動車やバイクなどが飛ぶように売れたのだ。

 イタリアは空前の好景気と成っていた。

 それが、アクィラが正規空母として建造出来た理由であった。

 又、建造に際してはブリテンとフランスの支援を受ける事が出来た事も大きかった。

 G4陣営との関係改善の結果、イタリアの空母整備計画は地中海の安寧を守る事が第一義となった。

 即ち、()()()()()()()()()()()の保護である。

 こうなればブリテンやフランスにとっては自国の安全保障を補助するモノとなる為、その建造に支援を行うのも当然の成り行きであった。

 最終的に空母アクィラは、34,000t級の堂々たる大型空母として生み出される事となる。

 

 艦名 アクィラ(アクィラ級空母)

 建造数   2隻(アクィラ スパルヴィエロ)

 基準排水量 33,900t

 最大速力  31ノット

 兵装    13.5cm単装両用砲8門 他多数

 航空    常用72機(補用5機)

 

 基本設計はイタリア海軍の手で行われたが、ブリテン空母群での運用実績やジョフレ級空母に投入された知見を吸収していた。

 言わば、アメリカの33000t級将来空母計画案(FCVTP)の流れに居る空母として誕生したのだ。

 アメリカから導入した蒸気カタパルトを持ち、格納庫とエレベーターはジェット戦闘機の運用も想定したものとなっている。

 グラーフ・ツェッペリンとは世代が違う存在であり、1940年代にあっては地中海の女王と呼べるフネ、それがアクィラであった。

 

 


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