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チャイナとの戦争で、春を待っての大規模攻勢を予定しているアメリカ。
この時点で参戦国はフロンティア共和国の他、シベリア共和国を筆頭として日本連邦の4邦国に加えてフランスやオランダなど10ヵ国を上回り、事実上の
総兵力は陸海空に軍属なども含めて60万を超え、師団数は30個を数えていた。
世界中からの戦力は、日本の
20ノット以上の巡航速度を誇る
このお蔭で、世界中から身体1つで満州に集まった将兵は、与えられたアメリカ製や日本製の新装備への習熟に充分な時間を掛ける事が出来たのだ。
新鋭の装備を持った60万の精兵。
だがそれでも、チャイナ軍は決して甘く見る事の出来る相手では無かった。
その数、実に40万人。
新たな部隊は、河北鎮護総軍と命名されていた。*2
チャイナのマスコミは、偉大なる中原を守る精兵と宣伝していた。
とは言え、その装備状態は、寒いものであった。
小銃や機関銃などは兎も角、野砲などの重装備は十分では無く、軍服も満足に支給されて居ない部隊が殆どであった。
だが、塹壕に籠って抵抗するのであれば必要十分な水準に達している ―― 少なくとも東ユーラシア総軍参謀団でも、敵として障害になっていると判断していた。
その上で元からの精鋭、機動戦力たる北伐総軍も再編成を行っており、質は兎も角として数的には開戦前の規模を回復していた。
――アメリカ-東ユーラシア総軍
WW1と見紛うばかりの塹壕を作り上げたチャイナに対し、その突破の手段としてアメリカは当初、日本と
簡単に広域を焼ける核兵器は、
又、大威力兵器と言うものを使ってみたいと言う単純な欲求もあった。
とは言え日本が強く反対し、
この為、アメリカは
航空優勢を掌握出来るだけの航空機を用意し、併せて爆撃機と共に500機近い対地攻撃機を用意する。
又、アメリカ政府の核兵器使用要求を拒否した
これはML-3を改造し
アメリカも自前でトラックの用意は出来るのだが路外、即ち悪路走破性に於いて日本製に勝てない為、前線部隊に随伴して機動する事も要求されるMLRSには不足していると判断した結果だった。*4
初手は地対地ロケット弾で行い、機甲部隊が前進。
その対応に生き残った部隊が抵抗の為に姿を見せれば、対地攻撃機隊が処理していく。
容赦と言うものの存在しない、塹壕の蹂躙戦術であった。
又、野砲や航空機の整備に注力しているとは言え、戦車の整備にアメリカが手を抜く事は無かった。
それどころか大規模な増産をアメリカ本土とフロンティア共和国で行っており、本格的な増産に着手したこの一冬だけで2000両を遥かに超える数を整備していた。
当然、主力は36t級の76.2㎜砲を搭載した重量級中戦車のM4戦車と、事実上の重戦車であるM24戦車である。
アメリカの本気であった。*5
――チャイナ
アメリカの戦力充実ぶりをフロンティア共和国へと侵入していたスパイによって把握したチャイナ参謀団は、黄昏た。
数的な優位こそ確保してはいたが、その質の差は圧倒的になっていたからだ。
チャイナが頼みとする陸上戦力、特にⅣ号戦車は
別にⅣ号戦車が戦場で撃破された、全滅した訳では無い。
それなりの被害は出ていたが、
問題は、攻勢の頓挫による撤退であった。
塹壕等の陣地構築に余裕がある場所までの後退は、食料や燃料の不足、航空優勢喪失に伴う航空攻撃の激化によって、正しく苦行となっていた。
路上で撃破されたモノ、燃料不足で放棄されたモノ、或はその鈍重さが嫌われて放置されたモノまで出ていた。
精鋭との呼び名もあった嚮導団も、蓋を開ければその体たらくであった。
結果、今現在のチャイナの手にあるⅣ号戦車は200両を切るまでになっていたのだ。
又、被害状況で言えばⅢ号戦車C型やC型Ⅲ号突撃砲を保有する部隊は更に悲惨だった。
此方は主として第2北伐軍集団に配備され、アメリカの機甲部隊と真っ向から殴り合ったのだ。
戦車などは半壊し、操るべき戦車兵たちも多くが傷つき倒れていた。
戦車自体の補充もだが、喪われた戦車兵と言う技術者の回復は容易な事では無かった。
そもそも、戦車兵の教育は嚮導団の
その嚮導団が壊滅的な被害を受けているのだ。
戦車兵の教育が開戦前と同様に出来る筈も無かった。
そして悲惨さで言えば空はそれ以上であった。
開戦劈頭は輝きを持っていたチャイナ航空部隊であったが、
航空機自体の消耗や保守部品の不足による稼働率の低下。
チャイナ航空部隊は、冬期自然休戦期のアメリカ空軍の跳梁を阻止できぬまでにやせ細っていたのだ。
そして春先となっても、その回復は殆ど出来て居なかった。
特に
希少金属を多用するジェットエンジンの部品枯渇は、チャイナだけでどうにかなるものでは無かった。
希少金属の不足、そして部品への加工はドイツ本土の工場でしか出来ないものが多く存在して居たのだから。
又、他の航空機も悲惨な状態であった。
そして何より、アメリカの
装備の回復も、乗員の訓練も出来ない航空隊に期待できる事は殆ど無かった。
この為、チャイナ参謀団は悲痛な覚悟を決める事となる。
黄河以北の戦線に張り付けた部隊には死守命令を出すと共に、黄河以北に住む全ての住人を強制的に避難させ食料やインフラを破壊すると言う、決死の
無論、消耗させるだけでアメリカとの戦争に勝てる訳では無い。
その為に、インフラの整っている北京市に機甲部隊を集結させ、アメリカ軍が消耗し息切れをした瞬間を狙って逆襲 ―― フロンティア共和国へと侵攻し、これを人質に取る事で戦争の終結を図ると言うものであった。
無論、そこまで理想的に作戦が遂行できたとしても内モンゴル独立は受け入れざるを得ないだろうし、
だが、これしかチャイナが採れる作戦は無かった。
重装備の回復に関してドイツとの
締結済みの契約内容を守ろうと努力する事を約束するだけ、ある意味でドイツは誠実であるとも言える状況だった。
そして、ドイツ以外に積極的にチャイナを支えてくれようと言う国家は居ない。
そもそも、チャイナと言う国家自体が悪魔的精度で行われているアメリカの戦略爆撃*6によって枯死しかかっているのだ。
正しく四面楚歌であった。*7
自国の陥った状況を理解し作戦の概要を聞いた蒋介石は、悄然とした顔で受け入れた。
最早、自棄酒を呷る元気すら無かった。
アメリカも
総トン数6,320tの輸送船フリーダムが試験的に建造されては居たが、船の構造に起因する形で車両搭載数は日本のRO-RO船と比較すると極めて見劣りがするのが実状であった。
船内の構造自体は
フリーダムも、その構造の一部には日本製の鋼材が利用されていた程であった。
100年先の知見があっても、基礎的な技術水準の向上が無ければ再現は難しいのだ。
この為、アメリカはチャイナとの戦争が激化すると共に、日本製RO-RO船の購入を強化していくと共に、SMS社の
尚、アメリカ政府と軍としては輸送力に不満のあったフリーダムであったが、アメリカの海運業界としては
尚、河北鎮護総軍と、ほぼ規模と言って良い50万人近い兵が、チャイナにとっての後背である長江付近で訓練を受けていた。
此方は長江総軍と命名されている。
長江総軍が前線へと派遣されていない理由は、河北の訓練地の不足もあったが、チャイナの輸送力の限界もあった。
そしてアメリカによる妨害である。
アメリカは冬季自然休戦期となっても、戦争を止めなかった。
陸上戦力の集積と訓練とを行う傍ら、爆撃機部隊によるチャイナ全域に対する
日本のB-52やB-2を
5t近い爆弾搭載量を誇り戦闘行動半径3,000㎞を誇るB-21は、フロンティア共和国やフランス領インドシナを拠点にチャイナのほぼ全土をその翼下に置き、爆弾の雨を降らせ続けた。
チャイナも、これを阻止せんと全力で対応したが、
戦争に本気となったアメリカは、チャイナの軍の前に国家を、その経済を殺しにかかっていた。
長江総軍が前線に居れない理由は、ある意味で余波でしか無かった。
被爆国として、核兵器に対するアレルギー的な国民世論を持つ日本は、核兵器自体の製造、保有、そして開発には積極的では無かった。
だが同時に、世界の核利用を止める事が出来ない事も理解していた。
アインシュタインその他、著名な科学者によって核の持つ力は知られつつあったのだから。
又、アメリカには
この為、国際連盟の中に核技術の平和利用を主目的とした技術管理の委員会を設立させた。
とは言え、日本以外の国からすれば、それこそアメリカですらも核の技術を実用化する為に必要なコストが莫大過ぎて、戦時予算でも組まない限りは簡単に開発出来ないのが実状であったが。
又、1930年代の日本では、核兵器を使用させない為の
日本政府がその声に乗る事は無かったが。
日本政府は公式発表を行い、動力源は別として、核分裂を利用した武器開発は行わないとしている程であった。
とは言え、日本政府は他国の核兵器体制の成立は許しても、その利用を許す積りは無かった。
タイムスリップの時点で日本は、中国の
尚、日本政府は簡単には使う事の出来ない武器を製造する予算的な無駄を嫌い、ソ連その他が核武装をするまでは技術の公表も、製造もおこなう積りは無かった。
この事実を糊塗する為、B-52を保有する部隊が維持され続けていたのだ。
タイムスリップの時点でグアムに駐留していたB-52は、在日米軍と定めた協定に基づいて米国製核兵器の運用能力が付与されており、この事はG4の連絡協議会で公表されていた。
念の入った欺瞞工作により、G4ですら日本が
世界は、核の恐怖といまだ向き合っては居なかった。
搭載する
元々は、日本がシベリア総軍に配備している
尚、今回の運用に関しては日本の全面協力によって
尚、装甲戦闘車両としては、更には1000両を超える
チャイナとアメリカの装甲車両の差は、数の上でも倍を超えており、その質の差も勘案すれば差はチャイナにとって絶望的状況であった。
当然ながらも、日本の情報 ―― 偵察衛星による情報の集積と日中戦争時代の記録を基にした分析があればこそ、チャイナへの爆撃は効果的かつ効率的に行われていた。
又、チャイナ航空部隊が壊滅した事も、爆撃が容易な昼間中高度爆撃を可能にしていたと言うのも大きい。
効率の悪い、防衛力の集積を行っている大都市 ―― 北京は勿論、首都南京への爆撃は行っては居なかったが、そうであるが故に、道路や線路、橋や港は定期的に爆撃され、混乱していた。
チャイナの国際的孤立、立場の厳しさはアメリカの戦略爆撃への非難 ―― 爆撃によって民間人も少なからず被害が出ている事を停戦への突破口にしようと図った際に、大きく露呈した。
友好関係を維持していたソ連へ全力で外交交渉を仕掛け、国際連盟総会の場で如何に戦争であるとは言え非人道的行為は抑制されるべきだとの声を挙げさせた。
だが国連加盟国の殆どは、
そもそも、開戦はチャイナの側から仕掛けていると言うのが、国際連盟での共通認識であった。
国際連盟非加盟国の、それも負けている側の寝言に付き合う気は無かった。
門前払いにも等しい悲惨な状況であったが、諦めないチャイナの駐スイス大使は、人道と言う建前を押し立てて、渤海事件の際に知己を得た日本代表に接触した。
非公式に行われた会談で、チャイナ駐スイス大使は
人道主義と言うのであれば降伏すれば良い、と。
日本は仲介する用意があると告げた。
冷淡すぎるとも言える日本国際連盟代表の態度に怒りを感じたチャイナ駐スイス大使は、アメリカの爆撃によって死傷した民間人の写真を突きつけて、これを見ても心が動かないのかと叫ぶ程であった。
だが、日本の国際連盟代表は一瞥しただけで、それが
秘書役として国際連盟代表に付いていた若い米系日本人は、これが
無論、
2020/10/03 文章修正