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チベットでの独立運動が激化して以降、
チャイナにとってチベットは自国領域と言う認識と共に将来の利益、水及び地下資源と言う意味で重要な位置を占めていた。
その大事なチベットをブリテンに奪われるなど我慢ならなかった。
それに、相手はブリテンなのだ。
日本やアメリカに比べれば国力が隔絶している訳では無いし、インドからチベットへの経路は限られている。
勝利が得られると、チャイナが激怒しながらも冷静に計算したのも当然の話であった。
久方ぶりに勝利が見える状況に、チャイナ参謀団は少しだけ沸いた。
尚、現在進行形でアメリカと戦争をしており、チャイナの国力はそこで盛大に浪費し続けていると言う事を認識していた一部の冷静な人間も居たが、
因みに、冷静な人間も忘れていた事が1つあった。
それは、ブリテンは日本やアメリカに劣れども
そして邪悪さと言う意味に於いては、日本は当然にしてアメリカですら相手にならぬ国である事を。
ある意味でチャイナは忘れていたのだ。
日本が焼いた渤海の様に、或はアメリカが現在進行形でチャイナを焼いている様に、円明園を
――チャイナ
先ずチャイナは、チベットの現地住民が暴力を以って独立運動を開始した事を理由に、軍のチベット派遣を日本に対して伝達した。
無論、日本対策班からの献策による行動であった。
果たして、日本の返答は
無論、それで日本がこれ以上干渉して来ないと思う程にチャイナもナイーブでは無かった。
だが、貴重な時間が稼げた外交的勝利と判断していた。
この間に出来る限り戦力をチベットに集中させ、短期決戦を図る事を目指した。
事前に派遣していた部隊に加え、10万の兵で増強しチベット鎮定軍と呼称させる事となった。
機甲戦力や野砲などの派遣はアメリカとの戦争が続行中である為に不可能であったが、その代わりにチャイナ参謀団は航空部隊を派遣する事とした。
無論、最新鋭機などでは無く
とは言え、軽武装の独立派を蹂躙するには十分だろうと言うのがチャイナ参謀団の見立てであった。
それとは別に徴兵したばかりの兵を50万人程、警察補助隊として家族ごとチベットに送り付ける事を考えていた。
此方はチャイナ政府上層部の決定であった。
チベットへの、事実上の
チャイナの経済はアメリカの戦略爆撃によって混迷しつつある為、国内避難民が発生しているのだ。
その
尚、警察補助隊は住居を筆頭とした生活の基盤は、独立を図る
チャイナ人のチベットへの蔑視が如実に表れている話であった。
――ブリテン
予定通りに着火し、激しく燃え盛る様になったチベット独立運動に愉悦を感じたブリテンは、少しだけドイツの気分を理解していた。
少しの手間で敵対国が右往左往しているのだ、楽しい以外の感情が出る筈が無かった。
とは言え、手間とは予算であり、予算とは国家の資産を使う事を意味するのだ。
国家指導者が愉悦の為に、国力を浪費する事は決して褒められる事ではない ―― そうブリテンの指導者層は誰もが理解し、そうであるが故に愉悦は酒と共に独りで噛みしめ、公の場ではブリテンの利益のみを理由と口にしていた。
ブリテンにとって、チベットを独立させ日本と共同で国際社会で
インドへの脅威低下と、インド産業の市場としてのチベット確保。
そしてチベットの資源であった。
前者2つはブリテン主導でインドに利益を与える事で、ブリテン連邦で潜在的な強国であると同時に独立志向の強いインドに親ブリテン派を作る事が目的であった。
特に、利益に聡い ―― 損得勘定が優先される経済界を狙ったのだ。
この為、旧式兵器の供与以外ではインドにも利益が行くように配慮していた。
ブリテンで設計された戦時急造向けの簡素な構造をしたステン短機関銃や手榴弾、弾薬などの生産をインドの工場で行い、チベットの独立派に提供したのだ。*1
ブリテンの政策と投資によって、主に軽工業に属する分野でインド経済は活況を迎える事となる。
又、歩兵火器のみならず、ブリテンは戦車をチベットに供与していた。
軽戦車だ。
31式戦車shockによって好む好まざるにかかわらず一気に
一部は汎用輸送車などへと改良・転用もしていたのが、基本設計の古い車両や小さすぎる車両などは倉庫で埃を被っていた。
それを輸送機でチベットへと持ち込んだのだ。
日本の
大規模と言ってよい航空輸送作戦を、余技の如き気楽さで実行したという点に於いてブリテンは、紛れもない
その他、チャイナが航空隊をチベットに展開させると、対抗して旧式化した航空機 ――
無論、チベット人パイロットが戦闘機の供与に合わせて用意出来る筈もなく、イギリス空軍を一時的に退役したブリテン人パイロットが
――日本
ガッツリとブリテンがチベットへの軍事支援を行っている陰で、日本はチベットが独立宣言をすると同時に国家承認が即座に行われる準備に務めていた。
フランスとアメリカに話を通し、
無論、武器弾薬その他の物資供給も行ってはいたが、日本の影はブリテンに比べれば薄かった。*3
だが、外交工作を進める上で、影の薄さは大きな意味を持つ。
今回の場合で言えば、チャイナはブリテンに外交資産を集中させていたが故に、日本の動きに気づく事が遅れたのだ。
例え気づけたとしても、チャイナが何か出来たとは限らない。
だが、例え羽虫の様な力しかない邪魔であっても、邪魔が入らぬという事に勝るものは無いのだ。
尚、国際連盟を舞台とした事でソ連も日本の動きを大まかながらも察知はしたが、チャイナとの関係が疎遠となった事もあり、その事をチャイナに伝達する事は無かった。*4
――チベット
総数で1万人を超えないチベット独立派であったが、日本とブリテンの支援によって数はあれども装備では決定的に劣るチベット派遣軍との戦いを有利に進める事が出来た。
そもそも、チベットとチャイナをつなぐ道路は
その上、一般の住民もチベット独立派を支持しているのだ。
これでは本格的な戦争になる筈も無かった。
人手不足を埋める為、チャイナ系住民やチャイナ人難民などがチャイナ派遣軍
結果、最初の本格的な武力衝突 ―― チベット独立派の拠点を武装したチャイナ難民が襲った日から数えて2ヶ月を超える頃にはチベットの主要都市ラサでの攻防戦が始まる事となった。
ラサをめぐる戦いでチャイナ人たちは、チベット人を巻き込むことも辞さない無差別な抵抗を繰り広げた。
街路に爆弾を仕掛けたトラップや、水道に劇物を混入させるなどしたのだ。
だが、その事がラサに住むチベット人の怒りを買う事となり、ラサ攻防戦が始まって3週間でチャイナ人はラサから叩き出される事となった。
ほうほうのていでチャイナ人たちはラサを離れた。
だが
チャイナの決定的な敗北とも言えた。
だがそれでもチャイナは、意地でもチベット独立を許す積りは無かった。
チベット派遣軍への更なる10万の兵の増員を決定した。
装備も、アメリカとの戦争に必要な分から、少なからぬ量を分けて用意する事とした。
徹底抗戦の構えを見せたのだ。
又、チベット特別軍事裁判に対しても、チャイナ人を不当不法な裁判でもって処罰したとして違法を宣言。
違法な裁判を開いた廉でチベット独立派と日本の政府関係者に対して、チャイナの特別立法裁判への出廷を命じていた。
チャイナは自覚する事の無いままに国の四方に敵を抱える羽目に陥り、G4の3つと事実上の交戦状態となったのだ。
この恐るべき事態に気づいた蒋介石は、ひっそりと一人夜中に痛飲しようとアルコール度数の強い
健康に悪いと言う夫人に、戦争より健康に悪いものは無いのだと抗弁する蒋介石であったが、その主張が通る事は無かった。
ブリテンによるインド懐柔方針は、その実利面からのアプローチ故にインド側からも歓迎をもって迎えられていた。
20世紀初頭は民族主義の勃興によって完全なブリテンからの独立を主張していたインドであったが、ブリテン連邦の経済連合と言う側面と、ブリテン連邦の一員として日本連邦の市場に
形式的とは言えブリテンの国王を掲げ、軍事的にブリテンの要請を受け入れなければならないという事は極めて
世界帝国たるブリテンの
尚、この事から判る様に、日本最大の
無論、すべてはブリテン政府の仕込みであり、ジェット戦闘機への機種転換を嫌がったベテランのパイロットが最後の花を咲かせたいと参加していた。
20機近い戦闘機で構成された
かつてブリテンの空を駆けたスピットファイア戦闘機は
そして大なる戦果を掲げ、
戦車や戦闘機といった大物装備の供与を行ったブリテンが目立つというだけであり、日本の支援も決して貧弱という訳ではなかった。
それどころか徒歩の歩兵部隊が主となるチベット独立派にとって、L16b 81㎜先進化迫撃砲の廉価モデルであるML-81迫撃砲や、シベリア共和国軍からの要請で開発された12.7㎜弾を使用する単発の
下手な歩兵砲よりも長射程のML-81迫撃砲は凶悪の一言であり、狙撃にも使われたML-915対物ライフルの威力と命中精度は無慈悲であった。
その上、大量に供与された高性能なML-04無線機は、烏合の衆でしかなかったチベット独立の志士たちを集団として戦える存在へと変えた。
武器装備の使用に関しては、教官を
鬼より怖いと言われた
まがりなりにも軍隊という形を整えたチベット独立派は、日本の偵察衛星による情報を受ける事で効率的な作戦が可能になり、数で勝りドイツ陸軍式教育を受けた将校も交じるチャイナのチベット派遣軍と互角に渡り合う事が可能となったのだ。
空を舞うスピットファイヤ戦闘機がチベット人の心を支えたように、チベット独立派の土台を日本は支えたのだ。
故に、後に日本とブリテンは、チベット独立を支えた両輪と称えられる事となった。
チベットの独立はチャイナの国力低下を意味し、それはとりもなおさずソ連の支援対象国でありチャイナと対立する南チャイナへの脅威が低下する事を意味するのだ。
その意味では、ソ連はチベットの独立を支持する立場にあった。
チベット人の怒りが生んだ悲劇的な光景と言えたが、チベット派遣軍が行った
多くのチベット人が報復を叫び、チベット独立派もその声に応えたのだ。
尚、簡易ながらも裁判が行われたのは日本からの強い制止に依るものであった。
別段、俘虜となったチャイナ人を哀れんだ訳ではない。
只、チベット独立に向けた国際世論工作を進めていたが為、チベット独立と言う
そしてもう1つ、
とは言え裁判に時間を掛ける積りは無かった。
日本は各種航空移動手段を総動員する勢いで
その間、わずか3日。
すさまじいまでの力技であった。
力技は、取り調べから裁判から全てをマスコミの前で行うという所まで達していた。
一月に及んだ裁判 ―― チベット特別軍事裁判は、日本の法務士官が検事役を担当して行われた。
チャイナ人
対して日本の法務士官は、世界各地での戦争での経験を持った米軍法務士官からの知見も得ていた為、法と証拠の下でチャイナ人捕虜の有罪をさらっていくのだった。
その様は、裁判それ自体が公開処刑と評される無残な結果となった。
捕虜は全員が有罪。
その上で罰則に関しては、チベットがいまだ独立国家ではない為にチャイナの法が適用された。
当然、殺人罪である。
そして殺人の罪に対して下された判決は死刑であった。
チャイナの法務士官は裁判を日本による法匪的行動であり横暴であると主張したが、日本は裁判内容を取り調べから全公開しており、そして裁判の流れ自体に恣意的乃至は違法性の類は無かったが為、誰もチャイナの主張に賛同する者は居なかった。
それはチャイナの友好国にして反日的国家であるドイツですら批判は行わず、処刑が人道的に行われる事を希望すると発表するに留まっていた所にも現れていた。
それ程に、チベット派遣軍の行いは酷過ぎたとも言える。
チャイナ人俘虜の悲鳴、或いは助命嘆願は無視され、判決確定後、速やかに刑は実施された。
尚、この裁判では、誰がチベット派遣軍に非道な行動の許可を与えたのかと言う点を明らかにする為として、チャイナに
この為、全責任をチベット派遣軍司令部が負う事となり、チベット特別軍事裁判で司令部要員に対する逮捕命令が出された。
2020/01/06 文章修正