タイムスリップ令和ジャパン   作:◆QgkJwfXtqk

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121 中央アジアに吹く風-3

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 チベットでの独立運動が激化して以降、独立運動支援(緩衝国建国への策謀)を隠さなくなったブリテンにチャイナは深く激怒した。

 チャイナにとってチベットは自国領域と言う認識と共に将来の利益、水及び地下資源と言う意味で重要な位置を占めていた。

 その大事なチベットをブリテンに奪われるなど我慢ならなかった。

 それに、相手はブリテンなのだ。

 日本やアメリカに比べれば国力が隔絶している訳では無いし、インドからチベットへの経路は限られている。

 勝利が得られると、チャイナが激怒しながらも冷静に計算したのも当然の話であった。

 久方ぶりに勝利が見える状況に、チャイナ参謀団は少しだけ沸いた。

 尚、現在進行形でアメリカと戦争をしており、チャイナの国力はそこで盛大に浪費し続けていると言う事を認識していた一部の冷静な人間も居たが、()()()()()()()()()()()その事を口にする事は無かった。

 因みに、冷静な人間も忘れていた事が1つあった。

 それは、ブリテンは日本やアメリカに劣れども世界支配国家の一角(ジャパン・アングロ)であり、世界帝国である事を。

 そして邪悪さと言う意味に於いては、日本は当然にしてアメリカですら相手にならぬ国である事を。

 ある意味でチャイナは忘れていたのだ。

 日本が焼いた渤海の様に、或はアメリカが現在進行形でチャイナを焼いている様に、円明園を()()()()()()()と言う事を。

 

 

――チャイナ

 先ずチャイナは、チベットの現地住民が暴力を以って独立運動を開始した事を理由に、軍のチベット派遣を日本に対して伝達した。

 無論、日本対策班からの献策による行動であった。

 理屈(建前)を重視する日本は、チャイナが道義や人道を全面に立てている限りは即座に強硬な対応に出ては来ないと言う読みであった。

 果たして、日本の返答は()()()()()と言う注釈付きでの、一般市民への被害を限定させる努力の要請に留まった。

 無論、それで日本がこれ以上干渉して来ないと思う程にチャイナもナイーブでは無かった。

 だが、貴重な時間が稼げた外交的勝利と判断していた。

 この間に出来る限り戦力をチベットに集中させ、短期決戦を図る事を目指した。

 事前に派遣していた部隊に加え、10万の兵で増強しチベット鎮定軍と呼称させる事となった。

 機甲戦力や野砲などの派遣はアメリカとの戦争が続行中である為に不可能であったが、その代わりにチャイナ参謀団は航空部隊を派遣する事とした。

 無論、最新鋭機などでは無く前線(対アメリカ戦)には出せない機体 ―― 偵察機として使うのも憚られる様な複葉機たちであった。

 とは言え、軽武装の独立派を蹂躙するには十分だろうと言うのがチャイナ参謀団の見立てであった。

 それとは別に徴兵したばかりの兵を50万人程、警察補助隊として家族ごとチベットに送り付ける事を考えていた。

 此方はチャイナ政府上層部の決定であった。

 チベットへの、事実上の移民(棄民)政策だ。

 チャイナの経済はアメリカの戦略爆撃によって混迷しつつある為、国内避難民が発生しているのだ。

 その避難先(はけ口)としてチベットを利用する積りであった。

 尚、警察補助隊は住居を筆頭とした生活の基盤は、独立を図る不逞現地人(一般チベット人)から没収(略奪)して賄うものとされた。

 チャイナ人のチベットへの蔑視が如実に表れている話であった。

 

 

――ブリテン

 予定通りに着火し、激しく燃え盛る様になったチベット独立運動に愉悦を感じたブリテンは、少しだけドイツの気分を理解していた。

 少しの手間で敵対国が右往左往しているのだ、楽しい以外の感情が出る筈が無かった。

 とは言え、手間とは予算であり、予算とは国家の資産を使う事を意味するのだ。

 国家指導者が愉悦の為に、国力を浪費する事は決して褒められる事ではない ―― そうブリテンの指導者層は誰もが理解し、そうであるが故に愉悦は酒と共に独りで噛みしめ、公の場ではブリテンの利益のみを理由と口にしていた。

 ブリテンにとって、チベットを独立させ日本と共同で国際社会で承認する(ケツ持ち)理由は3つであった。

 インドへの脅威低下と、インド産業の市場としてのチベット確保。

 そしてチベットの資源であった。

 前者2つはブリテン主導でインドに利益を与える事で、ブリテン連邦で潜在的な強国であると同時に独立志向の強いインドに親ブリテン派を作る事が目的であった。

 特に、利益に聡い ―― 損得勘定が優先される経済界を狙ったのだ。

 この為、旧式兵器の供与以外ではインドにも利益が行くように配慮していた。 

 ブリテンで設計された戦時急造向けの簡素な構造をしたステン短機関銃や手榴弾、弾薬などの生産をインドの工場で行い、チベットの独立派に提供したのだ。*1

 ブリテンの政策と投資によって、主に軽工業に属する分野でインド経済は活況を迎える事となる。

 又、歩兵火器のみならず、ブリテンは戦車をチベットに供与していた。

 軽戦車だ。

 31式戦車shockによって好む好まざるにかかわらず一気に()()()()()()()へ突入したブリテンの機甲部隊は、機動力はあっても余りにも装甲が薄く火力の乏しい軽戦車を前線部隊から下げており、余剰となった車両が大量にあったのだ。

 一部は汎用輸送車などへと改良・転用もしていたのが、基本設計の古い車両や小さすぎる車両などは倉庫で埃を被っていた。

 それを輸送機でチベットへと持ち込んだのだ。

 日本の大型輸送機(C-2)を参考に開発された、後部開口部(ランプ)を持った近代的な輸送機は軽戦車を含む大量の軍事物資をチベット独立派が必要とするだけの量を必要とするだけの期間、常に送り続けたのだ。

 大規模と言ってよい航空輸送作戦を、余技の如き気楽さで実行したという点に於いてブリテンは、紛れもない世界帝国(G4たる一角)であった。

 その他、チャイナが航空隊をチベットに展開させると、対抗して旧式化した航空機 ―― ブリテン空軍(RAF)の主力戦闘機がジェット化すると共に余剰になっていた1()0()0()0()()()()戦闘機を供与したのだ。

 無論、チベット人パイロットが戦闘機の供与に合わせて用意出来る筈もなく、イギリス空軍を一時的に退役したブリテン人パイロットが()()()()()()を発揮して参加していた。*2

 

 

――日本

 ガッツリとブリテンがチベットへの軍事支援を行っている陰で、日本はチベットが独立宣言をすると同時に国家承認が即座に行われる準備に務めていた。

 フランスとアメリカに話を通し、G4(ジャパン・アングロ)として独立承認の共同声明を準備し、国際連盟への加盟も同日に行える様に外交的な準備を進めた。

 無論、武器弾薬その他の物資供給も行ってはいたが、日本の影はブリテンに比べれば薄かった。*3

 だが、外交工作を進める上で、影の薄さは大きな意味を持つ。

 今回の場合で言えば、チャイナはブリテンに外交資産を集中させていたが故に、日本の動きに気づく事が遅れたのだ。

 例え気づけたとしても、チャイナが何か出来たとは限らない。

 だが、例え羽虫の様な力しかない邪魔であっても、邪魔が入らぬという事に勝るものは無いのだ。

 尚、国際連盟を舞台とした事でソ連も日本の動きを大まかながらも察知はしたが、チャイナとの関係が疎遠となった事もあり、その事をチャイナに伝達する事は無かった。*4

 

 

――チベット

 総数で1万人を超えないチベット独立派であったが、日本とブリテンの支援によって数はあれども装備では決定的に劣るチベット派遣軍との戦いを有利に進める事が出来た。

 そもそも、チベットとチャイナをつなぐ道路は国籍不明の爆撃機(ジャパン・ボマー)が定期的に耕して(爆撃して)おり、チベット派遣軍の本隊はチベットまで到達出来ていなかったのだ。

 その上、一般の住民もチベット独立派を支持しているのだ。

 これでは本格的な戦争になる筈も無かった。

 人手不足を埋める為、チャイナ系住民やチャイナ人難民などがチャイナ派遣軍に志願(が徴用)し抵抗を続けてはいるが、流れを止める程の力は無かった。

 結果、最初の本格的な武力衝突 ―― チベット独立派の拠点を武装したチャイナ難民が襲った日から数えて2ヶ月を超える頃にはチベットの主要都市ラサでの攻防戦が始まる事となった。

 ラサをめぐる戦いでチャイナ人たちは、チベット人を巻き込むことも辞さない無差別な抵抗を繰り広げた。

 街路に爆弾を仕掛けたトラップや、水道に劇物を混入させるなどしたのだ。

 だが、その事がラサに住むチベット人の怒りを買う事となり、ラサ攻防戦が始まって3週間でチャイナ人はラサから叩き出される事となった。

 ほうほうのていでチャイナ人たちはラサを離れた。

 だが()()()()()()()為、逃げそこね捕らえられた警察や軍の人々は裁判の末、等しく吊るされる事態となっていた。*5

 チャイナの決定的な敗北とも言えた。

 だがそれでもチャイナは、意地でもチベット独立を許す積りは無かった。

 チベット派遣軍への更なる10万の兵の増員を決定した。

 装備も、アメリカとの戦争に必要な分から、少なからぬ量を分けて用意する事とした。

 徹底抗戦の構えを見せたのだ。

 又、チベット特別軍事裁判に対しても、チャイナ人を不当不法な裁判でもって処罰したとして違法を宣言。

 違法な裁判を開いた廉でチベット独立派と日本の政府関係者に対して、チャイナの特別立法裁判への出廷を命じていた。

 チャイナは自覚する事の無いままに国の四方に敵を抱える羽目に陥り、G4の3つと事実上の交戦状態となったのだ。

 この恐るべき事態に気づいた蒋介石は、ひっそりと一人夜中に痛飲しようとアルコール度数の強い老酒(ラオチュー)を用意したが、その健康を案じた夫人に止められたのだった。

 健康に悪いと言う夫人に、戦争より健康に悪いものは無いのだと抗弁する蒋介石であったが、その主張が通る事は無かった。

 

 

 

 

 

 

*1

 ブリテンによるインド懐柔方針は、その実利面からのアプローチ故にインド側からも歓迎をもって迎えられていた。

 20世紀初頭は民族主義の勃興によって完全なブリテンからの独立を主張していたインドであったが、ブリテン連邦の経済連合と言う側面と、ブリテン連邦の一員として日本連邦の市場に最恩恵国待遇(G4トリートメント)接続(アクセス)出来る特権を認識して以降、下火になっていた。

 形式的とは言えブリテンの国王を掲げ、軍事的にブリテンの要請を受け入れなければならないという事は極めて()()()であったが日本市場から得られる利益、そして何より(ハードカレンシー)を自由に得られると言う事はそれ程の意味を持つのだ。

 世界帝国たるブリテンの£通貨(ポンド)も強いのだが日本の\通貨(エン)は日本の経済力を背景として国際通貨(G4カレンシー)の中でも絶対的な位置にあった。

 

 尚、この事から判る様に、日本最大の()()()()は円であった。

 

 

*2

 無論、すべてはブリテン政府の仕込みであり、ジェット戦闘機への機種転換を嫌がったベテランのパイロットが最後の花を咲かせたいと参加していた。

 20機近い戦闘機で構成された第1チベット義勇航空隊(ワイルドギース)は、チベットの空でチャイナと熾烈な戦闘を繰り広げた。

 かつてブリテンの空を駆けたスピットファイア戦闘機は蛇の目(ラウンデル)の代わりにガチョウを描いて異国の地を飛んだ。

 そして大なる戦果を掲げ、優雅なる守護者(プラウド・スピッティ)なる愛称が捧げられる事となる。

 

 

*3

 戦車や戦闘機といった大物装備の供与を行ったブリテンが目立つというだけであり、日本の支援も決して貧弱という訳ではなかった。

 それどころか徒歩の歩兵部隊が主となるチベット独立派にとって、L16b 81㎜先進化迫撃砲の廉価モデルであるML-81迫撃砲や、シベリア共和国軍からの要請で開発された12.7㎜弾を使用する単発の39式12.7㎜対物ライフル(イエロー・デグチャレフ)の簡易量産モデルであるML-915対物ライフルといった携帯し易い火力は、頼れる相棒であった。

 下手な歩兵砲よりも長射程のML-81迫撃砲は凶悪の一言であり、狙撃にも使われたML-915対物ライフルの威力と命中精度は無慈悲であった。

 その上、大量に供与された高性能なML-04無線機は、烏合の衆でしかなかったチベット独立の志士たちを集団として戦える存在へと変えた。

 武器装備の使用に関しては、教官をSMS社(日本国外郭軍事組織)から受け入れていた。

 鬼より怖いと言われた教官(レンジャー・インストラクター)たちはチベット独立の闘士を、短い時間であっても胸に飾ったダイヤモンド徽章の如く精一杯に磨き上げた。

 まがりなりにも軍隊という形を整えたチベット独立派は、日本の偵察衛星による情報を受ける事で効率的な作戦が可能になり、数で勝りドイツ陸軍式教育を受けた将校も交じるチャイナのチベット派遣軍と互角に渡り合う事が可能となったのだ。

 空を舞うスピットファイヤ戦闘機がチベット人の心を支えたように、チベット独立派の土台を日本は支えたのだ。

 故に、後に日本とブリテンは、チベット独立を支えた両輪と称えられる事となった。

 

 

*4

 チベットの独立はチャイナの国力低下を意味し、それはとりもなおさずソ連の支援対象国でありチャイナと対立する南チャイナへの脅威が低下する事を意味するのだ。

 その意味では、ソ連はチベットの独立を支持する立場にあった。

 覇権国家群(ジャパン・アングロ)への反発、そもそも日本に対する憎悪を持つソ連であったが、状況を冷徹に見る目と感情で暴走しないだけの自制心を維持していた。

 

 

*5

 チベット人の怒りが生んだ悲劇的な光景と言えたが、チベット派遣軍が行った()()が少なからぬ女性や子供を巻き込んでおり、その結果 ―― 因果応報であった。

 多くのチベット人が報復を叫び、チベット独立派もその声に応えたのだ。

 尚、簡易ながらも裁判が行われたのは日本からの強い制止に依るものであった。

 別段、俘虜となったチャイナ人を哀れんだ訳ではない。

 只、チベット独立に向けた国際世論工作を進めていたが為、チベット独立と言う()()にケチがついては後々が面倒であるというのが理由であった。

 そしてもう1つ、()()()()()から戦時で処刑などを行う際には瑕疵の無い物的証拠を残した上で実行せねば、後から()()()()を付けられるか判ったものではないというものがあった。

 紳士的な(真顔での)日本の説得に、チベット独立派も折れた。

 とは言え裁判に時間を掛ける積りは無かった。

 日本は各種航空移動手段を総動員する勢いで国際連盟本部(ジュネーブ)から安全保障理事会軍事法務委員の人間を拉致する勢いで連れてきて、軍事法務委員を裁判長として緊急裁判を開催させたのだ。

 その間、わずか3日。

 すさまじいまでの力技であった。

 力技は、取り調べから裁判から全てをマスコミの前で行うという所まで達していた。

 一月に及んだ裁判 ―― チベット特別軍事裁判は、日本の法務士官が検事役を担当して行われた。

 チャイナ人被告(捕虜)を弁護したのはチャイナから派遣されてきた法務を担当する将校であったが、自国も参加するハーグ陸戦条約を理解しているとは言い難く、暴徒(チベット独立派)からの俘虜の解放を要求するに終始するに留まっていた。

 対して日本の法務士官は、世界各地での戦争での経験を持った米軍法務士官からの知見も得ていた為、法と証拠の下でチャイナ人捕虜の有罪をさらっていくのだった。

 その様は、裁判それ自体が公開処刑と評される無残な結果となった。

 捕虜は全員が有罪。

 その上で罰則に関しては、チベットがいまだ独立国家ではない為にチャイナの法が適用された。

 当然、殺人罪である。

 そして殺人の罪に対して下された判決は死刑であった。

 チャイナの法務士官は裁判を日本による法匪的行動であり横暴であると主張したが、日本は裁判内容を取り調べから全公開しており、そして裁判の流れ自体に恣意的乃至は違法性の類は無かったが為、誰もチャイナの主張に賛同する者は居なかった。

 それはチャイナの友好国にして反日的国家であるドイツですら批判は行わず、処刑が人道的に行われる事を希望すると発表するに留まっていた所にも現れていた。

 それ程に、チベット派遣軍の行いは酷過ぎたとも言える。

 チャイナ人俘虜の悲鳴、或いは助命嘆願は無視され、判決確定後、速やかに刑は実施された。

 尚、この裁判では、誰がチベット派遣軍に非道な行動の許可を与えたのかと言う点を明らかにする為として、チャイナに総統(国家元首)である蒋介石の出廷が要求されたが拒否されている。

 この為、全責任をチベット派遣軍司令部が負う事となり、チベット特別軍事裁判で司令部要員に対する逮捕命令が出された。

 

 




2020/01/06 文章修正

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