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チベット独立派によるラサ掌握は、チャイナがチベットの南東域を喪失した事を象徴した。
チベットにはチャイナ人が難民以外にも商機を求めて入植して来た人も多かったが、その多くは、ラサにチベット独立旗がはためいたと知るや潮が引くように退去していった。
チベットの治安が崩壊した訳でも無ければ、いわれなき暴力や迫害が頻発するようになった訳でも無かったが、
これが、チベットにおけるチャイナ人が多ければ
だが、今のチベットにはそれだけのチャイナ人は居なかった。
尚、チベット南東域のチャイナの警察機構は、チベット独立派から積極的に攻撃された訳ではなかったが構成員の多くが職場を離れており、機能を失っていた。
尚、統治/行政機構に至っては、責任者が真っ先に逃げ散ってしまい瓦解する始末であった。
アメリカとの戦争による劣勢。
或いはそれ以前からの対外戦争における連続した敗北が、チャイナ人の心に逃げ癖を与えていた。
この結果、チベット独立派はもちろん、その後ろにいた日本すらも想定外の速度でチベットの大地が本来の主の手に戻ろうとした。
これには日本も慌てて、チベットの独立宣言と国家承認、国際連盟への加盟準備を一気に進める事となる。
チベット独立派に対しても対チャイナ闘争だけではなく、治安維持と行政 ―― 統治活動を行う事を提案していた。
この為、チベット独立派の攻勢は停止し、チャイナ側は戦力の立て直しに掛かる貴重な時間を得る事となる。*1
チベット独立派が攻勢を止めた事に安堵したチャイナ派遣軍は、このある種の停戦期間を反攻準備に使いたがった。
武器弾薬食料の集積、人員の配置。
例え練度武装で劣っていても、兵員の数で2桁近い規模の差をつけて殴り掛かれば勝てる。
そう計算していた。
だが、政治が
チベット独立派がラサのポタラ宮にて
チャイナ政府は、断固とした攻勢を厳命した。
――チベット独立宣言の余波
他所から民族独立運動としてチベットを見ると、チャイナと言う強国*2に立ち向かった
無論、チベット独立運動を他所の場所で詳細を知れる程に教養のある人間であれば、チベット独立派の後ろに武器弾薬資金などを都合する
その奮戦に敬意を抱くのも当然であった。
そして、それとは別のごく一部の人間は、アジア人であるチベットの人間に出来たのだから自分たちでも出来るのではないかと思ったのだ。
そのごく一部の人とは、以前にドイツが民族意識に火を点けて回っていたアフリカのフランス植民地群であった。
――アフリカ/フランス植民地
1930年代末にドイツは、フランスに混乱をもたらす為にフランス
当然、植民地で独立運動を起こさせる為だ。
植民地での独立運動は、その鎮圧にフランスの国力を消費すると共に、植民地での経済活動が停滞する事によるフランスの国力低下が期待できる
その前段階としてドイツは宣教師に扮した
民族独立と言う夢だけではない。
フランス人を追い出した後で現地住民が独占できる益 ―― 資源売却益と言う実利、そもそも
言葉巧みにアフリカの各地で、植民地人として扱われているアフリカの人々の
途中でアフリカの、フランス留学もした様な高学歴の人間も引き込んだ為、アフリカ人自身が自立的に独立への希望とフランスへの敵愾心に燃え上がる様になった。
そこまではドイツの勝利であった。
だが同時に、そこまでであった。
武装蜂起を行うために必要な、肝心要と言える武器を持ち込む事にドイツが失敗したからだ。
イタリア領東アフリカで密輸に失敗 ―― イタリア・フランス・ブリテン・日本による洋上密輸阻止作戦
様々な
この結果、アフリカの独立運動は散発的な
ドイツへの失望とフランスへの憎悪を滾らせ、独立に向けた気持ちを埋火の様に持ち燻ぶらせていた。
それが、チベットの
アフリカの人々は考えた。
武器を外から持ち込めないのであれば、自分たちで作れば良い、と。
フランスにせよ国際連盟にせよ、武器の輸出入は厳格化していたのだが、武器を作るのに必要な治具や鋼材などの持ち込みに制限を掛けては居なかったのだ。
適当な武器を見本に、見よう見まねで武器を作る。
失敗した。
当たり前の話であるが、銃と言うものも簡単に見えて奥が深い。
使えるものを生み出すには、様々な知見や知識を積み重ねなければならぬのだから。
故にアフリカの高学歴独立派の人間は、かつての
――ドイツ
自分が種を蒔いたアフリカ独立運動が、自立的に続いていた事に感動したドイツは全面的な支援を約束した。
民族の自主的自立的国家こそが世界の安定と平和、そして繁栄に資すると言うのが理由である。
嘘だが。
ドイツとしてはどんな理由だろうが、どんな相手だろうが
その覚悟あればこそ、
生産のしやすい簡単な
大量に消費するであろう弾薬の材料も手配した。
善意によって地獄への道は舗装されるという。
では底意のある善意で舗装された道であれば、どれほどの
アフリカでそれが試される。
――フランス
昨年、
しかも武力蜂起の規模、或いは地域の広大さはアジアでの比ではないのだ。
蜂起自体はそれぞれ数百人から多くても千人に届かない程度で、本気を出したフランス軍が臨めば鎮圧は容易かったが、余りにも広域で発生し過ぎて、数が足りな過ぎていた。
そもそも、フランスがアフリカに駐屯させていた部隊は、その少なからぬ数がフランス領インドシナでの治安維持戦へ投入するため引き抜かれていた。
圧倒的な兵力不足。
これではどうしようも無かった。
フランス政府は軍に対して鎮圧を厳命したが、フランス軍上層部は鎮圧の為に本土軍
その事が、フランス政府を悩ませた。
フランス本土軍電撃部隊とは、フランス本土に用意された対ドイツ
高練度で良好装備の現役兵部隊であり、機甲師団や機械化歩兵師団によって構成されたドイツ攻撃の急先鋒部隊だ。
当然、全てが機械化されており、その展開力は極めて高い。
その高い
その判断にフランス政府は、
電撃部隊はドイツとの戦争を短期間で片づける為にと、フランスが一心不乱に作り上げてきた決戦部隊なのだ。
それを、
フランス政府は独立運動自体を厄介であると認識はしつつも、その脅威を重く受け止めていなかった。
軍と政府の折衝の結果、電撃部隊の転用は行われない事となった。
だが電撃部隊の各師団から人員を抽出し、それを基幹とした複数の
不足する戦車や装軌装甲車の代わりに、自動車を装甲化した軽装輪装甲車を配備した。
装甲よりも、広域に展開できる機動力が要求されての事であった。*6
又、フランス領インドシナでの治安維持戦の経験から、アフリカの親フランス派アフリカ人を徴兵した治安維持戦補助部隊の構築も目論む事となる。
当初は、治安維持戦に慣れたインドシナ連邦軍の投入も検討していたのだが、インドシナ連邦軍の高練度部隊はアメリカ-チャイナ戦争へ参戦しており、しかもその
故に、親フランス派アフリカ人部隊の創設である。
フランス人がフランス領インドシナでの治安維持戦の成果よもう一度と思うのは当然の事ではあった。
だが1つ、フランス人は理解していなかった。
アフリカでの己の嫌われ具合と言うものを。
アフリカの混迷が始まる。
日本の
今、支配領域の安定を無視して攻勢を続行するのは簡単である。
或いはチベットの地からチャイナを追い出す事を早く達成出来るかもしれない。
だが万が一に、その短い時間でチベット各地の治安が悪化し、群雄割拠の情勢となった場合、チベットが独立国家として纏まる為には相当な時間と流血を必要とする可能性が出てくるのだ。
最悪の場合、チャイナが再び出てくる可能性もあるだろう。
日本はそう言って武断派を説得した。
その余りにも暗い可能性に、顔をしかめた武断派であったが、実際問題としてチベットの治安維持機構は機能停止状態となっている。
この為、物流も滞りがちなのだ。
強盗の類が増えたという訴えもあった。
この為、日本の説得を悲観的過ぎると蹴る程に武断派も能天気ではなく、戦闘続行の声を下げるのだった。
尚、この説得が成功した背景の1つには、チャイナ派遣軍が再編成で機甲部隊等を投入し、チベット独立派が苦境に陥った場合、日本による
空手形ではない事を示すように、日本はシベリア総軍第1方面隊に所属する第二空挺団の1個機械化連隊と1個空中騎兵連隊を東トルキスタン共和国に展開させ、この事が武断派に安心感を与えていた。
20世紀から列強との闘いで敗れ続け、国土を失い続けているチャイナであるが、大多数の国家や民族から見れば大国に位置する国家であった。
それは眠れる獅子とも呼ばれていた事からも明らかであった。
何より、アメリカを筆頭とする列強と年単位で戦えているのだ。
普通の国家であれば開戦して早々に国土を失い、植民地にされかねない相手と戦えるという時点で、凄い事なのだ。
只、戦争を繰り広げた相手国が、日本にせよアメリカにせよブリテンにせよ、
フランスの
当然だろう。
ブリテンは、軍事や外交に一定の制約があるとはいえ各植民地をブリテン連邦加盟国と言う枠内で独立させており、その上で
面従腹背、
ドイツを師と言うアフリカ人の高学歴者たちであったが、総じて、ドイツ人の事を
交渉の場にいるアフリカ人をドイツ語の判らぬ蛮族と思い、アフリカ人の前で笑いながらドイツ語で侮辱的な言葉を投げかけてくるのだ。
むしろ嫌わない方が不思議であった。
フランスに留学し高等教育の一環で哲学まで修めた様な人間であれば、ドイツ人を教養がない蛮族、
先進国ではない場所で、
そのシンプルさ加減は、日本の20式5.56㎜自動小銃を見て以降、先進国で一気に研究や普及が進んだ
そこまでする必要があるのか、そこまでした意味があるのかと言う点で難しい部分もあったが、少なくともドイツ人としてはネグロイド人
この為、
だが、作りの簡単さ故にアフリカの何処其処で製造され普及する事となる。
フランス植民地の人間は、この銃を
当初は間に合わせの装甲機材と言う扱いであった軽装輪装甲車であったが、正式装備の装軌装甲車や戦車が、広いアフリカの大地で機動運用を行うには余りにも燃費が悪く整備の手間がかかる為、何時しかアフリカ機動部隊の主力装備へと成りあがっていた。
戦車にせよ装軌装甲車にせよ良い装備ではあるのだが、雑多な軽歩兵でしかないアフリカ独立運動に投入するには
この為、フランスは後に高速展開可能な装輪装甲車と装輪偵察戦闘車の開発に着手する事になる。
2020/12/27 表現修正