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フランスのアフリカ海外県で勃発した独立運動に迷惑を被ったのはブリテンである。
他の国は、迷惑などと言う言葉では生ぬるい辛酸を味わう事となった。
特に国力の乏しい宗主国が治めていた植民地には、独立への意志と武器とが燎原の火の如く及ぶ事となった。
中でもスペインは悲惨であった。
1930年代中頃での内戦とその後の
この為、武力紛争を止める事が出来なかった。
西サハラとも呼ばれる地は、無慈悲な暴力が支配する大地と化していた。
対して比較的良好な状態にあるのは、ポルトガルの植民地であった。
ポルトガルの経済状態にとって、アフリカでの治安維持活動は控えめに表現しても地獄となる案件であったが、幸運な事にアフリカのポルトガル領の大多数は、安定したブリテン連邦加盟国に囲まれていたのだ。
おかげで武器や暴徒、或いは難民の流入をコントロールできていた。
そしてベルギー領コンゴは、地獄の地と化していた。
管理できないが故に混乱したスペイン領と異なり、コンゴ自由国時代から白人層への憎悪を煮詰めてきたコンゴ人は、手に武器が届くやいなや、
男は吊るされ、老人は焼かれ、子供は撃たれ、女は犯された。
ベルギー政府による白人優遇策によって、多くのベルギー人がコンゴに入植していたが故の悲劇であった、
尤も、かつてのベルギー国王が行っていた統治も似たようなものであった為、因果応報とも言えたが。
このような陰惨さと悲劇とが手を取り合った
ある意味で、この騒乱に於いて心底からの被害者と呼べるのはこの2国であったかもしれない。
――エチオピア
イタリアによる植民地化の危機を脱して以降のエチオピアは、国際連盟の加盟国として安定した経済発展を遂げていた。
安定した国内統治と発展は、
特に日本は、クウェートに駐屯する遣欧総軍向けの日本的生鮮食料品の生産拠点として企業が進出を行っていた。
米は兎も角として、野菜類を日本から持ち込むのはコストが掛かり過ぎるのだ。
クウェートで生産される農作物も買い取りは行ってはいるが、その生産量と質は
企業による農業を行う為、日本はエチオピアに対して
近代的な港湾施設、上下水道、そして電力の供給である。*1
この様に、安定した独立国であるエチオピアは、周辺をブリテン連邦加盟国とイタリア植民地に囲まれているお陰もあってアフリカの独立運動騒乱が頻発する様になった当初は、直接的な影響は無かった。
だが、近隣のイタリア領ソマリランドで独立運動が始まり、無関係では居られなくなる。
難民の流入、なにより活動資金を求めた独立運動組織がエチオピアに
当初は国際連盟の場でイタリアに事態回復に向けた努力を要求したが、果たされる事は無かった。
イタリアは植民地経営の軸足を
イタリアの余りの無責任さに腹を立てたエチオピアは、自衛の為の努力を開始する。
とは言え、長大なエチオピア-イタリア領ソマリランド間の国境を封鎖できるだけの軍をエチオピアは持たなかった。
又、イタリア軍の近代的な装備の横流しや、強奪によって重武装化していたイタリア領ソマリランドの独立派は、近代化されているとは言い難いエチオピア軍にとって強敵であった。
この為、エチオピア政府は日本に対して軍事支援を要請する事となる。
軍事同盟の締結と、日本連邦統合軍の師団規模以上での大規模派遣要請である。
エチオピアに日本の権益があれば拒否される事は無いと言う読みがあっての行動だった。
その打診を受けた日本は頭を抱えた。
日本政府としては、企業主体ではなく日本としての野放図な海外への進出には否定的であるという事も大きいが、それ以上に日本防衛総省が悲鳴を上げたのだ。
平時体制の日本連邦統合軍に、エチオピアの様な
日本の外交窓口がエチオピアに対して好意的ではあっても、日本連邦統合軍の派遣に対しては積極的でない事を把握したエチオピアの外交団は、二の矢を放つ。
軍事同盟の提携はそのままだが、日本連邦統合軍の派遣ではなくエチオピア軍近代化への協力要請であった。
その上で、対価としてエチオピア軍の日本連邦統合軍への供出を提案したのだ。*2
日本政府は、熟慮の末、エチオピアの要請を受け入れる事となる。
――リベリア
周囲の殆どをフランスの植民地に囲まれた小国、リベリアに出来る事など無かった。
素直に縁故のあるアメリカに頼った。
アメリカにしても、国土が狭く、治安の安定しているリベリアでの活動は、それ程に大きな戦力を割く必要性も無い為、アメリカ海軍の大西洋東部での活動拠点整備を兼ねて、支援していく事となる。
アメリカにとっては利益の乏しい行動ではあるのだが、G4としての立場から来る責任と同時に、まじりっ気のない正義の行動であった事から、アメリカ大統領の外交的
――ベルギー
頼れる国のあったエチオピアとリベリアは幸いであった。
だがベルギーに頼れる国は無かった。
ドイツとフランスと言う2つの強国に挟まれるという立地条件故に行われていた中立政策が、国際連盟に加盟こそしてはいても有力な関係国と言うものをベルギーが作らずにいた理由だった。
それが裏目に出る。
コンゴ自由国時代と比較すれば、善政を行っていると断言しても良いベルギーであったが、所詮は植民地としての範疇に留まっていた。
であれば、それがコンゴの人々に感謝される筈も無かった。
元よりベルギーの貧弱な国力では、広大と言ってよいコンゴに駐屯させられた警察/軍組織など極僅かでしかなかった。
独立運動と言う津波に全力で抵抗を図ったが、儚く飲み込まれるのが常であった。
その様は、独立運動の本場ともいえるフランス植民地よりも悲惨であった。
ここでベルギーは政治的決断を行う。
フランスへの接近である。
中立政策を破棄してフランスの影響下に入る事を代償に、フランス軍のコンゴ派遣を要請したのだ。
だが、フランスの返答は拒否であった。
ベルギーを影響下に置くメリットと、コンゴでの治安維持に掛かるコストとを比較すれば、ある意味で当然の反応だが、ベルギーは大きく慌てる事となる。
コンゴの地下資源権益などの提供も餌にして交渉を継続しようとするベルギーであるが、フランスは外交自体は継続しようとしても、コンゴの治安維持への協力を約束しようとはしなかった。
フランスにとっては自前の
慌てたベルギーはドイツへと接近しようとしたが、ドイツもベルギーの話に乗る事は無かった。
如何にドイツとは言えフランスとの戦争に備えて軍を拡張している最中に、海外へと大規模な軍の派遣を行う余力は無いのだ。
ヒトラーは将来での支援に含みを残した交渉を行ったが、ベルギーにとってそれが救いになる訳ではなかった。
ベルギーが欲したのは来年ではなく今日明日の支援であるからだ。
当ての外れたベルギーは、国際連盟総会の場で人道に基づいた支援を要求するのだが、反応は嘲笑でもって行われた。
四面楚歌。
尤も、ベルギーが手を打てぬ間にコンゴが独立を果たせるかと言えば、その様な事は無かった。
ベルギー政府の手を離れた地域では、様々な軍閥が乱立し、血も涙もない内戦状態へと突入していったからだ。
コンゴの地獄が始まった。
――ポルトガル
国力の乏しさと言う意味ではスペイン程に酷くは無く、ベルギー程に悲惨ではない。
だがブリテン程に植民地が安定している訳でも無ければ、フランス程にやけくそになれる国力があった訳でもない。
ポルトガルは、なんとも言い難い立ち位置にあった。
故に、必死になって植民地の安定に手を尽くす事になった。
治安維持に金を掛け、同時に、ポルトガル領アフリカの現地住人に自治に向けた権利の開放を志向する事となる。
それは植民地の独立につながる決断であったが、植民地に対する責任を果たせないとして世界中から嘲笑されているスペインやベルギーの轍を踏みたくないと言う意地故の事であった。
幸いな事に、事態が極端に悪化する前に手を打てたお陰で、ポルトガルはベルギー領コンゴとの国境を抱えるポルトガル領アンゴラ北部での国境警備に全力を出す事が出来た。
又、近隣のブリテン連邦加盟国が支援の手を差し伸べたというのも大きい。
ブリテン連邦加盟国群にとっては、騒乱が自国に接近せぬようにとの緩衝を求めての事であった。
ブリテン連邦加盟国は、盟主ブリテンを動かしたのだ。
これによってポルトガルは、ブリテンの支援を受けて事態に立ち向かう事となった。
――スペイン
宗主国が統治力を喪失した植民地程、ひどいものは無い。
ベルギーが僅かなりとも管理をする努力を行えたのに対し、スペインにその様な余裕は無かった。
現地に居たスペイン人を救助する余力も無かった。
スペイン内戦の傷はそれ程に重かった。
産業は消え、港湾は焼かれ、国庫は空となっていた。
ドイツを同盟国としていたが、過度な干渉を恐れて援助を受ける事も無かったのだ。
1940年代のスペインは、先進国と言う表現を用いる事に躊躇いを覚える程の惨状であった。
スペインは、西サハラを統治する国としての道義的責任を果たす事は無かった。
国家の近代化に必要な部分、その教育以外でのインフラ部分を網羅する勢いで日本はエチオピアを援助する事となる。
食糧生産拠点の整備と言う目的のみならず、日本の国内事情があった。
1940年代に入り、日本が行っていた日本連邦加盟国のインフラ整備、特にシベリア共和国の近代化が、事前に
即ち、シベリアのインフラ整備に力を振るった日本のゼネコン群が
インフラ整備に関わるゼネコンは、タイムスリップ後に混乱した日本経済再起動で軍需と共に活躍した大切な柱であり、であるが故にゼネコンに関わる関連業界は大規模化していた。
それが暇 ―― 不景気に陥ってしまっては、好景気になりつつある日本経済に深刻な影を落としかねなかったのだ。
無論、日本政府としても大手ゼネコンの首脳陣と会議を行い、肥大化したゼネコンの着地点を探す努力を行っていたのだが、簡単に結論の出る事ではなかった。
エチオピアへの援助は、エチオピアの要望を聞き、無理はせず、だがその目的は徹頭徹尾に
尚、このエチオピア援助の目玉は電力供給手段 ――
エチオピア1国の電力需要を全て賄えるだけの力を持った
エチオピアから
この迂遠とも、面倒くさいとも言えるエチオピアの外交は外交術であると共に、日本の面子を慮っての事であった。
日本におけるエチオピアの位置づけを理解していたエチオピア政府は、単なる軍事援助であれば日本は断らないだろうとは理解していた。
だが日本主体で、小規模であってもエチオピアで
国境線が長大な為、如何に機動力が高くても小規模な部隊では対処出来ないだろう。
対処できなかった場合、日本はその面子に掛けて努力する事になるだろう。
即ち、治安維持活動の泥沼化だ。
エチオピアに進出している多くの日本企業、その投資を投げ捨てる様な事を日本はしないだろう。
だからこそ、エチオピアが主体となった防衛計画であるのだ。
エチオピア軍の供出に関して言えば、日本連邦統合軍の人的な限界を把握した上での提案である。
日本に阿った様に見えるエチオピアの行動であるが、その本質は独立国家としての矜持であった。
即ち、
エチオピアは援助を受けるだけの国家ではないという意思表示なのだ。
露悪的な表現をするならば、対チャイナ戦争が優勢なれども長期化の兆しを見せている為、判りやすい大統領が齎した
編成されたばかりの海兵隊1個師団が航空隊と共に海を渡った。
この為、リベリアでの国境防衛戦は
2020年、愚作をご覧いただきありがとうございました。
来年が皆様に良き年でありますようお祈りいたします。
では!