誰が生き残るかを決めるのだ
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ドイツの行った24時間と言う時限をきった外交的宣言を受けて国際連盟は緊急総会を開催した。
幾ばくかの議論の末、全会一致でドイツへの非難決議を採択する事となる。
付帯して、実際に戦争となった場合に国際連盟加盟各国は
協力には、
フランス代表は満面の笑みを浮かべていた。
ブリテン代表は昏く嗤っていた。
アメリカ代表は面倒くさげな態度を崩さなかった。
日本代表は
その他の国々の代表も、それぞれの立場に相応しい振る舞いをしながら賛成票を投じていた。
尚、ドイツとの事実上の同盟国であるソ連代表は、諦観した顔で賛成票を投じていた。*1
国際連盟総会とは別に安全保障理事会も開催され、国連総会決議に基づいてドイツに対する
とは言え委員会の名の通り、この戦争補完委員会には指揮権などは与えられ無かった。
G4が全力を発揮しようと言うのだ、戦争は直ぐに終わるだろうと言うのが大方の見方であった為だ。
楽観論と言うよりも、歴然たる事実であった。
「クリスマスまでには戦争は終わる」それが初めて歴史的ジョークでは無く事実になるだろう、そんな事を戦争補完委員会のフランス人委員は真面目な顔で述べていた。
――オランダ
ドイツの宣言を受けてオランダ政府が行った事は3つ。
1つは言うまでもない話であるが、ドイツの要求の断固たる拒否である。
2つ目は国民に厳しい戦争を乗り切る為の大団結の呼びかけだ。
尚、国民の反発は無かった。
親ドイツ派で表立っていた人々は既に
ドイツがそれまでの
そもそも、事態の展開が早すぎて、在野側では何ら有意な
併せて、予備役兵の招集と一般市民の後方への避難の呼びかけも行った。
それがドイツとの戦争に間に合う筈はないとオランダ政府も判っていたが、断固たる覚悟でドイツに挑むと言うアピールにはなっていた。
最後の1つは、
ドイツからの宣告より以前、北海南部で戦力が睨み合いを始めた頃よりオランダ政府は内々で国際連盟加盟国として国家の
正確には土下座する勢いで平伏し、ズボンに縋りつく勢いで懇願したと表現するべきだろう。
オランダ政府は、折れるべき時を見誤らなかった。
この見栄も恥も投げ捨てた態度には、百戦錬磨の外交官たちも苦笑し受け入れるのみであった。
元より、国際平和維持を務めとする国際連盟である。
その面子に掛けてもドイツの横暴を見逃す事は出来ぬ話なのだから。
このG4の意向を受け、国際連盟安全保障理事会戦争補完委員会は、即座にオランダ支援総軍の設置を決定した。
そして手際よくオランダ支援総軍の設置準備委員会なる看板を
政治である。
国際連盟は決してオランダを見捨てないと言うアピールであった。
わずか1日でここまで出来たのは、危機感の表れであると同時に、フランスが中心になってドイツとの戦争準備を進めていたと言うのが大きかった。
――ドイツ
オランダの抵抗は予想していた。
フランスが強硬な態度に出る事もその範疇であった。
ソ連が日和って国際連盟に折れるのは
だが、国際連盟が一丸となってドイツとの戦争準備を行うなど予想外であった。
しかも、友好関係を築けつつあったと思っていた日本までが国連総会の場で賛成票を投じるなど、理解の範疇外と言うものであった。
慌てて外務省を呼び出したヒトラーは、そこで初めて、日本との外交交渉の
既にドイツネーデルラント軍団はオランダ国内へと侵入し、頑強な抵抗にあいつつもコレを粉砕し前進している所だ。
全ては手遅れとなっていた。
ドイツ政府、ナチス党幹部職員だけの前でヒトラーは
自分で飲むだけでは無く、その場に居た全ての人間に飲ませた。
禁酒の誓いなど知った事では無かった。
飲まねばやってられない気分という奴であった。
とは言え、どれ程に強い酒を飲んでも空気は沈痛であり、さながら通夜といった有様であった。
心理的な影響がアルコールの浸食を許さないのだ。
であれば狂うしかない。
ヒトラーは飲み干したグラスを床に叩きつけると、眦を上げて宣言した。
「
我らが死ぬか、奴らが死ぬかの
その狂気が伝播したように、誰もがグラスを床に叩きつけ「
だがそれが、ドイツ上層部の人間に精神的な均衡を取り戻させた。
冷静になれば後は、出来る限りの仕事をするだけであった。
機械的に、そして迷いなくドイツは動く。
戦争機関であるドイツ参謀本部では、
とは言え、計画はあっても準備はされていなかった。
取り合えず当初予定通りにポーランドを潰し、フランスを沈め、おそらくは横から殴り込んでくるであろうイタリアを焼き尽くしてヨーロッパを統一し、
――ポーランド
国際連盟の看板を背負っての対ドイツ全面戦争と言う事態に、ポーランド将兵は沸き上がった。
そして、急いで将兵の動員を掛ける事となった。
1944年に入って以降、どの様な形であるにせよ戦争が勃発すると理解していたポーランド政府であったが、裕福とは言い難い国家国力である為、ギリギリのタイミングまで軍民の戦時体制への移行を遅らせざるを得なかったのだ。
そして人件費を浮かしながら、弾薬などの備蓄を優先していたのだ。
とは言え準備は行っており、動員開始から2週間程度で第1線で必要とされる部隊の将兵は充足する予定であった。
常識的な判断と言えるだろう。
又、ドイツとの関係性に於いて
戦争は自分たちの都合で行う者だと言う認識だ。
ある意味で慢心であった。
そのツケをポーランドは払う羽目に陥るのだ。
対峙していたドイツは、動員と言う意味に於いては全てを終わらせた状態であったのだから。*2
ドイツはオランダ侵攻の3日目にポーランドに対して国際連盟加盟国に対する自衛行動を宣言し、侵攻を開始したのだった。
装甲化された70個師団150万近い大兵力による全面攻勢だ。
国境線地帯での防戦が出来たのは15時間、1日にも満たぬ間だけであった。
否、この時点でポーランドが国境地帯に張り付ける事が出来ていた兵力は10万にも満たない為、15時間
これは陸上戦力比で圧倒的劣勢であっても、航空部隊に関してはドイツ側の規模が抵抗可能な水準に収まっていたと言うのが大きい。
事実上、4つの前線を抱えているドイツは、それ故に戦力の集中がし辛い側面があったのだ。
とは言え、おっとり刀での
戦力の再編を目的に、早々に後退を決断した。
併せて前線部隊も可能な限りの後退を決定した。
それが15時間目に国境線が突破された理由でもあった。
敗走ではあっても潰走ではない。
死者は仕方が無くも、負傷者は可能な限り残さず、整然とした後退だ。
その様を見たベテランのドイツ指揮官は格下と見下していたポーランド軍の練度を理解し、この戦役が面倒くさいモノになる予感を抱く程であった。
ポーランドの
――イタリア
未回収のイタリアへと公然と戦力を
とは言え拙速に兵を動かしては、戦後に
それ故に、ドイツのバルカン半島侵略への対応と言う理論武装を行った。
又、国民に対しては大団結したイタリアの男気を見せる時であるとも強く宣伝した。
これは、近代国家としてイタリアが、国家への国民の帰属意識に弱い所を抱えるが故の行動だった。
ある種、都市国家の連合体的な意識をイタリア国民は持っており、それ故に国外での作戦行動に対して将兵の戦意と言うものが微妙な部分があるのだ。
その是非は兎も角として、それでは攻勢が主となるドイツとの戦争は覚束ない。
イタリアに来た
イタリアが余裕を持って戦争体制への移行を行えるのは、ドイツがバルカン半島からイタリアまでの地域では守勢としていた事が大きかった。
既にバルカン半島からの富の収奪をドイツは終えていた。
だからこそ、戦争中のわずかばかりの時間、イタリアが
議決前にソ連はドイツ駐ソ連大使に対して国際連盟内での自国の行動を説明し、国際連盟に加盟し続ける事、そして軍事的なオプションは選択しない事を通達している。
ソ連側からすれば随分と
当然だろう。
ドイツとしてはソ連は最低でも中立、或いは対ポーランドと限定した参戦を想定していたのだから。
戦争となれば、と言う前提で。
そしてドイツは総統たるヒトラーのみならず政府要人たちは皆、オランダへの
国際社会で孤立し、外交による国際連盟加盟国の
一縷の望みを掛けて、ドイツ大使は尋ねた。
日本が反対してくれるのではないか、と。
駐ソ連大使は、この数年、ソ連に赴任し続けていた。
それ故にドイツ外務省の公式伝達にあった
無論、その様な話は無い。
ソ連の担当者は何とも言い難い顔で
ドイツ大使は慌てて大使館に戻り、急いで仔細を報告した。
オランダ侵攻が国際連盟との、G4との全面戦争に繋がると言う情報。
だが、全ては遅すぎた。
そして手続きに則って解凍され、報告された。
報告書が外務省の手からヒトラーの元へと届いたのは、ドイツ
独裁国家とは言っても企業家の意見が無視できる筈も無いにも拘わらず、経済に悪影響をもたらす労働力の収奪を実行できていた理由は、フランスであった。
1930年代後半からずっと、対ドイツ強硬姿勢を崩さず、暇があれば国境線地帯で軍事演習を欠かさない国、それがフランスだったのだ。
であれば、憎悪を受けるドイツが多少なりと経済に悪影響が出ようとも国防力の増強に積極的となるのも仕方の無い話であった。
この伊国人の様に過去への干渉を図る人間は、様々な理由や信念を持って日本を離脱し、過去の祖国へと渡っていた。
だがその大多数は、各自の祖国に渡る前に日本の海の荒波に消えた。
そして極々少数の人間が命からがらに過去の祖国へと渡る事に成功したが、殆どが強い影響力を発揮できる事は無かった。
ある種、発作的な
それでも有能であれば話は別であったが、その様な短慮で情熱に浮かれた人間が有能に見えるかと言えば中々に難しいのが現実だった。
ある種、狂人じみた部分が見えるからだ。
であれば、元から居る、身元も判り、政治的にも問題は無く、又、日本のスパイと言う危険性の無い人間が優先されるのが当たり前であった。
重用されないならまだマシで、ソ連の様な国家ではスパイの可能性と言うだけで処分されていた。
それでも一応は情報を齎してはいたのだが、
又、持ち出せた情報量の問題もあった。
大量の情報を流出可能な電子媒体は、その理由を問わず持ち出す事は出来なかった。
押収される際などに私物だから、個人の権利だからという様な主張をし抵抗を行う者も居たが、頑として受け入れられる事は無かった。
マスコミに伝えて政治問題化しようとしても、出来なかった。
誰もが一様に「非常時だから仕方がない」と言って取り合わなかったのだ。
それは非常時に際した日本/日本人が無意識に行う、非合理すらも是とする強権性の容認 ―― 法の恣意的運用すらも含まれた、種の存続と生命維持を最優先とした
兎も角、電子情報での持ち出しが不可能ならば本等と言う形もあったが、此方は有体に言って
かくして、このイタリアに渡った人間は、それらの貴重な例外であった。
尚、日本の同盟国たるG4への情報の流出はある程度、容認されていた。
過度に取り締まる事で日本への反発を醸成したくないと言うのが一つ。
そしてもう一つは、科学力や工業基盤の無い所に先進的な情報を与えた所で意味が無いと言うのが大きかった。
1543年の種子島で、高性能だからとグロック拳銃を渡しても再現出来無いのと一緒で。
再現したいのであれば日本から部品を、或いは完成品を輸入しなければならず、更には輸入した結果が良ければ更に輸入したくなる ―― 日本に依存する事となる。
日本の生存戦略は、ある意味に於いて誠に悪辣とも言えた。
アメリカは
フランスはドイツを殴れるならどうでも良かった。
ブリテンは他の二か国を見て諦めて受け入れていた。
2021/04/09 文章修正