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フランスのドイツ本土進攻作戦が失敗に終わった影響は、決して小さいモノでは無かった。
国際連盟が公式にドイツへ宣戦布告を行って約1ヶ月。
その間に構築された戦線は4つあるのだが、その全てに影響を与えていた。
ポーランドとドイツが正面から殴り合い続けている東部戦線。
フランスが後退する事となった西部戦線。
イタリアがバルカン半島を抑えつつある南部戦線。
オランダ防衛に成功しつつある北部戦線。
戦争の流れが変わる事となる。
――東部戦線
ポーランド戦線は、頑強なポーランド軍の抵抗によってドイツ軍は前進こそ継続できていたものの、衝突力と呼べるべき力強さは喪失していた。
ポーランド軍が退くからこそ進めている。
当のドイツ軍 ―― 東方総軍司令部ですら、そう認識していた。
その最大の原因は空であった。
東方総軍の前進を支えた空からの支援、ドイツ空軍航空隊が航空優勢を握った事で行えていた自由な
この原因は、
ドイツ空軍はポーランド航空部隊の戦力を見た上で決断を行ったのだが、それに前後する形で国際連盟支援部隊、フィンランド軍航空部隊が展開した事で
日本からの支援によって長足の進歩を遂げたフィンランド空軍であったが、その数的な主力はレシプロ戦闘機であった。
とは言えドイツ空軍が甘く見れる相手では無い。
日本製のF-6戦闘機、その最新型であるD型 ―― 1000馬力級エンジンからより大出力の2200馬力級エンジンへと換装した多用途戦闘機モデルであったからだ。
重量が4割近く増大した大馬力エンジンはそれ故に大きくあり、エンジンのカウリングが歪に拡大している。
重量増と空力特性の悪化を招いたモデルであったが、その馬鹿馬鹿しい程の馬力増大が問題をねじ伏せていた。
流石に、最新の第2世代型ジェット戦闘機に対抗するのは難しいが、それら最新のジェット戦闘機部隊は西部戦線に引き抜かれて不在となったのだ。
戦いの天秤が傾くのも当然の話であった。
外見故に、空飛ぶ不格好等と言う不名誉なあだ名を頂戴したF-6D戦闘機であったが、黄昏を迎えたレシプロ戦闘機の時代に於いて、最後の輝きを見せる事となる。
そもそもドイツは
この為、レシプロ戦闘機の性能向上などをなおざりにしていたのだ。
多少の改修などは行われても、抜本的な強化は行われていない。
この為、2線級の部隊が装備する1000馬力級エンジンの、1930年代後半に開発製造された機体では、F-6D戦闘機への対抗は難しかった。
果たして、フィンランド航空部隊がポーランドに展開して1週間も経ずに、ポーランドの航空優勢は国際連盟側のものとなる。
結局、
ポーランド空軍の戦闘機が、ごく少数のF-10戦闘機以外はブリテンやフランスが製造販売していた1000馬力級エンジンの旧式化したレシプロ戦闘機であった事が理由としてあったとは言え、何ともお粗末な話であった。
とは言え、当初はドイツ空軍側は大きな問題と見ていなかった。
何故ならポーランド空軍やフィンランド航空部隊の大多数は制空戦闘機であり、ドイツ空軍の様な対地攻撃機、急降下爆撃機は余り保有していなかったからだ。
甘い見通しがひっくり返るのは、ドイツ側の航空優勢喪失から1週間も必要としなかった。
空の脅威が消えた事で、ポーランド陸軍が
それまで厳重に温存し、運用するにしても小規模で行っていた野砲の投入を大規模に、そして集中的に運用しだしたのだ。
元々の国土防衛計画としてもポーランド陸軍は地積の活用は重要視していた。
空間を防壁とする為にドイツ国境線から戦線をポーランド国内へと引きずり込んで、ドイツ空軍機の活動が低下した時を狙って大反抗、守勢攻撃に出る予定であったのだ。
増大した国力を注ぎ込み営々と作り上げてきたポーランド陸軍野砲部隊の規模は、ドイツ陸軍のソレを遥かに上回っていた。*2
野砲だけでは無い。
対地ロケット部隊も大量に用意していた。
その最初の獲物は、東プロイセンより南下してきているドイツ東方総軍の北部軍集団の15個師団であった。
歩兵師団を主力として編成されている北部軍集団は、ドイツ東方総軍司令部にとっては助攻であった。
同時に、バルト三国などの国際連盟加盟国へのけん制も兼ねていた。
ある意味で
歩兵師団と同数のポーランド軍砲兵師団 ―― 第1ポーランド砲兵軍集団による猛射は、北部軍集団の甘い未来予想図と一緒に、多くの将兵を消し飛ばした。
特に凶悪だったのは反撃部隊に先行して偵察を行っていた軽装騎兵、浸透偵察部隊であった。
自衛用のピストルを右手に左手は手綱を。
胸からは双眼鏡を下げ、そしてコンパクト大出力な日本製の通信機を背負っただけの彼らは、極々少数の集団で秘密裏に北部軍集団の前衛に居た第48軍の後方へと迂回侵入し、軍および師団司令部その他の重要部隊の位置を調べ上げたのだ。
その情報あればこそ、第48軍への砲撃が極めつけに効果的に行われたのだ。
更には、準備砲撃で混乱した所へ戦車部隊が強襲した。
事前偵察によって師団と師団の隣接点を突く形で突破し、そのまま後方をかく乱。
混乱し果てた所に歩兵師団が前進し、排除に掛かる。
幾度も行っていた演習の成果が発揮され、瞬時と呼べる程の短さで壊乱する第48軍。
そして第48軍の壊乱、その混乱の波及を受ける形で、隣接していた第47軍も混乱する。
そしてポーランド軍の別動部隊が、その後方へと侵入し包囲に掛かった。
熟練の指揮官に率いられていた第47軍は混乱下での現有地点の維持は困難であると判断し、被害を限定させる為、後退を決断した。
問題は、その後方にすらポーランド軍が浸透制圧を掛けていると言う事だった。
最終的にポーランド軍内に孤立した第47軍は降伏する事となる。
第48軍が壊滅し、第47軍が包囲された事によって、北部軍集団は主要部隊の7割を失った。
この為、北部軍集団司令部は東プロイセン防衛の為として後退を決断する。
既に北部軍集団司令部最後の手駒である第71軍も練度と装備共に優秀なポーランド軍
北部軍集団に本来要求されていた事 ―― 自由ダンツィヒの回復とポーランドの海の玄関口の掌握、そしてバルト三国に対するけん制を思えば、ある意味で正しい選択でもあった。
1個師団に対し、進軍してくるポーランド軍への抵抗と、後退してくる第48軍や第47軍の残余を吸収する様に命じ、全力で後退していた。
この殿の1個師団が生還できた理由は、ポーランド軍歩兵師団による圧力 ―― 攻撃こそ受けても、戦車を先頭にした大規模な強襲を受けなかったと言うのが大きい。
これは、ポーランド軍による攻撃が北部軍集団の後退、そして東プロイセンまで追い込んで無力化することが目的であったからだ。
見事に目的を達成したポーランド軍。
これで北部からの圧力から解放されたポーランド軍は、ドイツ
――西部戦線
フランスとの陸軍大国同士の真っ向からの殴り合いに関して言えば、ドイツ軍が
インフラの破壊だ。
橋を落とし道路を崩す。
道路以外にはそこかしこに地雷まで埋設すると言う念の入れよう。
その余りの酷さは、フランス軍参謀本部が後退する各部隊に対して戦車や装甲車などの装軌車両以外の車両の放棄を必要な場合に於いて許可するという程である辺り、状況の酷さが見て取れていた。
その装軌車両であるが燃費の悪さが災いし、ドイツ軍の追撃を逃れる為に放棄せざるを得ない事態が度々、発生していた。
後退 ―― 事実上の敗走なのだ。
後衛部隊への燃料弾薬の補給が通常通りに行える筈が無かった。
最初は丁寧にエンジンや主砲などを爆砕してもいたのだが、後退が続く中ではそれも難しくなる。
そもそも、後衛戦闘の最中の戦車などの放棄となれば敵の眼前なのだ。
そんな事をする余裕が無い状況も多々発生すると言うものであった。
少なくない量の戦車、装甲車をドイツ軍は手に入れる事となる。
これに遺棄されたトラック等の装輪車両が加わり、更には食料や燃料、果てはワインなどのアルコールが加わるのだ。
ドイツ軍将兵はフランス軍の遺棄物資を
問題は、それらを得た事による進軍速度の低下であった。
インフラを破壊し尽くした状況での追撃戦自体は想定通りであり、事前に用意していた特別部隊 ―― 機械化工兵部隊も十分に活躍していた。
だが、前衛となって前進していた部隊が、この戦地特配を自部隊のものとして独占的に確保しようとしたのだ。
別段、個人的な分け前を欲したと言う理由では無い。
只、それまでの戦いでフランス軍の装備の優秀さを理解したが為、わき目もふらずに前進するよりも、少しでも戦地特配を確保し、戦力の増強を図ろうとしたのだ。
ある意味で正しく、ある意味で間違った選択。
その結果、ドイツへ侵攻していたフランス軍は壊乱を避ける事が出来たのだった。
仕切り直しの様な様相を呈している
問題はドイツの中に孤立し、包囲されたアルザス・ロレーヌ総軍であった。
マインツ市、マインツ要塞の一部を掌握出来ていた為、雨露を凌ぎ、ある程度の防衛体制の構築には成功していたが、それでもドイツ軍の重包囲下にあると言うプレッシャーは大きかった。
30万を超える将兵は辛抱強く友軍による解囲を待つ事となる。
そしてフランス本土でも、このアルザス・ロレーヌ総軍の解放は重大な政治的案件となった。
万難を排して解放せよと、フランスの大統領は陸軍に対して厳命する事となる。
だが、命令されたからと言って簡単に出来る話では無かった。
戦力自体はある。
壊滅した第4軍集団は兎も角として、ほぼ無傷で後退してきた第7戦車軍集団や第9軍集団はすぐさまに再出撃が可能だからだ。
問題は解放部隊の進軍路であった。
道はあった。
行動計画自体は確としたものが既に用意されていた。
採用されなかった理由、ライン川流域を介した侵攻ルートが選ばれた理由は、何か大きな問題があったからではない。
そこにライン川があるからであった。
補給などでライン川の水運を用いる事が重視された結果だった。
問題は、ドイツによる自爆的インフラ破壊戦術だった。
航空偵察によって、このザールラント地方を介した侵攻ルートでも相当な道路などの破壊が行われているのは判明している為、埋設されている事が予想される地雷や残置爆薬の問題があったのだ。
故に、
日本に。
フランス独力でも道路の復旧や地雷除去は可能である。
だが、それがアルザス・ロレーヌ総軍を救うのに間に合うかは別問題であった。
だから日本だった。
フランスとの契約に基づいて、WWⅠの
高度に機械化され、自動化されている第1装甲施設団であれば、道路の回復と地雷や残置爆薬の除去まで同時に行う事が出来る、そう考えての事であった。
実際、21世紀型の非対称戦争への訓練として、地雷やIED対策用の機材も持ち込んでいた第1装甲施設団であれば、そう難しい任務では無かった。
とは言え、日本は即答しなかった。
問題が1つ、あったのだ。
フランスとドイツが真っ向から衝突する現場へ、フランス軍の指揮下で入ると言う。
友軍としてフランスを信用してはいる日本であったが、自国の将兵の命が係わる問題である為、軽々しい返答は出来なかったのだ。
数日の折衝の結果、護衛としてフランス陸軍1個機甲師団が、第1装甲施設団の指揮下に入ると言う事で決着が付く事となる。
フランス陸軍部隊が他国の指揮下に入るのは前代未聞の事であったが、それだけ、アルザス・ロレーヌ総軍の解放と言うのは政治的な重さを持っていたのだ。
尚、これに伴って第1装甲施設団の団長は、この任務期間は
そして指揮下に入るフランス機甲師団の師団長、及び幕僚団は臨時に1階級下の階級を帯びる事となる。*3
非常時の指揮権の明確化の為の措置であった。
それ程に、フランスはアルザス・ロレーヌ総軍の救助を望んだのだった。
カレリア地峡紛争の終結後、日本はソ連への牽制を主目的としてフィンランドとの間に
日本にとってソ連は、日本連邦とシベリア共和国を安定させる上で必要不可欠な
だからこそ、日本はフィンランドを支援するのだ。
やぶれかぶれとなったソ連政府が乾坤一擲の大博打、対日宣戦布告など出来ない様にバランスを取ろうとしたのだ。
程よい形での左右からの圧力。
少なくとも日本人はそう考えていた。
戦闘機や戦車、野砲にトラックなどの友好国価格での提供と、共同軍事演習も行った。
日本の支援の詳細を知ったスターリンは休肝日を設定し、それ以外の日は夜遅くまで痛飲する様になった。
ドイツ陸軍は主敵をフランスと定め、その準備に邁進していた事が、このポーランド陸軍との野砲戦力の圧倒的な格差に繋がっていた。
ドイツ陸軍はドイツの砲生産能力を、野砲よりも対戦車砲を量産する事に注いでいたのだから。
フランスが呆れる程に鹵獲した、後退するたびにドイツが陣地に放棄していった対戦車砲の理由であった。
この日本フランス合同部隊に於ける階級章問題は、その後の国際連盟での合同軍事行動などの際にも、少なからぬ尾を引く事となる。
それは、自衛隊の将官の階級の少なさである。
日本連邦統合軍だけで動く時代は簡単であったが、国際連盟として動くとなればそういう訳にもいかない。
後に日本政府は、将官の階級を再編成する事となる。
但し、日本だけで行うのではなく、G4及び国際連盟加盟国間での合同作戦に向けた再編成としての整理統廃合であった。
2021.06.14 文章修正