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イタリアにとって
イタリアはG4との貿易によって繁栄を謳歌しているのだ。
イギリスやフランスに売る資源も出なければ、日本に売れる工芸品の類も政情不安から安定して生産できない土地など、有体に言って不良資産でしかないのだ。
国内の安定と経済の繁栄によって国民からの圧倒的な支持を得ているムッソリーニは、領土の拡張による支持集めなど不要であるとも言えた。
では、対ドイツ戦線はどうかと言えば、此方も、正直な話として乗り気には成れなかった。
ドイツ軍が恐ろしいと言う訳では無い。
重戦車の類に関して言えば劣勢ではあったが、中戦車では互角と言う自負があった。
国産戦車の開発配備を行うと共に、
イタリア単独でドイツと戦争をするのは難しくとも、国際連盟の一員として戦うのであれば全くの不足は無かった。
だが、政治的に言えば別となる。
対ドイツ戦争を渇望していたフランスが居るのだ。
ドイツと言う国家を解体したいと虎視眈々と狙っているフランスが居るのだ。
そんなフランスが居る戦争で積極的に活動し、活躍し、睨まれては堪らない。
そうムッソリーニは考えていた。
あくまでもイタリアは国際連盟の善意ある加盟国であり、G4の忠良なる友好国であり、なによりもフランスの善良なる隣国 ―― そのスタンスを崩す訳にはいかないのだから。
その為にムッソリーニは、フランスに対しては別個で特任連絡武官を派遣し、国際連盟の枠の中でフランスの要請を
フランス一強の時代のヨーロッパ大陸で生き残り方を考えての事であった。
かの如く、気は使うが戦争の正面に立つつもりのないイタリアは、ある意味で気楽な形で戦争に臨んでいた。
その目論見が潰えたのは、無論、フランスのドイツ侵攻作戦の敗北によってだった。
――フランス - イタリア交渉
フランスはドイツ領内に孤立しているアルザス・ロレーヌ総軍救出の為の助攻をイタリアに要求する事となる。
できるだけ早く、できるだけ大規模に。
可能であればマインツ市近郊まで突進して、解囲し、救出してくれても構わない。
そこまでフランスは言い切っていた。
対価として、
フランスとしては大盤振る舞いという積りの話であった。
だがイタリアからすれば、簡単に言うなと言う話であった。
基本として守勢防御であり、必要であれば攻撃も行うと言うスタンスで戦争準備を行ってきたのがイタリア陸軍なのだ。
物資の備蓄も、備蓄した物資の配送計画も、全てが国内が基本となっていたのだ。
この体制を攻勢攻撃に切り替えるのは一朝一夕にできる事では無かった。
特にイタリア陸軍は予算を正面装備に偏重し、その対価として後方部隊の自動車化などが殆ど行えていなかったのだ。*1
フランスの要求に即答出来ないのも当然であった。
フランスの反発を買わぬようイタリアは、自身の弱点とも言える後方段列の貧弱さを明け透けに説明していた。
現在の体制では100㎞や200㎞は前進出来たとしても、とてもでは無いがマインツ市まで戦力として部隊を到達させる事は難しい。
恐らくはボーデン湖近郊まで押し上げる事が精々であると言い切った。
そもそも、南方からのマインツ市を目指す場合、ドイツですらも移動に難儀をする程にインフラが破壊されたライン川周辺を通る事となるのだ。
冷静に考えて、簡単な話では無かった。
とは言え、互いの立場の差故に、フランスの要求を全却下する事はイタリアには難しい。
故に、多少の時間を貰い、助攻を行う事は可能であるとして交渉する事となる。
ある種、緊張感をもって交渉に臨んでいたイタリアに対してフランスの本音としては、マインツ市解放と言う目標は駄目で元々、可能であれば程度の腹積もりであった。
自軍が苦戦したドイツ陸軍をイタリア陸軍が排除しマインツ市へと打通する事は難しいだろうとの、ある種の見下しがあったのだから。
フランスの真の目的は、イタリア軍のドイツ本国への攻撃であった。
本命である日本フランス合同部隊による解放作戦に向けた囮 ―― ドイツ軍の予備戦力を
それ故に、イタリアとしてはあっさりとした形で要望が通る事となった。
通ったからには行わねばならない。
イタリア軍ドイツ侵攻作戦
――フランス
主攻である日本との合同軍と助攻であるイタリア軍。
解放作戦自体の実行が決定しても、それまでの間、決してフランスは余裕をもって準備が行えた訳では無い。
アルザス地方からの突破を図ってくるドイツ軍への応戦、予備部隊の早期の戦力化、そして何よりもマインツ市のアルザス・ロレーヌ総軍への支援があった。
解放部隊が到着するまで抗戦できるように、武器弾薬食料を補給し続けねばならぬのだ。
その手段は空であった。
輸送機による
フランスが保有する輸送機、そして爆撃機にまで物資を満載し、マインツ市へと運び込むのだ。
とは言え、規模が足りない。
30万を超える将兵が必要とする量を届けるには機体数が圧倒的に足りなかった。
それ故にフランスはブリテンやイタリア、そして日本にまで輸送機の融通を願う事となる。
否、輸送機だけでは無い。
マインツ市へと輸送機と爆撃機を流し込む、空中回廊を確保する為の戦闘機部隊も欲したのだ。
ヨーロッパ西部戦線での航空戦の天秤は、この時点ですでにフランス側に傾いては居たが、それは、鈍足な輸送機が安全に飛べる空であると言う事と等しい訳では無かった。
ドイツ領内の航空基地破壊を図るフランス軍爆撃機部隊は少なからぬ被害を受け続けていたのだから。
そして、マインツ市への物資空輸 ―― 空中回廊の保全に限っても同じ事であった。
甚大な被害が出る訳では無い。
だが、決して無視できる規模の被害では無かった。
又、この空中回廊の護衛行動は、フランスの戦闘機部隊から行動の自由を奪う事となり、それまでの航空優勢確保戦に比べて段違いに大きな被害が発生する事と繋がっていた。
それ故の戦闘機部隊の増派要請であった。
国際連盟安全保障理事会戦争補完委員会を介して行われた要請に、ブリテンとイタリアが応じる事となる。
ブリテンはオランダ方面に投入する事の難しい、ブリテン本島内で無聊をかこっていた足の短いジェット戦闘機部隊を派遣する事を約束した。
イタリアは余裕の少ない中であったが、フランスへと阿る為に戦力の派遣を受け入れたのだ。
この他、アメリカも支援に応じる事は述べて居た。
とは言え、如何せん戦力の移動が大変である為、フランスが必要とする
3ヵ国の航空部隊によって生み出された
最初は、マインツ市に空港設備が無かった為に空中投下が主であった。
だがそれでは効率が悪かった。
投下による破損、損耗は結構な割合に上るからだ。
故に、野戦空港が作られる事となる。
日本が投入したC-2輸送機で強行着陸を行い、急造用の鉄板や各資材や建築機材を持ち込んで野戦空港を造成する事とした。
非常造成作戦、
この時代の輸送機や爆撃機などとは比較にならぬ、30tを優に超えるC-2輸送機の輸送力を背景にした力技であった。
C-2輸送機の速度と不整地着陸能力あればこそとも言えた。
とは言え、着陸先の下調べも殆ど出来ぬままに投入する事となるC-2輸送機に関して、日本は全損 ―― 廃棄すら覚悟していた。
ハイリスクな作戦。
だが、フランスにとってアルザス・ロレーヌ総軍が全て失われるリスクを理解するが故に、日本はヨーロッパに持ち込んでいた全てのC-2輸送機、20余機あまりを投入した。
その護衛に、日本はオランダの防空から戦闘機部隊を抽出し、護衛に付けた。
又、温存していた爆撃機と
通常弾頭であるので復旧自体はそう難しくは無いが、如何せん
更には、復旧作業中にも日本はブリテン空軍と共に
一夜城作戦は、対ドイツ戦争前半における最大規模の航空作戦となった。*2
――ドイツ
突如として国内西部域で始まった未来的な航空戦は、ドイツ空軍に手痛い被害を与える事となった。
前線の航空基地が片っ端から機能を喪失していくのだ。
幸い、厳重な隠ぺいが行われている格納庫や燃料弾薬庫への被害は少なかったが、滑走路を破壊されてしまえば戦闘機が飛べる筈も無かった。
これでは抵抗しろと言うのが難しかった。
ドイツとて手をこまねいていた訳でも無く、垂直発射型の極極地防空戦闘機などの開発を行ってはいたが、この1944年の時点ではまだ技術実験の段階であった。
ドイツの航空関連資材と人材とが、真っ当な戦闘機 ―― 第2世代型ジェット戦闘機と空対空誘導弾の開発に集中していたのだから仕方の無い話であった。
又、そもそも、1930年代からのユダヤ系を筆頭とした頭脳流出がドイツの工業分野での力を奪っていたと言う側面も大きかった。
図面をひける研究開発者は居ても、図面を具体化する技術者のレベルで人材が深刻な枯渇を起こしていたのだ。
これでは如何にヒトラーが声を張り上げても、或いは空軍大元帥が脅しても、開発がスケジュール通りに成される筈も無かった。
無い袖は振れぬのだから。
現実を把握したヒトラーは痛飲した。
このまま
そして戦争で負ける、そう直感したのだ。
この為、戦局を挽回させる事を目標として、フランス国内への早期侵出 ―― 守勢攻撃をドイツ陸軍に対して厳命する事となる。
慌てたのはドイツ陸軍である。
確かにフランス国内への侵攻作戦自体は準備中であったが、ドイツ-フランス間の物流インフラの回復が成されていないのだ。
各部隊は手持ちの物資だけでは、撤退したフランス軍の遺棄物資を回収しているとは言え各部隊は1週間と戦えない。
これでは負ける為に戦う様なものだと言うのが認識であった。
後1月、せめてそれだけの準備期間が必要と言うのが、西方総軍と国防軍最高司令部の判断であった。
だが、その主張にヒトラーは首を縦に振らなかった。
それでは遅すぎると感じたのだ。
国際連盟軍 ―― ドイツ空軍からの報告によって、西部戦線に投入されているのがフランスのみならず日本、ブリテンやイタリアが居る事を認識したヒトラーは、これが一時的な攻撃ではない、一大攻勢の前触れであると認識していたのだ。
西方総軍と国防軍最高司令部からの使者、将官を前に
その上で、ドイツの生存の為に西方総軍をすり潰しても構わぬとすら断言していた。
目的は
ここまで言われてしまえば、ドイツ陸軍に抵抗する術は無かった。
とは言え全くの無準備で出来る話では無い為、1週間だけ猶予を貰い、その上でフランス本土侵攻作戦
――イタリア
フランスからの
ドイツ側も、まさかイタリアが攻勢に出てくるとは想像していなかったのだ。
イタリア如きがドイツに積極的に歯向かってくる事は無い。
そんな、ある種の傲慢さが生んだ隙をイタリアの切っ先が突いた形であった。
ドイツの前線部隊を蹂躙し、1日だけで20㎞に迫る距離を押し込む事に成功したイタリアであったが、調子に乗る事は無かった。
雷総軍司令部もイタリア陸軍上層部も、そしてムッソリーニも、無理をする積りは一切無かったのだから。
戦後を見据えた、フランスに阿る作戦ではあるが、その程度の為にイタリア男子の血が流れる事を良しとする程に、フランスに
それどころかブリテンへの接触を強め、交渉を重ねていた。
ムッソリーニが、ブリテンと言う国家がヨーロッパ大陸に団結した勢力が出来上がる事を望まないであろうと言う事を正確に把握しての行動であった。
将来のヨーロッパで獅子身中の虫となる対価として、ブリテンの協力を要求する ―― それが狙いであった。
外交こそが、この戦争の時代における政治家の戦場であった。
イタリアとてこの弱点を看過していた訳では無く、ドイツとの戦争が勃発して以降は日本からMLシリーズの導入を図り改善を目指してはいた。
だが、如何せんこの時点では発注合意書が日本の工場に届くか届かないかと言う状況であり、物資の輸送は文字通りの馬車頼りと言う有様であった。
それでも国内であれば鉄道インフラを利用する事で、機械化部隊が必要とする燃料その他を前線へと送る体制が整えられてはいた。
本作戦まで日本が爆撃部隊の投入を
電波情報は勿論、爆弾の威力も又、ドイツ側が日本の爆撃に対応しようとする際には重要となってくるからだ。
とは言え、この時点でフランスがドイツに万が一にも折れてしまった場合、戦争計画自体が1から組みなおしになり、掛かる予算の桁が上がる危険性がある為、軍事的な要請よりも政治側の要請に基づいて、ドイツ領内への爆撃作戦は実行されたのだった。
尚、フランス政府がドイツに折れる可能性に関して日本政府は、極めて低いと判断していた。
だが、フランスも民主主義国家である以上、民意が折れてしまえば政府が抵抗する事は難しいとも判断していた。