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戦争が始まって2ヶ月が経過しようとしている今現在、ドイツ海軍は積極的な作戦行動が行えなくなっていた。
カテガット海峡辺りまでは進出も出来るが、そこから先は地獄と同義であった。
デンマークに展開したブリテンの哨戒機がスカゲラック海峡の空を自由に飛び回り、ドイツ海軍艦艇が進出しようものなら、ブリテン艦隊が舌なめずりをしながら殴り込みに来るのだ。
例え、装甲艦の1隻であっても、キングジョージⅤ級戦艦など複数の戦艦からなる洋上打撃部隊を放り込んでくる容赦の無さであった。
水上艦同士の殴り合いなど、これが最後であろうからとの判断あればこその行動だ。
ブリテンの艦長たちは、史上最後の水上砲撃戦で敵艦を沈めたと言う称号を欲していたのだ。
最近はそこにフランス艦隊も加わる様になっており、如何にドイツ海軍が自らを大洋艦隊などと号していても、簡単に対抗できるものでは無かった。
せめてブリテンの哨戒機の自由行動を抑止出来ればもう少しは
既に4つの戦線を抱えている陸軍にとって、海軍の要求は正気の外側にあるモノだ。
特に、
この結果、ドイツ海軍が当座、存在を誇示できるのは開戦前に外洋へと展開していたごく一部に限られる事となる。
――ドイツ海軍
開戦時に外洋に出て居たドイツ海軍水上戦闘艦は、プロイセン装甲艦2隻と仮設巡洋艦1隻の3隻であった。
ドイツ海外領山東への定期便に護衛として付けられていた艦たちである。
ドイツ海軍上層部は、この3隻にドイツ近海へと戻るのではなく、外洋に在り続ける事を命じた。
民間貨客船に武装を施しただけの仮設巡洋艦は兎も角、基準排水量が2万tを超えるプロイセン級は一般的な巡洋艦 ―― 軍縮条約で定める所の重巡洋艦の基準をはるかに上回る水上戦闘艦である為、牽制任務に付けるのには最適であるとの判断であった。
国際連盟に従い、ドイツに対して宣戦布告を行った国はG4や列強以外も大量に含まれている為、それらの国々の船舶を襲い、海洋交易を阻害する事で国際連盟での反ドイツな空気を変えようと言う狙いもあった。
手早く、南大西洋-インド洋通商破壊作戦と作戦名が定められ、部隊名はモンスーン戦隊とされた。
問題は、開戦時には3隻は護衛するべき貨客船と共に帰路で大西洋へと入った辺りであった為、弾薬の類は兎も角として水や食糧、そして燃料が枯渇気味であると言う事だった。
この為、3隻は不足する物資の確保を目的に近くを航海していた一般貨客船を襲った。
奇しくも、最初の獲物とされたフネは、近づいてみれば艦尾に
戦争の原因国家のフネであると乗員一同が上から下まで勇躍して追尾、包囲、そして降伏させた。
流石に、乗組員は必要最低限度の食料と水を与えてから救命艇に乗せて追放する程度の理性は保っていたが、船舶の方は爆破処分をしていた。
尚、得られた食料や水はそう多いものでは無かったが、開戦劈頭から幸先が良いと将兵の士気は大いに上がる事となる。
それから1週間で3隻の獲物を得た。
フランスとブリテン、そしてブラジルの商船だった。
又、プロイセン級装甲艦にも仮設巡洋艦にも偵察用の水上機が搭載されていると言うのも大きかった。
ドイツ海軍は、連続的にアジアへの艦隊派遣が行われる様になると共に、艦載型水上機の能力強化と、母艦側の運用能力を強化していた。
これは1939年に行われた第1回目のチャイナ派遣時、
とは言え水上機である。
単発複葉機と言う古色蒼然としたモノから低翼単発機へと更新はしたが、空母艦載機の急速な進化の前では蟷螂の斧にも似た程度の話であった。
索敵は兎も角、艦上空での限定的な防空は難しいだろうとドイツ海軍も判断していた。
この為、プロイセン級装甲艦の後継には砲戦能力を強化した空母型通商破壊艦、乃至は空母機能を有した装甲艦の建造が妥当であると言う研究結果を纏める程であった。*2
ある意味で、事前の研究成果が生きる形となっていた。
――フランス
南大西洋でドイツの艦隊が暴れる。
その一報は、国際社会に衝撃を与えた。
戦艦でしか太刀打ちできぬ様な大型の装甲艦、それが2隻も居ると言うのだ。
一報が届くや否や、大騒動になる。
特にフランスは、顔を真っ青にした。
アフリカに派遣していた部隊の本土帰還を進めようとした矢先の事なのだから当然の話だろう。
この時点では対ドイツ侵攻作戦は順調に推移していたが、ドイツを広範に掌握するには人員が必要なのだ。
その意味で、ドイツ側の邪魔を赦す訳にはいかなかった。
とは言え簡単ではない。
1944年の時点でフランスは、ポスト条約型戦艦と言うべき新世代の高速戦艦を8隻用意出来ていた。
45,000tのアルザス級2隻と42,000tのガスコーニュ級3隻、37,000tのリシュリュー級3隻だ。
ガスコーニュ級以上の5隻は、ドイツ最大のビスマルク級戦艦とも1対1で正面から殴り合って勝てる大戦艦であり、フランスの建艦技術の華とも呼べる艨艟たちであった。
問題は
或いは、フランス海軍の規模的な問題とも言えた。
ビスマルク級戦艦とすら優位に戦え、プロイセン級装甲艦であれば一方的に潰せる戦艦は、たった5隻しかいない。
ビスマルク級戦艦を含むドイツ本国艦隊と対峙しつつ、広大な南大西洋で2隻のドイツモンスーン戦隊を追うのは不可能であった。
特に、南大西洋のプロイセン級装甲艦は厄介であった。
整備を進めているフランス最大の重巡洋艦、サン・ルイ級でも正面から対峙するのは余りにも危険な任務だ。
とは言え、南大西洋が重要なのはフランスだけではない。
ブリテン連邦の加盟国も多いのだ。
又、南アメリカ大陸は自分の国の裏側であると公言してはばからぬのがアメリカなのだ。
この大海軍国である2か国にとっても南大西洋が重要である以上、フランスが積極的に動かずとも何とかなる、するだろうと考えていたのだ。
フランスが追加で戦力は派遣せずとも、早々に解決するだろう。
そう思っていた。
実に甘い考えであった。
南アメリカ大陸大西洋岸国家にとっては大西洋海洋航路が使えなくなるのは死活問題であると言う視点が抜け落ちていたのだから。
何より、南アメリカ諸国は国際連盟加盟国として国際連盟総会での議決に応じ、対ドイツ戦争への
腰の引け気味だったフランスにも、
――国際連盟
ドイツの
又、インド洋、及び南太平洋に面した国々も、被害が波及して来られては堪らぬと、その声に同意していた。
この流れに、大西洋方面で最も海軍力を持ったブリテンとアメリカとが乗る形となり、日本も
主力となったのはアメリカとブリテンだ。
象徴的な戦力としてアイオワ級戦艦やキングジョージⅤ級戦艦の出撃が決められた。
フランスもガスコーニュ級戦艦を供出する事となった。
日本もきい型
だが、
アメリカ、ブリテン、フランスの都合5隻の空母が主力であった。
日本からの情報で知っては居るが、それとは別にして、航空機で大型艦を撃沈すると言う機会を、実証するチャンスを逃す積りは無かったのだ。
尚、国際連盟の総会ではG4以外の国々もドイツモンスーン戦隊の位置を捉える為、駆逐艦や巡洋艦を派遣する事を定めた。
主権国家として、自国の防衛に絡む所を他所の国に依存する事は政治的に問題であったからである。
各国から合わせて12隻の艦艇が捜索任務に就く事となった。
その中にはソ連の装甲艦
――モンスーン戦隊
国際連盟加盟国が全力で襲い来る、途切れがちなドイツ本土からの連絡でそれを知ったモンスーン戦隊司令部は絶望の中に沈んだ。
装甲艦2隻と仮設巡洋艦1隻しかない部隊への対応として過剰だと呆れてもいた。
この辺りはドイツが大陸国家であり、ドイツ海軍もまた陸式であった事が理由と言えるかもしれない。
海洋交易路に脅威を与えられた海洋国家の反応の過激さを想像出来なかった、とも言える。
兎も角として、護衛対象であった輸送船団の対応が問題となってくる。
ドイツ本国からの指示により、必要最小限度の水と食料だけを積んだ船団は、今は交戦国ともなった友邦国 ―― ソ連を頼る事となる。
無論、ソ連の信託統治領コンゴだ。
既に
公式には拿捕と言う扱いでコンゴの港湾に係留し、必要な経費や水食糧などは後払いとする事となっていた。
密約である。
この為、後顧の憂いを断てたモンスーン戦隊は全力で、逃げに走った。
目指したのはインド洋であった。
南下してくる高速戦艦群を避ける為でもあった。
モンスーン戦隊司令部は、国際連盟が全力で襲ってくる事が判明した時点で、作戦目的を通商破壊戦の実施から、部隊の保全に切り替えたのだ。
部隊が存続している限り、国際連盟は脅威を感じ続け、対処する為に艦隊を派遣し続けねばならない。
それが値千金の戦果である、との判断であった。
ある種、極めて
かくしてモンスーン戦隊は、南大西洋にて夏を迎える事となる。
ドイツは国際連盟との戦争が始まると共に、
これによって、3ヶ月で100万の兵を揃えられる予定であった。
問題は、装備は最新式とは言い難く、中堅指揮官や下士官は著しく不足していると言う事だろう。
近代的な陸軍とは全く以って言い難い戦力となる事は、既に予想されていた。
正直な話として、イタリアやポーランドを相手にするなら兎も角、フランスやブリテンを相手に優勢に戦おうとするのは不可能であろうと言うのがドイツの認識であった。
日本との戦闘に至っては、抵抗すら無駄であろうとも。
だが、戦闘を行う事によって相手の
全くの無駄と言う話では無かった。
ただ、この強引な動員によって労働人口を劇的に食い荒らされるドイツ連邦帝国加盟国の社会構造や経済に壊滅的な影響が発生しつつあった。
物資の生産や物流、果ては治安維持にまで甚大な影響が出て居た。
壮年までの男女が引き継ぎも儘ならぬままに、動員されていったのだ。
当然の話であった。
だがヒトラーは国家の滅亡よりも酷い事は無いと判断し、断固とした実行を命令していた。
尚、全く以って酷い話であるが、この無差別動員からドイツ本国は慎重に除外されていた。
ある程度の動員は行われているが、それは企業活動や物流への混乱を最小限度に抑える様に配慮された上での事であった。
建前としては、ドイツ連邦帝国の経済と軍事物資生産の健全性を維持する為。
本音としてはヒトラーとナチス党は、自分たちの支持者の機嫌を損ねる政策を行う事を嫌ったと言う事である。
プロイセン級装甲艦の後継として研究に着手された空母的な通商破壊艦であるが、これはE艦隊計画に於ける空母、1番艦がシークシュピッツェと命名された事でシークシュピッツェ級と命名された2万t級哨戒空母とは全く別の艦となる事が想定されていた。
シークシュピッツェ級は哨戒空母と類別されてはいるが、砲戦能力も重視しているグラーフ・ツェッペリン級に比べると空母機能のみを重視して設計されているのだから。
防空以上の目的を持った砲は装備せず、装甲も航空機からの経空攻撃手段への防御に限定されている。
これは複数のプロイセン級と艦隊を組んで運用する事が前提となっている事、そして建造費用と建造期間をできるだけ短縮しようと言う目的からの事であった。
高価で製造に手間のかかる装甲材を出来るだけ使用せず、艦内構造も出来るだけ簡素化していた。
その為、通商破壊戦を重視する一派からはシークシュピッツェ級は評価されず、次なる空母機能を持った通商破壊艦に繋がるのだ。