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ドイツ海軍の終焉。
ドイツの人々に衝撃を与え、ドイツと戦争の最中にある国家の人々に喝采を上げさせた。
だがドイツ海軍水上艦部隊の全てが喪われた訳ではなかった。
南大西洋にはまだ戦力が残っていた。
モンスーン戦隊。
南大西洋に嵐を齎している戦力集団である。
尤も、誰もが ―― 例えドイツ人であっても、モンスーン戦隊の存在が有力な存在であり続けるとは思っても居なかったが。
――モンスーン戦隊討伐艦隊群
スカゲラック海戦が、史上最大規模の水上砲戦によって決した結果、このモンスーン戦隊を追撃しているG4の各艦隊は1つの事を思う様になった。
それは、航空攻撃による1万t級を超える大型水上艦の撃沈である。
特に、
或いは恐怖とも言えた。
何故なら、本大戦に於ける主要な海戦は、政治的な要求もあって悉くが水上砲戦によって決していたが故の事である。
空母は、各海戦の中で大きな役割を果たせずにいた。
偵察力としては有用であるが、攻撃力としては今一つ ―― そう言う状況であった。
コレでは新しい海洋戦力を象徴する存在としての空母を印象付けられない。
実際、マスコミはその様な報道を行っていた。
軍事に詳しい人間であれば偵察の重要性も理解できるが、ごく普通の人間にとっては華々しい戦果こそが全てであった。
有権者に、そして有権者に阿る政治家に空母と言う存在の意義を伝えられない。
それはある種の恐怖であった。
日本
現在開発中の次世代艦載型ジェット戦闘機は
第3世代型戦闘機である。
当然ながらも、今現在の機体より更なる巨大化をする事が見えていた。
この為、将来的な空母は最低でも基準排水量で5万t規模でなければならないと言うのがアメリカとフランスの結論であった。
であれば空母は、戦艦よりも値段の張る装備になる。
特に艦載機の値段まで含めれば戦艦など比較にならぬ値段になるだろう。
ブリテンも、その結論に同意していた。
このドイツ戦争終結後に確実に行われであろう軍事予算の劇的な削減、軍事予算の平時体制への移行の中で
政治家と有権者が判る形で、空母は戦果を挙げねばならぬのだ。
結果、各国艦隊の空母は艦載機の結構な数を偵察に回す事となる。
――第1次ギニア湾海戦
日本、アメリカ、ブリテン、そしてフランスが追いかけているモンスーン戦隊。
それを最初に発見したのは、
空母は少ないが巡洋艦を大量に投入していたブリテンでも無かった。
神仏の加護、或いは意地なのか。
フランスの艦載攻撃機が、雲に隠れて南下していたモンスーン戦隊の3隻を発見したのだ。
尤も、残念ながらも発見したのが夕暮れであった為、その日のうちに本格的な航空攻撃を実施する事は叶わなかったが。
それが、アメリカに先手を奪われる結果に繋がる。
フランスの報告を傍受したアメリカ海軍部隊は、高速戦艦アイオワを旗艦とした水上砲戦部隊に対して全力で突っ込む様に命令したのだ。
空母による撃沈をアメリカ海軍部隊でも希求してはいたが、同時に、モンスーン戦隊の撃滅の功績も欲していた。
それ故にであった。
そもそも、アメリカ海軍部隊の指揮官は
将来性が残っている空母よりも、ドイツ戦争が時代の最終幕になるであろう戦艦に、有終の美を飾らせたいと思うのも、ある意味で当然の話であった。
かくして
ドイツ・モンスーン戦隊側も警戒はしていた。
発見されたのちには全力で避難しようとしていた。
燃料の消費を恐れぬ最大速力で、夜を徹しての全力で回避を図る。
だが、それが果たされる事は無かった。
運命はアメリカに微笑んだのだ。
朝焼けの中に浮かび上がるアメリカの水上砲戦部隊。
高速戦艦アイオワを先頭に、
これに、別働隊からデ・モイン級重巡洋艦も2隻が合流予定となっていた。
20,000t級の大型とは言え装甲艦2隻、それに仮設巡洋艦1隻が相手と考えれば、もはや過剰と言う言葉すら生温い対応であった。
この余りに苛烈な対応に、モンスーン戦隊司令官の戦意は正面からの抗戦は蟷螂の斧であると自覚した。
その上で、自らの乗る旗艦を囮として、隷下の2隻を退避させる事を即断した。
悲愴なる決断であった、勇躍、突進を図った。
問題は、アメリカ側がその意図を見誤ったと言う事であろうか。
アメリカの3隻は正面から殴り合う事を狙わず、モンスーン戦隊の退路を断つ事を狙っての航路を選んだのだ。
即ち、後退を図った2隻が真っ先に狙われる形となったのだ。
装甲の薄い仮設巡洋艦は、オーガスタの全自動化された8in.砲9門によって一方的に殴殺された。
そして装甲艦ヘッセンは、悲運な事にアイオワが最初に放った16in.砲が艦橋を直撃、その指揮系統を完全に奪ってしまったのだ。
しかも艦尾に発生した至近弾が舵及びスクリューを破壊。
こうなっては出来る事など無かった。
只、1つだけ幸運もあった。
降り続く16in.砲弾によって20,000tを超える船体が木の葉の様に揺れる中、ヘッセンの指揮権を臨時に継承した海軍中尉が
又、もう1つ幸運であったのは、アイオワの主砲 ―― 2番砲塔がこの時不調であった為、射撃を加えて来たのが1番砲塔の3門だけであったと言う事だろう。
万全な、
誠にもってヘッセンは幸運艦であった。
結果としてヘッセンと仮設巡洋艦を盾とする形となった旗艦、装甲艦ブランデンブルクは逃亡に成功する事となる。
グアムの12in.砲弾を6発も浴びながらも、煙突や機関部周りに被害が出なかったお陰で逃亡に成功する事となる。
――フランス海軍部隊
アメリカの交戦結果を知って、フランスの空母乗組員は上は艦長から下は水兵に至るまで、最初に相手を見つけたのはわが国であったのにと切歯扼腕といった有様になった。
故に必死になって発艦準備を進め、モンスーン戦隊で残るブランデンブルクが居ると想定される海域へと必殺の艦載機部隊を派遣する事となる。
とは言え、正確な海域は判明していない為、10機程のグループを作っての
何とも荒っぽく、そして攻撃力が低下しかねない作戦であるが、時間が掛かればアメリカやブリテンに先を越されかねないのだ。
他にやりようが無かった。
――ブリテン海軍部隊
一定の戦果を挙げたアメリカや、血を滾らせているフランスと比較して、ブリテンは比較的冷静であった。
これは、戦後の展望と言うモノをブリテン海軍が有していた事が理由であった。
軍縮は行われたとしても、ブリテン連邦の守護者としての役割から、過度な軍備削減は要求されないとの見通しがあったのだ。
この点に関して、ブリテン政府との間でもある程度の話は成されていた。
そもそも、広大な
戦艦や空母は敵対国を殴る為の道具ではあったが、ブリテン海軍にとって重要な海洋交易路の安全を守る上で優先されるモノは違う。
そう言う認識がブリテン海軍にはあったのだ。
又、ドイツ戦争が終われば当座、戦争の相手になりそうな国家は無いと言う判断も大きかった。
敵対的に動きそうな強国は、ソ連程度であろう。
だがソ連は陸軍国であり、対峙するのは国境を接している日本か、精々がフランスと言った程度なのだ。
これでは戦艦は勿論、大規模な空母とて必要性は極めて低いものとなる。
であれば国家国力を象徴させる為の戦艦と空母を残して後は削減する必要が出て来るだろう。
恐らくは空母と戦艦は、共にローテーションを考えても各2乃至4隻程度の保有に留まるだろう。
それよりは世界を管理する国家として、広域を巡る巡洋艦や、地方に配置する
そう判断しているが故にであった。
既に本戦争に於ける海軍の名誉は、北海にて十分に稼いでいるのだ。
であれば陸で大いに名誉を失ったフランスや、参戦したばかりで戦功を挙げていないアメリカに機会を譲ってやっても良い。
そんな鷹揚な気分でいたのだった。
尤も、鷹揚ではあっても、目の前に戦功の機会があれば確実に喰う積りでもあったが。
――アメリカ海軍部隊
水上砲戦による戦果はアメリカ海軍の士気を大いに高める事となった。
この上で空母艦載機による攻撃が成功すれば、この上の無い話である。
水上砲戦によって相手の位置も大体、把握しているのだ。
であれば捕捉し、撃沈するのは一番容易であろうと自認していた。
空母艦長は、世界初の戦果を挙げて来いと激を飛ばして、パイロット達を送り出した。
――日本海軍部隊
最終的にドイツが死ねば良いし、そもそも、この戦争の主役は自分たちでは無いとの認識で動いていた日本であった。
そもそも、傷ついた装甲艦を沈めた所で名誉などが得られるものかとの思いもあった。
だが、艦載型UAVによる水上艦撃沈と言う成果は、いまだ発生していない世界初であり、良い戦訓になるのではと認識してからの動きは早かった。
滞空時間を重視した為、プロペラ推進の機体が殆どであったが、UAVは昼夜を問わぬ作戦行動を可能としているのだ。
日本は深夜から爆装可能なUAVをありったけ、空に飛ばす事となる。
――装甲艦ブランデンブルク
近距離からの撃ち合いに終始したお陰で、機関部や喫水線下への深刻な被害を受ける事無く離脱に成功したブランデンブルクであったが、その運命を明るいモノだと認識して居る人間は誰も居なかった。
状況を理解しにくい一水兵であっても、ブランデンブルクの命運は尽きていると理解していた。
とは言え、
特に将校はその思いが強かった。
運命が決まっているとしても、まだ致命的な被害の出て居ない艦で降伏などしてしまえば、祖国に残っている家族は肩身の狭い思いをする ―― それどころか迫害されかねないと考えていた。
であれば、そのストレスが不名誉な事をした軍人の家族に向かわないと誰が言えるのか。
特に、将校の多くは
名誉に対する意識は極めて高いのだから。
低下する士気を補う為、艦長はヤケクソめいてアルコールの特配を行わせた。
同じころ、モンスーン戦隊司令部は1つの決断を下した。
ブランデンブルクをアフリカ大陸の沿岸に座礁させ、乗組員を上陸させようと言うのだ。
圧倒的な劣勢の洋上での戦いを捨て、祖国への献身を陸上で示そうというのだ。
無論、建前である。
艦を座礁させて陸へ逃れれば、少なくとも、無為に洋上で撃破されるよりは生き残れる将兵も出るだろう。
陸上で接敵すれば、拳銃なりで形ばかりの
極めて後ろ向きな判断とも言えた。
だが他に選択肢が無かった。
又、現在のブランデンブルクの居る場所から座礁できそうな浅瀬までは優に200㎞からの距離がある為、その行動案自体を考える事が1つの逃避であった。
そして、G4が放った航空攻撃は無慈悲に迫って来ていた。
――第2次ギニア湾海戦
歴史書に於いては、第1次ギニア湾海戦との時間的、距離的に近い為、纏めて語られる事の多い第2次ギニア湾海戦。
だが航空攻撃による大型水上艦撃沈と言う、海戦史に於ける
特に、一部の人間からは
フランスもアメリカもブリテンも、捜索からの攻撃となっている為に一度の空襲で襲い掛かる航空機は10機程度であった。
一度の攻撃力は低くても、それが五月雨的に続くのだ。
ブランデンブルクからすればたまったモノでは無かった。
しかも攻撃力自体は比較的低い為、いっそ白旗を挙げると言う事も出来ない有様であった。
この攻撃力の低さは、ある意味で時代性であった。
空母艦載機として第2世代型ジェット艦載攻撃機を運用しているG4各国であったが、兵装の進歩が艦載攻撃機の進化に追随出来ていない事が理由だ。
5年前までならば魚雷や急降下爆撃、或いは水平爆撃が予定されていた。
だが、艦載攻撃機のジェット化に伴った高速化によって、魚雷の運用が困難になった。
余りにも高速な状況から投下しては、魚雷が着水時の衝撃で損壊するからだ。
爆弾に関しても一緒だ。
従来的な手段での急降下爆撃を行うには、ジェット艦載攻撃機は余りにも高速であり過ぎていた。
どの国も航空機のジェットエンジン機化には国力の傾注を行ったが、その攻撃手段の発展には左程の意識を回していなかったのだ。
日本を真似ての
この為、代替案が開発されてはいた。
速度が問題であるならば、攻撃機からの分離後にグライダーで滑空減速させて着水、その後は音響誘導式の魚雷が自律的に攻撃すると言う、
元から複雑で高価格な魚雷を、更に複雑に、そして高価格に押し上げる兵器であったが、対艦誘導弾が完成するまでの繋ぎであれば仕方がないと各国は開発の努力をしていた。
だが、此方も現時点では完成していなかった。*1
結果、どの国も主要な攻撃手段が全長4m級の大型対艦ロケット弾と言う
ブランデンブルクの防空火器の射程外から放つ、無誘導の大型ロケット弾。
そんなモノが簡単に命中する事も無く、又、命中したとしても致命傷となる場所に簡単に届く筈も無かった。
被弾時の被害よりも、被弾後の、燃え残った推進剤によって発生した火災の方が厄介と言う有様であった。
結果として、ブランデンブルクは4度の空襲を大きな被害も無く乗り越える事となる。
アフリカ大陸の姿が見える所まで進む事の出来たブランデンブルク。
だが5度目の空襲、日本の放ったUAVによってその進路は阻まれる事となる。
日本はUAVによる哨戒と攻撃任務時向けの装備として中型の対戦車ミサイル《ATM-8》と、この時代の潜水艦を前提とした低価格コンパクト化した
31式魚雷は対潜、1000tにも満たないこの時代の潜水艦を撃破出来れば良いと言う事で、従来とは別次元のコンパクト化が追求された、重量が100㎏にも満たないミニ魚雷であった。
だが、その成形炸薬弾頭は簡単にブランデンブルクの垂直防御を食い破り、船体に内部に様々な被害を与えた。
無論、コンパクト化されている為、1発の威力は低い。
機関室にまで被害は殆ど出なかった。
だがそれが
更には、艦橋や煙突などを精密に狙ってくる対戦車ミサイルが降り注ぐのだ。
ブランデンブルクに出来る事など無かった。
最早浮いているだけと言う有様になったブランデンブルク。
そこに、止めを刺さんと襲い掛かったのはブリテンの航空隊であった。
既に抵抗力を喪失していたブランデンブルクは、白旗を掲げ、国際無線にて降伏を宣言する事となる。
こうして史上初の航空機による水上艦撃破
そしてその事が、各国に対艦兵器の開発を加速させる事に繋がる。
この問題に関して、日本製の対艦誘導弾の導入を主張する人間も居たし、日本政府としても売却自体は受け入れる旨を公表してはいた。
だが、日本製の対艦誘導弾なりを導入するには、艦載機の火器管制システム周りを日本製にせざる得なくなる。
その点が問題視されたのだった。
G4各国から見ても日本は大切な友好国であったが、独立国家としての気概を持っており、国防の根幹部分にまで預けようとする程に日本に寄りかかる積りは無かった。