タイムスリップ令和ジャパン   作:◆QgkJwfXtqk

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153 第2次世界大戦-20

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 国際連盟側の戦争方針に基づいて、攻勢が緩慢なものとなったドイツ戦争西部戦線。

 その様を指して、欧州の新聞紙(クオリティーペーパー)などは冬季自然休戦(ウィンター・ファニー)などと読んでいた。

 だが、対峙するドイツ側からすれば、どこが休戦なのかと言う状況であった。

 確かに、フランス軍や日本軍(日本連邦統合軍)を主力とする国際連盟軍はドイツ領内での積極的な占領域の拡大を図ってはいない。

 だが、空爆は継続され続けていた。

 戦略爆撃から戦術爆撃まで。

 戦略爆撃機がドイツの軍需工場から基地から、事前に分かっていた重要施設の悉くに爆弾の雨を降らせ続けた。

 戦術爆撃は、前線部隊のみならず日中は道路上を動くトラックや鉄道を狙い撃ちにし続けた。

 否、日中だけでは無い。

 日本が常に空に遊弋させている無人攻撃機QA-3*1が、夜間であっても攻撃を継続していた。

 これらの攻撃に際しては、民間向けと思しきモノを除くように配慮する事とされていたが、残念ながらも一定数の誤射は発生していた。

 尚、夜間に関しては、道路を走って居るモノは軍用であると判断し、コレを攻撃する旨を宣言していた。

 ドイツ軍もドイツの人々も、奪われた空を恨めし気に見上げ続ける事となる。

 ここまで一方的な情勢となった理由は、日本の投入したE-302(早期警戒管制機)*2E-50(地上監視管制機)*3の猛威があった。

 2種類の機体が持つ高精度なレーダーがドイツの航空機運用基盤を、それこそ仮設された野戦基地まで丸裸にし、そこを徹底的に爆撃してみせたのである。

 ドイツ空軍とて抵抗しなかった訳では無い。

 航空基地の分散、レーダーによる早期警戒と管制された迎撃の実施。

 対空火器の増設による自衛力の強化。

 果ては航空機を地上輸送する事までした。

 だが、そこまでの努力も、科学力の差が無慈悲に蹂躙する。

 航空基地も燃料集積所も、果ては航空機の製造工場までも無慈悲に焼かれていった。

 当然、レーダーサイトも含まれている。

 その上で日本は、軍事的必要性に因るとして、国際連盟安全保障理事会戦争補完委員会法務小委員会の了解の下、ドイツ各地の送電網を丁寧に焼いていた。

 ドイツは空に続いて夜も奪われつつあった。

 文明の終焉であり、闇夜の復権である。

 冬の寒さが厳しくなる中で陥った塗炭の苦しみは、ドイツ人のヒトラー/ナチス政権に対する急速な支持の低下を呼ぶ事となる。

 

 

――ポーランド

 西部戦線で行われている、インフラ破壊によるドイツ軍の活動低下処置は、この東部戦線で簡単に行えるものでは無かった。

 何故なら、戦場はポーランドの国内にあるからだ。

 インフラ破壊によって苦労するのは、ドイツ人では無くポーランド人となる。

 それはとても受け入れられるものでは無かった。

 故に、日本とブリテン、そしてアメリカはポーランドに潤沢な支援を行う事とした。

 日本は政治的な意味合いすら持つ有人航空機部隊、戦闘機に加えて地上攻撃機部隊をポーランドに配置した。

 併せて、地上誘導隊を派遣した。

 ポーランド陸軍部隊に同行し、地上攻撃部隊に対して詳細な目標伝達を伝達する事を仕事とする部隊だ。

 これにより戦力が入り乱れている状況であっても、効果的な(フレンドリーファイアを恐れぬ)攻撃が可能となった。

 ブリテンは、装備の融通に関して担っていた。

 国際連盟(G4)最大の重工業国家である日本がMLシリーズの増産と手配に忙殺されている事と、フランスが自国の陸軍装備拡張に工業力を消費していた事が理由であった。

 表向きの。

 ブリテンとしては、ここでポーランドと大規模な協力関係を構築する事で、戦後のヨーロッパ亜大陸での政治的影響力の確保を狙ったのだ。

 それは、ポーランドとて()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を読み切ったブリテンの冷静な判断があった。*4

時に戦車は凄い勢いでポーランドに送られる事となる。

クロムウェル巡航戦車やチャレンジャー重巡航戦車を筆頭に、ドイツのⅣ号以降の重戦車の相手は辛くとも、それ以前の戦車であれば一方的に殴殺可能な戦車群が4桁単位で送りつけられる事となる。

これは、この時点でブリテンが52t級の車体に20lb.砲を搭載した超ド級戦車、主力戦車としての第1世代型となるチャレンジャーⅡ戦車を開発し配備を進めていたが為であった。

主力戦車による統一(All MBT doctrine)をブリテン陸軍が採用した結果とも言えた。

結果として、ポーランド陸軍は1944年の時点でフランスやドイツには劣るものの、イタリア等とは比べ物にならない戦車の装備率を誇る事となる。

 特に各種の巡航戦車は、その快速ぶりもあって偵察部隊で大いに活躍する事と成る。

 これ程の物量をポーランドに届ける事が出来たのも、バルト海の制海権を国際連盟側が掌握したと言う事が大きかった。

 洋上戦力が消滅し、航空優勢も奪われたドイツは、バルト海を往く国際連盟の船団に対して出来る事などなにも無かった。

 当初は、潜水艦部隊による襲撃も実行されていたのだが、この輸送船団に随伴する日本の護衛艦(潜水艦ブッコロスマン)部隊のキルスコアになる以外の成果を挙げる(意味を示す)事は出来なかった。

 この状況にドイツ海軍では次善の策として、チャイナめいた魚雷艇や武装漁船による襲撃、或いは無制限機雷戦 ―― 浮遊機雷の放出によるバルト海の無力化(利用不可能化)が検討された。

 実行には様々な制約や努力が必要となるが、行えば必ずや大なる成果が得られると考えられていた。

 低コスト高パフォーマンスな作戦。

 ドイツ海軍、そしてどこからか嗅ぎ付けて参加してきた武装親衛隊(Waffen-SS)は大いに乗り気になり、ドイツ陸軍も好意的に捉えて予算や物資の融通も約束していた。

 だが懸かる回天の策(貧者の戦略)は、検討段階で終了する事になる。

 理由は、諜報活動によってドイツでの動きを察知した国際連盟安全保障理事会が行った宣言(通達)であった。

 1907年ハーグ陸戦協定(陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約)に於ける、商船の軍事転用に関する第7項と機雷運用に関する第8項に違反した場合、()()()()()()沿()()()()()()()()()()()()()()()と言う苛烈極まりない内容であった。

 要するに、偽装漁船による攻撃や機雷の放流などを行った場合にはドイツを非文明国家として扱う ―― チャイナの様に沿岸部を焼き尽くすぞと言う、明確な脅しであった。

 コレにドイツは屈したのだ。

 ()()()()()()()()()()()()チャイナの前例(日本が実際にやってみせた実例)が国際連盟の宣言に力を与えたと言えた。

 兎も角。

 バルト海を通って与えられる補給(支援)がポーランド軍を強大にし、1日毎にドイツ軍との戦力差を縮めつつあった。

 そもそも、補給も途絶しがちなドイツ東方総軍に対して、ポーランド軍は十分な装備、潤沢な燃料弾薬、豊富な糧食と共に立ち向かっているのだ。

 両者が戦意(モラール)と言う意味で比較にならぬのも当然であり、ポーランド軍は少しずつ戦線を押し上げる事に成功しつつあるのも必然であった。

 

 

――オランダ

 ブリテンの3個機械化師団を中心とした大規模なテコ入れによって、オランダの戦局は決着が付く形となった。

 これは、ブリテンがマスコミに戦力の上陸を隠す事無く公開し、オランダ王家による歓迎セレモニーまでやってアピールをした事が発端であった。

 その質と量とは、衰弱したドイツオランダ侵攻部隊(ネーデルランド軍団)が対抗できるものでは無かった。

 この為、ドイツはオランダ戦線の完全な放棄を決定、それまでの方針 ―― 停戦交渉時まで現有地帯を保持する事による交渉材料の確保を断念する事となる。

 戦後よりも今を重視する事となる。

 後退しながらオランダのインフラを徹底的に破壊する事で、オランダ方面からの侵攻を阻止すると言う事が作戦目標に設定される事となった。

 尚、後退に際しては()()()()()()()()が最優先とされ、装備に関しては現場放棄も認められる事とされた。

 これは、装甲師団などにとっては自殺的命令とも言えたが、装甲車両の後退速度や、空から狙われた場合に於ける生存性の低さが問題視された結果であった。

 1両の戦車が無事に後退出来るよりも、10両の戦車を動かす将兵が生き残った方が良いと言う判断である。

 戦車は生産すれば何とかなるが、熟練の将兵を補充する事は簡単では無いのだから。

 1944年、ドイツ戦争開戦から1年も経ずしてドイツ軍の機甲化将兵の消耗は決して軽視出来ない水準(手酷い所)にまで到達しつつあったのだ。

 兎も角、戦車自体を囮とする様なドイツ側の行動に、ブリテン側は完全に対応する事は不可能であった。

 高速発揮可能な巡航戦車部隊によってドイツ軍部隊の迂回突破を図り、その拘束を試みようとしたが、ドイツ側も、持ち込んでいた重戦車を縦横に走らせて抵抗していた。

 オランダ戦線の最終盤は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と呼ばれる事となる。

 そしてその結果は、オランダ戦線の作戦領域に無慈悲なまでの爪痕を残す事となる。

 国土(生活基盤)を破壊されたオランダ人のドイツに対する憎悪は、フランス並みに燃え上がる事と成り、それは回りまわってドイツ戦争の終結後に重大な影響を与える事となる。

 

 

 

 

 

 

*1

 QA-3は航空優勢獲得後に投入される事を予定して開発された、非ステルスの単発ジェット型の廉価な戦術攻撃機である。

 1940年代に入り、航空機開発技術者の育成が進んだお陰で、日本は各種航空機の開発に余裕をもって取り組む事が出来る様になった。

 その成果と呼べる機体である。

 エンジンは、邦国向け防空軽戦闘機であるF-9用のモノを採用している。

 2tを超えるペイロードを持っており、この配分によって滞空時間を優先したり、或いは地上攻撃力を強化したりする柔軟な運用が可能である。

 又、センサーポッドを搭載する事で、地上監視機としての運用も可能としている。

 

 

*2

 E-302は、E-767の後継機として三菱製の大型民間向け航空機であるM302LRをベースに開発された機体である。

 機体が大規模である為、本来は運用インフラの問題から日本連邦の領域外で運用するのは難しいとされているが、日本はブリテンに()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を建設し対応した。

 

 

*3

 E-50は、TAI(トヨタ・エアクラフト・インダストリー)社製の双発中型ターボプロップ機、C-50を基に開発された対地監視機である。

 前線配置型の電子情報収集機/電子戦機としての能力も併せ持っている。

 E-50はQA-3と投入される機体である為、この指揮管制も可能としている。

 広大なシベリアの大地で、数百万もの将兵で構成された数百もの戦術単位(師団/旅団)を持つであろう()()()()()()()()()()()()()と戦う事を前提に開発された装備である。

 ある意味で日本が持っている悪夢 ―― 蘇国の大陸軍(スチームローラー)に対する解答、或いは日本解釈によって再現しようとしたALB(エアランド・バトル)ドクトリンの申し子とも言えた。

 尚、余談であるが現実のソ連軍は、予備役を含めても50万を揃えるので青色吐息と言う有様である。

 

 

*4

 尚、日本に次ぐ工業力を誇るアメリカは、ドイツ戦争に関して積極的に関わり合おうとはしていなかった。

 物資の融通もする。

 戦力も派遣する。

 だが国を挙げて軍事物資を生産するなど、そんなコストの割に利益を生みださない行為に手を染める積りはなかった。

 ドイツ戦争は旧世界(ヨーロッパ)の戦争なのだから。

 ブリテンとフランス頑張れ、日本はG4筆頭なんだからご苦労様、アメリカはチャイナ相手に外交その他で忙しいから楽する為に超頑張れと、そんな気分であった。

 




2022.02.16 題名修正

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