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国際連盟側の戦争方針に基づいて、攻勢が緩慢なものとなったドイツ戦争西部戦線。
その様を指して、欧州の
だが、対峙するドイツ側からすれば、どこが休戦なのかと言う状況であった。
確かに、フランス軍や
だが、空爆は継続され続けていた。
戦略爆撃から戦術爆撃まで。
戦略爆撃機がドイツの軍需工場から基地から、事前に分かっていた重要施設の悉くに爆弾の雨を降らせ続けた。
戦術爆撃は、前線部隊のみならず日中は道路上を動くトラックや鉄道を狙い撃ちにし続けた。
否、日中だけでは無い。
日本が常に空に遊弋させている無人攻撃機QA-3*1が、夜間であっても攻撃を継続していた。
これらの攻撃に際しては、民間向けと思しきモノを除くように配慮する事とされていたが、残念ながらも一定数の誤射は発生していた。
尚、夜間に関しては、道路を走って居るモノは軍用であると判断し、コレを攻撃する旨を宣言していた。
ドイツ軍もドイツの人々も、奪われた空を恨めし気に見上げ続ける事となる。
ここまで一方的な情勢となった理由は、日本の投入した
2種類の機体が持つ高精度なレーダーがドイツの航空機運用基盤を、それこそ仮設された野戦基地まで丸裸にし、そこを徹底的に爆撃してみせたのである。
ドイツ空軍とて抵抗しなかった訳では無い。
航空基地の分散、レーダーによる早期警戒と管制された迎撃の実施。
対空火器の増設による自衛力の強化。
果ては航空機を地上輸送する事までした。
だが、そこまでの努力も、科学力の差が無慈悲に蹂躙する。
航空基地も燃料集積所も、果ては航空機の製造工場までも無慈悲に焼かれていった。
当然、レーダーサイトも含まれている。
その上で日本は、軍事的必要性に因るとして、国際連盟安全保障理事会戦争補完委員会法務小委員会の了解の下、ドイツ各地の送電網を丁寧に焼いていた。
ドイツは空に続いて夜も奪われつつあった。
文明の終焉であり、闇夜の復権である。
冬の寒さが厳しくなる中で陥った塗炭の苦しみは、ドイツ人のヒトラー/ナチス政権に対する急速な支持の低下を呼ぶ事となる。
――ポーランド
西部戦線で行われている、インフラ破壊によるドイツ軍の活動低下処置は、この東部戦線で簡単に行えるものでは無かった。
何故なら、戦場はポーランドの国内にあるからだ。
インフラ破壊によって苦労するのは、ドイツ人では無くポーランド人となる。
それはとても受け入れられるものでは無かった。
故に、日本とブリテン、そしてアメリカはポーランドに潤沢な支援を行う事とした。
日本は政治的な意味合いすら持つ有人航空機部隊、戦闘機に加えて地上攻撃機部隊をポーランドに配置した。
併せて、地上誘導隊を派遣した。
ポーランド陸軍部隊に同行し、地上攻撃部隊に対して詳細な目標伝達を伝達する事を仕事とする部隊だ。
これにより戦力が入り乱れている状況であっても、
ブリテンは、装備の融通に関して担っていた。
表向きの。
ブリテンとしては、ここでポーランドと大規模な協力関係を構築する事で、戦後のヨーロッパ亜大陸での政治的影響力の確保を狙ったのだ。
それは、ポーランドとて
時に戦車は凄い勢いでポーランドに送られる事となる。
クロムウェル巡航戦車やチャレンジャー重巡航戦車を筆頭に、ドイツのⅣ号以降の重戦車の相手は辛くとも、それ以前の戦車であれば一方的に殴殺可能な戦車群が4桁単位で送りつけられる事となる。
これは、この時点でブリテンが52t級の車体に20lb.砲を搭載した超ド級戦車、主力戦車としての第1世代型となるチャレンジャーⅡ戦車を開発し配備を進めていたが為であった。
結果として、ポーランド陸軍は1944年の時点でフランスやドイツには劣るものの、イタリア等とは比べ物にならない戦車の装備率を誇る事となる。
特に各種の巡航戦車は、その快速ぶりもあって偵察部隊で大いに活躍する事と成る。
これ程の物量をポーランドに届ける事が出来たのも、バルト海の制海権を国際連盟側が掌握したと言う事が大きかった。
洋上戦力が消滅し、航空優勢も奪われたドイツは、バルト海を往く国際連盟の船団に対して出来る事などなにも無かった。
当初は、潜水艦部隊による襲撃も実行されていたのだが、この輸送船団に随伴する日本の
この状況にドイツ海軍では次善の策として、チャイナめいた魚雷艇や武装漁船による襲撃、或いは無制限機雷戦 ―― 浮遊機雷の放出によるバルト海の
実行には様々な制約や努力が必要となるが、行えば必ずや大なる成果が得られると考えられていた。
低コスト高パフォーマンスな作戦。
ドイツ海軍、そしてどこからか嗅ぎ付けて参加してきた
だが懸かる
理由は、諜報活動によってドイツでの動きを察知した国際連盟安全保障理事会が行った
要するに、偽装漁船による攻撃や機雷の放流などを行った場合にはドイツを非文明国家として扱う ―― チャイナの様に沿岸部を焼き尽くすぞと言う、明確な脅しであった。
コレにドイツは屈したのだ。
兎も角。
バルト海を通って与えられる
そもそも、補給も途絶しがちなドイツ東方総軍に対して、ポーランド軍は十分な装備、潤沢な燃料弾薬、豊富な糧食と共に立ち向かっているのだ。
両者が
――オランダ
ブリテンの3個機械化師団を中心とした大規模なテコ入れによって、オランダの戦局は決着が付く形となった。
これは、ブリテンがマスコミに戦力の上陸を隠す事無く公開し、オランダ王家による歓迎セレモニーまでやってアピールをした事が発端であった。
その質と量とは、衰弱したドイツ
この為、ドイツはオランダ戦線の完全な放棄を決定、それまでの方針 ―― 停戦交渉時まで現有地帯を保持する事による交渉材料の確保を断念する事となる。
戦後よりも今を重視する事となる。
後退しながらオランダのインフラを徹底的に破壊する事で、オランダ方面からの侵攻を阻止すると言う事が作戦目標に設定される事となった。
尚、後退に際しては
これは、装甲師団などにとっては自殺的命令とも言えたが、装甲車両の後退速度や、空から狙われた場合に於ける生存性の低さが問題視された結果であった。
1両の戦車が無事に後退出来るよりも、10両の戦車を動かす将兵が生き残った方が良いと言う判断である。
戦車は生産すれば何とかなるが、熟練の将兵を補充する事は簡単では無いのだから。
1944年、ドイツ戦争開戦から1年も経ずしてドイツ軍の機甲化将兵の消耗は
兎も角、戦車自体を囮とする様なドイツ側の行動に、ブリテン側は完全に対応する事は不可能であった。
高速発揮可能な巡航戦車部隊によってドイツ軍部隊の迂回突破を図り、その拘束を試みようとしたが、ドイツ側も、持ち込んでいた重戦車を縦横に走らせて抵抗していた。
オランダ戦線の最終盤は、
そしてその結果は、オランダ戦線の作戦領域に無慈悲なまでの爪痕を残す事となる。
QA-3は航空優勢獲得後に投入される事を予定して開発された、非ステルスの単発ジェット型の廉価な戦術攻撃機である。
1940年代に入り、航空機開発技術者の育成が進んだお陰で、日本は各種航空機の開発に余裕をもって取り組む事が出来る様になった。
その成果と呼べる機体である。
エンジンは、邦国向け防空軽戦闘機であるF-9用のモノを採用している。
2tを超えるペイロードを持っており、この配分によって滞空時間を優先したり、或いは地上攻撃力を強化したりする柔軟な運用が可能である。
又、センサーポッドを搭載する事で、地上監視機としての運用も可能としている。
E-302は、E-767の後継機として三菱製の大型民間向け航空機であるM302LRをベースに開発された機体である。
機体が大規模である為、本来は運用インフラの問題から日本連邦の領域外で運用するのは難しいとされているが、日本はブリテンに
E-50は、
前線配置型の電子情報収集機/電子戦機としての能力も併せ持っている。
E-50はQA-3と投入される機体である為、この指揮管制も可能としている。
広大なシベリアの大地で、数百万もの将兵で構成された数百もの
ある意味で日本が持っている悪夢 ―― 蘇国の
尚、余談であるが現実のソ連軍は、予備役を含めても50万を揃えるので青色吐息と言う有様である。
尚、日本に次ぐ工業力を誇るアメリカは、ドイツ戦争に関して積極的に関わり合おうとはしていなかった。
物資の融通もする。
戦力も派遣する。
だが国を挙げて軍事物資を生産するなど、そんなコストの割に利益を生みださない行為に手を染める積りはなかった。
ドイツ戦争は
ブリテンとフランス頑張れ、日本はG4筆頭なんだからご苦労様、アメリカはチャイナ相手に外交その他で忙しいから楽する為に超頑張れと、そんな気分であった。
2022.02.16 題名修正