タイムスリップ令和ジャパン   作:◆QgkJwfXtqk

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A.D.1945
156 第2次世界大戦-23


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 ヒトラーは激怒していた。

 東部(ポーランド)戦線での国防軍(ドイツ陸軍)の体たらくに。

 国際連盟(ジャパンアングロ)との講和の為、出来る限り速やかにポーランドを攻略せよと厳命したにも拘わらず、戦線は一進一退となっていたのだ。

 伝統ある国防軍(ヴェアマハト)と自ら誇っていたドイツ陸軍が、国力でも劣る2流陸軍でしかないポーランド陸軍と互角の戦いをしているのだ。

 激怒するなと言うのが難しい話であった。

 フィンランドなどによる支援がポーランドに入ってはいるが、ヒトラーとて配慮はしていた。

 早期攻略の為、国内でも不足しがちな食料燃料その他の物資の優先配分を行っていたのだ。

 各種企業からは不満の声が上がり、国民生活の困窮はヒトラー政権に対する支持率の低下に直結した。

 政治的に危ない橋をヒトラーとしては渡った積りであったのだ。

 にも拘わらず、この体たらくである。

 ヒトラーが激怒したのも仕方のない話であった。

 国防軍側としてはたまったものでは無かったが。

 戦争は自分の都合だけで出来るモノでは無く、相手の都合もあって結果が生まれるのだから。

 そして、ポーランド軍は決して戦意希薄な弱兵でも無ければ装備劣悪でも無いのだから。

 凶悪無比な日本製装備(MLシリーズ他)こそ少ないが、ブリテンやフランスの戦車を筆頭にした重装備群が充実していた。*1

 そして数。

 ポーランドにとっては祖国衰亡の瀬戸際(本土決戦)と言う事もあって老年若年男女の見境なき動員が掛けられており、最前線でぶつかり合う部隊に限って言えばポーランド側がやや優勢と言う状況であった。

 その上で航空優勢に於いては、日本が全面的に介入しているポーランド側が握る形となっていたのだ。

 将校下士官の数と質と言う意味ではドイツ軍が優位であったが、逆に言えば、その優位あればこそ空を失っているドイツが戦えている、とも言えた。

 高度に訓練され自分の果たすべき役割を判断できる将校下士官は、上位組織からの連絡が途絶しようとも簡単には瓦解せずに居たのだから。

 ()()()()()()()()()()、とも言えたが。

 兎も角、ドイツ軍はヒトラーの命令を守らんが為に、必死になって行動を継続していた。

 

 

――ドイツ

 ポーランド国内での作戦が能動的である事が困難になりつつある状況に於いて、ドイツは全くの無為無策であった訳では無かった。

 正規戦闘が困難であるのであれば、それ以外の手段を用いる。

 不正規戦争。

 それは武装親衛隊(Waffen-SS)が得意とする手段でもあった。

 小規模な特殊戦部隊を投入し、ポーランド国内の橋を破壊し、道路に地雷を埋めるなどしてインフラにダメージを与える。

 或いは、ポーランド軍の後方部隊に襲撃を行う事で補給を混乱せしめる。

 通常であればここにポーランドの親ドイツ派住人を扇動する事も含まれるものであったが、そこはポーランド政府が一枚上手であった。

 著名な親ドイツ派ポーランド人の悉くを、ドイツ軍のポーランド侵攻時に治安維持活動の一環として予防拘禁していたのだ。

 又、扇動を図るであろうマスコミに対しても躊躇の無い抑圧を実施していた。*2

 結果、ドイツ人の不正規戦争部隊は人民の海に隠れる事も出来ず、その任務に当たっていく事となる。

 尚、この作戦行動に関してはフランスで派手な事をやってみせた後方かく乱部隊(コマンド・ユニット)の戦訓が活かされる事となる。

 任務/戦闘部隊の後方に展開する、民間車両(トラック)に偽装した支援部隊を用意したのだ。

 とは言え通信(電波の発信)は不可能である為、事前に補給支援地点を指定しておき、そこに補給などに寄ると言う形式を取る事となった。

 又、ドイツ領内からのみ、電波を発信する事となった。

 この厳重な情報管理によって、特に初期はポーランドは大きく振り回される事となる。

 結果として、ポーランド領東部域の電波施設や発電施設で破壊工作を許す事となり、ポーランドの戦争計画に少なくない影響を与える事となった。

 

 

――ポーランド

 ドイツ後方かく乱部隊(コマンド・ユニット)の暗躍は、ポーランドにとって無視しえない影響を与える事となった。

 特に問題となったのは、対応に人手を奪われると言う事であった。

 破壊された設備などに関して言えば、総じて投入される火力が少な目である為に大規模な被害 ―― 復旧不可能なレベルでの被害は出ていないのだから。

 又、橋や操車場などの鉄道拠点などには警備部隊を配置させていたお陰で、大きな被害は出て居なかった。

 小癪な被害とも言えた。

 問題は、その小癪な部隊を見つけ出す為には、大規模な部隊を捜索に回さねばならないと言う事であった。

 後方かく乱部隊(コマンド・ユニット)は、大きい部隊でも20名程度の小隊規模以下であり、小さい部隊となれば5~6名ともなる為、極めて身軽であった。

 何食わぬ顔でポーランドの一般店舗で食料品を買い込むなどもする程であったのだ。

 後になって、使われた紙幣が偽造通貨であった事が発覚した。

 それ程に違和感なくポーランドの人々に溶け込んで動いていた。

 無差別な一般ポーランド人への被害を与えないが故に、市民の間に緊張が生まれていない事が理由とも言えた。

 結果、ポーランド軍は、この対応は警察が行う類のモノではないかという(匙を投げる)程であった。

 無論、言われた警察としては勘弁してほしいと言うのが本音であった。

 軍部隊としては軽装備であっても、一般的な警察から見れば重武装であり、並みの警察部隊では太刀打ちできない。

 そもそも日常業務に加えて国内の避難民誘導と保護を行っているのだ。

 誠に以って、無理を言うなと言うのが本音であった。

 この様な場合に泣きつき先として確たる地位を築く事になった日本(ジャパエモン)であったが、さしもの日本とて出来る事と出来ない事があると言うのが実情であった。

 無論、出来ないとは言う話ではない。

 だが簡単では無いのだ。

 そんな日本の反応に全力で喰いついた(出来るって言ったよね!)ポーランド政府は、何でもいいから助けてくれと国際連盟安全保障理事会の個別会議で泣き付く事となる。

 結果、日本はポーランドの治安維持方面にも協力する事となる。

 とは言え治安維持協力に於いて重要な、基幹と成る戦力の抽出と言う部分は日本としても困難である為*3、日本はポーランド政府と協議の上で、比較的戦力に余裕のあるブリテンに協力を仰ぐこととなる。

 この要請に対してブリテン政府は、比較的安全である事と()()()()()()()、そして戦後のポーランド市場への優先的アクセス権を対価とする形で受け入れる事とした。

 

 

――ブリテン

 ポーランドでの治安維持活動に向けて、3個師団程を派遣する事としたブリテン。

 その政治的狙いとしては、戦争後半戦でのブリテンの存在を示すと言うのがあった。

 特に東欧に於いての存在感である。

 戦争前半においてブリテン海軍は活躍したが、後半は陸戦である為にフランス(陸軍国家)アメリカ(物量チート)日本(存在自体反則)に埋没してしまう事が見えていた。

 無論、派遣する陸軍の被害が抑えられると言うのは大きいのだが、それはそれとして、政治的な視点からしては埋没するのは認めがたいのであった。

 戦後の国際影響力の問題もある。

 ドイツとの戦争で相応の被害と戦果とを出した結果、そして日本やアメリカが関心を示していない結果、フランスがヨーロッパ亜大陸の盟主めいて動いている。

 それをブリテンとしては許容しえないのだ。

 ヨーロッパ亜大陸が大団結した存在となる事は、ブリテンの安全保障に於いて重要な懸案事項となるからであった。

 無論、ブリテンとフランスの関係は、日本と言う存在があるお陰もあって1900年以前(世界大戦前)と比べると極めて良好であったが、であるから全てが良いと言う訳では無いのだ。

 故に、今回の事はポーランドとの関係強化と言う意味では最適の機会であったのだ。

 この為、フランス領内に送る予定であった部隊から、トラックと装軌装甲車を主力とした機械化歩兵師団を3個抽出派遣する事としたのだ。

 支援部隊を含めれば約10万人の派遣であった。

 尚、フランス(対ドイツ西部戦線)への派遣戦力の減少に関して、フランスは控えめな抗議を行う事に留まっていた。

 

 

――ポーランド治安維持戦

 ドイツの不正規戦争部隊を掃討する為には、幾ばくかの準備期間が必要となった。

 日本が航空戦力(対地偵察用無人機)をポーランドに集約し、ブリテンの3個師団がポーランドに展開するまでの時間だ。

 それは1945年の冬の終わり、つまりは年を跨いだ1945年の頭にまで掛かった。

 ドイツとの戦争は気象条件の悪さも相まって、国際連盟側にせよドイツにせよ戦争は不活発化 ―― 冬季自然休戦期となっていた。

 無論、それは戦争をやめる事でも、止めると言う事でもない。

 前線で小競り合いを続けながら消耗した戦力や装備の補充、物資の備蓄を行っていたのだ。

 そして同時に、ポーランド政府は後方かく乱部隊(コマンド・ユニット)を撃滅する為の準備を進めて行った。

 国民に対する夜間外出の全面禁止、それは無思慮に不用意な場所で行った場合には拘束だけでは済まないという警告文を添えた強いモノが発報されていた。

 その上で、市町村から離れる事も当座は禁止される事となる。

 此方も前述同様に厳しい警告文が添えられる事となった。

 結果、ポーランド市民に強い負担を強いる事となった。

 出歩くなと言う事は山野での狩猟などの活動を禁じる事を意味し、それはポーランド人の食糧事情に強い影響を与える事となる。

 即ち、食料不足の強制である。

 それはポーランド政府の支持率に悪い影響を与えかねない行動であったが、十分な対価を用意する事で乗り切る事に成功した。

 日本が供給する大量の食糧である。

 シベリア共和国で作られた穀物も多いが、それ以外にもアメリカやオーストラリアから買い込んだ大量の肉や小麦、或いはタイ王国からの米などである。

 バリエーション自体は豊かとは言えなかったが、特筆するべきはその量であった。

 その様は正しく、飽満と言って良い規模で振舞われたのだ。

 この辺り、日本が嘗ての世界の戦争(第2次世界大戦)での米国の振る舞いを研究した結果とも言えた。

 取り敢えず、不足よりは過剰を。

 それは何とも金満国家らしい戦争のやり方(バブリーズ・スタイル)であった。

 金で殴れ(ジャスティス・イズ・マネー)

 無論、この場合に殴られるのはドイツである。

 結果として短期間のうちに、特に夜間に市町村以外に存在する人間は全てがポーランド人では無いと言う状況を作り上げたのだ。

 そして、冬の終わりが見えだした頃、作戦が始まる。 

 先ずは日本の対地偵察機(UAV)が、無人機故の24時間の隙間の無い偵察活動によって、市町村外の人間の位置情報を丸裸にしたのだ。

 そして、その情報を元にしてブリテンの連隊戦闘団が派遣され、その正体の誰何や捕縛を担ったのだ。

 大多数の人間は所謂まつろわぬ民、移動型民族(ロマ人)の集団であった。

 国家に属さぬ彼彼女らは、戦争時であって尚、好き勝手に移動していたのだ。

 ポーランド政府は、非常時であるとして()()()()()()()した。

 次に多かったのは犯罪者だ。

 戦争中であろうとも、自らの利益に基づいて蠢く者たちは、政府の要請に従う筈も無かった。

 彼らの内で幸運な者たちは、ブリテン軍部隊に同伴していたポーランド警察によって捕縛され、法の裁きを受ける事となった。

 又、少数ではあったが、酔っぱらった人間や、或いはポーランド政府の公布が理解出来ない人間も居た。

 これまたポーランド警察の手で厳重な注意を受ける事となった。

 そして最も少なかった人間、今回の作戦の目標となったドイツ人グループ(ドイツ不正規戦部隊)は、発見されるや否や、ブリテン軍部隊に包囲撃滅される事となる。

 ブリテン軍が持ち込んだ装軌装甲車の火力や、それで不足な場合には日本が提供する航空戦力 ―― 攻撃ヘリであるAH-64Dと、実戦試験として持ち込まれたAH-2*4が追い立てて撃滅する事となる。

 それは、()()()()()()()()とも評される無慈悲さであった。

 その悲惨さは、確認に動いたブリテン軍の将兵が口々に、攻撃ヘリとは相対したくないという程であった。

 かくして、作戦開始から3週間ほどでポーランド国内のドイツ後方かく乱部隊(コマンド・ユニット)の処理は終了する事となる。

 

 尚、全くの余談であるが、この処理の終了を一般のポーランド人も悲しむ事となる。

 溢れんばかりの ―― 実際に食糧庫にあふれた小麦や米、肉の供給が終わるからである。

 その悲しみはドイツ人に向かい、根性無しのドイツ人(キャベツ・オンリー・マン)等と言う悪口が生まれる程であった。

 

 

 

 

 

 

*1

 ドイツ側が把握できなかった、日本によるポーランド軍の戦力底上げとしては、大量のトラックや自動車の提供と食料燃料の融通。

 そして何よりも日本製の通信機の配備があった。

 ポーランドが欲し、日本が特例として期限貸与という形で許可したソフトウェア無線機体系、簡易型野外通信システム(Simplification Field Communication System)がポーランド軍から戦場の霧を吹き払っていたのだ。

 前線と後方(中央指揮系統)とが直結に近い形で連携し、その上で時間差無し(タイムレス)に日本が収集した情報が流し込まれて来るのだ。

 戦車や野砲などこそ列強(G4)級とは言えないが、事、情報通信システムと言う部分ではポーランド軍は世界の先(日本に準ずる場所)に居るとも言えた。

 

 

*2

 基本的人権や表現の自由などに抵触する政策であり、特に人権意識の高まった1970年代などでは強い政府批判と民事賠償訴訟に繋がる事となる。

 とは言えそれが大きなムーブメントに繋がる事は無かった。

 そもそも、親ドイツ派の抑圧に関しては法的な根拠が準備されていた。

 ポーランド政府が1930年代に成立させた戦争関連法案が存在しており、その中で戦争(非常)時に於ける戦争遂行に必要な非常権限と定めていたのだ。

 これでは()()()と自称する人間に活躍する余地など与えられる筈も無かった。

 この為、人権派弁護士は活躍の場を西ポーランド新領 ―― ドイツ系ポーランド人の問題に移していく事となる。

 

 

*3

 日本連邦統合軍のヨーロッパ派遣軍は後方部隊も含めれば20万人規模に達する予定である為、数字の上であれば無理では無い話であった。

 只、日本政府が日本連邦統合軍を治安維持戦と言う泥沼に投入する事を嫌がったと言うのが理由であった。

 無論、地元ポーランド人の支援を得られるとは言え、出来る限りは関与したくない ―― 人的被害の発生確率の高い、それでいて日本の国家戦略的な部分に資する事の少ない作戦は行いたくないのだ。

 当然、善意での参加となったエチオピア軍に被害は出したくなかった。

 ヨーロッパに派遣される日本連邦統合軍は日系日本人で構成されている訳は無い。

 ロシア系日本人を主として、日本連邦の各国からも人が参加している。

 それらの同胞が無駄に喪われる事も、日本政府は忌避するのだ。

 タイムスリップし、そして日本連邦が成立して約20年。

 日本も又、この世界に馴染んでいるのだった。

 

 

*4

 

 

 攻撃ヘリAH-2は、老朽化の著しいヘリ群 ―― 機体寿命の限界を通り越しているAH-1や改良の余地(発展余裕)を食い尽くしたAH-64D、機体規模の小ささから使い勝手が悪くなったOH-1、それらを一括して更新する為に開発された機体であった。

 この為、計画名は前線経空攻撃偵察ユニット計画(スーパーチョッパー・プロジェクト)とされていた。

 シベリアの広大な大地で戦闘機部隊を補いつつ戦わねばならぬ為、大出力双発エンジンを持った有翼型コンパウンドヘリと言う贅沢な大型機として生み出される事となった。

 高いステルス性や、前線でのUAV等への指揮能力も与えられた高級機であった。

 問題は、余りにも高度(Super)な機体になってしまった為、前線で整備を行うには聊かばかり段列への負担が大きい機体に成ったと言う事である。

 又、値段も高額化する事となった。

 この為、主力汎用機であるUH-2シリーズを基にした軽武装偵察機 ―― 多目的軽量ヘリMH-2が開発される事となる。

 尚、UH-2とMH-2の外見上の大きな相違点はキャビンのスライド扉を潰して設けられた武装搭載用のスタブウィング程度であったが、中身は別物であった。

 航空機用電子機器(アビオニクス)は最新のモノへと更新され、機体構造は強化されエンジンもより大出力のものへと換装されていた。

 その大改造ぶりは、その詳細な予定が公開されると共に外部有識者などから、いっそ高価格ではあるが高性能なUH-60系で行うべきではないかとの意見が出る程であった。

 だが陸上自衛隊としては、消耗部品などが数的主力ヘリであるUH-2と共通化できる低価格機体が重要であるという認識があった為、この意見に惑わされる事は無かった。

 余談ではあるが、財務省はこの陸上自衛隊の判断に諸手を挙げて賛成していた。

 

 ドイツ戦争に際して、ヨーロッパ亜大陸に試験目的で派遣されたのはAH-2のみであった。

 MH-2に関しては完全な新造機と言う訳では無い為、派遣する必要性が乏しいとの意見があった為、見送られる事となったのだ。

 

 


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