タイムスリップ令和ジャパン   作:◆QgkJwfXtqk

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158 第2次世界大戦-25

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 ソ連による東欧領域(ドイツ連邦帝国東方領)侵攻は破竹の勢いであった。

 当然の話と言えるだろう。

 ドイツが配置していた部隊は治安維持任務を主目的とする軽装備部隊でしかなく、一般市民による暴動や反ドイツ(パルチザン)活動を制圧するのには向いていたが、ソ連が投入した戦車を主力とした機甲戦力と戦うのは無理を通り越しているのだから。

 結果としてウクライナを起点として行われた侵攻は2ヶ月を経ずして旧ルーマニア、旧ブルガリアの両国を掌握する事に成功した。

 この勝利の背景には、この両国国民による反ドイツ感情の強さがあった。

 ドイツ側のインフラ破壊への妨害(サボタージュ)を行い、又、積極的にソ連軍への協力をしていると言う事もあった。

 特にソ連にとってありがたかったのは、親ソ連派による輸送支援であった。

 流石にトラック類の供出は無いが、鉄道による輸送支援は大きな力となっていた。

 逆に言えば、この鉄道による補給支援が無ければソ連の大攻勢は成功しなかったであろうと云う話でもあった。

 これは、ソ連政府が、国際連盟とドイツとの戦争が不可避であると判断すると共に全ての車両生産力を戦車量産に振り向けた結果であった。*1

 結果。トラックなどの車両は極めて不足気味となっていたのだ。

 コレは、工業力的な限界が理由であった。

 或いは日本の転移前世界に存在した、旧シベリア領域(日本連邦シベリア共和国)が手中にあり、アメリカやフランスなどからの経済支援を受けていた蘇連であれば話は別であったかもしれないが、国土国民の3割以上を喪失した今のソ連では、出来る事に限りがあった。

 無論、自国の現状を理解しているソ連は、大穀倉地帯であるウクライナを絞り上げた(飢餓輸出で得た)予算で重工業の発展を図りはした。

 だが、その程度の努力でどうにか出来る程にソ連の国力は強く無かった。

 厳しい表現をするならば、脆弱とも言えた。

 資源地帯の喪失と人口の流失 ―― 特に知識層(頭脳労働者)の国外逃亡は深刻な影響を与えていた。

 にも拘わらずソ連は、日本への恐怖から国力を軍事に傾斜配分をしていたのだ。

 この様な状況で、どれ程に国力増進の掛け声(スローガン)を挙げても、それが結果を伴う事は無かった。

 それが、トラックの不足にも現れていた。*2

 結果、ソ連は自国の進出に協力的な地元住民に対して極めて紳士的な態度を取るようになって行った。

 この点は、部隊に随伴している政治将校が部隊の規律維持に腐心し、規律を維持する対価(命令に従った事への飴)を手配する事に奔走していた辺りにも現れていた。

 野蛮にして粗暴なソ連軍と言うモノは、事、この旧ルーマニア、旧ブルガリアでは存在していないのだった。

 余談ではあるが、この行儀のよさの反動が、旧ユーゴスラビア王国に入った時に爆発し、大きな波紋を広げる事となる。

 

 

――トルコ

 ソ連の南進に対して、極めて冷静で居られなかったのはトルコであった。

 ソ連/ロシアとの歴史的因縁もあって、その勢力圏の拡大を座視する訳にはいかなかった。

 国際連盟安全保障理事会で、ソ連が本格的なドイツ戦争への参戦を表明すると共に、その行動に注視していた。

 その際、特にトルコの行動を決定づけたのは、ドイツとの戦争を最優先としていたフランスの大使が行った、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 フランスからすれば、欧州の辺境域(ヨーロッパ東方域)がソ連の管理下に陥ったとしても、ドイツを併呑すれば脅威とは成りえないとの判断からの発言であった。

 だからこそトルコは、隣国であった旧ブルガリアへの干渉を開始した。

 トルコとしては、ブルガリアには独立国家(緩衝地帯)として存続して貰わねば困るからである。

 ブルガリアの反ドイツ組織と接触し武器弾薬食糧などの支援を行い、併せて、10万人規模の部隊によるブルガリア解放作戦を準備したのだ。

 ドイツによる捕縛を免れていた旧ブルガリア政府関係者を確保し、トルコ国内向けに正統ブルガリア政府との協力関係に基づいてと言うスタンスすら用意しての事であった。

 ここで問題となったのは、重装備関係であった。

 列強水準(ジャパンアングロ)やソ連から見て貧弱なドイツ軍東方領駐屯軍であったが、近代化の遅れていたトルコ軍からすれば、そう簡単な相手では無かった。

 大軍をもって仕掛ければ、勝つ事は出来るだろうが、大きな被害が出る事は避けられない。

 そして、軍が弱体化してしまった場合、ソ連の脅威と向き合う際に問題となる。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 MLシリーズの大規模な導入を検討したのだ。

 だが、日本には、この要請に応じる余力が無かった。

 輸送力の限界もあったが、そもそも、戦車などに関して言えば製造ラインの製造余力を食い尽くされていたのだ。

 フランスやイタリア、ポーランドなどの先に参戦した国家が、それらを奪い合っていたのだ。

 別に生産力の限界と言う訳では無い。

 極東で最大規模を誇るハバロフスク工廠*3は、戦車の生産ラインなどの増設は容易であり、要求されれば現状の月産3桁台の更に1桁上の生産も可能な施設が用意されていたが、流石に戦争の終結も見えている現状でその投資は如何なものかと財務省がやんわりと指摘し、日本政府もそれを受け入れた為だ。

 結果、日本はトルコに対してアメリカ製の戦車群の融通を主とした軍事支援を提案する事とした。

 アメリカには、チャイナとの戦争時に製造して保管状態にあった(何時もの、作り過ぎた)戦車があった。

 1943年頃に用意された戦車と言えば、この開発競争著しい時代では、時代遅れと言われかねない部分があった。

 実際、トルコ政府は、この点に最初、難色を示していた。

 だがアメリカを交えての交渉で出されたのは、アメリカの最新(最後)の中戦車であるM4戦車であった事から態度を変えた。

 M4戦車が、アメリカや日本などからすれば型落ちであっても、少なくともそれ以外の国家の最新鋭戦車 ―― ポーランドの35PT戦車やイタリアのP40/42戦車と同等かそれ以上の能力を持つ為であった。

 問題としては、30t級としてはやや車体が大柄である(被発見率が高い)事があったが、故障が少なく整備がしやすいと言うアメリカ製の利点が評価され、導入を決断するのだった。

 アメリカは先ずはM4戦車1000両の提供を申し出た。

 これは、アメリカが既に主力戦車をM4戦車から次世代のM5戦車へと切り替えていたと言うのが大きかった。*4

 取り敢えず、M4戦車で戦車を充足させたトルコ。

 その上で日本からは歩兵移動用にMLシリーズのトラック(ML-01 )乗用車(ML-02)を購入し、5個自動車化師団と2個戦車旅団を充足させると旧ブルガリア領への侵攻(解放戦)を開始するのであった。

 

 

――ギリシャ

 ソ連の南進を心穏やかに迎える事が出来なかったのは、トルコと同様にギリシャもであった。

 警戒の割合としては、古くからの敵国であるトルコの勢力拡大への警戒であった。

 1940年代のギリシャの政治体制は様々な派閥が入り乱れ、安定した政治状況にあるとは言えなかった。

 この事が逆に、外部との戦争 ―― ドイツ戦争への参戦に繋がったのだ。

 様々な思惑を持った人間であっても、この戦争がドイツの敗北で終わると言う事に疑念を持つ事は無かった。

 ()()()()()()、政府は国家の統合の為に外敵との戦争を選びやすい状況にあった。

 とは言え、開戦当時は、仇敵とも言えるトルコの動向が不鮮明であったので、出来る事は少なかった。

 国境を接したドイツ領である旧ユーゴスラビア王国への侵攻は具体的に立案されはしたが、万が一にもトルコが血迷った場合を考えると、安易な戦争参加は出来なかったのだ。

 故に、当初は将来的な侵攻に備えての、旧ユーゴスラビア王国領内の武装反ドイツ派(パルチザン)への支援に留まっていた。

 その状況が変わったのは、ソ連の南進であった。

 トルコが、旧ブルガリアの解放作戦を行う上での問題点、ギリシャと同様に腹背を突かれる事(非友好的隣国の乱心)を恐れ、外交交渉を仕掛けて来たのだ。

 それも、知恵を回し、国際連盟安全保障理事会を間に挟んでの事であった。

 目的はドイツ戦争の期間中での協力(不可侵)協定であった。

 監査役(ケツモチ)に国際連盟安全保障理事会を充てる事で、互いに協定破りを出来なくしようとしたのだ。

 このトルコ政府の行動に、ギリシャ政府も乗った。

 幾度かの協議を行った上で、対ドイツ戦争の協力協定と共に、ギリシャ政府とトルコ政府は両国の友好関係を宣言する文書に署名するのであった。

 それ程にトルコはソ連を警戒し、警戒するが故にギリシャとの妥協を選んでいたのだ。

 ギリシャ政府は、トルコの妥協(伸ばしてきた手)を跳ねのける事無く掴んだのであった。

 尚、ギリシャ軍の状況は、トルコ軍に比べると聊かばかり良好であった。

 これは、ドイツへの反発(殺意)に基づいて、フランスが支援 ―― 旧式化した戦車などの装備を安価に売却していた結果だった。

 尚、フランスがトルコに対しても同じ水準での支援を行わなかった理由は、単純に宗教の問題であった。

 トルコはイスラム教を国政から排除する政策を続けてはいたが、それでもイスラム教の国であった為、フランスは感情的な理由から支援を後回しにしがちであったのだ。

 尤も、そうであるが故に、ドイツ戦争時にトルコは大規模な軍拡(ジャパンアングロの支援を受ける事)が出来たし、ギリシャは出来なかったのだった。

 一通りの新しい装備を持ち、自動車化もされていた為、国民世論が国庫からの不要不急の支出を認めなかったのだ。

 ギリシャ軍は、日本とアメリカの装備を大量に装備する事となったトルコ軍に切歯扼腕する事となる。

 人間万事塞翁が馬、であった。

 

 

 

 

 

 

*1

 ソ連の行動はドイツを敵視しての事では無く、それどころか、ソ連政府としては可能な限りに於いて、ドイツの存続を目的として行動していた。

 これは独裁者同士の個人的関係(ヒトラーとスターリンの友誼)が理由では、全く無かった。

 冷徹な、国際環境への認識であった。

 ソ連政府としては国際連盟、正確に言えばG4(ジャパンアングロ)の敵役としてドイツ・ヒトラー政権には存続して欲しかったからである。

 ソ連は、その東方領域で国境線を接するG4筆頭の日本と極めて友好的では無い関係となっている。

 この状況下で、ブリテンやフランスからも睨まれる(世界で唯一の敵役になる)と言うのはごめん被ると云うのが本音であった。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 国際連盟加盟国として、ドイツの暴発を阻止する戦力を揃えようとしたのだ。

 だが、残念ながらも国際情勢はソ連の願いもむなしく、国際連盟とドイツの全面衝突に向かう事になった。

 

 

*2

 余談ではあるが、ソ連はドイツとの戦争突入後に開き直って、日本に対してMLシリーズの購入を持ち掛けていた。

 無論、()()()()()()()を考慮して軍事性の低い物資、要するにトラックや無線機が中心であった。

 日本では、()()()()()()などが技術漏洩のリスクがあると反対の声を挙げていたが、日本政府は技術の流出に関しては問題は少ない ―― 少なくとも、日本が高度技術に指定している類の水準のモノはMLシリーズには使用していない事を理由に許可を出していた。

 無論、それでもソ連からすれば先進的な技術の塊ではあったが、例えばトラックを分解し技術解析と再現を図ろうとしたとしても、不可能であると言うのも大きかった。

 例えばトラック。

 運転を遥かに楽にする先進的トランスミッションであるが、これを実現しているのは設計の問題では無く、鋼材などの素材の品質と部品の製造精度が背景にあるのだ。

 アインシュタインの方程式(E=mc^2)を知っていても、誰もが簡単に核兵器を製造できない事と、ある意味で同じであった。

 そもそも、ソ連に直接売却せずとも、転売や三角輸出などによってソ連がMLシリーズを得るであろう事は想定される為、であれば直接売りつけて金や資源を巻き上げる方が良いと考えていたのだった。

 とは言え、ソ連が欲する量を、欲する時間に与えない程度の嫌がらせは行っていたが。

 

 

*3

 ハバロフスク工廠は、日本連邦へシベリア共和国が加盟すると共に計画が立案された、航空及び陸上戦力向けの大規模工廠であった。

 技術漏洩対策などもあって、日本国自衛隊向けの先進装備の開発/生産は担当していないが、それ以外の邦国軍向けの装備や、大多数のMLシリーズはここで製造されていた。

 その大規模さは、工廠施設内に専用の空港が用意され、また、専用の鉄道がウラジオストク市まで複線で用意されている辺りにも現れていた。

 運用試験場も併設されており、更には専用の大規模発電施設まで検討される程であった。

 流石に発電所は、贅沢であるとして予備発電装置として超小型原子炉(マイクロリアクター)が用意されるに留まったが。

 兎も角。

 友好度の低い相手国との軍事的交流をする場として、日本の本土外に於いて日本の国力を見せつける施設と言う側面もあってハバロフスク工廠はとんでも(少しばかり趣味に走った)施設として建設されていた。

 それは、意図の理解出来ない半地下式の航空機掩体壕(バンカー)や、大規模地下発令所施設などにも現れていた。

 建前としては非常時のシベリア共和国防衛の中枢任務であったが、現実としては日本国の技術の誇示、そしてゼネコンへの仕事の斡旋(日本国の経済喚起策としての意味づけ)があった。

 最終的には博物館も併設され、テーマパークめいた要素を兼ね備える事となる。

 

 

*4

 M5戦車は、主力戦車の号を与えてはいるがM24戦車の設計と戦訓を重視して開発された重戦車級の主力戦車であり、戦闘重量は準50t級(49t級)にも達する超()戦車であった。

 新開発の120㎜砲を持ち、避弾経始を考え尽くした装甲配置は十分な防御力を与えていた。

 只、コンパクトかつ高出力なディーゼルエンジンの開発は間に合わなかった為、次善の策として大出力のガソリンエンジンを搭載している。

 一部には日本との技術協力を主張する意見もあったが、技術自己開発派が反対して潰えていた。

 同時期にイタリアのP42/40戦車が日本やブリテンからの大量の支援を得て開発される様を見ていた為、アメリカはイタリアと同列では無い(工業力は貧弱ではない)と示す必要があると主張した結果であった。

 結果、機動力こそ想定に足らぬ事とはなったが、M5戦車は列強(G4)が有する戦車として恥ずかしくない化け物として誕生したのだった。

 

 余談ではあるが、このM5戦車であったが、戦場で派手な活躍をする(歴史に残る様な勝利を収める)事はなかった。

 これは、西部(フランス-ドイツ)戦線では、国際連盟側が数的にも質的にも圧倒的優位に立っており、更には徹底した航空支援が行われている為、ドイツ軍との交戦(戦車戦)自体が少なかったと言うのが大きかった。

 いまだロマンチズムを抱えていたある非列強(先進)国の将校は家族への手紙で、「自分たちがやっているのは作業であり、戦争では無かった」と述べていた。

 無慈悲な戦争をするのは、日本だけでは無くなっていたのだ。

 それは、20年余りの時間を得て世界が日本の位置へと近づいた(近代化した) ―― そう呼ぶべき話であった。

 

 


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