タイムスリップ令和ジャパン   作:◆QgkJwfXtqk

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160 第2次世界大戦-27

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 多くの国々が何らかの形で関わり、ある意味でドイツ戦争の縮図めいた格好となったバルカン半島の戦い。

 一部の軍事研究家は、ドイツ軍駐留部隊の装備が乏しい事や覇権国家群(G4)の戦車などの最新装備が投入されていない事から裏庭の戦い(マイナーリーグ)等と揶揄していたが、戦車や装甲車の類が大規模に投入されていないだけであり、それ以外の面では極めて熱い戦闘が繰り広げられていた。

 主要国家(プレイヤー)だけでも、ドイツ、旧ユーゴスラビア王国(反ドイツ抵抗組織)、イタリア、トルコ、ギリシャ、ソ連、そして日本が居た。

 その上で、ルーマニアやブルガリアで独自に武力蜂起と抵抗運動をする組織も居た。

 混沌(カオス)と言う言葉こそ似つかわしいだろう。

 

 

――ドイツ/ルーマニア地方

 開戦当初のヒトラーは、ソ連との協力関係(ファニー・ウォー)の道を模索していた。

 戦争中はバルカン半島の権益をソ連に預けておき、戦後は適当な時期に返還を図る。

 無論、その対価は用意する。

 そう言ったムシの良い話を考えてはいた。

 だが、ソ連の考えは異なっており、行動がそれを示していた。

 ヒトラーが送った密使は帰らず、ソ連軍のバルカン半島進出は穏当に行われるとの政治レベル(ヒトラー)の指示を受けて準備していたドイツ軍現地将兵は、ソ連軍の手によって手酷い被害を受ける事となった。

 ソ連は国際連盟側に立った。

 その情報をヒトラーは素直に受け取る事が出来なかった。

 永年の友好国であるソ連が裏切った等と言う話は偽電の類であり、悪辣な国際連盟(ジャパンアングロ)による陰謀に思えたのだ。

 ソ連の駐ドイツ大使を呼んで情報を確認し、或いは現地情報を再確認する事に3日を消費し、漸くの事でヒトラーは現実を受け入れるのだった。

 初動の貴重な3日を失ったドイツ軍 ―― だが、例え当初からソ連軍に対抗していたとしても出来る事に差はなかっただろうと言うのが、ドイツ軍上層部の一般的な評価であった。

 バルカン半島各地に展開しているドイツ軍部隊に、装甲車両は極めて少なく、又、あったとしてもⅢ号戦車以前の旧式が殆どであったからだ。

 ドイツがバルカン半島の統治を軽く見ており、軽装備の治安維持部隊でも可能だと判断していたからだけではない。

 近隣の強国がソ連であり、伝統的友好国(準同盟国)だからという訳でもない。

 唯々、機甲装備の不足にあった。

 大量に作った戦車や対戦車砲の類の大多数を、ドイツ軍がフランスとの決戦の為にドイツ西部部隊にかき集めた対価であった。

 勝てぬ戦い。

 ドイツ軍参謀本部は先ず、旧ルーマニア地域の軍に対して退却を許可した。

 ヒトラーは抵抗を命じようとしたが、物理的に不可能であるとドイツ軍参謀団がヒトラーを説得した。

 この時点で軍人軍属が数万人は残っていたが、全てが撤収する事となる。

 だが同時に、それを素直に行う程にドイツ国家と言うモノは純朴では無かった。

 自分の手に残らぬモノであるならば、全てを無に帰すのが妥当として、撤退の最中に旧ルーマニア国内のインフラを徹底的に破壊する様に指示を出したのだ。

 ソ連軍の侵攻を少しでも遅らせようと言う考えもあったが、それ以上に、気分の問題として出された命令であった。

 とは言え、それが簡単に出来た訳ではない。

 目の前にソ連軍が迫る中での命令であり、簡単に遂行できる筈も無かった。

 とは言えドイツ人である。

 命令が出れば粛々と、機械的に処理しようとはした。

 問題は少なくも小さくもなかった。

 インフラを破壊する為の爆薬すら不足気味であったと言う事が苦労の大本とも言えたが、それ以上に問題であったのが、地元のドイツ連邦帝国東方2級市民(旧ルーマニア人)による抵抗活動があった事だ。

 それまでは無抵抗にドイツ人を受け入れていた人々が、銃器を持ち出し、或いは無武装での抵抗活動を行い出したのだ。

 それは、素朴な故郷への愛情があったのかもしれない。

 だがドイツ人は受け入れなかった。

 自らの命が懸かっている状況で抵抗(邪魔)しようとした人間を受け入れる筈が無かった。

 軽装備とは言っても、腐っても正規軍。

 訓練も受けていない一般市民を蹴散らす程度は余裕であったからだ。

 それどころか頭に血を上らせた一部のドイツ人将兵は、撤退する最中で、旧ルーマニア領内のインフラ破壊命令を拡大解釈する形で、技術者や医者、或いはその可能性があるとして子供にすら銃弾を浴びせながら撤退していた。

 その事が益々、旧ルーマニア人にソ連軍を受け入れさせる流れと成り、或いはソ連軍を支える動機ともなるのだった。

 この流れに乗る形で旧ルーマニア人はソ連軍に対して志願し、ソ連側も受け入れる事でソ連ルーマニア人義勇部隊が構成され、ドイツに対する血の報復が行われる事となる。*1

 後に、ドイツ戦争期の事をルーマニアでは惨劇期とも言う様になる。

 

 

――ブルガリア地方

 隣国であったルーマニアでの惨状を知ったブルガリア人は、自分たちの未来を見た。

 ソ連軍は恐らくは勢いに乗ってブルガリアへなだれ込んでくるだろう。

 そして、ドイツ軍はそれに抵抗出来ない。

 聡明な人間であればだれもが思う未来予想図、但し、その未来予想図(確定した未来の惨劇)への反応は3つであった。

 1つは逃げると言うもの。

 比率で言えば一番多く、トルコなどの隣国へ逃げた人間も居れば、家族を連れて山に逃れた人も居た。

 だがそれとは別に、外国に頼る者も居た。

 ソ連であり、トルコである。

 ソ連に与する事を決めた人々は密かにソ連と連絡を取り、ドイツ軍の動きを監視し、或いはソ連から齎された武器で武装して、その時を待つ事となる。*2

 トルコに与した人間の動きは、ある意味で一番最後であった。

 これは、トルコがブルガリア領内侵攻を開始した事で動き出したからである。

 そもそも、宗教的問題でブルガリアはトルコを友好国と見るのが歴史的に難しかったと言う部分がある。

 即ち、イスラム教徒国家を手引きした、キリスト教の裏切りモノと言われるのを恐れたのだ。

 ある意味で、当然であり、仕方のない話であった。

 だが、国際連盟による議決、それにトルコが侵攻前に行った政治的行動が大きな影響を出す事となる。

 即ち、トルコ大統領とローマ教皇の歴史的会談である。*3

 この会談によってトルコは、イスラム教国による侵攻軍では無く、キリスト教国の友人が国際社会の要求に従って行動していると言う大義名分を揃える事が出来たのだ。

 この結果、ブルガリアの南部域に住む人間はこぞってトルコに靡く事となる。

 尤も、その代償は少なくは無かったが。

 ドイツ、ソ連軍と親ソ派、トルコ軍と親ト派の三つ巴めいた戦いに繋がるからである。

 大義名分が国際連盟の決議である為、ソ連軍とトルコ軍が表立って戦う事は無かったが、親ソ派と親ト派は政治的な立場の強化を狙って抗争する事となる。

 

 

――旧ユーゴスラビア王国

 流血の度合いと言う意味で最も陰惨とも言えるのが、この旧ユーゴスラビアであった。

 それはドイツ戦争以前からドイツ軍に対する抵抗運動が活発であったと言うのが実に大きかった。

 だが同時に、政治的意味においては旧ユーゴスラビア王国人は1つであった。

 これはブルガリア等とは大きな差であった。

 最大の理由はユーゴスラビア人に闘争力と交渉力に長けた抵抗運動の代表、チトーが居たと言う事だろう。

 そして同時に、イタリアやブリテン、そして日本がチトーへの支援を行っていた事だ。

 豊富な国外からの支援を享受するにはチトーの配下に入る必要があり、それを受け入れた ―― 受け入れるだけの能力を、他の抵抗組織に対してチトーが示したと言うのが大きかった。

 だからこそドイツは、特にドイツ戦争勃発後にはチトー個人を狙った暗殺計画を幾度も立案実行し、そして阻止され続けて来た。

 これはチトーの才覚や幸運が原因ではない。

 イタリアの空挺部隊と日本のPMSC、政府外注軍事機関(アンダーグランドユニット)であるSMS社の警備部隊(オメガ・ユニット)が投入されていた結果だった。*4 

 そして1944年に入ると共に、そこにギリシャ軍が参加する事となった。

 先進国からみれば旧式な装備であっても、戦車や野砲を持ち込んできたのだ。

 その衝撃は大きかった。

 無論、それで全てが片付く訳もなく、軍属やドイツ系住民を軍に強制編入した事で最終的には20万人規模に達したドイツ軍の規模的な力は大きかった。

 この時点で何とか維持されていたドイツ本国からの補給線によって、食料は兎も角として弾薬その他を補充できていたと言う事も軽視出来る事では無かった。

 流石に主力戦車と呼べるモノを持ち込む事は困難であったが、代わりにドイツ連邦帝国に加盟している各国軍も抽出派遣されていた。

 この補給路は、軍事的合理性に基づけば破壊するべきであったが、航空戦力の限界もあって徹底的に行われ無かった為、維持されていたのだ。

 日本やブリテンなどの先進国(ジャパンアングロ)の爆撃機戦力は、ドイツ本国とポーランド戦線に集中的に投入されており、バルカン半島に投入出来る余力が無かったのだ。*5

 又、ギリシャやトルコの様に、爆撃機を保有していない国家にソレを求めるのは困難であった。

 では、イタリアやソ連はどうかと言えば、その両国とも現実に対応するため航空行政に歪みを抱えていた為に、実行不可能であったのだ。

 日本の影響を受けて発生した航空機の爆発的進歩。

 G4(ジャパンアングロ)、そして対抗するために進化を進めたドイツ。

 このドイツの進歩は、日本や、日本からの影響を強く受けて進化したブリテンやフランス、アメリカに比べると哀しい程に小さな進歩であったが、それ以外の国にとっては恐るべき進歩であったのだから。

 並の爆撃機では、只、標的になるしかないジェット戦闘機を大量に用意しているドイツ。

 ()()()()()、イタリアは高価なだけの爆撃機を揃える事を諦めて、防空戦闘機の整備に務めていたのだ。

 イタリアはドイツとの戦争に於いて、防御的なモノしか想定していなかったのだ。

 対してソ連。

 此方も事情は同じであった。

 脅威となる対象が、ドイツでは無く日本であったが、であるが故に迎撃用の航空機整備に注力してきたのだ。

 故に、両国の爆撃戦力は貧弱極まりなかった。

 この点に於いて、爆撃機の近代化まで手を付けているアメリカ、ブリテン、フランスは覇権国家群の一角として格が違ったと言えるだろう。

 結果、ドイツの補給路はドイツ戦争後半まで生き続ける事となる。

 そして、補給を受けられるドイツ軍の厄介さは、非覇権国家群(ジャパンアングロ)の軍にとっては極めて大きかったのだ。

 この状況を変える為、アメリカのジェット式の新鋭爆撃機部隊が出て来る事となる。*6

 

 

 

 

 

 

*1

 ソ連軍が手間のかかるルーマニア人義勇部隊を作った理由は、ドイツ戦争後にこの部隊を母体としてルーマニア赤軍を構築し、ルーマニアを統治する際の強力な親ソ連組織にする予定としたからであった。

 結果、ルーマニア人義勇部隊は一般のソ連軍部隊よりも装備面で優遇された。

 とは言え、最初のルーマニア人義勇部隊は各志願兵が着て来た服に赤い腕章を付けただけの格好であり、武器だけが与えられたと言う様であったが。

 だがそれが、格好のアピールともなり、ソ連の手を介して盛んにアピールされる事となった。

 結果、戦果以上に存在(意気)が政治的にも賞賛される事となり、後にスターリンの閲兵を受ける栄誉も賜る事となった。

 又、一般ルーマニア人からも、対ドイツ抵抗の象徴としても見られる事となる。

 それら光の面を持つと同時に、軍民を問わぬドイツ(民族)に対する暴力性を発揮した為、ドイツ人からはルーマニア吸血部隊と恐れられる事となり、国際連盟安全保障理事会でも問題となった。

 

 

*2

 ブルガリアの親ソ派が簡単に組織化されていった理由は、ソ連との接触窓口 ―― 旧ブルガリアソ連大使館であり、後の駐ドイツソ連ブルガリア領事館が存在していたと言うのが大きかった。

 スターリンがドイツとの戦争を決断すると共に、旧ブルガリア国内のソ連外交スタッフは、戦争を見据えた動きを行っていた、その結果とも言えるだろう。

 尚、旧ルーマニアで同じことをしていなかった理由は、旧ルーマニアがソ連陸軍の戦争だったからである。

 旧ルーマニア侵攻に際して、ソ連外務省は大きな役割を担う事が出来なかったのだ。

 その対価として、旧ブルガリアでは、ソ連外務省/情報機関が主と成る事が、スターリンの裁定によって定められていた。

 ある意味で、政治であった。

 

 

*3

 この会談の背景には、南欧の雄(ローマ復興、大イタリア)としての地位を確立したイタリアによる、戦後を見据えて行った外交工作があった。

 ドイツ戦争後の南欧を安定させる事は、イタリアの利益であるからだ。

 そして、イタリアの外交工作を熱心に支援していたのは日本であった。

 イタリアの南欧での覇権には正直、関心は無いのだがブリテンが背中を押したのだ。

 ドイツ戦争後の、ヨーロッパ亜大陸に於ける一強体制は問題を生じさせやすいと言う形でだ。

 このブリテンの動きは、同時に日本国内の欧系日本人が齎したモノでもあった。

 即ち、EU体制へ苦い思いを抱いていた英系日本人が独系仏系伊系の目を盗んで行った行動の結果であった。

 英系日本人はブリテン外務省とのパイプを活用して秘密裏に接触し、日本の背中を押すように仕向けたのだ。

 米系や露系と違い邦国的な集団としての基盤を持たない英系は、その存続の為に帰化した日本への忠誠を誓い、それを曇らせてはいなかったが、同時に、女王陛下への忠義も忘れた訳では無かったのだ。

 日本の利益にブリテンの利益が乗る様に、細心の注意を払って行動していた。

 その事を理解しているブリテン人も又、英系日本人に対しては協力的であった。

 

 余談ではあるが、日本国内に於いて政治勢力としての影響力を持っているのは、米系と露系そして英系のみである。

 その上で邦国と言う背景(バックボーン)を持たない英系は極めて特殊な存在であった。

 尚、人口としては多い中系と韓系であったが、タイムスリップ前の諸々を歴史的背景としている為、政治的影響力は持っていない。

 中系日本人も韓系日本人も、日本社会で物理的な意味で生きていく為に集団化は絶対の禁忌(タブー)として行動していた。

 判りやすい所では、中系日本人代議士は存在しているが、その後援団体に中系日本人が居ないと言う事だろう。

 英系が、英系日本人を教育する学校を持っているのに対し、中系にも韓系にも許されていないのも分かりやすい。

 朝鮮学校なども組織として完全に解体され、建物は勿論、土地すらも形を偲ばせるものすら残っていない。

 そこまで徹底していた。

 個人として参政権も被選挙権もある。

 就職の差別等は絶対に許さない。

 だが、集団となろうとすれば別。

 それらが、日本人の潜在的感情(いまだ赦しを与えていない事)を示していると言えた。

 

 

*4

 SMS社警備部隊はドイツ戦争前から戦乱の地であるユーゴスラビア地方に情報(戦訓)収集の為に投入されており、コレは日本連邦統合軍(第111特務団)が参陣するまで任務を継続していた。

 尚、第111特務団の投入後は、公式にはSMS社警備部隊は国外退去した事となっている。

 民間企業である為だ。

 代わりに、第111特務団特務警備隊(オメガ・チーム)と看板を変えて護衛任務を継続した。

 

 

*5

 日本の物理的限界で言うならば、戦略爆撃機もそうであるが、有人無人を問わない偵察機や偵察衛星による偵察行動も十分に行いきれていなかった。

 無論、それは日本視点として(米国基準を見て)の話であり、この時代の国々からすれば圧倒的な内容ではあった。

 だが、日本が限界を理解する通り、現実として日本の戦略爆撃隊は十分な効果を発揮しきれずに居た。

 

 

*6

 ドイツが本格的なジェット式の迎撃戦闘機の配備を開始するとの情報に接したアメリカ空軍は、国内のメーカーに対して超爆撃機(Over Free air Bomber)構想に基づいた 高高度侵入爆撃機(40,000ft.bomber)の開発を指示していた。

 ボーイング社やロッキード社は未来を夢見て参加していたが、大多数のアメリカ航空機企業のオーナーはその未来の乏しさから業務撤退を考えていた。

 その中で異色だったのはノースロップ社であった。

 大の全翼機ファンであった社長は、未来の自社が全翼機を生み出すと知って興奮し、撤退を図る企業を買収して技術を蓄積し、名乗りを上げたのだ。

 とは言え、現時点での技術でジェット式の全翼機を自前で開発できると自惚れてはいなかった。

 だからこそ、ノースロップ社は同じアメリカ企業であるエンタープライズ社に技術協力を要請したのだ。

 標準的な爆撃機を欲していたアメリカ空軍関係者は海軍の前例(F/VP-1哨戒戦闘機)を思い出して微妙な顔をしたが、世界初のステルス爆撃機を開発出来る! と言う主張に政治側が折れて、開発計画に予算を付ける事となった。

 こうして開発された爆撃機B-35は、世界初のステルス爆撃機として世に生み出される事となる。

 尚、愛称であるブーメラン・ボンバーは、一般にその外見に基づいて命名されたと思われがちであるが、現実は()()()()()()()()()()()()としての命名であった。

 とは言え、エンタープライズ社の協力によって一定の電子制御を導入していたB-35は、極めて高価であった為、アメリカ空軍主力爆撃機の座は伝統的デザインのボーイング社製B-39(ウルトラ・フォートレス)が担っていた。

 余談ではあるが、B-39に対して当初は29のナンバーを振る事が考えられていたが、グアム特別自治州出身で日本通の将校が、それは日本を刺激するから止めておけと助言し、流れていた。

 

 




2023.1.19 文章修正

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