タイムスリップ令和ジャパン   作:◆QgkJwfXtqk

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161 第2次世界大戦-28

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 1945年初春。

 ドイツ戦争西部戦線で遂にフランス軍を中心とした国際連盟総軍、フランス政府がいう所の大陸軍(SDN-グランダルメ)が動き出した。

 冬の間、ドイツが必死で用意した防衛ライン ―― 世界大戦(World War 1914-1918)を思わせる塹壕、或いは拠点群。

 そのほぼ全てに、大地を掘り返す勢いで砲撃が行われた。

 初手は、簡単に数を用意する事の出来る自走ロケット砲群だ。

 平均誤差半径(CEP)と言う意味では手荒い無誘導のロケットであるが、その分に安く作れるので数を揃える事が出来る。

 日本製、フランス製、ブリテン製、アメリカ製など雑多なトラックを臨時に各部隊から徴発し、改造して作り出された特設の自走ロケット砲は、その数が5桁近くに達していた。

 大量の車両が、各部隊毎に時間を置いて発射した為、1時間近くロケット弾は降り注いだ。

 防護施設を出る所か、頭を上げる事すらも危険であり、只々神に祈るほかない時間。

 絶望的なまでの攻撃を受け、生き延びる事が出来たドイツ軍将兵は、この世の終わりを見た(アポカリプス・ナウ)と後述していた。

 文字通りの鋼鉄の雨。

 爆炎、煙、焔、巻きあがった土煙は昼を夜に変える勢いであった。

 だが、それが齎した破壊は、致命的にはならなかった。

 十分に検討されて作られた塹壕や防衛拠点(トーチカ類)は、運の悪い場所へと直撃を受けた場合を除いて甚大な被害から人々や装備を守り抜いていた。

 それどころか、よく訓練されたドイツ人将兵は反撃を試みていた。

 それは野砲 ―― 後方に隠蔽温存されていた貴重な重カノン砲による反撃射撃(カウンター・バッテリー)だ。

 砲部隊指揮官の中には、砲撃する事で存在を暴露する事の危険性を指摘する者も居たが、ここで反撃を試みなければ前線の将兵の戦意が折れる(モラールブレイク)との前線の歩兵将校が上げる(要請)に勝つ事は出来なかった。

 とは言え、ドイツ側も勝算が無い訳では無かった。

 国際連盟側が持ち込んだロケット弾は射程距離が10㎞程である為、20㎞を超える重カノン砲で後方から反撃を行えば大丈夫だろうと言う()()であった。

 そもそも、国際連盟側が常軌を逸した勢いでロケット弾を降り注がせているのだ。

 こんな状況で反撃を受けても、どこから受けたかなど把握は出来ないだろうとの()()()()()もあった。

 だが残念。

 現実はそうそう甘くはなかった。

 日本がMLシリーズで大量に、簡易的ながらも必要十分な能力を持った対砲レーダーをばら撒いていたからだ。*1

 ML-012が探知したドイツ軍重カノン砲部隊の位置に対して、国際連盟側は容赦の無い報復射撃(カウンター・カウンター・バッテリー)を実行した。

 大規模な砲合戦。

 戦車や対戦車砲に砲生産の枠を奪われ、数の少ない()()()と言えるドイツ軍砲兵部隊は、この戦いで半壊する事となった。

 だが、その対価は余りにも乏しかった。

 ドイツ側も狙いをロケット弾部隊から砲部隊に変え、反撃を図ったのだが十分には達成できなかった。

 1つは、国際連盟側の野砲部隊の位置を把握すること自体が困難だったと言うのが大きかった。

 互いに20㎞を超える距離で撃ち合っているのだ、レーダーなどの手段を持たない以上は仕方のない話であった。

 一部の部隊では、危険を覚悟しての航空機による偵察も図られたが、有意な情報を得る前に掃討されていた。

 空は、ドイツのモノではなくなっていた。

 そしてもう1つの理由。

 それは、国際連盟側の各国砲兵部隊は、射撃後に手間を惜しまずに撤収と再配置、そして射撃と言うサイクルを徹底していたと言うのが大きかった。

 それが出来たのは、砲兵部隊の徹底的な自動車化を推し進めていたお陰であった。

 全ての砲に1台ずつトラック等が用意されているのだ。

 或いは不整地向けに旧式戦車等を流用した、装軌砲兵支援車が用意されていた。

 ドイツが馬乃至はロバを牽引に用いているのとは隔世の感があり、そして同時に、それが残酷なまでに生存性に差を与える事となったのだ。

 それらは、言うまでも無く日本の影響であった。

 砲自体の改良も含めて、国際連盟の主要国家(ジャパンアングロ)が持つ砲兵部隊はドイツの遥か先にあった。

 戦車と言う、宣伝されやすく目立つ存在にドイツは幻惑されていたとも言えた。

 兎も角、攻勢開始から半日で、ドイツ軍西方総軍が前線部隊に張り付けていた砲兵部隊は紙の上にその存在を移したのだった。

 

 

――ドイツ西方総軍

 ヒトラーが関心をポーランドとバルカン半島に集中させていたお陰で、事実上のフリーハンドを得ていたドイツ西方総軍。

 だが、その内情は1944年の攻防による被害から回復できずに居た。

 頭数と言う意味では、師団数も含めて回復どころかドイツ戦争開戦前よりも大規模な戦力とはなっていた。*2

 無論、その内情は悲惨であったが。

 国民擲弾兵(Volkssturm)師団は、壊滅した部隊を核として老人や若者、或いは兵役不適格とされていた人間をかき集めて作られた部隊であり、正規師団に比べて重装備が乏しく小規模部隊(拡大旅団規模)でしかなかった。

 だが、国民擲弾兵師団は()()()()であった。

 まがりなりにも正規の軍事教育を受けた人材が多く在籍していたし、小規模ではあっても標準的な軍事組織として編成されていたのだから。

 ドイツ西部総軍司令部でも、装備不足ではあるが、限定的であれば反転攻勢任務にも投入可能と評価していた。

 問題は、数の上で主力となる国民突撃隊(Deutscher Volkssturm)であった。

 地域住民を強制徴発し頭数だけを揃えて師団、国民突撃師団と言い張っているのだ。

 攻撃を受け止めて弾薬を消費させ時間を稼ぐだけの肉壁 ―― 或いは、攻撃を察知する為の(センサー)程度にしか使えないと言うのが、ドイツ西方総軍の認識であった。

 老若男()、歩けない老人や乳幼児以外は荷運びなどの仕事もあるとばかりに徴発して作られたと言う無茶苦茶さであった。*3

 その様な部隊(軍組織)とは言えない部隊など、可能であれば前線に出したくないと言うのが本音であった。

 だが、その国民突撃師団をも頼らざるを得ないと言うのがドイツ西方総軍の実情であった。

 それでも尚、ドイツ西方総軍司令部は国際連盟と闘い、時間を稼ぎ、生き残る道を探していた。

 だが、それは容赦の無い鋼鉄の雨によって砂糖菓子の様に溶けていくのであった。

 

 

――フランス

 1944年の戦いをフランスとして評するのであれば、不本意と言う一言こそが似つかわしかった。

 圧倒的な戦力を用意していたにも関わらず、最初の攻勢は頓挫し、ごく一部とは言えフランス領内にまでドイツ軍の軍靴に荒らされるのを許したのだ。

 1930年代より営々と戦争準備をしていたにも関わらず、である。

 故にフランス政府や国民は、ドイツへの憎しみを燃やすと共に、軍の不甲斐なさを批判した。

 そうであるが故に、フランス軍はドイツ人の血で畑の畝を赤く染めんが為に、不断の決意をもって進軍を開始するのだった。

 地雷原を耕し、砲兵を潰し、戦車を前面におし立てて塹壕へと進む。

 最前線で配置されていたドイツ軍部隊はW軍集団であったが、十分な再編が行えなかった ―― フランス空軍機などによる空爆が自由で大規模な部隊の移動を許さなかった為、塹壕などの拠点によって頑強に抵抗する事が出来る事の精一杯であった。

 フランス軍の先鋒を確認するや、ドイツ軍部隊はそれまで必死になって隠蔽し温存してきた戦車や対戦車砲その他による火力のありったけを叩き込む。

 だが正面に立つフランス戦車、55t級の重戦車であるARL40を止める事は出来なかった。

 足回りを破壊し、或いは側面などの脆弱な場所を狙う事で少なくないARL40を擱座せしめる事は出来ていたが、攻勢を頓挫せしめる事は不可能であった。

 装甲の差、火力の差、そもそもとして偵察能力の差があっては、先ず攻撃を行う事が難しいと言う有様であった。

 そもそも航空優勢はフランス、国際連盟側が握って揺らいでいないのだ。

 それ以前の問題として、ドイツ空軍の航空基地は、存在が察知されている場所に対しては悉くに日本製のステルス巡航ミサイルが降り注いでいるのだ。

 空の騎士を自認していたドイツ空軍(ルフトバッフェ)も、空を駆ける事も出来ずじまいであった。

 その様な状況で、ドイツ軍陸上部隊に出来る事は無いとすら言えた。

 フランス空軍の攻撃機が訓練の様な気楽さで、爆弾やロケット弾を叩きつけていくのだから。

 それを本来や抑止するべき陸上の防空戦力群 ―― ドイツが必死になって前線に持ち込んでいた対空砲や、それを運用する為のレーダー網は、国際連盟による全面攻勢に際して行われた日本連邦統合軍(航空自衛隊)のステルス戦闘機 ―― F-35Aによる精密誘導弾攻撃で悉くが灰燼に帰していたのだ。

 偵察衛星や高高度偵察機、なにより対地監視機(E-1 STARS)が前線のドイツ軍部隊を丸裸にしていた結果だった。

 いまだ偵察の主力は銀塩カメラ、或いは日本から導入したデジタルカメラが精々な航空偵察は、偵察による発見から識別と判断、そして攻撃までのタイムラグが最低でも1日は必要であるのに対し、日本の偵察と情報収集はネットワークによって攻撃とシームレスに繋がっている為、ドイツ側に対応する様な時間を一切与えなかったのだ。*4

 ドイツ西方総軍司令部は、国境に構築した第1防衛地帯(要塞化塹壕線)が数日で突破される事を覚悟した。

 だが、そうはならなかった。

 徹底的に攻撃を受け、ゆっくりと玉ねぎの皮を剥くように前線を押し込まれていたが、それは部隊が壊乱し後退た場所ですらも同じであった。

 ドイツ軍の罠、或いは作戦をフランス軍司令部が恐れた ―― そんな訳では無かった。

 只々、国際連盟安全保障理事会の議決に従って、ドイツ人の精神(抵抗心)をへし折る為であった。

 ()()()()()()()()()()()、フランス軍はそれを合言葉に、攻撃を行うのであった。

 

 

 

 

 

 

*1

 対砲レーダーとして配られてたML-012は、日本基準から見れば民間向けの低価格で限定された機能しか持っていない、簡易レーダーであった。

 ML-012の構成は2tトラックであるML-01にレーダーと、レーダーを高く伸ばす事の出来るクレーンにアウトリガーと電源ユニット(ディーゼル発電機)、そしてレーダー管制室を乗せたものであった。

 管制室は3人も入れば一杯になる程に手狭ではあったが、システムを1台にまとめ上げる事が優先された為、このような仕様となっていた。

 この為、余裕のある状況であれば、ML-012の傍に別個で天幕を張って観測任務(オペレーション)を遂行する事もあった。

 尚、ML-012は割合に高額装備であった為、これを大量に発注出来たのはアメリカを筆頭にしたG4位であった。

 それ以外はイタリアが買えた位であった。

 尚、ソ連も声を挙げたが、黙殺された。

 

 

*2

 オランダ戦線とイタリア戦線も統括する事となったドイツ西方総軍の戦力は5個の軍集団と1個の装甲軍集団、それと1個の軍団で構成されていた。

 31個歩兵師団

 20個自動車化師団

 11個機械化師団

 23個国民擲弾兵師団

 52個国民突撃師団

 15個戦車師団

 

 

A軍集団

 航空優勢を奪われている中でも、不断の努力によって再編成を終えた西方総軍最大の予備戦力。

  7個歩兵師団

  2個自動車化師団

  1個戦車師団

 

W軍集団

 壊滅していた第3軍集団をW軍集団へと合流させ、その上で国民擲弾兵師団を編入した戦力。

 とは言え、集結と再編成が遅れ気味である。

  15個歩兵師団

  12個国民擲弾兵師団

  1個戦車師団

 

Q軍集団

 国民突撃師団を中心に編成され、マインツ市近郊で、国際連盟と対峙している。

 数字的には有力である。

  1個自動車化師団

  20個国民突撃師団

  6個国民擲弾兵師団

 

ルール要塞軍集団

 ヒトラーが戦争継続に於いて絶対に防衛するべきであると断言した為に、ルール工業地帯の要塞化の為として編成されている。

 とは言え、国民突撃師団が防衛戦力の中心である為、その内実は寂しい限りとなっている。

  3個自動車化師団

  32個国民突撃師団

  2個戦車師団

 

第1装甲軍集団

 ドイツ西方総軍の総予備として再編成された装甲戦力。

  7個機械化師団

  5個戦車師団

 

第2装甲軍集団

 偵察によってフランスに集結しつつある国際連盟の兵力を認識した西方総軍司令部が、ヒトラーに増援を要請し、用意させた戦力。

 移動に注意を払っている結果、いまだ西方総軍司令部の管理下には全戦力が揃ってはいない。

  14個自動車化師団

  3個機械化師団

  5個戦車師団

 

C軍集団

 イタリア戦線(対イタリア)部隊。戦線がドイツ国内に至った為、ドイツ西方総軍の管理下に入った。

  7個歩兵師団

  5個国民擲弾兵師団

  1個戦車師団

 

ドイツネーデルランド軍団 

 ネーデルランド戦線(対オランダ)部隊。国際連盟側がこの方面での攻勢を指向していない為、比較的安定している。

  2個歩兵師団

  1個機械化師団

  1個戦車師団

 

 

*3

 ナチス党幹部の肝いりで作られた国民突撃師団を、宣伝省の撮影部隊(国営マスコミ)と共に閲兵したドイツ西方総軍の幹部は深い絶望を手記に残していた。

 何故なら、閲兵に際して一番前に立っていた()は、国民突撃隊に所属を示す腕章を付けただけの私服(厚手のコート等の)姿で立つ、厳しい顔をした赤毛を三つ編みにした少女だったのだから。

 閲兵を案内するナチス党の党員は、その少女を示して誇らしげにドイツ女子同盟に所属していたのですと説明する始末であった。

 その様なモノを見せられて絶望以外の何を感じろと言うのか、と言う話であった。

 軍は銃後を護るモノではないのか。

 その護るべきモノで守られる職業軍人と言う構図に吐き気を覚えると共に、自慢げに(ドヤァ顔で)閲兵を案内するナチス党党員を殴り飛ばさなかった自分を褒めたい等と、現実逃避をする程であった。

 

 尚、この幹部はドイツ西方総軍司令部に戻って以降、この国民突撃隊の実相(悲惨さ)を隠す事無く報告し、その運用に関して強く1つの事を主張していった。

 特に女子が多くいる部隊には、()()()()()()()に通信偵察部隊に限定させ、接敵した場合には位置情報の報告後は即座に降伏させるべきとの事であった。

 降伏すれば、敵にジュネーブ条約に基づく保護義務が発生する為、下手に交戦するよりも負担を強いれるとの理論武装であった。

 その本音が何処にあるかを理解しつつ、ドイツ西方総軍司令部は、その主張を受け入れていた。

 それは、数少ないドイツ軍の理性の証明とも言えた。

 

 

*4

 機械的に行われた、血も涙もないとすら言える航空自衛隊による攻撃は、ドイツ側にとって悪夢そのものであった。

 この為、日本の国籍識別標を指して血染めの円標(ブラッディ・ミートボール)などと現場のドイツ空軍将兵は呼んでいたとされている。

 都市伝説の類であった。

 実際問題として、航空自衛隊機/日本連邦統合軍航空機をドイツ空軍が視認する事は先ず無かったからである。

 それはシベリア独立戦争でもそうであり、日本が関わった航空戦闘の全てで、そうであった。

 特に、ドイツ空軍パイロットの手記などで、日本の国際識別標(ミートボールマーク)を間近に見て、叙事詩的に「死神の目を見た」と言う事はあり得ない話であった。

 だが、日本政府にせよ航空自衛隊にせよ、その手の商業出版に対する反応(ツッコミ)をする事は無かった。

 大人げないから(武士の情け(誤用版)、であった。

 

 




2022.06.28 文章修正

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