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要塞化を施し、対ポーランド戦争で重要な位置にあったウッチ市が半月も経ずしてポーランド軍に取り戻された事は、ドイツに大きな衝撃を与えた。
ヒトラーは国防軍の不甲斐なさに激怒し、参謀本部の関係者を総統官邸に呼びつけて叱責した程であった。
だが、参謀本部の英才は、これを奇貨としてポーランド軍精鋭部隊の撃滅を図るべきだと反論した。
否、説得した。
ウッチ市の現状は、ドイツの支配領域に打ち込まれた楔の如く見えるが、同時にドイツの支配領域に浮かぶ島として孤立しているとも見えた。
ある意味で正論であった。
そうであるが故に、己を稀代の戦略家と自認するヒトラーはその説得を受け入れていた。
幸い、ウッチ市に居た部隊こそ
故にヒトラーは激昂を収めて、満面の笑みで英才を称え、ポーランド侵攻軍に対して反攻を厳命する事とした。
ウッチ市の補給路に対して全力で攻撃を敢行してこれを孤立させるべしと、滔々と演説を行ったのだ。
このヒトラーの要求を受けたドイツ参謀本部は喜ぶ事となる。
フランスとの戦争で失敗した芸術的戦術機動、
但し、その為には現場に全権を預けねばならないとヒトラーに要求した。
建前としては、部隊の高い機械化が成されているポーランド軍に対抗するには、早い判断と対応が必要であり、ヒトラーの的確ではあっても時間の掛かる後方からの指示では対抗しきれないと言うのが理由であった。
勿論、本音としては純軍事的な判断の邪魔をするなである。
その参謀本部の本音に気付く事無くヒトラーは、G4の先進性に対抗する為に必要だとの弁を受け入れる形で、本作戦に対して限定的ながらも東部戦線の指揮官に対して作戦指導の全権を預けたのだった。
――ドイツ東部戦線部隊
降って湧いたかの如き好機、ヒトラーからの軍事的指揮権の奪回を果たしたドイツ参謀本部は東部戦線部隊の指揮系統を大胆に整理した。
ヒトラーの思いつきで色々と任務を与えられ、部隊を細分化していた事への反発でもあった。
問題は、それが2週間程の時間を必要としたと言う事である。
それ程の時間を掛け、東部方面の戦力の管理体制の刷新を行った理由は政治的、或いは感情的なモノではなく、現実的な必要性に要求されての事であった。
元より、西部戦線と同様に東方総軍と言う組織の看板自体は存在していたが、その隷下にある3個の軍集団には個別にヒトラーの指示が出されており、看板の下に仕事をするべき東方総軍司令部は存在していなかったのだ。
東部戦線が
兎も角、東部戦線の戦力を1つの戦力として連動して動かす為に必要な時間ではあった。
東方総軍の主力である中央軍集団、その司令官と参謀団を暫定的に
この組織改編によって、東方総軍はドイツ参謀本部の管理下に復帰する事となる。
戦争を遂行する準備ができたとドイツ参謀本部の人間は嘯く程であった。
これによって有機的に動き出すドイツ東方総軍。
主力は中央軍集団。
それに、冬の間に得た増援を基に戦力の低下していた北部軍集団から機動運用に向いた部隊を抽出編入して新設されたα装甲軍集団が機動投入を行い、助攻として南方に展開していた第4軍集団が加わる。
新設されたα装甲軍集団は7万人規模の、軍集団と言うよりは軍と言うべき陣容であり全ての部隊が完全充足状態とはとても言えない部隊であったが、それでも、精鋭と呼べる将兵や装甲戦力の多くが西方総軍に引き抜かれている現状では、宝石よりも貴重な装甲戦力であった。
戦意も良好であった。
だがポーランドに負けるのは、
ドイツ人の矜持、あるいはドイツ人の都合。
だが残念。
世の中と言うものは一方の都合だけで動くものでは無かった。
――国際連盟ポーランド駐留軍
ポーランド軍によるウッチ市の解放成功は、国際連盟軍東部戦線部隊の動きにも影響を与える事となった。
敵中に刺した鋭い針。
それを如何に効率的に用いるのかが焦点となっていた。
だがそれも、ドイツ軍の
ポーランド領内に存在する全てのドイツ軍部隊が動くような大規模な準備行動は、当然ながら日本の偵察衛星によって丸裸状態になっていた。
ドイツも、偵察機には注意を払っていた。
偵察衛星と言う概念も理解はしていた。
だが、光学手段はまだしも合成開口レーダーによる偵察衛星までは十分に理解してはいなかった。
ドイツは、不断の努力をもって危険な夜の無灯下で、或いは曇りの日を選んで部隊や物資を動かしていたが、天候すらものともしない電子の目がその悉くを見ており、その努力は全く報われる事は無かった。
結果、当初予定されていた
将来的な作戦よりも目の前の敵に対応する作戦が必要だからだ。
流用は出来ない。
何故なら新しく作り上げる作戦が、積み上げた
新しい作戦は、防御と言いつつもドイツ軍の撃滅を図る
既に単純な兵力だけで言えば国際連盟側が3倍以上に優越している。
アメリカからの派遣部隊が東部戦線に送られているのだ、当然の話と言えた。
その上で日本連邦統合軍の数的主力が最精鋭の陸上自衛隊と質と量のバランスに優れたシベリア共和国軍で構成されているのだ。
質の上でも絶対的な格差があった。
である以上、攻勢に出るのであればそのまま一気呵成にドイツ本土まで侵略者を叩き返そうと言う話になった。
故に、
ドイツ側が攻勢を始める、その時までは物資の蓄積に勤しみ、全てが始まれば全戦線で一気に前進しドイツ側の対応を飽和させ、包囲し、撃滅しようと言うのだ。
強い側の戦略としか言いようが無かった。
この決定に従い、航空部隊は休息と整備のローテーションを定めた。
それは補給部隊でもそうであり、或いは各部隊でも装備の点検を行った。
これらの動きは、通常であれば航空偵察なりによって把握されてしまうものだったが、日本が用意した戦域防空網 ―― 移動式レーダーサイトと管制ユニットに管理された各国の戦闘機部隊がドイツの航空偵察を許さなかった。
そもそも、足の短いドイツの航空機、特に生存性が重視されて東部戦線で良く運用されていた
地上レーダー乃至は
基地はその時点で消滅。
そして偵察機も、戦闘空中哨戒任務中の戦闘機によって処理されるのだ。
低空で低速な、それこそ地上の車両と速度の差が無い簡易偵察機であれば、その探知網と迎撃システムに察知されるリスクは少ないが、此方の場合、地上部隊からの迎撃 ―― 日本が情け容赦なくばら撒いた個人レベルで行える対空手段たる
結果、ドイツはポーランド及び国際連盟側の動きを把握する事が出来なかった。
これによってドイツは、夏に向けた攻勢準備自体はポーランド国内向けにも公表されていた為、先のウッチ市攻略戦で消費した物資の回復や部隊の再配置に絡む行動であろうと判断し、よもやの攻勢防御を仕掛けられるとは、夢想する事すら無かった。
尚、一部の実戦経験豊富な前線将校は、この動きにきな臭さを感じて警告を上申していたが、東方総軍参謀団などは自前の戦争準備が忙し過ぎた為、これを無視していた。*2
――
2個の軍集団都合30個師団、関連部隊を含めれば100万人にも達する大兵力による攻勢開始の様は、ドイツのニュース映画にも撮影される程であった。
特に、威風堂々と出撃する新鋭のⅥ号戦車の群れは、見るモノの心を掻き立てる暴力であった。*3
作戦開始との報告と共に、そのニュース映画を見たヒトラーは深く満足していた。
これならば勝利も間違いない。
そう思っていたのだ。
だが、その満足は1週間と維持されなかった。
ウッチ市とポーランド西方域の補給線を叩こうとした攻撃が、呆れる程の簡単さで頓挫したのだ。
それまで航空基地攻撃に限定して使用されていた
如何に戦意があろうとも糧秣や弾薬は勿論、燃料や保守部品まで燃やされてしまえば出来る事など無かった。
否、それどころか無線による指揮系統が西部戦線と同様に叩かれ始めたのだ。
それは、文字通りの
ドイツ領内では無いので、民衆の目の前でドイツ軍の面子を叩き潰す必要も無い為、そしてポーランド領内のインフラを破壊させない為にも、効率最優先で戦争を行っていくのだ。
それは、正に無慈悲であった。
ドイツの象徴とも言えたⅥ号戦車は、その機動力の低さ故に
31式戦車の120mm砲や43式機動砲車の203mm砲の前では、Ⅵ号戦車の装甲など紙も同然でしかないのだから。
そして足の止まったドイツ軍をポーランド軍、日本連邦統合軍、そしてアメリカ軍を中核とした3つの戦力集団が、津波めいて押しつぶしていった。
その最前線に立つのは、日本
タイムスリップ前から陸上自衛隊の中核的機甲戦力であった10式戦車、その退役前の最後のご奉公の場所が欲しいと志願し、ポーランドに派遣されてきていたのだ。
10式戦車を最前線に配置し、偵察と攻撃を有機的に統合させて行う第7機甲師団の攻勢を前にしたドイツ軍部隊に出来る事など何も無かった。
元より第7機甲師団は陸上自衛隊の
ある意味で、当然すぎる結果であった。
只、以前に
少なくとも、
ポーランド軍は勿論、アメリカ軍とすらも段違いの進軍速度を発揮し、最後には東方総軍司令部の喉元を引き裂いたのだ。
第7機甲師団に付いていた従軍記者はその様を
司令部が消滅した東方総軍は、完全に総崩れとなった。
ドイツ軍の
攻撃の主力であった中央軍集団はポーランド軍と北欧その他からの派遣軍によって打ち払われた。
α装甲軍集団は
北部軍集団は後退中にアメリカ軍に捕捉され包囲された結果、1週間ほどの抵抗の果てに集団で投降していた。
救援部隊はあり得ない状況であり、自力で脱出するには糧秣や燃料の不足が致命的であった為の事であった。
唯一、南方の第4軍集団だけが、ある程度の組織を維持したままに後退に成功していた。
これは航空支援その他が北部に集中していた事、ドイツが最大戦力を揃えていた中央軍集団の撃滅に集中していたからであった。
又、燃料喰らいの重装備が少なかったからとも言えた。
兎も角、ポーランドを荒らしていたドイツと言う暴風は1945年の夏を前に消滅したのだった。
携帯SAMであるML-40は、新規開発された簡易的な個人携帯型のコンパクトな
提供日から1年ごとに、個体ロット番号と併せた日本発行の電子キーでライセンス更新をせねば自壊する様にされていた。
又、
尚、日本としては安価に提供しているML-40であるが、普通の国家にとっては高額装備である為、コレを装備出来るのは精鋭と認識されている部隊に限られていた。
戦後、東方総軍参謀団勤務であった中佐の手記に依れば、当時の参謀団での空気は実に楽観的なものであったとされている。
即ち、攻勢をかけるのはドイツである為、日本やアメリカが何を準備していたとしても、それが動く前に、ドイツが動く。
ドイツが動けば対応して動くので、事前準備など無意味になる。
そう考えていたのだと言う。
実に甘い考えであった。
そのツケはドイツ東方総軍に重くのしかかる事になる。
Ⅵ号戦車は避弾経始を重視して傾斜装甲を採用した70t級の巨躯に、長砲身化された8.8㎝砲を持つ。その様は家が動くと言う表現こそ似つかわしい存在であった。
少なくとも、
問題は余りに高額で貴重な資源を馬鹿食いする車両である為、数を揃える事が難しいと言う事である。
現時点で東部戦線に存在するⅥ号戦車は100両を超えていなかったのだ。
又、足回りの整備性は最悪であり、エンジンは500馬力級と車両を支えるには過少気味であった。
正直に言えば非力。
計画立案時には700馬力級のエンジンが予定されていたのだが、コンパクトな大馬力ガソリンエンジンの開発に難航した為、次善の策として量産の進んで居たⅤ号戦車のモノが採用された結果であった。
機甲科の将校たちは、移動トーチカめいたⅥ号戦車よりも機動性能の良好な中戦車 ―― 44t級のⅤ号戦車系列が充足する事を望んでいた。
現実には、30t級以下の古臭いⅢ号戦車系列が精々であったが。
主砲は7.5㎝級であり、ポーランドの35TP戦車の90㎜砲にも劣る戦車を
イタリアのP40/42戦車系列の105㎜砲と比べるのは絶望的とすら言えた。
それがドイツの内情であった。
2022.8.3 文章修正