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国際連盟安全保障理事会隷下の小委員会として発足した
最重要課題は
民族の独立を求めたアフリカの独立運動は、事、国際連盟の公式の場では武力による蜂起を行った不逞の徒 ―― 叛徒であった。
国際連盟が独立した国家の同盟である以上、主権を持った国家が優先されるからである。
人権その他が軽視される訳ではないが帝国主義時代の残滓、即ち内政干渉による国際連盟加盟国間での紛争抑止と言う意味で、国家間での内政不干渉原則が国際連盟加盟国に強く求められている結果とも言えた。
かくして、アフリカの武装反乱勢力は独立運動として国際連盟で扱われる事は無かったのだ。
だがそれは
武装反乱勢力は民族独立、民族自決を声高に主張してはいるのだが、その実として同胞たちの扱いが余りにも悪すぎ、支配下の領域に於ける搾取 ―― 奴隷としての連れ去りや資産や食料品などの収奪、勝手な税の設置やら富裕層に対する喜捨の強要を行っていたのだ。
間違っても独立運動等と呼べるモノでは無かった。
確かにフランス本国に対するフランス
最近になって、植民地の看板を
コレは、一つには火を点けたドイツ親衛隊が、戦後の事を睨み、
気位の高いドイツ人でも特に
フランスとブリテンの基盤を揺るがすと言うのが第一目標ではあったが、将来的にはドイツが支配するべき土地として認識していたのだ。
又、武装蜂起した独立運動の人達が大衆から支持されないのは、そもそも、永きに渡った
ドイツ戦争で支配者たるフランスがドイツに戦争で負けていたならば話も違うのだが、残念ながらもドイツが一方的に惨敗する結果となっていた。
恐ろしい大国、覇権国家フランスと言う意識がアフリカの多くの人々から反抗心を奪っていた側面があった。
その状況下で、フランスが植民地を同胞であると宣言し、その扱いの改善を約束したのだ。
一般大衆の気持ちが、民族独立を口にしながらも強盗の群れめいている独立運動の人々と、世界に冠たる大帝国フランスから同胞扱いされると言う事の間で揺れ動くのも当然の話であった。
閑話休題。
兎も角として始まった国際連盟安全保障理事会隷下の
フランスは、自国内の問題である以上、フランス単独で解決せねば国家の威信に関わると認識しての事であった。
対してソ連は、手段を問わない国内安定化政策を取る事を既に決定していた為、
既にドイツ戦争時にあったソ連と
シベリアの青い空に染みの様に加わっている黒い機影 ―― B-52は日本の持つ爆撃機戦力の中では旧式に類される装備であったが、その航続性能は容易にモスクワを焼く事が出来る為、ソ連空軍にとって最重要警戒対象であった。
ソ連を明確に敵として見ているのだ。
そんな日本が、ソ連の未来が懸かっているコンゴへと手を突っ込まれては困る。
許せない。
そうソ連が思うのも当然の事であった。
だからこそ、ソ連は
とは言え、ソレは大義名分がない訳ではない。
実際、フランス
実際、日本
世界の目が向けられていないコンゴ。
故に、ソ連による
――コンゴ
苛烈なベルギーによるコンゴ統治の反動で、熱く盛り上がっている独立運動。
この鎮圧の為、大規模な将兵を暑いコンゴの大地に派遣する事となった。
その総数、実に100万人規模である。
とは言え全てが戦闘要員と言う訳ではない。
コンゴの大地の情報収集や、資源情報の獲得、或いは支配の為のインフラ作りなども含まれていた。
ある意味でフランスはナポレオンによるエジプト遠征が似ているといえるだろう。
そして勿論、そこには
ソ連は容赦のないこん棒でコンゴを平伏させる積りであった。
同時に、ソ連に従順な人民に関しては、ソ連本土での教育や仕事の斡旋を行うとされていた。
ソ連式の飴と鞭であった。*1
このソ連の与えた飴は、コンゴの大地に住む人々にとっては大きな意味を持った。
同胞であると言う事、即ち、人間扱いをされると言う事が大きかったのだ。
かつての支配者、
一般的なコンゴの民は、ソ連の示した
とは言え、独立運動に身を投じた人々が武器を捨てる事は無かったが。
コンゴがコンゴとして独立する事が出来れば、独立運動に身を投じた人々は新国家建設の英雄であり、様々な栄達が得られるのだ。
即ち、他人を支配する立場に昇れるのだ。
そんな
それどころか、ソ連に加わる事に喜びを感じた人々を明確に
ゲリラ戦をする側が人民を敵と見るのは余りにも下策であったが、その事に気が回る様な人間であれば、ソ連の飴を無視する筈も無かった。
更に言えば、コンゴ人の敵であると宣言すれば好きなだけ蹂躙出来ると短絡的に考え、動いていく事になる。
コンゴの状況は、加速度的に悪化していく事となるのであった。
――リベリア
アフリカにある独立国、その中でも小国と言ってよいリベリアにとって、このアフリカ各地での独立運動と言う名の戦乱は対処し切れる限度を超えるものであった。
特に、ブリテン連邦加盟国として安定しているシエラレオネ共和国は兎も角、半世紀前までは独立国家が乱立していたギニアやコートジボワールでは旧支配者や支配者層の末裔らが
もう少し時間が経過していれば話は違ったかもしれないが、1940年代は、まだ独立国家時代を覚えている人間が多く居たのだ。
そこにドイツ人が火を点け、油を注いだのだ。
燃え上がらぬ筈が無かった。
とは言え頼られたアメリカの反応は芳しいモノでは無かった。
アメリカの駐リベリア大使は、リベリアの大統領に対して滔々と述べた。
国家の安寧と独立は、国家自身の手によって行われねばならぬのだ、と。
正論ではあった。*2
かくして、リベリア政府要人が要求した様な大規模なアメリカ陸軍の派遣が行われる事は無かったが、代わりにアメリカ海兵隊が戦車を含む増強1個連隊規模で配置される事となった。
その上でリベリア人が自らの手で国家を守る事を約束する事となる。
即ち国民皆兵、徴兵制度の導入と常備軍の設立である。
軍とは言っても独立国家であるリベリアで独立運動などと言う様な素っ頓狂な事が起きる筈もなく、
総人口が1000万どころか500万にも遥かに届かないリベリアで、リベリア政府は男女を問わぬ動員を行って50万の軍勢を作り出し、国境警備を行う事としていた。
尚、その作戦に必要な装備は全てがアメリカの無償援助で賄われる事となった。*3
アフリカの争乱は少しずつ、だが確実に影響を広げていっていた。
ソ連国内での仕事と言うものは、高等教育未修者であっても幾らでも欲しいと言うのが実状であった。
実際、ソ連 ―― ソヴィエトへの参加を人民の全会一致で決めたルーマニアなどからも大勢の出稼ぎ労働者や移民が発生していた。
志願者が余りにも多すぎる為、希望を口にした人民の家は勿論、胸に秘めた希望をまだ口に出来なかった善良な人たちの家に
この原因は全て、反革命主義者による
事実、ソ連と言う国家にとってシベリア共和国の分離独立は、喪われた国土としての影響よりも人民の多くが流出したと言うのが問題として大きかった。
頭脳労働者、技術労働者、単純労働者。
取り敢えずもって、
その上で、逃げる先が
給与の遅配も、食料が買えない事も無い。
ウォトカの名前がショーチューとか言う不思議な名前で、少し違う味になっているが、アルコールである事には変わりがないし、金さえあれば自由に買える。
天国かな? と言える国が隣にあるのだ。
それはもう、ヤヴァイと思った人間であれば逃げない筈が無かった。
後、モスクワ市在住であれば、美少女が家族に生まれた人間も全力で逃げていた。
かくして、ソ連は往時の総人口の3割以上が東に向かって流出する事態となっていたのだ。
そんな状況下で、国境を接している列強序列第1位にして
十分な抵抗が出来る訳ではないが、それでも国家の威信の為に国境線付近に機甲部隊を中核とする戦力を配置せねばならないのだ。
ソ連にとって余りにも負担の大きすぎる話であった。
だからこそコンゴの民、新しきソ連の同胞に飴を与えようとも考えていたのだった。
とは言え外部、特に日本などからすれば、ソ連本土で労働させられる事の何処に飴としての要素があるのかと疑念を覚える話であったが、ソ連としては本気であった。
未開の大地から文明に迎え入れるのだ。
心の底から飴であると認識していた。
建前は別として、アメリカの本音は開拓地たるフロンティア共和国とチャイナ北部の経営が楽しいから、他の所の面倒事には余り関わりたくないと言うモノであった。
後、チャイナ戦争によって荒廃したチャイナの大地、そのアメリカが責任を担う形となった長江以北の領域の安定化に結構な
軍閥と言うモノは物理的ではない意味で皆殺しにはしていたが、戦争の最中に遺棄された兵器を持っての重武装強盗、賊働きをする人間は後を絶たなかったのだ。
それはもう、アメリカ陸軍の余裕を削るのも当然の話であった。
リベリアの自主防衛を焚き付けたアメリカであったが、国境警備目的の軽装備部隊とは言え総人口の1割を超える軍勢を作るとしたリベリア政府の決断に、正直、ドン引きしていた。
ドン引きし、焚き付けた責任を取る形で、被服から銃器、車両から食料迄の全てをアメリカが提供する約束をしたのだ。
コレは、ある意味でリベリア政府の戦略であった。
相手の要求に対して、相手が想像した以上のモノをぶつける事でイニシアティブを握ろうとしたのだ。
その賭けに、リベリア政府は勝ったのだった。
尚、この50万と号する大部隊は、延べの人員であり、その全てを同時に国境線に張り付ける訳ではない。
少なくとも今時点では。
と言う話であった。
大部分を訓練配置として、
大多数の動員されたとされる兵は、週に1回、半日の軍事訓練を受けるだけと言う有様であった。
この時点では、まだ平和だったし、リベリアに侵入して来ようとする小規模な賊程度であればアメリカ海兵隊部隊の支援を受けていれば十分に対処可能だろう。
そう考えられていたのだった。
アメリカ人は、まだこの時点で珈琲を優雅に飲む余裕があった。