189 新秩序体制の始まり
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ドイツ処分が漸く終わる事となった。
ドイツの国土分割と、正式なドイツの消滅。
ドイツによる戦争犯罪及び、東欧諸国の併合やバルカン半島への侵略その他の裁判の終結である。
国土の分割については概ね、国際連盟軍への参加各国の支配地域がそのまま採用される形となっていた。
その上で文化的、或いは民族的なモノに由来する形で調整が図られていた。
この文化的分割 ―― 旧ドイツの各州の境界線が主となったが為、出来る限り負担を減らしたかったイタリアも大きな領域を所有する羽目に陥っていた。
イタリアとしては占領地の全てを東欧ごとフランスに譲渡する事を交渉していたのだが、フランスの
戦争で荒廃した旧ドイツ南部域を背負う事となったイタリア。
だからこそイタリアは最後の抵抗として、日本に倣って国際連盟信託統治領として受け入れたのだった。
イタリアが預かるドイツ人の自治州と言う体裁であった。
尚、ポーランドは素直にポーランド領として編入していた。
又、フランスはベルリンを除くブランデンブルク州の大半をポーランドに譲渡していた。
これは、ベルリンを廃都として、ドイツ戦争の
フランスはドイツを象徴するベルリンを再建する積りも、させる積りも無かった。
特別管理地域として旅行/観光としての滞在は兎も角、一般市民が定住する事を許さぬとしていた。
ナチス党の建物を爆破などはしないが、他の建物と同様に10年と100年と掛けて消失させる積りであった。
何とも恨み深い話であった。
裁判に関して言えば、主となったのはドイツ軍が侵攻し、支配した領域での不法行為全般であった。
フランスなどはドイツの
裁くのであれば法に基づく。
そして、人道を主とした法と言うものは存在しないし、国際的 ―― 多国間で締結された法も勿論ながら無い。
この様な状況で戦争犯罪を罪に問うと言うのは、余りにも不法であると言う主張であった。
ドイツ戦争の処理に関して極めて消極的であった日本だが、この点に関してだけは
結果、ドイツ政府や軍、企業、民間人が犯した罪に関して、それぞれの犯行場所で裁判が行われ、常識的な量刑で裁判は結審していく事となる。
この為、ナチス党の高官であっても死刑宣告を受ける人間は限られていた。*1
コレは、様々な犯罪などを犯していたナチス党の
捕まれば殺されるだろうから、とばかりにベルリンと運命を共にしていたのだ。
そして、意外な話であるが、死刑と言う意味では一般ドイツ人の方が多かった。
これは一般ドイツ人の有志が戦争中、特にドイツ領内へと国際連盟軍の侵攻を受ける様に成って以来、戦争に反対する人間を民族と国家への叛逆者として片っ端から
言うまでも無く
情状を酌量する余地が無ければ、片っ端から捕まえ、罪に問うというのも当然の話であった。
しかもこの私刑、その大半が
それはもう陰惨なモノであった。
そして、陰惨な私刑であればこそ、生き残った家族関係者による実行犯への報復も苛烈なモノとなっていた。
勿論、フランスですら私刑実行犯であっても法で裁くべきとの態度を崩さなかったが、捕まえる為の情報の提供や、私刑実行犯の捕縛時に抵抗された際の
だからこそドイツの割譲、ドイツ戦争の後片付けが終わるまで時間が掛かったとも言えていた。
尚、この私刑を行った一般ドイツ人の裁判に関して言えば、フランスだけが過酷だったと言う訳でも無く、日本やポーランドの管理地域でも同様であった。
只、イタリアだけが違っていた。
裁判が面倒くさいし、裁判までの間、捕らえておくコストも勿体ないと考え、フランス以上に私刑実行犯捕縛時の実力行使を抑止しなかったのだ。
又、支配下に入るドイツ人のガス抜き、その後の私刑の応酬に対応する警察コストの削減を考えての事だった。
文字通り、私刑実行犯への私刑を推奨したのだ。
この実に荒っぽい処置を平然と行えるのは、ある意味でマフィアを撲滅する所まで追い詰めたドゥーチェらしい手腕であった。
兎も角。
かくして戦争終結からおおよそ2年が経過し、ようやく、ドイツ戦争終結の宣言と相成ったのだった。
――ドイツ戦争終結式典
ドイツ戦争の終結、そして解体、その他の全ての条約が結ばれた場所はフランスのベルサイユ宮殿であった。
式典の内容は、まるで先の
日本とブリテンの代表は、フランスの性格の悪さに呆れていた。
そしてベルリンで行われた閲兵式は、日本が撮影機材を用意する事で記録は高画質で残される事となる。
そして世界中に衛星中継される事となった。
それ以外の国々にもラジオ中継が行われ、後日には映画フィルムとして用意されたモノが提供される事とされていた。
又、映像フィルムは国際連盟の非加盟国にも提供された。
正に
行進する将兵、戦車などの重装備。
空を飛ぶ戦闘機と爆撃機。
その下で、フランスの首相が得意満面の笑みで戦争の勝利、終結を宣言する。
この世の春が来たとばかりの姿であった。
ドイツ戦争参戦国はそれなりの部隊を派遣してはいたし、その中には精鋭部隊に最新戦車などを持たせたソ連軍の姿も含まれては居たが、多くの観衆の記憶に残る事は無かった。
今、フランスは
フランス軍のみならず、世界最先端である日本製装備で充足された
ソ連軍がかすむのも仕方のない話であった。
かくして、陸の主役はフランスとなる。
だが海の主役は違っていた。
ドイツ戦争終戦記念観艦式には、他の
50,000tクラブなどとも揶揄される大型戦艦群が勢ぞろいしていた。
日本のきい型。
アメリカのアイオワ級。
ブリテンのヴァンガード。
フランスのアルザス級。
正確に言えばアルザス級は50,000tの大台に乗っては居ないのだが、それ以外の国々からすれば誤差の範疇と言える大戦艦であった。
4隻の16in.砲戦艦群が舳先を揃えて並んで疾駆する姿を捉えた写真は、後に
それは終焉を迎えつつある戦艦の時代、その最後の煌きであった。*2
だが、人々を恐れさせたのは戦艦だけでは無かった。
次なる海洋戦力の中心となる存在、空母が居た。
とは言え50,000tを超える大型艦は、まだ空母では生まれていなかった。
発展途上の艦種であるからだ。
日本を除いて、であったが。
約70,000tの
この2隻を前にして、他の空母はオモチャも同然であった。
唯一、対抗できそうなのは50,000t超級の空母として
とは言え、20,000tを超える正規空母を保有する国家は片手にも足らず、更に言えば正規空母を複数運用する国家など
多くの国家にとって、それらの集まりを見て海の支配者と感じるのも当然の事であった。
尚、ドイツ戦争終結記念の国際観艦式には、参戦した全ての国家に招待状が送られており、盛大に開催された。
陸の閲兵式と同様に、此方も世界規模で生中継が行われていた。
だが、国際観艦式で一番に注目を集めたのは、艨艟達の姿ではなく、初めて国際的な舞台に出る事となった日本の皇室 ―― 皇太子の姿であった。
余談ではあるがソ連海軍の誇る大型艦
尚、国際観艦式の翌日、国際観艦式を主催する形となったブリテン海軍が開催した参加各国の艦艇指揮官を集めた懇親会が開催され、大型艦
アメリカ人やブリテン人から
アメリカの海軍関係者からすれば、ある種、
であるからこそ評価し、チャイナ人艦長を丁重に遇していた。
尤も、チャイナ人艦長からすれば、虎が目の前で笑顔を見せている様なものなので落ち着ける様な話では無かった。
兎も角。
この、国際観艦式終了に伴って大型艦
そもそもの話として、一般的な法に於いて死刑宣告を受ける様な人間は軒並み、ヒトラーらと共に、ベルリンで燃え尽きていたのだ。
当然の話であった。
とは言え、罪を赦された人間にとって、その後の人生が幸福なものであったかと言えば別だろう。
公職追放や有罪判決に伴う年金/恩給の停止、不法に得ていた利益などの国庫返納もあって生活は苦しいものであり、その上で、街を歩けばドイツの敗因だとばかりに石を投げられるのだ。
或る、ドイツ空軍の元国家元帥などは、戦争犯罪で銃殺された方がマシだったとの日記を残す程であった。
4隻もの大戦艦が大海原を疾駆する姿を捉えた、迫力のある写真は一人の独裁者の心をも捉えてしまっていた。
言うまでもなくスターリンである。
ソ連人民の象徴としての戦艦を整備する必要性を痛感したのだ。
だが、流石に現状の国力でソ連が50,000t以上の巨大な16in.砲戦艦を整備する事は現実的では無かった。
そもそもとしてソ連。
鋼材が対日防衛戦備に取られて不足気味であり、そこにコンゴの文明化需要も乗って来ていた為、鋼材不足で十分な民間用船舶も建造できなくなっているのが現状なのだ。
側近たちがこぞって、困難さを叫んだ為、流石のスターリンも断念する事とし、夜に深酒をして気持ちを紛らわせたのであった。
既に陸上機の主力はジェットエンジン式となっていたが、空母向けの機材開発は難航していた事が理由であった。
着艦速度が
この点に関しては、日本も当てにならない ――
この為、
日本の信託統治領の首都として運用される事となったハンブルク市。
その郊外に新しく建設された国際空港は、日本からの大型航空機が着陸できる様に4000m級滑走路を4つも備えた軍民共用の大空港であった。
名前はハンブルグ国際空港。
とは言え、今現在完成しているのは、滑走路の舗装程度であり、管制塔その他の設備は航空自衛隊の移動管制隊が保有していたモノの流用が殆どであった。
乗客の待機所などはプレハブ造りと言う有様であった。
だが日本、外交と民間関係者にとってハンブルク国際空港の存在は値千金であった。
人員の移動に於いて、大きく負担を減らすモノであるからだ。
日本基準で見た時、この時代の空港の殆どは不整地と同様であり、軍用機は兎も角として民間機として製造された高性能ではあるが繊細な旅客機を利用できるモノでは無かった。
その為、自衛隊機/日本連邦統合軍の定期便に相乗りをさせて貰う形での移動となっていた。
有り体に言って、体を鍛えていない人間にとって、ソレは、常用するには少しばかり過酷であったのだ。
故に、船舶などでの移動が選ばれる事も多かったが、此方は時間が掛かり過ぎていた。
日本外務省にとって、ヨーロッパへの派遣は栄誉であり栄達の道であったが、同時に長期出張の単身赴任と言う事で、離婚の危機でもあったのだ。
ハンブルク国際空港の建設を諸手を挙げて歓迎し、現地の地権者その他への根回し等を全力で行ったのも当然の話とも言えた。