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イタリアにとってドイツ戦争の終結は福音であった。
国際連盟に於いて
とは言え、それで全てが終わった訳では無かった。
ドイツのやらかした事、ドイツ戦争の片づけが残っていたからであった。
オーストリア、ハンガリー、チェコスロバキアと言う国々は、比較的楽であった。
様々な結果として
とは言え、
今日、戦争が終わりました。
明日から普通の日常になります。
その様な単純な話にはならないのだから。
何よりも人の問題があった。
国家が消滅し国土を疲弊させる原因となった
親ドイツ派は、ドイツの代理人として利益を貪っていた部分があった。
そして、そうであるが故にドイツの消滅によって多くの人間の怨嗟を受ける事となったのだ。
とは言え、一方的に狩られる事になった訳ではない。
そも、ドイツ支配下の時代に金と権限を持っていた人間たちであるのだ、ドイツ軍や
街路で銃撃戦が勃発するのも度々と言う有様であった。
何とも
イタリア人の殆どは、東欧諸国は元は独立国であるので圧政者たるドイツ人とドイツ軍部隊さえ排除すれば後は自律的に平穏を取り戻すと考えていた。
それが幻想であったと思い知らされる羽目に陥っていた。
とは言え当初は静観する構えであった。
それが、現地の人間の選択であるのだからだ。
だがそれを許さぬ国家があった。
フランスである。
ドイツの終焉を与えた事で、名実ともに大欧州の盟主となったと言う自意識からの行動であった。
ヨーロッパの全てに責任を背負う大フランスとしては、非人道的な混乱が継続する事を座視できない。
そう言う話であった。
ムッソリーニは、国際連盟代表を通じてフランスからの
――イタリア
東欧3ヶ国の治安回復に際して選んだイタリアの選択は、分離であった。
親ドイツ派を取りつぶすと言う選択は簡単であるが、同時に、実行は面倒となるだろう。
出来ない事は無い。
だが、成し遂げるまでに必要な時間と予算、そして付帯被害と言うものが大きくなる事が予想されていた。
だからこその分離政策であった。
但し、イタリアが提案する分離先は国内では無くイタリア信託統治領であるバイエルン=バーデン地方だ。
即ち、旧ドイツ領への移動となる。
しかも、資産を保証した上での移住、その提案であった。
反親ドイツ派に対しては、インフラの破壊された
これに、親ドイツ派は乗った。
自身や家族の安全の保護と資産の保証が約束されているのだ。
もはや、祖国での安全な生活は図れぬ以上、選択の余地は無いと言う部分があった。
又、護衛として雇われていた
高価な資産を抱えて夜逃げする親ドイツ派と、その護衛達。
一般の人々は、その惨めな姿と追放と言う刑を以て溜飲を下げていた。
唯一、この政策に反発したのは親ドイツ派狩りを行っていた人間であったが、正直な話としてイタリアには、自国民では無い暴力による
公衆面前で文句を述べる様な、自らの
無論、法に則ってである。
この点に於いてイタリアに抜かりは無かった。
無論、全てが上手く行った訳ではない。
祖国から
或いは、退去の準備中に資産を狙われて、暴徒などに襲われると言う恐るべき事件もあった。
だが、イタリアにとっては痛ましくも些末な被害に収まっていた。
それどころか、程よいガス抜きになったと思う人間も居た程であった。
その上で、暴力を振るった暴徒などを一切の躊躇なく武力鎮圧する事で、支配者としてのイタリアの武を示し、反抗の目を叩き潰して行ったのだ。
その容赦の無さは、治安維持として投入されていた
兎も角。
イタリアが掌握して1年ほどで、東欧の3ヶ国は治安に関しては回復する事に成功するのであった。
暴力の応酬が止まれば、後は経済の回復である。
衣食住足りて礼節を知るとは言うが、正にその通りにイタリアは動いていた。
とは言え、問題は簡単ではない。
イタリアの景気自体は良好であるが、イタリアの経済によって東欧3ヶ国を支えたいと思う程にムッソリーニはお人よしでは無かった。
一般のイタリア人とて、自らが楽しむパスタとワインを余っても居ないのに赤の他人に分け与えたいと思う筈も無いのだ。
とは言え、経済が安定しなければ東欧3ヶ国は何時までもイタリアの管理下にある事になるだろう。
現地政府が力を取り戻さねば、イタリア人官僚やイタリア軍、
それは本当に迷惑な話であった。
又、正直な話として
覇権国家群に含まれているとは言え末席側であり、発展途上の国家でもあるのだから。
悩めるイタリア。
その状況を救ったのは、日本による
日本の積極的関与は、イタリアにとって実に福音であった。
問題は、東欧3ヶ国は日本が関与を始めたのはイタリアの功績であると認識したし、日本は東欧への関与の窓口の一本化としてイタリアを認識したと言う事であった。
そして、イタリアで行われた
褒められれば調子に乗ってしまうのがイタリア。
イタリア人は、イタリアの有権者はムッソリーニの政治的手腕を称賛し、イタリアが東欧の盟主である事を望む事となったのだ。
イタリアに、人気稼業の独裁者たるムッソリーニに逃げ場は無かった。
その夜、ムッソリーニは医者に怒られない範囲で痛飲するのであった。
――バルカン半島
治安と言う意味では比較的に回復の早かった東欧3ヶ国に対して、バルカン半島の治安は未だ、十分では無かった。
七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家。
そう呼ばれる地域であるのだ。
一度、火が点いてしまえば消えるのは簡単な話では無かった。
しかも血の気の多い人間揃いとなれば特に。
更には侵略者たるドイツ人と、
だが、仕方が無いと燃え尽きるまで放置と言う事が出来ないイタリアは、腰を据えて交渉に乗り出していた。
幸いな事には、パルチザン勢力の指導者が有能であったお陰で、ユーゴスラビアの各勢力や各民族と言った様々な個性の強い集団に対して粘り強い交渉を繰り返し、そして成功させていた。
イタリアも、ドイツ戦争時に最初に接触した頃は、共産主義者と言う事で警戒していたのだが、ソ連との関係が薄く、又、現実主義者であった事から、これ幸いとばかりに支援に出ていたのだ。
とは言え、有能な指導者やイタリアの全面支援があって尚、バルカン半島 ―― 旧ユーゴスラヴィア領域の安定化には時間が掛かっていた。
理由の一つは、強引な統合を目指さないと言う事があった。
元は1つの国家であったと言う意識、そして今後は1つの国家になるのだと言う連帯であった。
そしてもう1つは野盗、重武装強盗の如く身を落とした旧ドイツ軍残党と言う問題があったのだ。
これはユーゴスラヴィアに侵攻していたドイツ軍部隊は、
物理的な意味で壊滅していなかった為、それなりの重装備を持った人員が残されていたのだ。
良識的な人間は投降して故郷なりに帰還していたが、
この為、イタリアは国際連盟安全保障理事会に掛け合って、バルカン半島全域での軍事行動の自由を得ていた。
とは言え、動員令は解除していた為、常時展開するのは1個師団と航空隊程度の話であった。*2
このレポート作成には財務省も関与していた。
何故なら、日本の管理下に入った北ドイツ平原州が安定的に経済活動を出来る様にしなければ永続的に日本の予算が喰われる事態となるのだ。
金庫番として、そんな
財務省として本音を言えば、切り捨て、即ち日本の看板だけは残すが完全なドイツ人による自治を図るべきだと思って居たが、政治的にそういう事も出来ないと政治家サイドから釘を刺されていた為、出来る話では無かった。
故に北ドイツ平原州は早期に再建して納税してくる場所に育てねばならなかった。
その為の投資が
旧ドイツを中心に、戦災で荒れたヨーロッパの復興計画であった。
非経済分野に言えば、ソ連対策の側面もあった。
荒廃した状態を放置していた結果、ソ連が東欧の国々を取り込んだ場合、深刻では無いにせよ面倒であると言う認識である。
即ち、タイムスリップ前の世界の記録。
冷戦と
そんな馬鹿馬鹿しい軍事への経済の浪費など、財務省は勿論、
故に、日本の官僚機構の中では
尚、何故に日本がヨーロッパの面倒を見なければならぬのかとの声も上がっていたが、アメリカは関与する余地が一切なく、ブリテンは
唯一として残っている
何ともやりきれない話であった。
とは言え、外務省としては予算規模の拡大に繋がる話と言う事で、面倒と言うだけでは無かったが。
唯一、関係省庁の中で財務省だけが予算が必要になるし、予算措置に必要な人員を動員させられるし、と大変な目にあってはいた。
只、財務省である為、他の省庁の誰もが同情する事は無かったが。
尚、余談ではあるがタイムスリップ前の世界史に詳しい人間は一言、この計画を
このバルカン半島での特殊軍事作戦許可に基づいて投入されているのはイタリア軍だけでは無かった。
ドイツ戦争時代から情報収集その他で展開していた日本連邦統合軍も部隊を残して居た。
ドイツ戦争終結後に組織改編され
比較的安全で、日本連邦統合軍航空部隊やイタリア軍の支援を容易に得られる環境と言う事が勘案され、特殊作戦のノウハウ取得と言う意味で部隊派遣が継続されていたのだ。
建前としては。
本音は、イタリアから泣きつかれたと言う部分があった。
現地への潜入、情報収集、破壊工作その他。
特殊作戦と言う意味で、この時代に置いて日本以外の国家の軍部隊に、この手のノウハウを持った組織は無かったが故の事であった。
尚、コマンド部隊と言う類似の組織を有していたブリテンがノウハウ習得を目的に部隊を派遣していた。
陸上自衛隊の特殊部隊員は特殊作戦部隊の御先祖と言える部隊が参加した事に、何とも言えない表情をするのだった。
日本-ブリテン合同部隊の詳細を聞いて、アメリカやフランスも同種の部隊を編成してユーゴスラヴィアに部隊を派遣してノウハウ習得に走るのであった。
コレは、アメリカにせよフランスにせよ特殊作戦の必要性を感じての事であった。
アメリカはチャイナの大地で。
フランスはアフリカなどの
共に、少数部隊によってコストパフォーマンスの良い形で情報の収集その他が出来ると言うのは大きいと判断しての事であった。
これは後にイタリアも含めた特殊部隊の連帯、
同じ釜の飯を食い、兄弟として危険を乗り越えていった事は、強い絆となっているのだ。