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小銃だけを手に展開したアメリカ海兵隊。
だが支援は潤沢であった。
海には関東州に停泊していたアメリカ海軍巡洋艦が駆けつけており、空には自衛隊と在日米軍の航空機が舞っているのだから。
初陣であった海兵隊少尉は、自身の不遇を嘆くよりも、噂に聞くエンペラーの軍勢と未来のアメリカの力を見れる事に興奮していた事を手記に残していた。
――上海事件・軍閥
約10万の大軍となったが寄せ集めと言ってよい為、規律など殆ど無く、移動は遅々として進まなかった。
その上で食料や燃料などが不足気味であった為、上海市に向かう途中に存在した町で徴発しながらとなる。
その様はさながらに野盗か蝗の如きであった。
結局、上海市の周辺部に軍閥の先遣部隊として約1万の兵が到着したのは、本拠地を出発して8日目の事であった。
到着後、自信と自負、そして欲を滾らせて上海市への降伏の是非を問うと、市長及び列強の責任者で作られた臨時自治委員会側より返答があった。
拒否である。
それどころか軍閥の面子を潰すかの如く、上海市から内陸部への街道を制圧し物流を滞らせている事への非難が成されていた。
先遣部隊指揮官は、小癪な事を述べた使者を殺し、又、列強の軍が残っている事を口実として上海市攻略戦の実施を世界に向けて宣言した。
――上海事件(D-Day)
自衛隊によるUAVやヘリによる偵察で、先遣部隊の実情を捉えていた防衛側は楽観していた。
先遣部隊が自動車などこそ有しているが戦車や野砲といった重装備を装備しない軽歩兵部隊である事が見て取れたからだ。
規模こそ1万を数える程ではあったが纏まりが無く、広大な上海市の外周部で分散して攻撃をして来ては脅威となったであろうが、その様な兆候は見られなかった。
又、短時間ではあったが準備が出来ていたのも大きい。
自衛隊が持ち込んできた大規模な土木作業機材の機力と、軍閥の到着に時間が掛かった事と相まって、上海市を守る塹壕や対戦車壕の造成が間に合ったのだ。
そこからの2日間、世界大戦への従軍経験のある兵は手記に「その様、ソンムの如し」と書く程の状況となった。
無論、攻撃側のみの惨状であったが。
既に2日目の午前には、軍閥側の衝突力は消滅していた。
――上海事件・航空攻撃
軍閥と言う野戦軍の撃滅が主目的であり、更には現状で相対しているのが先遣部隊であった為、日本は本格的な空爆を差し控えていた。
B-52を筆頭とした戦略爆撃機群は野戦軍を目標とするには少しばかり大きすぎた。
身軽な攻撃機を投入するには、上海での航空機運用のインフラが不足し過ぎていた。
何より弾薬が、日本ソ連戦争で大盤振る舞いしていた為に不足気味であったと言う事もあった。
その為、日本は自衛隊とグアム共和国軍(在日米軍)のヘリ部隊をかき集め、いずもを旗艦とする任務部隊に乗せていた(※1)。
そのヘリ部隊が戦線投入されていないのは、ヘリ部隊の予備部品の枯渇と機材の老朽化による稼働率が問題であったのだ。
前哨戦の段階で消耗し、いざ軍閥の主力部隊との戦闘時に戦えぬようであれば意味が無い。
そう上海防衛司令部では判断していた。
――上海事件(D-Day+9) 増援/軍閥側
軍閥の主力部隊が上海周辺に到着する。
先遣隊の苦戦を聞いていた軍閥の頭領であったがその顔に不満も怒りも浮かんでは居なかった。
歩兵主体の先遣隊で戦車などを保有する先進国の軍隊相手では荷が重いという事は理解していたからだ。
故に、対策を取っていた。
近隣の南チャイナ軍へ声を掛け、輸入した列強製の戦車を装備していた部隊を引き抜いて来たのだ。
その多くは世界大戦時に使用された旧式であったが、200両を超える数は脅威であった。
練度も悪くない。
ドイツの軍事顧問団からの教育を受けた精鋭だったのだ。
この戦車部隊が軍閥の上海攻撃に参加したと聞いた南チャイナの頭領が、呆然とし、そして激怒したという事から、この部隊の貴重さが良く判る。
その他、野砲や歩兵砲も大量にかき集めていた。
此方はチャイナ共産党が秘匿していた物資の提供で成り立っていた。
促成の為、練度には疑問符があるものの、3桁を超える砲は厄介であった。
――上海事件(D-Day+9) 増援/防衛側
この時間で防衛側も手をこまねいていた訳では無かった。
自衛隊の臨時増援用部隊である第81独立装甲連隊が上海に入った。
第81独立装甲連隊には時間的余裕があった事もあり、台湾にて先行量産型の31式戦車で運用試験を行っていた部隊も予備部隊として編入、増強された。
機材への習熟こそ成せてはいないが、富士教導団の将兵が基幹となった部隊の為、不安は無かった。
この他、シンガポールのブリテン旅団1個が上海入りしていた。
此方は海上自衛隊が第1輸送隊と第2輸送隊(※2)、そして就役前のさつま型多機能輸送艦まで投入した一大輸送作戦によって成されていた。
LCACによって重装備も装備したまま到着しており、戦力として極めて心強いものとなっている。
尚、インドシナのフランス部隊も、1週間後には到着予定となっていた。
――上海事件(D-Day+10)
軍閥の主力と上海防衛隊の衝突が本格的に始まった。
自衛隊が上海市を囲むように大規模に巡らせた戦車壕の切れ目、3本の大道路を巡る攻防となった。
防衛隊は、指揮権の問題からそれぞれを自衛隊、アメリカ軍、ブリテン軍が担当する事となる。
重装備の無いアメリカ軍に対し、自衛隊は16式機動戦闘車の中隊を1個、支援に回した。
10式戦車は第81独立装甲連隊と共に、予備として上海市中心に配置された。
3つの主要戦線以外にはフランスやイタリアの部隊が警戒の為に対応していた。
対する軍閥側は3つの道路に均等に部隊を分けて攻撃を仕掛けた。
志願兵などの欲に釣られて軍閥に参加した人間を先頭に立てたのだ。
「一番に上海に乗り込めた者は最大の手柄として報奨は望むまま」という甘言に騙され、突撃した。
その結果、この1日だけで2000名を超える死者がでた。
――チャイナ共産党
防衛戦が始まると共に、上海市内での活動を活発化させた。
特に防衛隊の補給路への破壊工作、襲撃は、それを想定していなかった防衛隊側に甚大な被害を与える事になる。
襲撃はハーグ陸戦条約に基づいて軍服などを着る事も無く、時には女子供を囮にして行われた。
防衛隊側に被害以上にストレスを与える作戦だった。
それは、中華人民共和国の工作員がチャイナ共産党へ伝授した作戦であった(※3)。
この対応に日本のヘリコプター部隊は忙殺される事になる。
空中からの偵察と護衛、そして非常時の支援任務だ。
完全に装甲化された車両を護衛に付けられる自衛隊は兎も角、アメリカ海兵隊やブリテン陸軍には装甲化された装輪車両など無い為、襲撃を受けた際には被害が出やすかった。
(※1)
上海事件が日本国に戦闘ヘリ部隊の重要性を再認識させる事となり、新型攻撃ヘリの開発が検討される事となる。
但し、日本国内の航空機設計/開発技術者の乏しさから、現状で即座に手を付けられるものでは無かった。
この為、日本政府は国家主導による設計士や技術者の養成に邁進する事となる。
(※2)
タイムスリップ時点で日本の造船所が海外から発注を受けて建造していた大型貨客船2隻(かしはら しゃるんほるすと)を、日本政府が民間支援の一環として購入し海上自衛隊に編入した部隊。
平時は、はくおうやナッチャンWorldと同様に特別目的会社が管理運営している。
(※3)
タイムスリップ後、大多数の中華人民共和国民は日本への帰順を選択した。
極々一部の人間がチャイナへと密航し、チャイナ共産党へ合流していた。
2019.10.29 文章修正
2020.04.24 文章修正
2022.10.18 構成修正