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1949年は北ドイツ平原州にとって、一つの大きな転換点となる年であった。
オランダと共同での麻薬と人身売買対策 ―― では無い。
国際連盟で行われている経済と環境問題に関わる事であった。
日本が公開した、今後100年に渡る人類の経済発展が地球に与える被害の情報、或いは化学物質や石綿などによる公害情報。
それらを研究し、或いは対処法を開発する拠点として、日本の国立大学が北ドイツ平原州の州都とされたハンブルク市に開校される事となったのだ。
ソ連などの一部の国家からは日本本土の大学への留学を望む声もあったが、或いは4桁単位となる留学生を管理し、そして機密保全をするなど
又、日本国内からは大学ではなく、研究所を設置してはどうかとの声も上がった。
此方は主に財務省系であり、予算の削減が狙いであった。
だが、北ドイツ平原州管理庁の長官が剛腕を振るい、大学設立を通す事となる。
一つは文部科学省が進めていた、全邦国への国立大学設立を目指した一国一校政策の利用である。
各邦国での高等教育の頂点として、同時に、各邦国の文化や地理その他の情報の収集と保全が目的であった。
そして、日本教育を行う事で相互理解 ――
この後者が、今の北ドイツ平原州に於いても重要であると主張し、それが通った形であった。
又、現状で北ドイツの高等教育システムは壊滅的な状況に陥っている為、日本が大学を設置し、運営すれば教育界のイニシアティブを握れると言うのも大きかった。
この主張に、タイムスリップ前の日本の教育界の
是非やろうと文部科学省と財務省に働きかけたのだ。
政治が強い意志を持って動けば官僚は弱い。
とは言え官僚側も一方的に負けた訳では無かった。
財務省は、大学設立を推進した政治家や総理大臣に対して、北ドイツ平原州は信託統治領で将来的な独立が決まっているのだから、そんな外国に莫大な投資を必要とする大学の開校は金の無駄であると
だが、その気になった政治を官僚が止める事など出来る筈も無かった。
又、外務省と経済産業省が、研究所でも大学でもどちらでも良いから早期の拠点を欲したと言うのも大きい。
地球規模の環境対策で、日本は主導権を獲らねばならぬと固く決意しての事であった。
結果、最終的に特別措置法が臨時国会で可決され、日本連邦の各邦国に準じる形でハンブルク市郊外にハンブルク国立国際大学が開校が決定された。
話が出て、3ヵ月のスピードであった。
ハンブルク国立国際大学の影響は極めて大きかった。
資料、即ち本である。
英語や仏語などの原書もかなり持ち込まれていたが、その大多数は日本語の資料なのだ。
又、それ以外の国の資料、論文、その他も多くが日本語訳されて揃っていた。
故に、本大学に入学し、或いは留学や派遣されて研究をするのであれば
又、様々な国から高等教育履修者が集まる為、共通語としての日本語と言う部分もあった。
フランス語取得者は頑なにブリテン語を使おうとはしないが、日本語であれば渋々受け入れる ―― そう言う類の話であった。
北ドイツ平原州の高等教育の中心で、日本語の履修が標準化した結果、日本語は上から大きく広がっていく事となったのだ。*2
又、北ドイツ平原州側では無い話として、世界中の国際連盟加盟国から留学生や研究生が来る事になった。
それが北ドイツ平原州の人々の持つ意識を変える事となった。
同時に、世界中の側も実際のドイツ人を見て、知り、知人友人とした事で、悪しき
それが、ある意味で北ドイツ平原州の独立、
――北ドイツ平原州治安回復作戦
日本国信託統治領北ドイツ平原州が国境線を接している国家は3つ。
オランダとポーランド、そしてフランスである。
麻薬の密輸や人身売買と言う意味で問題となっているのはオランダであるが、ポーランドやフランスとの国境線も無問題と言う訳では無かった。
物資の密輸、密売が行われていたからである。
或いは盗難だ。
北ドイツ平原州は日本の統治下と言う事で比較的容易に日本製の様々なモノが流入している為、その窃盗と密輸が社会問題になりつつあった。
流石に自動車などの大物が盗まれる事は少ないが、文房具その他、コンパクトな家電製品といった小物類は窃盗も楽だし、密輸に際して隠すのも楽だし、となっていたのだ。
小物とは言え日本製である為、諸外国では飛ぶように売れた。
特に電機関連のモノはソ連関係者が高値を付けて買っていった。
良い
それが国際問題にまで発展しないでいたのは、殺人などの大事に発展した例は少なかった為である。
治安活動の一環として、北ドイツ平原州警察組織で対応出来ると判断されていたのだ。
ある意味で治安関係者の意地であった。
だが、それを日本政府が表に出て、オランダと協力して麻薬と人身売買へ対処すると言う状況が吹き飛ばす。
即ち、日本が
尚、北ドイツ平原州警察組織の人間の一部、高齢の上級者からは面子が立たぬなどの反論も出たが、若い世代が戦争に負けた国家の残骸にメンツもクソもあるかと反論し、北ドイツ平原州管理庁に話を上げたのだった。
とは言え、其処から先が簡単になったかと言えば、それ程に世の中は甘くない。
日本を介して行われたフランスやポーランドの警察組織との折衝時、対応がかなり悪かったのだ。
曰く、敗戦国の人間による
とは言え、その様な態度がとれたのも、日本が協議の場に出る迄であったが。*3
日本は、北ドイツ平原州の治安回復に掛かる部分を進めると同時に、フランスとポーランドに対して、タイムスリップ前のEUが直面していた広域犯罪の問題を念頭に国境での犯罪摘発強化と、
国際連盟の場では無く、最初にこの場を選んだと言う事がフランスの自尊心に繋がった。
日本がフランスをヨーロッパ亜大陸の盟主と認めていると言う証拠となるからである。
同時に実利もあった。
この国際犯罪の阻止と言う流れは、フランスにとってはアフリカの
――イタリア
北ドイツ平原州の治安回復に向けた動きによる余波は、旧ドイツ領にあって統治の事実上の放棄状態にあった
北ドイツ平原州で暴れている人間の多くがオランダ、そしてフランスを素通りしてイタリアへと流れていたからである。
イタリアは、
そこに、それまで関与をして来なかったフランスが苦言を述べたのだ。*5
治安の回復。
麻薬密売と人身売買の阻止。
戸籍管理。
そのいずれもイタリアも重要であるとは理解していたし、麻薬密売と人身売買が栄光ある大イタリアを汚す存在であるとも認識していたのだが、如何せんにも
戦時体制を解除して規模の小さくなった軍は、バルカン半島での治安維持戦に現地自治政府との協力の下で投入されているのだ。
だが、日本を背中に置いたフランスから対応を要請されてしまっては、やるしかないという事となる。
幸い、原資としては
であれば人手は外注してしまえば良いと割り切り、
尚、フランスで行わない理由は、既にフランス領内の旧ドイツ軍軍人はフランス軍外人部隊に
ポーランドで行わない理由は、ポーランド領内での扱いの悪さから、多くの旧ドイツ軍軍人は北ドイツ平原州や東フランスへと移住していたからである。
かくしてイタリアは10万人規模のドイツ人の治安維持部隊を創設するのであった。*6
財務省による北ドイツ平原州の独立に関する話は、全くの嘘では無いが事実の全てを示していた訳では無かった。
即ち、この1949年の時点で決まっていたのは、信託統治領としての北ドイツ平原州の行政は出来るだけ早期に
それどころか、フランスやポーランドの旧ドイツ領での統治を見て、何も考えずに北ドイツ平原州を独立させては、下手をすれば血が流れかねないと危惧していた。
結果、財務省の目論見は大きく外れる事となる。
学問として上から広がる日本語としては、この高等教育が大きな役割を果たしたが、文化と言う意味に於いては日本が娯楽用として持ち込んだ映画やアニメ、漫画などの影響が甚大であった。
戦後復興期と言う事で子どもの保護や教育が軽視されている時代、北ドイツ平原州管理庁は公助として児童福祉施設を用意したのだ。
その遊具は日本製のモノが大量に含まれており、有り体に言えば
そして児童福祉施設を介して大人たちにも、文字通り下から日本語が広がっていく。
それに気づいた大人も居た。
ドイツの伝統的文化、遊具などを重視するべきと声を上げる大人も居た。
だが大多数の大人は
さもありなん。
子育てと言う難事に於いて、楽と言う事は余りにも重大な事であり過ぎた。
特に、戦争で負け、国が焼かれ、社会が壊れた国家にとっては。
そしてもう一つ。
子どもを持った若い世代からすれば、素晴らしいドイツの伝統と言われても、その素晴らしいドイツの伝統の中で生み出されたNazis党とアドルフ・ヒトラー、
その程度の伝統、文化に拘る必要などあるのか? と言う実に容赦の無い、合理的評価を下しているのだった。
旧ドイツ領関連の広域犯罪対応会議へと日本から出席した警察官僚は
そして
珈琲を手に友好的な雰囲気の中、そう言えばと前置きをして、以前の戦争と今現在の犯罪責任との関係性で実にユニークな主張があったとの事ですので、ええ。それを学べる様な
会議の、休憩の場は凍った。
特に、
とは言え、別段に独系日本人警察官僚は血縁的な意味での祖国の報復をしようと言う様な訳では無かった。
元より、日本人だと言う意識の強い世代であり、旧ドイツに対しての感情も、迷惑な事をしやがった遠縁程度の意識しか持っていなかったのだから。
要するには
だからこそ、煙草を押し付けられぬ様に脛を蹴り飛ばしてやらねばならぬのだ。
尚、独系日本人の上司は、出来の良いジョークを聞いたとばかりにニコニコとしていた。
タイムスリップして20年あまりが経過し、日本も実に列強の仕草を学んだと言えた。
そして同時にこれは、
日本はフランスを敵にする積りは無い。
だが、日本の庇護下にある
そう言う話でもあった。
この国境線での検問機能の強化と言う流れ、それをフランスでも
密輸密貿易で利益を得ているから、では無い。
理想主義による理由であった。
海外県は世界中にあるフランスであり。
フランスは一つである。
そのフランスの間で検問、国境線と言う形で区分けがされるのは宜しくないとの考えである。
フランスは、宿敵たるドイツとの戦争を終え、ドイツを下した結果、それまで存在していたフランスの政治を一つにまとめる箍が外れた状態となってしまい、この政治的主張の総意が大きくなりつつあった。
又、別の一派は、そもそも
又、
この混乱を深めつつある政治状況に危機感を覚えているフランス政府関係者も居たが、同時に、これがフランスであると胸を張る政府関係者も居るのだ。
何とも難しい話であった。
フランスにとってイタリアによる
何故なら統治、治安回復をイタリアが放置した結果として、その領域にあった企業群がフランスなどに移住してきていたからである。
バイエルン州にあった自動車会社などは、社員や関連企業もろともに
無論、全てが東フランスに移動した訳では無く、ポーランドに請われてポーランド西部外沿領に移った企業、或いは日本との技術交流を求めて北ドイツ平原州へと移動した企業も多かった。
とは言え、フランスにとって実に良い話であった。
尚、当初は同じ旧ドイツ軍軍人として、北ドイツ平原州在籍者と
だが、ドイツ戦争後の境遇の違いに起因しての、感情的対立からの様々なトラブルが発生してしまった為、部隊を分けて運用する事となった。
比較的環境の良い、ドイツである事を否定されない北ドイツ平原州在籍者に対し、戦後、塗炭の苦しみを味わってきた
又、北ドイツ平原州在籍者からすれば、
そもそも
言わば、
何とも救われない話であったが、これも又、戦争による惨禍とも言えた。
尚、この感情的な対立も、
ビール片手に
共に背中を預けて戦場を駆け抜けると言うのは、矢張り、大きな影響を持っていると言えるだろう。