タイムスリップ令和ジャパン   作:◆QgkJwfXtqk

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200 日本国信託統治領北ドイツ平原州-02

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 1949年は北ドイツ平原州にとって、一つの大きな転換点となる年であった。

 オランダと共同での麻薬と人身売買対策 ―― では無い。

 国際連盟で行われている経済と環境問題に関わる事であった。

 日本が公開した、今後100年に渡る人類の経済発展が地球に与える被害の情報、或いは化学物質や石綿などによる公害情報。

 それらを研究し、或いは対処法を開発する拠点として、日本の国立大学が北ドイツ平原州の州都とされたハンブルク市に開校される事となったのだ。

 ソ連などの一部の国家からは日本本土の大学への留学を望む声もあったが、或いは4桁単位となる留学生を管理し、そして機密保全をするなど予算が掛かり過ぎる(クソ面倒くさい)と言う理由で却下されていた。

 又、日本国内からは大学ではなく、研究所を設置してはどうかとの声も上がった。

 此方は主に財務省系であり、予算の削減が狙いであった。

 だが、北ドイツ平原州管理庁の長官が剛腕を振るい、大学設立を通す事となる。

 一つは文部科学省が進めていた、全邦国への国立大学設立を目指した一国一校政策の利用である。

 各邦国での高等教育の頂点として、同時に、各邦国の文化や地理その他の情報の収集と保全が目的であった。

 そして、日本教育を行う事で相互理解 ―― 親日派(ジャパン・マフィア)を育てると言う目的もあった。

 この後者が、今の北ドイツ平原州に於いても重要であると主張し、それが通った形であった。

 又、現状で北ドイツの高等教育システムは壊滅的な状況に陥っている為、日本が大学を設置し、運営すれば教育界のイニシアティブを握れると言うのも大きかった。

 この主張に、タイムスリップ前の日本の教育界の彼是とした(反日的教員)問題を覚えていた政治家たちは反応した。

 是非やろうと文部科学省と財務省に働きかけたのだ。

 政治が強い意志を持って動けば官僚は弱い。

 とは言え官僚側も一方的に負けた訳では無かった。

 財務省は、大学設立を推進した政治家や総理大臣に対して、北ドイツ平原州は信託統治領で将来的な独立が決まっているのだから、そんな外国に莫大な投資を必要とする大学の開校は金の無駄であると説明(説得)して回っていた。*1

 だが、その気になった政治を官僚が止める事など出来る筈も無かった。

 又、外務省と経済産業省が、研究所でも大学でもどちらでも良いから早期の拠点を欲したと言うのも大きい。

 地球規模の環境対策で、日本は主導権を獲らねばならぬと固く決意しての事であった。

 結果、最終的に特別措置法が臨時国会で可決され、日本連邦の各邦国に準じる形でハンブルク市郊外にハンブルク国立国際大学が開校が決定された。

 話が出て、3ヵ月のスピードであった。

 ハンブルク国立国際大学の影響は極めて大きかった。

 資料、即ち本である。

 英語や仏語などの原書もかなり持ち込まれていたが、その大多数は日本語の資料なのだ。

 又、それ以外の国の資料、論文、その他も多くが日本語訳されて揃っていた。

 故に、本大学に入学し、或いは留学や派遣されて研究をするのであれば()()()()()()()()()()()()()()()

 又、様々な国から高等教育履修者が集まる為、共通語としての日本語と言う部分もあった。

 フランス語取得者は頑なにブリテン語を使おうとはしないが、日本語であれば渋々受け入れる ―― そう言う類の話であった。

 G4(ジャパンアングロ)に於いてある意味で中庸と言う立ち位置にある日本の特性が出たとも言えた。

 北ドイツ平原州の高等教育の中心で、日本語の履修が標準化した結果、日本語は上から大きく広がっていく事となったのだ。*2

 又、北ドイツ平原州側では無い話として、世界中の国際連盟加盟国から留学生や研究生が来る事になった。

 それが北ドイツ平原州の人々の持つ意識を変える事となった。

 同時に、世界中の側も実際のドイツ人を見て、知り、知人友人とした事で、悪しきドイツ連邦帝国(サード・ライヒ)と北ドイツ平原州の人々を切り分ける事が出来る様になったのだ。

 それが、ある意味で北ドイツ平原州の独立、特別自治邦国ハンブルク(ハンブルク共和国)の真の発端と言えた。

 

 

――北ドイツ平原州治安回復作戦

 日本国信託統治領北ドイツ平原州が国境線を接している国家は3つ。

 オランダとポーランド、そしてフランスである。

 麻薬の密輸や人身売買と言う意味で問題となっているのはオランダであるが、ポーランドやフランスとの国境線も無問題と言う訳では無かった。

 物資の密輸、密売が行われていたからである。

 或いは盗難だ。

 北ドイツ平原州は日本の統治下と言う事で比較的容易に日本製の様々なモノが流入している為、その窃盗と密輸が社会問題になりつつあった。

 流石に自動車などの大物が盗まれる事は少ないが、文房具その他、コンパクトな家電製品といった小物類は窃盗も楽だし、密輸に際して隠すのも楽だし、となっていたのだ。

 小物とは言え日本製である為、諸外国では飛ぶように売れた。

 特に電機関連のモノはソ連関係者が高値を付けて買っていった。

 良い稼ぎ(シノギ)となっており、愚連隊めいた、旧ドイツ軍武器を持った武装強盗団 ―― 密輸団になる集団すらも居た。

 それが国際問題にまで発展しないでいたのは、殺人などの大事に発展した例は少なかった為である。

 治安活動の一環として、北ドイツ平原州警察組織で対応出来ると判断されていたのだ。

 ある意味で治安関係者の意地であった。

 だが、それを日本政府が表に出て、オランダと協力して麻薬と人身売買へ対処すると言う状況が吹き飛ばす。

 即ち、日本が仲介(ケツモチ)してくれるのであるならば、厄介なフランスやポーランドとも話を付けて対処が出来るのではないか、となったのだ。

 尚、北ドイツ平原州警察組織の人間の一部、高齢の上級者からは面子が立たぬなどの反論も出たが、若い世代が戦争に負けた国家の残骸にメンツもクソもあるかと反論し、北ドイツ平原州管理庁に話を上げたのだった。

 とは言え、其処から先が簡単になったかと言えば、それ程に世の中は甘くない。

 日本を介して行われたフランスやポーランドの警察組織との折衝時、対応がかなり悪かったのだ。

 曰く、敗戦国の人間による不手際(国内の取り締まり失敗)で、何故、戦勝国の人間が動いてやらねばならぬのか、と来たのだ。

 とは言え、その様な態度がとれたのも、日本が協議の場に出る迄であったが。*3

 日本は、北ドイツ平原州の治安回復に掛かる部分を進めると同時に、フランスとポーランドに対して、タイムスリップ前のEUが直面していた広域犯罪の問題を念頭に国境での犯罪摘発強化と、国際刑事警察機構(ICPO)の権限強化 ―― 情報連携機能の強化、そして加盟国間での捜査要請と協力に関する強化を打ち出したのだ。

 国際連盟の場では無く、最初にこの場を選んだと言う事がフランスの自尊心に繋がった。

 日本がフランスをヨーロッパ亜大陸の盟主と認めていると言う証拠となるからである。

 同時に実利もあった。

 この国際犯罪の阻止と言う流れは、フランスにとってはアフリカの海外県(植民地)などでの武装蜂起に繋がる、武器や金の流れを調べ、阻止すると言う事に繋がるからである。*4

 

 

――イタリア

 北ドイツ平原州の治安回復に向けた動きによる余波は、旧ドイツ領にあって統治の事実上の放棄状態にあったイタリア管理区域(ベー・ヴェー・バイエルン特別管理区)に及んだ。

 北ドイツ平原州で暴れている人間の多くがオランダ、そしてフランスを素通りしてイタリアへと流れていたからである。

 イタリアは、イタリア管理区域(ベー・ヴェー・バイエルン特別管理区)もあるが、今だ安定しないバルカン半島も管理下に収めている為、如何にムッソリーニとファシスト党が治安維持に努力をしていても、十分とは言えないのが実状であった。

 そこに、それまで関与をして来なかったフランスが苦言を述べたのだ。*5

 治安の回復。

 麻薬密売と人身売買の阻止。

 戸籍管理。

 そのいずれもイタリアも重要であるとは理解していたし、麻薬密売と人身売買が栄光ある大イタリアを汚す存在であるとも認識していたのだが、如何せんにも人的(マンパワー)問題が大きかった。

 戦時体制を解除して規模の小さくなった軍は、バルカン半島での治安維持戦に現地自治政府との協力の下で投入されているのだ。

 出来る事は少ない(無い袖は振れない)と言うのが実情であった。

 だが、日本を背中に置いたフランスから対応を要請されてしまっては、やるしかないという事となる。

 幸い、原資としては油田(イタリア領リビア)があるのだ。

 であれば人手は外注してしまえば良いと割り切り、イタリア管理区域(ベー・ヴェー・バイエルン特別管理区)と北ドイツ平原州で旧ドイツ軍軍人の雇用を始めたのだ。

 尚、フランスで行わない理由は、既にフランス領内の旧ドイツ軍軍人はフランス軍外人部隊に志願(※半強制)し、アフリカでの治安維持戦に参加していたからであった。

 ポーランドで行わない理由は、ポーランド領内での扱いの悪さから、多くの旧ドイツ軍軍人は北ドイツ平原州や東フランスへと移住していたからである。

 かくしてイタリアは10万人規模のドイツ人の治安維持部隊を創設するのであった。*6

 

 

 

 

 

 

*1

 財務省による北ドイツ平原州の独立に関する話は、全くの嘘では無いが事実の全てを示していた訳では無かった。

 即ち、この1949年の時点で決まっていたのは、信託統治領としての北ドイツ平原州の行政は出来るだけ早期にドイツ(ゲルマン)人自身の手に戻すと言う事だけであり、完全な独立は定まっていなかった。

 それどころか、フランスやポーランドの旧ドイツ領での統治を見て、何も考えずに北ドイツ平原州を独立させては、下手をすれば血が流れかねないと危惧していた。

 結果、財務省の目論見は大きく外れる事となる。

 

 

 

*2

 学問として上から広がる日本語としては、この高等教育が大きな役割を果たしたが、文化と言う意味に於いては日本が娯楽用として持ち込んだ映画やアニメ、漫画などの影響が甚大であった。

 戦後復興期と言う事で子どもの保護や教育が軽視されている時代、北ドイツ平原州管理庁は公助として児童福祉施設を用意したのだ。

 その遊具は日本製のモノが大量に含まれており、有り体に言えば()()()()のだ。

 そして児童福祉施設を介して大人たちにも、文字通り下から日本語が広がっていく。

 それに気づいた大人も居た。

 ドイツの伝統的文化、遊具などを重視するべきと声を上げる大人も居た。

 だが大多数の大人は耳を閉ざした((∩゚Д゚) アーアー キコエナーイ)

 さもありなん。

 ()なのだ。

 子育てと言う難事に於いて、楽と言う事は余りにも重大な事であり過ぎた。

 特に、戦争で負け、国が焼かれ、社会が壊れた国家にとっては。

 そしてもう一つ。

 子どもを持った若い世代からすれば、素晴らしいドイツの伝統と言われても、その素晴らしいドイツの伝統の中で生み出されたNazis党とアドルフ・ヒトラー、ドイツ連邦帝国(サード・ライヒ)滅亡した(Anozamaを晒した)のだ。

 その程度の伝統、文化に拘る必要などあるのか? と言う実に容赦の無い、合理的評価を下しているのだった。

 

 

 

*3

 旧ドイツ領関連の広域犯罪対応会議へと日本から出席した警察官僚はコーカソイドの色が濃い日本人(独系日本人スタッフ)であった。

 そして日本人らしい笑み(アルカイックスマイル)を浮かべながら、会議の最中の雑談で口にしたのだ。

 珈琲を手に友好的な雰囲気の中、そう言えばと前置きをして、以前の戦争と今現在の犯罪責任との関係性で実にユニークな主張があったとの事ですので、ええ。それを学べる様な論文(エビテンス)はありますか、と述べたのだ。

 会議の、休憩の場は凍った。

 特に、ユニークな主張(レイシズムの発露)をした若手官僚は顔面蒼白となった。

 とは言え、別段に独系日本人警察官僚は血縁的な意味での祖国の報復をしようと言う様な訳では無かった。

 元より、日本人だと言う意識の強い世代であり、旧ドイツに対しての感情も、迷惑な事をしやがった遠縁程度の意識しか持っていなかったのだから。

 要するには民族(チュートン)的合理性からの欲求、自らの仕事 ―― 北ドイツ平原州の治安回復に関わる事を邪魔するなと釘を刺した訳であった。

 

 闘い(外交)に際して、煙草の火を押し付けられても悲鳴を上げては駄目だと言う。

 だからこそ、煙草を押し付けられぬ様に脛を蹴り飛ばしてやらねばならぬのだ。

 尚、独系日本人の上司は、出来の良いジョークを聞いたとばかりにニコニコとしていた。

 タイムスリップして20年あまりが経過し、日本も実に列強の仕草を学んだと言えた。

 そして同時にこれは、G4(ジャパンアングロ)と並び称される日本とフランスの差でもあった。

 日本はフランスを敵にする積りは無い。

 だが、日本の庇護下にあるモノ(北ドイツ平原州)への舐めた真似は許さない。

 そう言う話でもあった。

 

 

 

*4

 この国境線での検問機能の強化と言う流れ、それをフランスでも海外県(植民地)に導入してはどうかと言う意見を渋い顔をして見ているフランス人も居た。

 密輸密貿易で利益を得ているから、では無い。

 理想主義による理由であった。

 海外県は世界中にあるフランスであり。

 フランスは一つである。

 そのフランスの間で検問、国境線と言う形で区分けがされるのは宜しくないとの考えである。

 フランスは、宿敵たるドイツとの戦争を終え、ドイツを下した結果、それまで存在していたフランスの政治を一つにまとめる箍が外れた状態となってしまい、この政治的主張の総意が大きくなりつつあった。

 又、別の一派は、そもそも海外県(植民地)と言う存在を否定的に見ていた。

 フランスの国是(自由・平等・博愛)に基づき、植民地人の独立を容認しようと言うのだ。

 又、武力蜂起(独立戦争)の鎮圧に掛かっている人やモノ、金の消費を問題視する向きがあった。

 この混乱を深めつつある政治状況に危機感を覚えているフランス政府関係者も居たが、同時に、これがフランスであると胸を張る政府関係者も居るのだ。

 何とも難しい話であった。

 

 

 

*5

 フランスにとってイタリアによる旧ドイツ南部域(ベー・ヴェー・バイエルン特別管理区)の軽視政策は歓迎するべきモノであった。

 何故なら統治、治安回復をイタリアが放置した結果として、その領域にあった企業群がフランスなどに移住してきていたからである。

 バイエルン州にあった自動車会社などは、社員や関連企業もろともに東フランス(旧ドイツ)に移住してきていたのだ。

 無論、全てが東フランスに移動した訳では無く、ポーランドに請われてポーランド西部外沿領に移った企業、或いは日本との技術交流を求めて北ドイツ平原州へと移動した企業も多かった。

 とは言え、フランスにとって実に良い話であった。

 

 

 

*6

 尚、当初は同じ旧ドイツ軍軍人として、北ドイツ平原州在籍者とイタリア管理区域(ベー・ヴェー・バイエルン特別管理区)在籍者を区別なく扱っていた。

 だが、ドイツ戦争後の境遇の違いに起因しての、感情的対立からの様々なトラブルが発生してしまった為、部隊を分けて運用する事となった。

 比較的環境の良い、ドイツである事を否定されない北ドイツ平原州在籍者に対し、戦後、塗炭の苦しみを味わってきたイタリア管理区域(ベー・ヴェー・バイエルン特別管理区)在籍者が感情的なしこりを抱えるのも当然の話であった。

 又、北ドイツ平原州在籍者からすれば、イタリア管理区域(ベー・ヴェー・バイエルン特別管理区)在籍者は4年近い月日が経っても自分たちで治安を安定化させられなかった愚か者、と言う扱いであった。

 そもそもイタリア管理区域(ベー・ヴェー・バイエルン特別管理区)在籍者は、日本の様な先進国軍では無くイタリアに負けた旧ドイツ軍(ヴェーアマハト)の面汚しと蔑視していたのだ。

 言わば、北ドイツ人(アジア人の靴舐め)南ドイツ人(無能of無能)と言う対立だ。

 何とも救われない話であったが、これも又、戦争による惨禍とも言えた。

 尚、この感情的な対立も、イタリア管理区域(ベー・ヴェー・バイエルン特別管理区)の治安の安定後に投入されたバルカン半島での日々(地獄めいた日常)で解消される事となる。

 ビール片手に合言葉(ドゥーチェのバカ)を言い合う仲にはなったのだ。

 戦友(Kamerad)

 共に背中を預けて戦場を駆け抜けると言うのは、矢張り、大きな影響を持っていると言えるだろう。

 

 

 


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