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イラク王国からの軍勢がクウェート国の国境を突破したのは黎明の時間であった。
戦車が先頭にあり、
それを最初に発見したのは、国境付近に生活している遊牧民であり、発見した彼は急いで定住地の集落に戻って報告した。
それは日本の投資で整備された通信網によって即座に都市部へ伝わり、都市部から首都へと伝わる事となる。
電力の供給、娯楽の提供、そして通信。
無論、親日である事のメリットを感じさせる為の
それが今回のイラクによるクウェート国侵攻に際して役立つ事になる。
――クウェート国
クウェート国政府は、正直な感想としてイラク王国との戦争を想像していなかった。
確かに政治的には対立していた。
イラク王国の国民世論、大衆の気分的なモノはクウェート国を家出した子供の様に見ている部分があった。
その上、クウェート国の豊な地下資源は正しい
勿論、クウェート国としては断じて受け入れる事の出来ない主張であった。
だが同時に、イラク王国がソレを
同じブリテン連邦の加盟国であるという事が1つ。
そして何より、国際連盟 ――
世界の軍事力、その圧倒的頂点群に歯向かう馬鹿は居ないだろうと言う事だ。
実に正しい考えであった。
馬鹿と言う生き物は良く正しいと言う事を凌駕してしまうという事を無視すれば、だ。
ある意味で常識に基づいた油断であった。
話の分かる先進国、常識と良識と敬意を以て遇してくる日本や
そしてイラク王国には極めつけの馬鹿が居た為、今回の侵攻が発生したのだ。
兎も角。
イラク王国からの侵攻を受けたとの一報が、通信システムと各組織を経由してクウェート国上層部に届けられたのは朝食の最中であった。
だが、クウェート国上層部の反応は鈍かった。
戦争が起こるはずがないという認識が強かったが為であった。
そして、そもそもイラク王国の大衆その他の一部の人間は兎も角としてイラク王国首脳陣や軍関係者、或いは経済界と
この為、当初は目印の無い砂漠で演習部隊なりが道に迷ったのだろうと楽観的に見たのだ。
結果、現地付近の警察なりを派遣して案内してやれと言う反応に留まった。
又、昼頃にはイラク王国の外交官を呼びつけて
その考えが覆されたのは、命令を発して2時間後。
不整地用車両を有していた事から選ばれた現地の軍警察の部隊が、イラク王国軍の迷子に接触しようとした所で攻撃されたとの報告を受けたが為であった。
激震がクウェート国上層部を襲った。
――日本/中東方面隊
クウェート国に駐屯する自衛隊と日本にとって、イラク王国によるクウェート国侵攻は寝耳に水と言うレベルではない混乱を引き起こした。
クウェート国上層部と同様に、最初は誤報を疑った。
さもありなん。
2国間関係は良好であり、今現在、イラク王国の首都バグダッドでパレスチナ/クルドの民族自決に伴う自治国家の樹立に向けた話し合いを、日本やブリテンと共に行っているのだ。
そんな状況下で侵略をするなど正気の外であると思うのも当然であった。
だが対応自体は機械的に行った。
日本政府は偵察衛星による情報の再確認と外交、ブリテンとも連絡し共同でのイラク王国への状況確認に動いた。
そして現地部隊に対しては詳細な情報収集を命令した。
併せて、
これはクウェート基地が日本の欧州
1930年代から、
そのような場所が被害を受ける状況を座して待つ積りは無かった。
又、国際連盟の安全保障理事会にて決議した、所謂
これはドイツ戦争終結後に決議された宣言であり、色々と綺麗な言葉が並んでいるが、纏めてしまえばその趣旨は1つ。
いかなる理由があろうとも戦争は許されるものではなく、よって
国際連盟安全保障理事会の常任理事国である日本は、国際連盟の要求に完全に応える所存であった。
只、問題はイラク王国軍によるクウェート国侵攻が発生したこの日、クウェート基地に駐屯している戦力は十分では無かったという事だろう。
増強機械化連隊規模の陸上戦闘部隊しか残って居なかった。
クウェート基地には
かつてであれば4個の戦車連隊を含む重打撃師団であったのだが、ドイツ戦争の終結に伴って2個の旅団司令部を隷下にもった
その上で、現在、エチオピア帝国との共同
そして残っていた戦車連隊は装備改編中であった為、実質2個中隊規模であった。
幸いにして
ある意味で、自衛隊も緩んでいたと言うべきかもしれない。
だが、ドイツ戦争から10年も経ずして
しかもその馬鹿、
誠にたまらない話であった。
だが現地も
陸上部隊は規模、戦力こそ少ないが精鋭であり、航空部隊は充足状態であるし、港湾には海上自衛隊の誇るやまとを旗艦とする部隊が居るのだ。
クウェート国軍と協力してあたれば何とか出来るだろう。
そう思っていた。
だがそれは偵察に出ていた航空機、砂漠地帯での環境対応試験の為に来ていた試作機*2が齎した情報によってひっくり返る事となる。
偵察によって把握した侵攻してきた部隊の総兵力、最低でも5万と言う数字は真剣にならざるを得ない規模であったからだ。
日本連邦統合軍中東方面隊は、国際連盟安全保障理事会の緊急会議の議決が出るまでに急いで出撃準備を重ねるのであった。
――ブリテン
イラク王国軍によるクウェート国侵攻の一報に、一番に切れていたのは間違いなくブリテン政府であった。
クウェート国からの急報、及び少し遅れて日本から偵察機の捉えた情報を添えて届けられた連絡は、丁度、ブリテンでは朝食の時間であった。
時のブリテン首相は、すんでの所で紅茶を噴き出すのを我慢する事に成功した。
尤も、怒気を吐く事を我慢しなかったが。
首相官邸から叱責された軍と外交の官僚団は、現地組織を叱咤した。
叱咤された現地の軍将校や外交官は大慌てでイラク王国関係者に接触するのであった。
とは言え、ブリテンは慌てるだけでは無く冷静に対応も進めていた。
国際連盟の安全保障理事会を日本と連名で緊急開催してイラク王国への事態の問責、併せて事態の回復までの特別行動の発動を全会一致で決議していた。
この辺りの外交 ―― 政治的行動の速さは流石はブリテンと言う部分があった。
安全保障理事会に呼び出されたイラク王国代表は現地状況を知らされておらず、又、イラク王国本土からの情報も無かった為、これは陰謀ではないかと反論するのが精一杯と言う有様になるのであった。
だが、日本が提供した衛星写真や偵察機が撮影した情報によって反論が強く出来る事は無かった。
その上でブリテン政府は国際連盟安全保障理事会の場で、ブリテン連邦の内乱防止に関わる条項を利用する事を宣言していた。
即ち、イラク王国内に駐屯していた1個連隊規模のブリテン連邦軍部隊を動員し、イラク王国の軍と政治機関の制圧である。
それは禁治産者への扱いと同義であった。
ブリテン連邦と言う枠があるとは言え、
国際連盟による戦争拒否。
それを破った第1号が、まさかまさかのブリテン連邦内から出たのだ。
国家のメンツが丸つぶれと切れたのも当然の話であった。
そして最後にイラク王国大使に対し、即時クウェート国侵攻部隊が退かないのであればイラク王国との全面戦争まで検討すると述べるのであった。
この、果断なブリテンの姿勢に、イラク王国周辺のブリテン連邦加盟国も戦力提供を約束し、フランスやアメリカも出来るだけ早期の戦力派遣を宣言するのであった。
当然ながらも、侵略国家を〆る切っ先となるのは世界の覇権国家群たる
国境線を越える事。
戦争を仕掛ける事は、如何なる理由があっても赦されざる行為であるという恐ろしい程の圧がそこにはあった。
世界の平和を守り金儲けがしたいと言う、ある意味で
そして
尚、
当然、国際連盟加盟国は侵略をうけた場合に対応する国際連盟懲罰部隊の作戦行動を受容し、或いは支援する条約が結ばれていた。
誠にもって本気であった。
主導した日本は本気で侵略戦争を根絶する気なのだ。
言うまでも無く、戦争を初期、初動で叩き潰して安く済ませようという魂胆であった。
中東方面隊に所属する第4航空団に試作機として派遣されてきていたYF-12は、1948年に1号機が完成したばかりの新鋭機であった。
とは言っても、航空自衛隊向けの装備では無い。
軽い攻撃、そして観測と偵察を担う邦国と海外の需要を満たす為に開発された機体だった。
外観は古典的なプロペラ機 ―― ターボプロップ機となっている。
ジェットエンジンが採用されていない理由は、大多数の国家にとって消耗品である
又、そもそもジェット戦闘機を整備出来ている国家はまだまだ少数派である為、旧来のレシプロ機を相手にするのであれば、安価なターボプロップ機で必要十分と言う計算もあった。
この辺りの割り切りは、
北崎重工業は航空機の開発経験が無い。
航空機の開発は高リスクであり、多くの予算を喰い、そして売れるかどうかが判らぬギャンブルであった。
にも拘わらず航空機の開発に手を出した理由は北崎重工業の更なる飛躍の為であり、同時に大株主である
残念ながらも日本国内の三菱重工業や川崎重工業と言った大手航空機開発製造業の各社との共同開発は拒否されていた。
別に北崎重工業が嫌われているという訳では無い。
まだまだ層が厚いとは言い難い航空機開発技術者が、日本政府や航空自衛隊が欲している先進的な機体の開発に根こそぎに動員され続けている為、この手のベンチャーな取り組みに付き合う余力が無かったのだ。
何名かの引退した技術者をアドバイザーとして派遣する事はしてくれていた。
航空自衛隊も、退任した技官を派遣してくた。
だが北崎重工業が生み出したい航空機は、その程度の人員規模で開発できるモノでは無かった。
故に、
ドイツ戦争の終わった1940年代後半、かつてのドイツを支えた航空機開発メーカーは、青色吐息ではあってもグライダーその他の民需向け航空機を開発販売しながら生き残っていた。
これは、元より信託統治領北ドイツ平原州に於いて日本政府が経済界に対して規制その他の強制をしてこなかったお陰であった。
諸々の法律が日本基準になったが、それは食品衛生法や環境法令に始まって道路交通法その他が主である為、どちらかと言えば安全の為の政策であった。
無論、銃刀法も導入されている。
だからドイツ戦争中、兵器を開発していた軍需企業も存続は出来ていた。
只、それらの企業にとって問題となるのは、主力商品である兵器を納入してきたドイツは消滅しており、その代わりとなる統治者たる日本は旧ドイツ系の企業から兵器その他を購入する気が無いという事だろう。
特に、銃刀法によって民間への拳銃などの売却が不可能になった銃器メーカーにとって状況は最悪であった。
兎も角。
企業として生き残れていても、未来への展望の乏しい状況が続いていた。
多くの企業が軍需企業として廃業し、民需専門に転業を図っても居た。
であるからこそ、北崎重工業は旧ドイツ系の兵器開発メーカーに提携を持ちかける事としたのだ。
幾つかの企業に接触した後、北崎重工業が選んだのは拠点が北ドイツ平原州にあったフォッケウルフ航空機製造株式会社であった。
北崎重工業はフォッケウルフ航空機製造株式会社と合弁会社としてハンブルク航空機研究開発社を作り、そこで
航空機作りの経験豊富なフォッケウルフ社の技術者は、北崎重工業経由で日本の
そして北崎重工業から派遣されてきた技術者は、それらを学び、後の北崎重工業の航空機開発に役立てるのであった。
完成したKF-X01は、軸馬力で4000を誇る大出力系のエンジンを選定した結果、極めて大型で多様性に富んだ直列複座配置の機体として完成する事になる。
4tを超える搭載力を持ち、飛行性能も優秀。
その性能は実に素晴らしいモノとなった。
問題は、高性能かつ大型であるが故に機体価格は相応の高額なモノとなっていた為、手頃な性能と価格の機体を大量に売り捌こうと考えていた北崎重工業経営陣の目論見が粉砕されてしまったと言う事だろう。
現場の暴走を甘く見た結果と言える。
兎も角。
KF-X01は売れそうな感じはしなかった。
性能は良い。
アメリカやブリテンの新鋭攻撃機と同等以上の性能を発揮している。
だが、その性能相応の高額な機体である為、KF-X01を購入出来る様な裕福な国家であれば、どうせならば先進的に見える機体 ―― 前進翼を持ったジェット戦闘機であるエンタープライズ社製F-10を選ぶとだろうと言う致命的な問題を抱えていたのだ。
技術的な見識は乏しくとも、経済性と言うモノに関しては厳しい目を養っていた北崎重工業首脳陣は、完成したKF-X01に頭を抱え、即座に
泣きつかれた
そして同時に、日本政府にも働きかける事となる。
航空自衛隊なり、他の邦国軍なりでの採用を要求しての事であった。
対して航空自衛隊は渋い顔をする事となる。
これは使用する航空機の種類が増える事によって兵站への負担が増える事を嫌っての事であった。
世界規模で展開する羽目になっている航空自衛隊、自衛隊にとって兵站への負担増を可能な限り避けようとするのは当然の話であった。
航空自衛隊が採用しないのであれば、と各邦国軍も採用をしない方向で纏まりつつあった。
だが、その流れに北ドイツ平原州の総督府が声を上げた。
KF-X01を採用するべきである、と。
これはハンブルク航空研究開発社の本拠は北ドイツ平原州にあり、採用されたKF-X01は樺太の工場と折半する形となるが為であった。
治安は安定化していても経済的には不調である北ドイツ平原州にとって、関連企業の多い航空機製造は、北ドイツ平原州の経済活性化に大きく資するモノだと期待されたのだ。
そして財務省はこの主張に賛同した。
此方は、北ドイツ平原州経済が活性化すれば生活支援などでの出費が抑える事が出来るからである。
勿論、これは政治的な工作に長けた北崎重工業関係者による策謀であった。
とは言え実利面は確かであった為、KF-X01は日本連邦統合軍
そしてシベリア共和国軍を筆頭に、かなりの数が売れる事となる。
海外への輸出が前提として設計されていた為、僻地の整備支援機材の乏しい基地でも余裕をもって運用できる整備性の高さが評価されての事であった。
F-5やF-6/F-7と言ったプロペラ機を代替していく事となる。
海外への輸出でも、先進的過ぎる外観をしたF-10を忌避する政治家や軍人などから好意的に受け入れられ、それなりのセールスに成功する事となる。