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チャイナ共産党が行った上海市防衛隊への破壊工作は、国際連盟で大問題となった。
戦争に於ける作法の全てを無視する暴挙であり、この反応も妥当であった。
国際連盟安全保障理事会は、南チャイナの代表を呼びつけて査問会を開いた。
慌てたのは南チャイナである。
身の潔白と、次には上海市に展開する列強諸国による謀略を訴えた。
南チャイナは、移民による伝手のあるアメリカで自身が被害者である事を強く訴える事で査問会の流れを変えようとした。
特にアメリカ人が有するミリシアへの伝統的価値観に沿う形で訴えた。
曰く、チャイナの行動は列強への市民レベルでの抵抗だと。
アメリカ議会が紛糾した。
アメリカの世論も盛り上がった。
そこに、日本が圧倒的な情報で殴り込んだ。
加害者はチャイナの悪しき部分であり、被害者はか弱き一般のチャイナ。
アメリカを代表とする列強は、その被害者を守るべく立ち上がっているのだと ―― 宣伝戦だ。
軍閥は上海市に隷属を命じていた。
特にその事をアピールする事で、上海市を東洋のアラモだと宣伝したのだ。
このアピールは効いた。
グアム共和国軍(在日米軍)の協力で、アメリカ人に一番刺さるフレーズを選んだのだ。
しかも、幾度も行われた襲撃で出た被害者の中で一番の美少女を選んで、インタビュー動画を撮り、「チャイナ/上海の実相」と題して映画化して配信までしたのだ。
世論が一気にひっくり返る。
チャイナの善き市民を助け、悪しきチャイナを叩けとの声でアメリカの世論は染まった。
アメリカ軍は正義の軍隊である。
――上海事件(D-Day+12)
2日間に渡って歩兵による攻撃を行い、撃退された軍閥。
只の力攻め、志願兵を前面に押し立てての人海戦術であった。
だが3日目は違った。
2日間の戦闘で日本とアメリカ、ブリテンの陣地をつぶさに観察し、攻勢の主軸を定めたのだ。
標的はアメリカ海兵隊。
日本よりも質で劣り、ブリテンよりも数で劣る。
遮蔽物を使い、野砲の支援を受け、虎の子の戦車部隊を前面に出しながらの攻撃であった。
押し込まれて行くアメリカ海兵隊。
16式機動戦闘車の支援を受けているとは言え、腰を据えた野砲の支援の下で接近戦をされては対応しきれない。
通常は対砲射撃の応酬となり、連続した砲戦は困難であるのだが、事、今回は上海防衛隊側に野砲の類が少ない為、応射出来ないのだ。
アメリカ海兵隊が軽装備である事を見抜いた軍閥側の作戦勝ちであった。
16式機動戦闘車も支援に前に出ようとはするが、装甲がそう厚い訳では無い為に野砲による制圧射撃を受けていては思う様には出来なかった。
軍閥側はアメリカ海兵隊を突破できる。
そう信じた。上海防衛隊がヘリ部隊を投入するまでは。
アメリカ海兵隊の状況を把握した上海防衛隊司令部は自衛隊の攻撃ヘリ部隊の投入と、第81独立装甲連隊の投入を決断。
本物の装甲を持った戦車による逆襲は、軍閥の装甲部隊と約1個師団の攻撃を完全に頓挫、粉砕せしめた。
野砲部隊はヘリ部隊による襲撃によって撃破された。
この1日の戦闘で、軍閥は実に3万人近い兵が死傷する事となる。
――チャイナ共産党
戦闘開始から13日目、チャイナ共産党は追いつめられていた。
治安維持活動の一環としてブリテンがチャイナ人とチャイナ共産党とを分離する為、チャイナ共産党に対して懸賞金を掛けたのだ。
見知らぬ人間を見つけたら酒代にはなる懸賞金。
何かの兆候を発見したら贅沢な食事が出来る懸賞金。
チャイナ共産党の情報を得たら1週間は寝て過ごせる懸賞金。
実際の襲撃を阻止する程の情報であれば1年は遊んですごせる懸賞金。
チャイナ人は血眼になってチャイナ共産党を探す事となった。
チャイナ共産党が人民の海に潜れぬ様に分断したのだ(※1)。
これでは軽歩兵でしかないチャイナ共産党兵に出来る事など何も無かった。
だからこそチャイナ共産党は軍閥との呼応を図る。
比較的防衛線が薄い場所を探し出し、内外から挟撃して上海市の陥落を狙うのだ。
――上海事件(D-Day+15)
開戦13日目の戦闘で軍閥は大敗したが、それでもまだ戦闘を続けていた。
1つには被害の大半が開戦前に集まって来た野盗や破落戸の志願者だったからだった。
虎の子の戦車部隊は半壊していたし、野砲部隊に至っては消滅していたが、それでも軍閥の主力と呼べる部隊はまだまだ健在であったのだ。
負けてはいないというのが頭目の手ごたえだった。
そして、チャイナ共産党との合同での側面攻撃作戦という起死回生の策があった事が大きい。
散発的な襲撃を行う事で欺瞞をしながら、3日かけて作戦準備を行った。
そして開戦16日目、側面からの攻撃を敢行した。
世界大戦時の塹壕戦術、戦車やありったけの自動車の前面に塹壕を埋めれるだけの薪や藁を載せて突撃したのだ。
上海防衛隊側は政治的要求から、フランス・インドシナ旅団の合流後の反撃(D-Day+18)を予定し準備していた為、後手に回ってしまったのだ。
攻撃を受けた側面、その守備に就いていたのはフランスの警備中隊とフランス人とチャイナ人の志願兵だった。
ヘリ部隊も、最低限度の偵察用と連絡用を除いて整備を行っていた為、大規模な航空支援は不可能だった。
その状況下で日本が行ったのは、先ず偵察だった。
偵察ヘリを軍閥の防空網へ突入させてまでして情報を集めた。
損傷機や未帰還機を出しながらも偵察ヘリ隊は任務を果たした。
現時点での敵の配置を把握したのだ。
側面攻撃に来た軍閥旅団規模部隊が最後の予備であると把握した日本は、最後の手札を切った。
31式戦車中隊を基幹とする装甲中隊戦闘団の投入だ。
合わせて、上海防衛隊は内側から呼応しようとするチャイナ共産党部隊の鎮圧に、志願した警官隊で編成した部隊を投入した。
内も外も血みどろになる戦い。
これが上海防衛戦最後の山場となった。
戦いは一昼夜に及び、最終的には防衛側が勝利した(※2)。
――上海事件(D-Day+31)
フランス旅団到着後に行われた反撃は、アメリカのフィリピン師団の到着後、掃討戦へと移行した。
最終的に、事件勃発から32日目に国際連盟にて正式に上海事件の終息が宣言された。
軍閥は消滅。
チャイナ共産党も上海組織は壊滅する結果となった。
(※1)
上海チャイナ人とチャイナ共産党とを分断で来た理由の1つは、日本が根回しをして積極的に行った襲撃事件の周辺被害者へのフォローがあった。
流れ弾や爆発で怪我をした人へは医療サービスを提供し、家財を失った人にそれなりのフォローを行ったのだ。
民心慰撫、大衆を味方にする為に行った事であったが、これが大成功となった。
チャイナ人が政治に求めるもの、評価する徳を日本やアメリカなどの列強が示した事となったのだ。
同時に、上海市民の南チャイナやチャイナ共産党に対する好意は激減する事となった。
(※2)
この戦いで大活躍したのが31式戦車だった。
戦車らしく敵軍の砲弾から味方を護りそして敵戦車を粉砕した。
市街戦でもセンサーで敵の居所を把握し、105㎜砲は立てこもった建物を撃ち抜いて敵を叩きのめした。
八面六臂の大活躍。
しかも、激戦の最中にあっても喪失車両が出なかったのだ。
被弾してもものともせず応射し、キャタピラが切られればその場で手の届く範囲の敵を掃討しきるまで戦い抜いた。
フランス兵は31式戦車を「我らが守護天使」と呼び、親しんだ。
惚れこんだと言っても良い。
それはフランス旅団が到着後、日本に対して31式戦車の装甲中隊戦闘団を編入してくれるように依頼した事にも表れていた。
この事が後にフランス陸軍の、31式戦車購入希望という話に繋がる事となる。
日本からすれば31式戦車は、各邦国軍向けに整備性を運用コスト低減を念頭に第3.5世代戦車の技術で作られた第2.5世代であった。
だが他の国からすれば、撃破不可能の重戦車であった。
尚、10式戦車であったが、撃破数などは此方が遥かに上であったのだが、その運用スタイルが余りにも異質過ぎて、16式機動戦闘車の如く戦車に似たナニカという風に映っており、食指が動く事は無かった。
2019.05.12 表現修正
2022.10.18 構成修正