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東京軍縮会議の終結と共に、ソ連は政治の季節となった。
ソ連に於ける政治の季節とは、粛清という血なまぐさい風を伴っていた。
スターリンが粛清に踏み切った事に何かの大きな原因が在った訳では無い。
強いてあげるならば日本ソ連戦争から積もって来たソ連赤軍へのスターリンの不信と、5ヵ年計画の邪魔をするが如く動くレーニン時代からの党重役たち非スターリン派へのスターリンの不満が原因であると言えるだろう。
同時に、ソ連大衆への締め付けでもあった。
非革命的という言葉で赤軍と共産党を掌握し粛清する事で、スターリン体制の鋼の如き完成を狙ったのだった。
赤軍将校から共産党役員、一般の人間すら非革命的であるとして処断されていった。
――バローン・エヴァルトの反乱
大粛清の始まる前にウラジオストクへと回航された通商破壊艦バローン・エヴァルトであったが、大粛清の影響で物流が滞った為に、明日の食事にすら事欠く状態に陥っていた。
ヨーロッパ方面からアジアへの大航海こそ乗り切れはしたが乗組員たちは疲弊し、船体のメンテナンスすら滞っていた。
士気の低下を危ぶんだ政治将校が景気づけに艦名をバローン・エヴァルト(エヴァルト男爵号)からアドミラル・エヴァルト(エヴァルト提督号)へ変える事を提案し実行したのだが、物資不足から艦尾の艦名を書き換える事すら出来ない有様であった。
艦長や政治将校はこの状況を打破する為、様々な手段を講じた。
窮状を赤軍上層部へ訴え、共産党に党を介して沿海州からの支援を願った。
その事が共産党上層部の怒りを買った。
非革命的であるとアドミラル・エヴァルトの艦長と艦付きの政治将校が捕えられたのだ。
その暴挙に、艦と艦の乗組員の為に走り回っていた2人の事を知っていたアドミラル・エヴァルトの水兵たちは大いに怒った。
怒った上で、飢餓で死ぬ位なら2人を取り戻し、戦って死のうと決意したのだ。
下士官に率いられた水兵たちは、武器を手に2人が囚われていた共産党支部へと殴り込みをかけ、2人の救出に成功した。
部下の起こした、正に反乱としか言いようのない所業に、艦長は腹を決めた。
自分はどうなっても良いので部下たちを生き残らせようと政治将校と話し合った。
結果としてアドミラル・エヴァルトは28㎝砲でウラジオストクの共産党支部を脅して燃料を強奪するや否や出港し、一路東を目指した。
日本の排他的経済水域に入ると、海上自衛隊の哨戒艦がアドミラル・エヴァルトに立ち塞がった。
空には非常時に備えて哨戒機が爆装して飛んでいた。
緊張の時間。
アドミラル・エヴァルトの艦首と艦橋で水兵が白旗を振った。
生き残る為、亡命を選択したのだ。
亡命先は日本連邦のロシア人国家であるオホーツク共和国であった。
――赤軍粛清
歴史に類を見ない、20,000t級の大型艦の亡命騒動にソ連は揺れた。
現時点でソ連海軍最大の戦闘艦であり象徴でもあったアドミラル・エヴァルトで反乱が発生し、亡命したのだから当然だろう。
当然ながらもスターリンは大激怒した。
アドミラル・エヴァルトに対しては、事の原因が赤軍と共産党の不作為でありサボタージュであった為、即時の帰国と恭順を行えば罪に問わぬ事を宣伝し、温情を見せた。
だが赤軍と共産党、そしてシベリアの指導部に関してスターリンは激しく追及した。
特にソ連海軍は東京軍縮会議で妥協した事を激しく追及されていた所であった為(※1)、将官級の上層部は軒並み処刑され、続いて上級将校も粛清の対象となっていった。
こうなると慌てるのが人間である。
アドミラル・エヴァルトの事件は海軍の引き起こした問題であったが、既に陸軍も粛清の対象となっており、最上級者である元帥までも処分されていた。
ソ連赤軍は、祖国への忠誠と粛清への恐怖に揺れる事となる。
その心情に救いとなる存在があった。
ソ連と並ぶロシア人によるロシア人の為のロシア人の国家、オホーツク共和国である。
ロシア人を2度に渡って打ち破った、宿敵と言える日本人の国家である日本連邦に属しては居るが、ロシア人の自治は赦されている。
ソ連赤軍の上級将校は様々な手管を使って家族を連れてシベリアへ渡り、日本企業(日本政府)を介してオホーツク共和国へと渡った。
これにスターリンは激怒した。
祖国への忠誠心を持たぬ人間は生きる価値は無いとまで言い切り、特別許可を持たぬソ連赤軍将校が家族と共にシベリアに居る場合、裁判なしに即座に射殺できる権利を粛清部隊に与える始末であった。
――シベリア
スターリンの粛清部隊と共に、その手足となる赤軍部隊もシベリアに大規模に配置された。
国境線や、日本やアメリカの企業の活動領域を封鎖し亡命を許さぬのがスターリンの指示であった。
だが、ただでさえ疲弊していたシベリア経済は、この負担に耐えかねる事となった。
農村では食料の徴発が行われ、都市部では生活物資が徴発された。
抵抗する者はソ連の革命精神に反する者として処罰された。
粛清部隊に反抗した者は射殺すらされた。
この状況にシベリアは耐えた。
ロシア人としての忍耐強さが状況を受け入れさせた。
だがそれも、ある農村で粛清部隊が種籾すら食料として徴発するまでであった。
明日どころか今日までも生きれないとなったシベリアのロシア人は激発した。
革命を叫んだ。
暴君を許すなと怒りの声を上げた。
――シベリア独立戦争
最初は、革命を叫んではいても暴動でしか無かった。
それを革命と言う形へと変えたのは、シベリアの各地へ家族を連れて潜伏していたソ連赤軍の上級将校たちであった。
彼らは、自分たちがオホーツク共和国へ穏便に渡る事は不可能となっている事を自覚していた。
シベリアに居る事すら自殺行為であると理解していた。
それでも尚、一縷の望みをもって家族と共にシベリアに居たのだ。
そんな上級将校たちであったが故に、生きる為に立ち上がったシベリアの住民を見捨てる事が出来なかった。
上級将校たちは次々とシベリアの革命軍に参加した。
その檄に、シベリアに駐留していたソ連赤軍も呼応した。
シベリアの独立戦争が始まった。
(※1)
東京軍縮会議での条約締結に向けた妥協を、スターリンはソ連海軍の独断専行であると断じ、処分を行っていた。
これは条約締結後であっても条約を守らない為の、合法的に条約から離脱する為の行為であった。
スターリンは50,000t級戦艦を諦めてはいなかった。
その上で日本を見て、建造をしてしまえば列強も文句は言わぬだろうと見ていたのだ。
ソ連海軍が勝手な判断で条約を締結したが、ソ連国内では予定通りに建造を行った。
条約を違反したのはソ連海軍の上層部であり処罰済みであるとする予定だった。
2019.05.20 文章修正
2019.06.12 構成修正
2022.10.18 構成修正