タイムスリップ令和ジャパン   作:QgkJwfXtqk

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32.1936-06 シベリア独立戦争-05

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 シベリア独立戦争が真にシベリアの独立運動へと変わるのは豊原(ウラジミロフカ)宣言によってであった。

 場所はその名の通り北日本邦国の首都、豊原。

 日本とオホーツク共和国、アメリカとフロンティア共和国、そしてシベリア独立派の5つの立場の国家が話し合い、宣言された。

 その内容は、シベリア独立運動がソ連の圧政からロシア人の独立を目的とする、ロシア人の民族国家樹立の宣言であった(※1)。

 同時に、この目的の為に日本連邦国とアメリカ、フロンティア共和国などは全面的な協力を行う事を宣言した。

 宣言に合わせて、ソ連に対して宣告が成された。

 

 シベリアはソヴィエトを認めない。

 シベリアはソヴィエトの統治を認めない。

 シベリアはスラブ人によるスラブ人の為のスラブ人の国家を目指す。

 よってソ連には、即時オビ川以東の大地より兵を引き払う事を要求する。

 撤退する場合、将兵の安全は保障する。

 撤退しない場合、実力をもって成すものである。

 

 ソ連とスターリンの横面を全力で叩くが如き宣告であった。

 当然ながらもスターリンは激高した。

 そして極東赤旗総戦線の司令部に対し、全力でシベリアの独立派を自称する反革命的組織を叩き潰し、ソ連領内を我が物顔で闊歩する日本とアメリカの帝国主義者をソ連の大地から追い払う事を厳命した。

 

 

――ソ連・第1赤旗戦線(D-Day+23)

 スターリンからの厳命を受けた第1赤旗戦線は、それまでの避戦の姿勢から一変して攻勢に出る事となった。

 第1目的は1個歩兵師団が立てこもってはいるが孤立状態にあるウラジオストクと、ハバロフスクとの連絡線の回復である。

 日本とアメリカはそれぞれの企業の活動地域に分散しており、ソ連軍を積極的に分断している訳では無かった為、勝利を政治的に欲した第1赤旗戦線は全力でハバロフスク-ウラジオストク間の打通を図ったのだ(以後、HB打通作戦と呼称する)。

 戦力は、ハバロフスク近郊で活動していた第11赤旗歩兵師団と第11赤旗戦車師団のほぼ全力(※2)。

 1個連隊のみ、ハバロフスク防衛に残しての全面攻勢であった。

 無論、補給が途絶えがちで物資の不足している事を自覚していた第1赤旗戦線司令部は、勝ち続ける目処が無い事を自覚していた為、打通後は速やかに第12赤旗歩兵師団とウラジオストクに残された物資を持ってハバロフスクへと撤退する積りであった。

 ウラジオストクの艦隊に関しては、自力にてオホーツク海の北端港町マガダンへの移動が厳命された。

 この他、温存されていた航空隊約200機の投入も決意していた。

 極東赤旗総戦線司令部は、シベリア全域で1000機近い航空機を指揮下に置いていたが、航空燃料の不足によりHB打通作戦に投入出来るのは、この200機余りが限度であった。

 

 

――日本/アメリカ・沿海州(D-Day+23~26)

 通信量の増大と各部隊の動きから日本も早期に第1赤旗戦線動きを把握した。

 数的にも質的にも日本アメリカ連合軍に比べて劣勢なソ連側が攻勢に出て来るのは想定外であった為、日本アメリカ・シベリア戦線連絡会(以後、合同作戦司令部と呼称する)は一時的に混乱した。

 確認の為にハバロフスクへ強行偵察を行った偵察機が、ソ連側が隠す事無く部隊を動かしている事を確認。

 この為、攻勢作戦は事実であり、そして第1赤旗戦線は本気である事を把握した。

 合同作戦司令部はHB打通作戦部隊を迎撃する事を選択する。

 幕僚の一部からは、一旦はソ連HB打通作戦部隊をウラジオストクまで通させた後に包囲し、降伏を強いた方が良いのではとの意見も出た。

 戦闘を極力抑えて彼我の死傷者を減らそうという考えであった。

 だが否定される。

 それよりも、初戦からソ連側の作戦を破綻せしめる事で第1赤旗戦線の戦意低下を図り、これによってシベリアの開放を早期に実現した方が、トータルでの死傷者が減ると言うのが判断の論拠であり、日本政府の判断であった。

 この方針に従い、第601師団がHB打通作戦部隊の前方に立ちはだかり、攻撃を開始した。

 完全充足状態の機械化師団である第601師団は、HB打通作戦部隊と同じスラブ人 ―― ロシア人の部隊であったが、一切の躊躇なく殴り掛かったのだ。

 シベリアをソ連のくびきから解き放とう! そんなスローガンと共に、オホーツク共和国のロシア系日本人は31式戦車を前面に立てて戦った。

 ソ連側が頼みとした戦車師団は主力と頼る戦車がBT戦車であった為、第601師団はHB打通作戦部隊を一蹴した。

 その上で上空にAP-3極地制圧用攻撃機が乱舞し攻撃を加えたのだ。

 HB打通作戦部隊はハバロフスクより進軍を開始して100㎞も進まぬうちに、その衝撃力を、文字通り粉砕されてしまったのだ。

 戦車戦で歯が立たない事を把握した第1赤旗戦線は、慌てて航空攻撃を図った。

 併せて我が物顔で空を飛ぶAP-3の排除も図る。

 2個の師団はこの時点で2割近い被害を受けていたが、第1赤旗戦線は諦めていなかった。

 スターリンに厳命されているのだ。

 諦めるという選択肢などある筈も無かった。

 必死になってハバロフスクを飛び立った200余機のソ連赤軍航空隊であったが、第10航空団の迎撃によって頓挫する事となる。

 迎撃に出たのは第10航空団の2個飛行隊であり、その総数は50機を超える程度であったが、ソ連側は一方的に狩られて行く事となる。

 第10航空団のF-5戦闘機は、ネットワーク化された防空システムの中で最大限の能力を発揮する様に動いた。

 高度10,000という、ソ連機では到達する事も出来ない高々度から睥睨するE-767早期警戒管制機がソ連機の数、高度、飛行方向を把握し、逃げようのない場所からF-5にPSAMミサイルでの攻撃を指示するのだ。

 集団ではあっても個の集まりでしか無かったソ連機では抵抗のしようも無く、各個に撃破されていった。

 それは水に溶ける砂糖の様に、ソ連赤軍航空隊は消滅していった。

 

 

――ソ連・第1赤旗戦線(D-Day+27)

 戦いにすらなっていないHB打通作戦部隊の状況を、4日目にして受け入れた第1赤旗戦線は作戦の中止を決定。

 同部隊に後退を命じた。

 だが、それは余りにも遅かった。

 ヘイロン川以北のブラゴヴェシチェンスク近郊で防衛任務に当たっていたアメリカ第14師団がハバロフスクから西方に繋がる連絡路の遮断に動き出していたのだ。

 慌てる第1赤旗戦線であったが、凶報は更に続く事になる。

 沿海州と満州(フロンティア共和国)に挟まれる場所にあるユダヤ自治州が、自治権拡大を求めて蜂起したのだ(※3)。

 当然、シベリア独立運動への協力も宣言している。

 即座の鎮圧を検討したが、その前に沿海州北部域に展開していた日本第17師団が、オホーツク共和国より増派されて来た第603師団の先遣部隊、そしてシベリア独立軍の第1旅団と共にハバロフスクを包囲したのだ。

 この時点でソ連側守備部隊は、HB打通作戦部隊の第11赤旗歩兵師団から分離させた1個連隊のみ。

 第1赤旗戦線はハバロフスク住民を強制動員して促成の守備部隊 ―― ハバロフスク赤衛師団を構築、旧式化して倉庫に放置していた世界大戦やロシア革命時代の武器を持たせて前線に立たせた。

 ここにシベリア独立戦争前半の山場となるハバロフスク市防衛戦が発生する事となる。

 

 

――日本・守勢攻撃(D-Day+30)

 HB打通作戦部隊を撃破した日本だが、ハバロフスクとウラジオストクに対しては包囲に留めていた。

 都市攻略戦となれば大量の死傷者が発生する事を嫌ったのだ。

 日本連邦統合軍の将兵は当然ながらも、都市住民も出来る限り傷付ける訳には行かなった。

 彼らも将来のシベリア国家の国民なのだから。

 そして同時に、他のシベリアの人々 ―― 積極的にソ連にもシベリア独立派にも与していない人々へのアピールもあった。

 日本はソ連と戦うのと同じように、シベリアの人々を相手にした宣伝戦と民心慰撫を図っていたのだ。

 常に正義の仮面(ベビーフェイス)を被り続けるのだ。

 その事をアメリカにも、強く伝達していた。

 無論、正しいだけではロシア人は服従しない。

 ロシア人が頼りとするに相応しい力を示す必要もあった。

 故に、ハバロフスクとウラジオストクのソ連軍には容赦の無い空爆が繰り返された。

 精密な攻撃の可能なAP-3極地制圧用攻撃機は、弾薬備蓄庫や食料備蓄庫、果ては軍施設を常に攻撃し続けていた。

 昼も夜も続けられた攻撃は、第1赤旗戦線の戦闘力と共に戦闘意欲を削り続けた。

 我が物顔でシベリアの空を飛び破壊を振りまくAP-3の事を、ハバロフスクとウラジオストクの両都市に立てこもるソ連軍人は空の黒死病(ペスト)と恐れた。

 又、一方的にソ連軍航空機を狩り尽くしていくF-5戦闘機の事は、低視認型の制空迷彩にあって尚、赤く目立つ国籍識別票から血塗れの目玉(ブラッディ・ボール)と言う名を付けていた。

 尚、ウラジオストクを出港したソ連海軍艦船でマガダンへと到着出来たものは1隻と無かった。

 開戦から1月で、第1赤旗戦線の歩兵を除く海空の戦力は事実上、消滅する事となっていた。

 

 

――ソ連・側面攻撃(D-Day+33)

 正面戦争では一方的な打撃を被っていたソ連であったが、それ故に側面攻撃に注力する部分があった。

 チャイナ共産党への援助の強化、即ち、チャイナでの反アメリカ作戦である。

 特にチャイナ北部、フロンティア共和国周辺での活動を強化する様にスターリンは指示していた。

 フロンティア共和国の軍は7個の歩兵師団から成っている。

 自動車化程度の装備しかないがそれでも7個師団12万と余名の為、これがそのままシベリア戦線に投入されては困るのだ。

 チャイナ共産党としてもソ連の支援は願ったりであった。

 現在、チャイナで安定した勢力である南チャイナを打破する為には、フロンティア共和国と衝突させる必要性がある事を認識していた。

 ドイツからの全面支援を受けた南チャイナの軍勢は強力であり、質的にも数的にも劣位となったチャイナ共産党軍では勝利する事はおぼつかないのだから。

 チャイナ全土を巻き込む戦乱状態を作り出さねばならぬ。

 そうやって南チャイナが消耗すれば、チャイナ共産党がチャイナの天下を取る目が出て来るという計算であった。

 チャイナ共産党は、チャイナ北部での反アメリカ運動を激化させた。

 

 

 

 

 

(※1)

 シベリアにおけるロシア人の民族独立を堂々と宣言され1番焦ったのはソ連であったが、2番目に焦ったのはブリテンであった。

 インドを筆頭に世界中にある植民地が民族自決を求めており、その声をよりにもよってG4が裏打ちする様な行為をされたのだ、焦るのも当然であった。

 結局、ブリテンは1937年に大ブリテン帝国の全ての植民地が集まった合同会議を行う事を決定し、宣言する事で慰撫した。

 

 

(※2)

 スターリンは対日対アメリカの最前線に立つ第1赤旗戦線が数的には兎も角、質的には劣勢である事を理解していた。

 この為、戦意鼓舞の為、極東赤旗総戦線司令部の指揮下にある全ての師団に名誉師団号 ―― 赤旗の名と新しいナンバリングを付ける事を命じていた。

 ナンバリングを新しくしたのは、歴史を作り出せという意味であった。

 

 

(※3)

 フロンティア共和国を経由したユダヤ人社会からの強烈な支援があればこそ、短期間に武力組織を構築する事に成功した。

 目的は1つ。

 ユダヤ人によるユダヤ人の為のユダヤ人国家の樹立である。

 ユダヤ教を法律に組み込んだ国家の樹立だ。

 ユダヤ独立派はアメリカ国内のユダヤ人を通してアメリカ、そして日本にもコンタクトを取っており、内諾を得る事に成功していた。

 ブリテンにも協力を要請していた。

 否、事実上の命令を出していた。

 ブリテンにこれ程に強気でユダヤが出たのは、世界大戦時にユダヤ人に対してブリテンの行った不義理 ―― 世界大戦でブリテンに協力すれば中東のエルサレムを中心にした土地をユダヤ人へ割譲するという約束を反故にした事への代償という側面があればこそであった。

 ブリテンは、独立運動の高まりで不安定化しつつある中東に、更に火種を入れるよりはマシと判断し、ユダヤへ協力する事とした。

 

 

 

 

 

 




2019.05.27 文章の修正を実施
2019.06.12 表題のナンバリング修正

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