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ソ連軍がシベリアに駐留させていた5個師団の内、2個師団(1個歩兵師団、1個戦車師団)が包囲拘束され、1個歩兵師団が日本連邦統合軍包囲下に置かれた為、シベリアのイニシアティブは日本とアメリカ側に大きく傾く事となった。
シベリア独立派はこの時間的余裕を持ってシベリア独立軍を組織する事に成功した。
寄せ集めから8個の旅団を編制する。
とは言え、1個旅団は1,000名から2,000名程度の小規模なものであり、又、装備の大半もアメリカから提供された世界大戦時の余剰品である為、ソ連軍と正面から戦う事など不可能であった。
一方で、自動車は日本製が大盤振る舞いされており機動力は極めて高かった(※1)。
それ故に、3個旅団でシベリア独立軍集成第1師団を編制すると、残る5個旅団はシベリアの北部および東部の人口の閑散とした地帯の掌握に投入される事となる。
ソ連軍も居るが、此方は2個師団が広域に分散する形となっている為、航空自衛隊の全面支援を受けたシベリア独立軍に対抗するのは困難であった。
――アンガラバイカル方面・アメリカ(D-Day+34)
アメリカ第11師団はイルクーツクへ向けて西進を続けていた。
相対しているのは第1赤旗戦線の第14師団であったが、此方は広域に展開したままで必死に抵抗していた。
スターリンの指示 ―― シベリアの死守命令が原因の全てであった。
シベリア独立派鎮圧の為に広域に展開していた第14赤旗歩兵師団は、本来、集結して応戦するべきであったのだが、集結する為にはイルクーツクに後退する必要がある。
だがスターリンの指示によって、それが出来なくなっていたのだ。
戦略的要請でも戦術的目的でもなく、政治的命令によってソ連第14赤旗歩兵師団は戦力を失い続けていた。
只、同時に小なりとはいえ戦闘が連続する事でアメリカ第11師団の進軍速度を低下せしめる効果は発揮していた。
この為、イルクーツクのソ連第14赤旗歩兵師団は防備を固める時間を得ていた。
後方の第2赤旗戦線の先遣隊が物資や燃料と共に到着しつつある事と、近隣の航空基地に航空隊を集結させる事に成功しつつある為、極東赤旗総戦線ではイルクーツクにてアメリカの西進を止められるであろうという憶測が広がっていた。
敵がアメリカ第11師団だけであれば、その予測もあながち間違いでは無かった。
だがこの時点でアメリカは、フロンティア共和国に対して陸軍の派遣を命令。
これにフロンティア共和国は保有する5個師団の内、装備良好な2個師団の供出を受諾する。
併せて、フロンティア共和国内で破壊活動を行っているチャイナ共産党に対応する為、3個の予備師団を動員する事を決定した。
2個のフロンティア共和国師団(第3歩兵師団 第4歩兵師団)は、アメリカの指揮下に入り、アメリカ第11師団と共に極東第1軍団を編制する事となり、2個師団はアメリカ第11師団が拓いた道を真っすぐに西進したのだ。
3個師団はイルクーツクの西方、ウランウデにて合流する。
併せて野戦飛行場を整備し、物資の集積を行ってイルクーツク攻略戦に備える事となる。
――チャイナ(D-Day+37~)
ソ連の指示を受け、先ずは手を伸ばしやすい相手であるアメリカとその手先であるフロンティア共和国へと矛を向けた。
チャイナ人を煽り、敵愾心を燃え上がらせたのだ。
ユーラシア大陸極東域にてフロンティア共和国は、チャイナ人の土地にチャイナ人以外の手によって生み出された国家であり、同時に、周辺国でも随一の豊かさを持った成功しつつある国家であった。
故にチャイナ人は嫉妬していた。
チャイナの大地が混乱と戦乱にまみれているにも関わらず、平穏であり豊かである事に。
そのチャイナ人の心の隙間にチャイナ共産党が囁いた。フロンティア共和国の富はチャイナ人のものであり、アメリカとフロンティア共和国の住人を追い出してチャイナ人が取り戻すべきであると煽ったのだ。
中華と言う天下無双の大国であったと言う伝統と誇りの欠片を持ちながらも、戦乱と貧困による貧しさとひもじさに絶望していたチャイナ人達は、チャイナ共産党の煽りに乗った。
フロンティア共和国内のチャイナ人は人的な規模でこそ最大ではあったが、大多数は資本を持たず、又、産業界の主要言語であるブリテン/アメリカ語も日本語も使えない為、待遇の悪い単純労働者が多かった。
満州もチャイナ人の大地であったにも関わらず、下人の如く扱われている事に屈折した感情を抱いていた。
であるが故に、アメリカとその配下どもを追い出せば、金銀財宝と豊かな大地は自分達のものであると希望を抱いたのだ。
フロンティア共和国でアメリカ ―― 外敵追放を叫んだ暴動が続発する事となる。
この事態に、フロンティア共和国は非常事態を宣言し、問題が続発するチャイナ人とアメリカ人を筆頭とする他民族との間に深い溝が出来る事となる。
又、シベリア独立戦争に人手を取られたフロンティア共和国はアメリカに対して支援を要請した。
これにアメリカ政府は、日本を介して朝鮮共和国に対してコリア系日本人傭兵(※2)を手配して対応した。
暴動などへ酷薄な対応をするコリア系日本人の存在は、フロンティア共和国のチャイナ人を震え上がらせる事となる。
――イルクーツク・ソ連(D-Day+35)
アメリカやフロンティア共和国の新聞を介した情報や、高い未帰還率を承知で行われていた航空偵察(※3)によって、接近するアメリカ軍3個師団の情報を把握した第1赤旗戦線第14赤旗歩兵師団は、絶望した。
第2赤旗戦線に対して早期の合流を要請したが、合流は簡単では無かった。
開戦劈頭(D-Day)から日本が断続的にオムスク以西のシベリア鉄道に対して爆撃を行っており、鉄道網はマヒ状態に陥っていたからだ。
こうなっては、大多数の自動車を持たない文字通りの歩兵師団は、歩いて移動するしかなかった。
物資の輸送も馬車に頼る有様となった。
これでは進軍速度が上がる筈も無かった。
スターリンは日本の戦略爆撃に対応出来る航空機の開発を厳命したが、一朝一夕に開発出来る様なものでは無かった。
日本の爆撃機は試作品どころか実験室レベルどころか、構想段階の航空機ですら到達不可能な高度を飛んできて爆弾を降らしていくのだ。
しかも高高度からの爆撃であるにも関わらず、ピンポイントで駅舎や線路を破壊していくのだ。
手の施しようが無かった。
ソ連の航空機の状況を纏めたレポートを読んだスターリンは、その夜、深酒をしたという。
数的に不利であればせめて質的な強化を求め、新鋭のKV-1戦車の早期到着を望んだ第14赤旗歩兵師団であったが、KV-1は砲と装甲こそ1級品であったが足回りとエンジン回りの技術的熟成が殆ど成されておらず故障が頻発し、KV-1を装備する戦車連隊は歩兵にすら劣る速度でしか進軍出来ないでいた。
この為、第2赤旗戦線はBT戦車を装備した部隊を先にイルクーツクへと先行させる事とした。
途中で故障して脱落しても、後続の部隊が回収しながら進むので、BT戦車部隊にはわき目も振らずに前進する事を命じていた。
又、航空部隊の集結を行ってた。
極東赤旗総戦線司令部は、イルクーツク以西に残っていた航空機約500をかき集めた。
その上で、ソ連軍上層部に更なる支援を掛け合い、1000余機の増援を勝ち取っていた。
スターリンが発した命令は極東赤旗総戦線への厳命であると同時に、ソ連軍に対してもサボタージュなど許さぬ過酷さがあるのだ。
ソ連軍は第3派の増援部隊の編制も進める事としていた。
――シベリア・沿海州(D-Day+37~40)
日本軍によって包囲され、攻撃を受け続けたハバロフスク-ウラジオストク打通作戦部隊(以後、HB打通作戦部隊と呼称する)は、それでもスラブ人らしい粘り強さを発揮して1週間は耐えた。
食料を焼かれ、物資を焼かれ、それでも壕を作って籠り、耐えていたのだ。
だがそれも1週間が限界であった。
絶える事の無い砲撃に死傷者が6割を超えた時、HB打通作戦部隊司令部は状況回復の余地が無い事を受け入れた。
降伏である。
白旗を掲げて、日本側に人道的処置を願う事となる。
HB打通作戦部隊が消滅した事をもって、ウラジオストク市長も降伏を決断した。
第12赤旗歩兵師団司令部もそれを受け入れた。
既に兵士や市民を問わずウラジオストクの人間の大多数は飢餓状態に陥っており、救援部隊の消滅は彼らの心の支えを完全にへし折る形となったのだ。
ウラジオストクからの最後の電文 ―― 降伏に関する報告を受けたハバロフスクは、逆に益々もって戦意を高める事となった。
此方は、包囲下にあるとは言え周辺から食料が調達できる程度には余裕があり(※4)、又、兵力も2個の師団を編制する事に成功した市民部隊、ハバロフスク赤衛師団が居る事もあって未だ降伏する向きは無かった。
(※1)
整備する部品の都合上、旅団単位で配備されるメーカーを揃えて居た為、何時しか各旅団は配備された自動車メーカーの名前が渾名として定着する事となる。
(※2)
朝鮮共和国軍のレンタルとでも言うべき要請であった。
朝鮮共和国にとって最大の産業が傭兵であり、アメリカは金主であった為、日本政府の了解が出次第、2個師団規模の予備役兵を徴集しフロンティア共和国へと送る事となる。
このアメリカからの給与と日本からの地方創成交付金によって、朝鮮共和国は発展していく事となる。
主要産業は傭兵と鉱山であった。
尚、朝鮮共和国へと渡った元在日韓国人が重工業などの誘致を要請したが、日本企業は日本政府の指導もあって頑として協力を拒否した。
(※3)
アメリカ軍への航空支援はアメリカ陸軍航空隊が行っていたが、その支援を日本のAWACS機が行っていた。
ソ連からの偵察機、或は攻撃機はAWACS機が離陸直後から把握しており、アメリカ側迎撃機へ的確な誘導を提供できている為、余程の時以外でソ連軍機が帰還するのはあり得ない程の状態になっていた。
既にシベリア東部の航空優勢を握った日本は、大シンアンリン山脈を越えて西方までAWACS機を安全に侵出させる事が出来ているのが大きかった。
但し、日本列島の空港からの展開では手間がかかり過ぎる為、フロンティア共和国領内はチチハル近郊に航空自衛隊基地を造成する事となった。
又、別の問題としてAWACS機が4機しかない為、常時カバーする事が難しい事も問題であった。
この為AEW機も併せて進出する。
尚、AEW機の航空管制能力が乏しい為、航空自衛隊チチハル基地には前線防空指揮所が促成で建設される事となった。
アメリカは、この経験からグアム共和国(在日米軍)から以前よりアドバイスを受けていたアメリカ空軍の創設と、莫大な開発コストの掛かる航空管制機の開発に積極的に取り組んでいく事となる。
(※4)
これはシベリアで国家樹立後に首都としてハバロフスクを使いたいと言うシベリア独立派の意向によるものであった。
過度な破壊をしてしまっては首都としての機能を失いかねない。
又、苛烈な攻撃をしてしまっては住民の心がシベリア独立派や日本から離れてしまうであろう事が予想された為であった。
この為、ハバロフスク占領作戦に関しては一種の政治的な作戦となっており、効率は度外視されていた。
2019.05.28 表現変更
2019.06.12 構成修正
2022.10.18 構成修正