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シベリア独立戦争は開戦から1月以上が経過し、全体の流れとしては日本/アメリカ側に勝利の天秤は傾きつつあった。
この状況に焦りを覚えたスターリンは、ウラル山脈の麓は西シベリア低地の西方域で行っていた第3赤旗戦線の編成を5個師団2個旅団(※1)で止めて早期にシベリアへと投入する事を決断する。
その上で、ソ連を戦時体制 ―― 国家総力戦の体制へと移行させ、3桁単位での師団を創設し報復する事を検討した。
だが、それにソ連の国内事情が待ったをかけた。
国力を涵養する5ヵ年計画に必要な予算を国民への重税で賄っていたソ連経済は、ここで労働人口を兵士として奪われてしまっては早晩に破産する事になってしまう事が予想されていた。
国内経済を見ていた官僚たちは、現時点ではソ連経済の不良債権と言って良いシベリアを切り捨てる方が、シベリアの独立を阻止する為に戦費を積み上げるよりも良いというレポートを提出していた(※2)。
問題は、ソ連とスターリンの面子が潰されるという事であった。
最終的にはポーランドとの友好関係を強化する事で、ソ連の西方の部隊を投入出来ないか検討する事となる。
――沿海州・ハバロフスク攻防戦-2(D-Day+48~52)
第13赤旗師団は1個連隊規模の部隊を囮としてハバロフスクへと移動した。
この囮に日本連邦統合軍第2軍団は見事に引っかかり、アルダン高原に向かって誘引されていた。
ハバロフスクを包囲していた日本連邦統合軍第1軍団は決して油断していた訳では無かったが、降伏せしめたハバロフスク-ウラジオストク打通作戦部隊(以後、HB打通作戦部隊と呼称)の後送その他で人手を取られており、どうしても厳重な警戒が出来ていない状態にあった。
そのお蔭で、第13赤旗師団は日本軍に発見される事無くハバロフスクまで20㎞の所まで接近する事に成功した。
そこまで接近した第13赤旗師団は、始めて全力で戦闘行動を開始する。
その動きにハバロフスクの第11赤旗歩兵師団と、ハバロフスク赤衛師団が呼応。
3個師団による解囲脱出作戦、対するのは日本も3個師団、第17機械化師団、第601機械化師団、そしてシベリア独立軍の集成第1師団であった。
とは言え第17師団は降伏したHB打通作戦部隊への対応に動いており(※3)、実質1個師団強規模の戦力での迎撃となった。
数的不利の上で挟撃された為、第601機械化師団は無理せずに後退。
問題はシベリア独立軍集成第1師団が頑強過ぎるレベルで撤退を拒否したという事だった。
スターリンへの恐怖を裏に隠していたシベリア独立軍は、それ故にソ連軍との戦いで必要以上に前に出ようと言う悪癖を抱えていたのだ。
これには日本連邦統合軍第1軍団も慌てた。
この様な場所でシベリア独立軍の象徴的位置にある集成第1師団を失う訳にはいかないのだ。
第17機械化師団で即応できた部隊と第601機械化師団での全力反撃を行った。
戦いは乱戦となり、容易に極地制圧用攻撃機による航空支援も難しい程に前線が入り乱れる形となった。
日本側も必死であり、ソ連側も必死となった。
激しい戦闘は1昼夜に及んだ。
日本側は戦線を整理し、航空支援で一気に戦闘を片付けようとした。
ソ連は、そうはさせまいと被害を無視してまで日本側に食らいつこうとした。
だが、そこで物資の不足が出た。
如何に戦意が在ろうとも弾薬が無ければ戦えない。食料が無ければ動けない。
激しく部隊が衝突して2日目の朝、ソ連軍は戦闘能力を喪失し、昼には行動能力すら喪失した。
そして3日目、ソ連軍は組織的な抗戦能力まで喪失した。
日本連邦統合軍第1軍団は、急いで南下させた日本連邦統合軍第2師団の部隊と共にソ連軍3個師団を包囲下に収める事に成功した。
ソ連軍の作戦は失敗したのだ。
日本は1時間の猶予を与えて降伏を要求。
ソ連側は、生き残っていた上級指揮官が降伏を受諾する事を選んだ。
問題はハバロフスクであった。
同市に残っていた政治将校が徹底抗戦を叫び、ハバロフスク忠勇突撃師団があると宣言したのだ。
これには市上層部と、傷病者の為に責任者として残留していたソ連軍上級将校も慌て、諌めた。
だが教条主義的な政治将校は、それらの行為を反革命的だと断じ、捕縛し処罰しようとした。
この為、ソ連軍責任者は、携帯していた拳銃でこの常軌を逸していた政治将校を射殺する。
これをもってハバロフスクを巡る戦闘は決着する事となった。
同時にそれは、シベリア東部域をシベリア独立派が掌握した事を意味した。
――ハバロフスク・シベリア独立派(D-Day+55)
ハバロフスクに入ったシベリア独立派は、シベリア市庁舎を借り上げてシベリア共和国の本陣とした。
そして、日本、アメリカ、オホーツク共和国、フロンティア共和国、朝鮮共和国、台湾民国、ブリテン、フランスの政府代表と共に、シベリア共和国の建国を宣言した。
シベリア共和国の建国承認は、直ちに国際連盟の議題となった。
ソ連やドイツ、イタリアの反対の中、G4諸国の根回しもあって多数決により承認される事となる。
(※1)
2個旅団は、それぞれドイツとイタリアからの義勇部隊であった。
(※2)
レポートの作成者は、スターリンから本当にシベリアはソ連経済にとって不良債権であるかの再確認をして来てほしいと頼まれ、西シベリア低地にて木を数えると言う名誉ある仕事を賜る事となる。
(※3)
オホーツク共和国の第601機械化師団やシベリア独立軍の集成第1師団は元々がソ連の同胞であった事から感情的なしこりとトラブルが予想された為、第17機械化師団でHB打通作戦部隊の処理 ―― 人員の組み分けと後方への後送作戦を行っていた。
この上で、シベリア独立軍の集成第1師団は速成部隊である為、練度と装備で不安があった。
2019.06.12 表題修正
2022.10.18 構成修正