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ハバロフスク ―― シベリア東部域の陥落はソ連に予想されていた、だが大きな衝撃を与えた。
スターリンの機嫌は極端に悪化した。
スターリンはソ連軍に対してイルクーツクの死守を厳命した。
だが、ソ連軍首脳陣はスターリンの言葉に唯々諾々と従わなかった。
日本軍の爆撃機によるインフラの破壊戦術によって、第2赤旗戦線のシベリア輸送が遅々として進んではいない為、一部部隊を無理にでもイルクーツクへと送り込むよりもクラスノヤルスクを要塞化し、エニセイ川を防衛ラインとして活用する事を提案した。
日本/アメリカ側にとって、中央シベリア高原を越えて補給する事は困難が伴うであろう事から、第2赤旗戦線と第3赤旗戦線の総力を挙げて迎撃する事で日本とアメリカその他の軍を粉砕し、その後、余勢をかって反撃する事を提案するのだった。
その上でポーランドに隣接する西部から戦力を抽出し5個師団規模の第4赤旗戦線を編制すれば勝てるというのが、ソ連軍上層部の判断であった。
この意見にスターリンも納得する。
だがこの戦略は、ポーランドが不戦協定を結ぶ事を拒否した為に難航する。
正確には、不戦協定に付随して相互に国境線から500㎞の地域に軍を配置しない聖域設定への大反発である。
余りにもソ連にとって都合のよい要求に、ポーランドは激怒したのだ(※1)。
交渉を重ねる事で不戦協定自体は合意に達したが、国境線からポーランド軍を後退させる事には失敗する。
――イルクーツク方面・日本/アメリカ(D-Day+57~)
重要な補給線であるシベリア鉄道への破壊工作に対応する為、日本はAP-3による哨戒を実施する。
併せて鉄道の早期復旧に努める事となる。
全域での復旧に2週間を見る事となった為、この期間、攻勢の手を緩める事となる。
だが同時に、シベリア東部域で展開していた部隊を集合させる時間ともなった。
又、シベリア東部を完全に掌握した結果、沿海州などからもシベリア独立軍へ参加する市民が増大し、6個の旅団が追加で編成される事となった。
装備は降伏したソ連軍の物や、アメリカが世界大戦時に使用していた旧式などであったが、治安維持部隊として速成され、各地に食料生活物資などを持って展開していく事となる(※2)。
日本
日本連邦統合軍第1軍団(3個師団1個旅団)
第17機械化師団
第601機械化師団
第101海兵旅団
集成第1師団(シベリア独立派)
日本連邦統合軍第2軍団(4個師団1個旅団)
第2機械化師団
第603自動化師団
第201機械化師団
第302機甲旅団
集成第2師団(シベリア独立派)
アメリカ
第1シベリア軍団(5個師団)
第11師団
第14師団
第2戦車師団
第1歩兵師団(フロンティア共和国)
第2歩兵師団(フロンティア共和国)
航空部隊の集結も行われている。
ソ連側が数で来る事に対応する為、アメリカも陸軍航空隊を追加配備する。
この為、日本/アメリカ側もイルクーツク方面に宛てられる航空戦力は400機を超える事となる。
又、この時点で、戦争期間中に限りという暫定措置で日本製の機載無線機がアメリカ軍機にも搭載される事となった。
これによって、アメリカの航空部隊の運用効率が劇的に向上する事となる。
――イルクーツク方面・ソ連(D-Day+61)
現時点でソ連側がイルクーツクに集結出来た戦力は2個師団規模の歩兵部隊と、500機を超える戦闘機部隊だけであった。
生還率の低い偵察機による強行偵察や、潜伏しているチャイナ共産党からの情報によって、日本/アメリカ連合軍が10個師団を超える戦力を集結させつつある事を把握したソ連は、イルクーツクの防衛は不可能と判断。
以後、遅滞戦闘を行う事を選択する。
又、イルクーツクからクラスノヤルスクまでの道中にある都市は物資も建物も全て焼き払う、焦土戦術の命令がスターリンによって厳命される事となる。
この事が現地住民の怒りを買う事となる。
重税によって生活はギリギリであったものが、更に戦争によって焼かれる。
食料も家も。
その情報を先行して情報収集していたシベリア独立軍偵察部隊が把握し、日本/アメリカの合同司令部へ報告した。
日本は戦略爆撃機による物流インフラの破壊のみならず、市区町村に向けた宣伝ビラを散布していく事となる。
これらの事から、ソ連は人民から見捨てられる事となる。
――チタ・日本/アメリカ(D-Day+61~)
ソ連の遅滞戦術を把握した日本/アメリカ合同作戦司令部は1つの案を出した。
機動力と機械的信頼性に優れる装備を持った日本は、その2個軍団をもってバイカル湖を北回りに迂回突破する事で、一挙にイルクーツクを抜いてソ連軍の後方を脅かそうと言うのだ。
併せて、アメリカ第1シベリア軍団はソ連の耳目を集める為にもイルクーツクを正面から殴り掛かるものとされた。
作戦名は
日本とアメリカの軍によってソ連軍を挟み込み、一気に叩き潰すのだ。
ソ連はシベリア鉄道沿線に部隊を集中して配置して居た為、日本の動きを把握出来なかった。
又、日本の道中にあった村々はシベリア独立派が手を回しており、その動きをソ連に伝える事は無かった。
そしてソ連による航空機の偵察は、日本が全力で封殺していた。
この為、ソ連が日本の迂回突破に気付いたのは日本軍の先遣部隊がクラスノヤルスクに200㎞まで迫った時であった。
同時に、その時点でイルクーツクからクラスノヤルスク間にある大規模な都市にはそれぞれ師団規模で効力部隊を送り込んでいたのだ。
迂回突破と全面展開である。
ソ連側はパニックに陥った。
慌ててソ連軍はクラスノヤルスクの防備を固めつつ、航空部隊による偵察と襲撃を試みた。
如何に航空機の性能に優れる日本とは言え、クラスノヤルスクはソ連の内懐であり、航空優勢は得られると踏んでの行動であった。
だが、ソ連機とは比べ物にならない程に足の長い日本のF-5戦闘機部隊は、バイカル湖付近からでも余裕でクラスノヤルスクまでの航空優勢を握った。
その上で、日本の陸上部隊が持っている防空力があった。
幸運にもF-5部隊の迎撃を受けなかったソ連軍機であっても、日本の部隊に近づけば片端から撃墜されていくのだ。
抵抗出来る筈も無かった。
そして日本を相手に混乱し、航空部隊を振り向けた結果、航空部隊という傘を失い丸裸となったイルクーツク方面に残っていた第1赤旗戦線の2個師団は、アメリカの力押しとも言える攻撃に打ち破られる事となる。
その上で、撤退すべき後方の無い第1赤旗戦線は、その司令部ごとアメリカに降伏する事となる。
尚、イルクーツクではアメリカとソ連の戦車部隊の衝突が初めて発生した。
ソ連のBT戦車隊は、日本の31式戦車でないならとそう負けはすまいとアメリカのM2戦車隊に果敢に戦いを挑んだが、その結果は完敗となった。
足回りこそ技術的な熟成が進んではいないアメリカM2戦車であったが、攻撃力と装甲に於いてBT戦車を遥かに優越しているのだ。
その上で、グアム共和国軍(在日米軍)から先進的な戦術を伝授されているのだ。
負けるはず等無かった。
この結果、クラスノヤルスクから以東は、たった2週間余りでソ連から切り取られる事となった。
(※1)
ポーランドは将来のソ連との戦争を睨んだ国境防衛作戦を策定していた。
それが500㎞から後退するとなれば、破綻するのだ。
ポーランドが反発するのも当然であった。
同時にポーランド政府のスケベ心、ソ連と戦争を行っている日本とアメリカへ恩義を売って何らかの支援を受けようと言う狙いがあった。
ソ連から反感を買う事にはなるが、元よりソ連は敵国であると覚悟を決めていた為に特には問題視されなかった。
実際、このポーランドの判断に対する感謝として、日本はポーランドに対する貿易制限を緩める事となり、ODAが実施される事となる。
(※2)
日本とアメリカからの低利融資として行われた食料と生活物資の融通は、シベリアの非独立派住民の歓心を買う事に成功する。
この事がシベリア独立派の足場固めに大いに役立つ事となる。
一般市民はソヴィエトであろうが無かろうが、先ず生活が大事であったのだ。
この為、安全の確保された場所から交通インフラの再建に、ODAとして日本とアメリカの企業が出て来る事となる。
特にシベリア鉄道に関しては、戦争へも直接的な影響を与える為、高い優先度をもって復旧と、複線化が推し進められる事となる。
2019.06.12 表題修正
2022.10.18 構成修正