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日本政府が対外交渉で付けた優先順位は、第1位はアメリカであったが2位はイギリスであった。
これは日本の経済を回す上で必要な資源を輸入する交渉相手として一番に大きいと言うものがあった。
グレートブリテン。
オーストラリアからの鉄資源や中東からの原油などの輸入を筆頭に、日本は様々なものの輸入を必要としていた。
問題は対価であった。
この点は在日米軍という鎹のあった日本とアメリカの関係とは異なる為、難航する事となった。
世界大戦の終結で国力の低下していたイギリスが欲したのは現金であったが、日本政府は安易な金での取引は、将来に禍根を残すだろうとして渋ったのだ。
半年近い交渉で日本政府は中華人民共和国の前例に倣う事とした。
イギリスに対して大規模なインフラ投資を対価とする事を提案したのだ。
イギリス本土への最新鋭のインフラを整備し、スエズ運河の拡張、中東では石油精製プラントや真水の精製プラントの整備やオーストラリアでの港湾設備まで様々なものを提案した。
いわば、停滞していたイギリス経済の活性化に寄与できる投資の提案である。
しかも、日本は国内ゼネコン各社やその周辺に仕事を斡旋する事が出来る。
一挙両得の提案であった。
これにイギリスは乗る事となる。
インフラの整備には時間が必要とされる為、5年間の間に日本-イギリス間での投資額と輸入量が策定される事となった(※1)。
日本とブリテンの交渉で問題となったのは、交易以外に2つあった。
1つは日英同盟であり、1つは国際連盟に関してであった。
国際連盟への加盟と常任理事国の座に関しては、日本が日本帝国が諸外国と締結していた条約と債務を引き継ぐ事を宣言した為、問題なく入れ替わる事となった。
問題は、日英同盟の処遇であった。
問題の複雑さから交易交渉の後に棚上げされる事となった。
又、併せて海軍軍縮条約に関わる部分が大きく取りざたされる事となった。
日本は戦艦こそ保有していなかったが空母は1隻保有し2隻目が艤装段階にあった。
基準排水量で62,000tもの大型艦(イギリス視点)である。
2隻揃えば日本帝国が締結していたワシントン軍縮条約を遥かに凌駕し、そもそも1隻あたりの基準排水量でも超過していた。
その他、主力である駆逐艦も上限排水量は当然であり、合計排水量でも超過していた。
この時代の常識に照らしてみれば、日本の保有する護衛艦(駆逐艦)は、全てが軽巡洋艦の様な大型艦であったのだ。
これにはイギリスは当然ながらも軍縮条約の主要国であるアメリカも頭を抱えた。
念の為と、日本に条約に沿った軍備への軍縮を提案したが拒否された。
逆に日本は護衛艦の巡洋艦としての登録を提案した。
巡洋艦枠であれば、備砲の項目に目をつぶり、適当にA(重巡)B(軽巡)のカテゴリーに分ければ問題は無い。
一時はそれで良いと言う見方があったが、そこには22隻のFFM(フリゲート艦)が入っていないのだ。
此方も基準で3,900t、余裕で駆逐艦の上限枠を超えていた。
潜水艦は保有の合計排水量には収まっていた。上限枠は余裕で超えていたが。
100年先の軍備を、今の常識では図りきれない。
それがイギリスとアメリカの結論であった。
だが同時に、この交渉の中で両国は、日本帝国と比較して日本は、極めて穏当な国家であり、過度な軍拡は行わないであろうと見て取れた。
又、奇しくも両国が日本の食料と資源という2つの生命線を握れたことも、日本に対する安堵感に繋がる事となった(※2)。
(※1)
「第1次日本-ブリテン交易と投資に関する条約」という形でまとまる。
この第1次条約の結果を見て、次の交易を検討する事となっている。
第1次条約は1926年から1931年まで実施された。
第2次条約は1931年から1933年までの3年間で打ち切られ、第3次条約へ更新される。
これはナチス・ドイツが成立した為、戦備を整える方向へと舵を切った為であった。
この為、第3次条項はインフラ整備のみならずイギリスへの戦備提供が盛り込まれる事となった。
又、付帯して日英同盟も改訂され、イギリス本土防衛に関する協力が推進される事となる。
(※2)
最終的に1927年度日-ブリテン-アメリカ環太平洋軍事力制限協定に繋がる事となる。
だが、この協定が発効する前にフランスが、モノ申すと関与してきたため、発効はなされなかった。
2022.10.18 構成修正