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フランス領インドシナの独立戦争に着火する事に成功したドイツであったが、それ以降の援助に関しては積極的と言う訳では無かった。
ドイツにとってフランスの足を引っ張ると言うだけが目的であり、フランス領インドシナは不安定化さえすれば、それ以上は望んで居なかった。
いわんや、独立が成功する事も自らの支配下に組み込む事にも興味など無かった。
ある意味で、それが独立運動 ―― 民族独立と言う巻藁に着火出来た理由であった。
この方針に基づき、独立の武力闘争開始後はベトナム独立派からの要請を受けて武器弾薬を売却するだけのドライな関係に終始していた。
尚、ドイツはベトナム独立派の間にチャイナ南部の軍閥を入れる事で、フランス領インドシナの独立戦争に直接関与を行わない様に細心の注意を払っていた。
アフリカ東部域や中東でイタリアとブリテンの植民地を荒らした際の経験、国際連盟安全保障理事会で追及された経験が生きていた。
――フランス
フランスは国家の威信を懸けてフランス領インドシナの反乱鎮圧に乗り出した。
とは言えフランス本土の装備及び練度の高い精鋭部隊を抽出派遣するのではなく、比較的政情の安定していたアフリカ各地に駐屯していた部隊を主力とした。
これはフランスが事態を甘く見ていたからではなく、フランス本国の部隊が国内の治安維持とドイツとの戦争を睨んで動かせない為であった。
とは言え、これだけでは人員が足りない為、フランスはアメリカのフロンティア共和国軍を参考にする形でインドシナ連邦に属する各王国から好待遇で人員を募る事となった。
給与や福祉面での待遇の良さから、4万人規模と言うそれなりの人員を集める事に成功する。
とは言えその多くは軍経験を持たない一般人であった。
軍、あるいは部隊と呼ぶには余りにも杜撰な集団であったが、フランスは基幹要員にフランス人を充てる事と、治安維持の為の部隊であるからとの割り切りで、僅かばかりの武器の運用訓練を施すや現場へと投入する事となる。
待遇の良さで釣られただけの、訓練もロクに受けてない兵たちであったが、それ故に暴力を振るう事に躊躇は無かった。
又、民族的にも独立闘争を行っているベトナム独立派とインドシナ連邦軍の主構成民族が異なって居た事も、暴力に歯止めが掛からない要因であった。
だが、躊躇の無い暴力の行使は、ベトナム独立派以外の住民の反発を買う事となる。
――ドイツ/アルゼンチン
アルゼンチンとの接触と友好的関係の構築に関しては、良好とは言い難かった。
ファシズムに夢を見た活動家などは、ドイツからの接触にもろ手を挙げて歓迎したが、アルゼンチンの政権はドイツとの接触に積極的では無かった。
経済的繁栄を謳歌するブリテンとの交易と、ブリテンを介してG4諸国と交易できた事(※1)がアルゼンチンに莫大な恩恵を与えているからであった。
この為、態々にG4と関係が良好とはとても言えないドイツと好意的な関係を構築する意義をアルゼンチンは見いだせなかったのだ。
軍事政権と言う事を鑑みて、ドイツの最新鋭軍備をライセンス生産と技術開示を含む好条件で提供する事も提案が成されたのだが、此方も上手くは行かなかった。
アルゼンチン軍はドイツ製兵器よりもブリテン製やアメリカ製、可能であれば日本製の装備を求めていた為であった。
シベリア独立戦争やスペイン内戦での戦績は、ドイツ製兵器の商品価値に対し多少の好条件程度では拭いきれない汚点を与えていたのだ。
更に言えばアルゼンチン陸軍は、この時点で200両にも満たぬ数ではあったが日本製の戦闘車両(※2)の導入に成功しており、この状況下でドイツ製の陸上装備は欲していなかったのが大きかった。
この為、アルゼンチン政府はドイツ外交団に対し、武器売却を好条件と言って提案するのであればドイツ製大型艦の無償提供程度は申し出ない限り魅力的とは言い難いと返事を返した。
ドイツ外交団は返事に詰まった。
この話をドイツ外交団経由で聞いたドイツ海軍は激怒した。
要求される任務に対し投入できる大型艦の少なさが問題となっている現状で、その様な世迷い事を受ける余裕はないと返事を行った。
この無茶な要求からアルゼンチンから見下されていると感じたドイツは、手段を問わない交渉攻勢に出た。
アルゼンチン軍事政権関係者の、個人に絞った贈賄攻勢である。
とは言え、この贈賄攻勢は早々に頓挫する事になった。
アルゼンチンを自国の領域と認識していたブリテンの情報機関が動いた為である。
最初の収賄の時点でアルゼンチン軍事政権内の人物は、汚職による追放を受けて失職、併せてドイツ外交団に対して
ブリテンは独立した国家間の交渉に関与するものではない。但しそれは、公正な外交交渉に限ってである、と。
最終的にドイツとアルゼンチンの外交交渉は、当たり障りのない内容に決着した。
とは言え、アルゼンチン産の農畜産物がドイツ国内にある程度、流通する事となり、その食卓を豊かにした為、ドイツ政府は外交の成功を宣伝した。
――ドイツ/ベネズエラ
アルゼンチン以上の軍事独裁政権国家であるベネズエラとドイツの交渉は、比較的スムーズに行われた。
この原因はベネズエラの状況にあった。
かつては産油国である事を背景にした経済力と発言力とを持っていたのだが、日本が主体となって行われた中東やリビアでの油田開発によって原油価格が下落傾向にあった為、その立場は揺らいでいた。
その上で国際原油市場が安定している為、原油を必要とするG4や諸々の国々などの国際社会が、圧政を行っているベネズエラの軍事独裁政権に対して批判的となっていたのだ。
国際的に孤立していたベネズエラは、ドイツからの接触を無下に扱う事は出来なかったのだ。
又、ドイツ側も必死であったのも大きい。
この時点でアルゼンチンとの外交交渉が難航していた為、外交団の上層部はヒトラーに掛けあってその
ドイツとベネズエラの協力協定はとんとん拍子に締結された。
これによってベネズエラは最新鋭の大型艦1隻を含む艦隊を整備する事と成り、中南米では一躍有力な海軍力を保有する事となった。
又、ドイツから手頃な価格で大量に提供される事となるⅢ号戦車は、G4を筆頭とする列強諸国にとっては旧式兵器の様な扱いであったが、中南米の諸国にとってはまだまだ新鋭と言って良い戦車であった為、ベネズエラは中南米の雄という立場を確立させる事となる。
対してドイツ側は、常に不足気味であった原油の大量輸入の交易を成立させ、又、アフリカに対する工作拠点を得る事に成功したのだ(※4)。
この事は大いに宣伝され、ヒトラーの功績として称えられる事となる。
――フランス領アフリカ
ベネズエラに迂回貿易の拠点を得たドイツは、アフリカの独立運動という種火に巻藁をくべて風を送るべく努力を開始した。
特に今、アフリカの地に駐屯していたフランス軍部隊はかなりの量がフランス領インドシナへと動員されており、着火は容易であろうと言う判断があった。
だが、事はそう上手くいかない。
アフリカと言わず世界中の植民地の独立運動に手を焼いていたブリテンが構築した情報網に、ドイツ人工作員がキャッチされたのだ。
アフリカは、ブリテン人とフランス人とドイツ人の謀略戦の舞台となった。
(※1)
この時代のアルゼンチンの主要産業は農業であった為、品質さえ良ければ日本が常に輸入を受け入れていた。
アメリカとの関係も良好であった。
(※2)
軍事政権がアルゼンチン陸軍の要求を受けて飴を与える意味もあり、日本に対し大量の農畜産物の対価として装甲車両の提供を要請した結果であった。
20両の38式戦車と38式戦闘装甲車が60両、そして100両の38式装軌装甲車であった。
38式戦闘装甲車とは、38式戦車が高額で手の出せない国家向けに開発された、38式装軌装甲車のバリエーション車両である。
38式装軌装甲車の車体にブリテン製6lb.砲砲塔を搭載した、戦車の様な外見を持っている。
とは言え車体は装甲車であり防御力は戦車とは比べ物にならず、砲塔も重量的制約から装甲は薄い、火力支援車両でしかなかったが。
日本が輸出向けに開発した38式戦車/装甲車のシリーズが日本連邦及びG4以外の国家に纏まって売却された最初の例でもあった。
尚、アルゼンチン陸軍の戦車は、その数的な主力は予算面の問題もあってアメリカ製のM2戦車であった。
シベリア独立戦争後、その戦訓を基にM3戦車の開発配備を行っていた為、余剰となっていたM2戦車をアメリカが比較的安価で売却していた事が理由であった。
G4、或いはドイツやソ連以外の国家にとって戦車は、その急速な発展もあって一線級の能力を持つ車両であり、自力で開発も製造も行えない貴重な戦力であった。
(※3)
この提案の中には、ドイツが整備を進めている最新鋭の大型装甲艦プロイセン級1隻を含む4隻の艦船の提供も含まれて居た。
プロイセン級の提供にドイツ海軍は激怒するも、その決済を行ったのがヒトラー本人であった為、抵抗する事は出来ず、受諾する事と成る。
ドイツ海軍のせめてもの抵抗として、ベネズエラに提供される艦は12番艦と指定 ―― 後回しにされた。
(※4)
ドイツとベネズエラの外交交渉によって石油の輸出向け設備の更新もドイツが行う事となった。
その維持管理を名目としてベネズエラの領内にドイツ軍の駐屯する租借地を作ったのだ。
ベネズエラ国内の民間感情に配慮し、ドイツ軍はベネズエラ陸軍の教導を行う事となる。
又、租借地は港湾施設を含んでいる為、ドイツ海軍の海外拠点としての整備も行われ、潜水艦部隊を含むドイツカリブ戦隊が編制された。