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日本と言う存在が加速させたジェットエンジン航空機の開発競争は、1941年が到達点となった。
アメリカ、ブリテン、フランス、ドイツ、ソ連、そして日本が開発したジェットエンジン機が空を飛ぶ事となる。
第1世代型戦闘機の誕生である。
各国が華々しく宣伝したジェット戦闘機群であるが、同時に日本の戦闘機群が提示した戦闘機の未来図を理解した国は、第2世代型戦闘機へのステップアップも見据えており、技術開発の勢いは加速する事となる。
――アメリカ
元々の高い工業力とグアム共和国(在日米軍)からの技術指導と技術資料、そして
その進歩を以ってアメリカは国内企業複数にジェットエンジンの開発と、戦闘機と爆撃機の試作を命じた。
平時の予算規模とは思えぬお大尽な予算措置であり、野党からの批判を受ける事となったが、アメリカ政府はここが投資のしどころであると判断し、断固とした態度で予算を通したのだ(※1)。
重視されたのは、軽量単発エンジン機による迎撃機と大陸横断爆撃機の開発であった。
想定される主戦場は
敵はドイツ製戦闘機 ―― 今後、彼らが開発するであろうジェット戦闘機群だ。
数社によるコンペ後、主力機として採用されたのは後退翼を持った単発機であった。
レーダーと連動する火器管制システムを搭載し、整備性にも配慮され、空力的にも洗練された機体であったが、唯一、難航したのは機関砲の選択であった。
既存の機体に採用されていた12.7㎜は、今後は非力となる事が予想された為、20㎜機関砲の新規開発が行われる事となった。
問題は、先進的な技術を好むアメリカ空軍高級将校の一部から、将来的には高い誘導能力を持ったミサイルが搭載される事になるので、わざわざに20㎜機関砲を開発するのは無駄では無いのかとの声が上がった事である。
ある意味でミサイル万能論であった。
この議論を知ったグアム共和国(在日米軍)は慌てて議論に介入する。
ミサイルの将来的な能力と現時点での能力との差、将来的な高い命中率を持ったミサイルを実用化するまでに掛かる時間など、様々な情報を持って議論に参加した。
最終的に、20㎜機関砲の新規開発が決定される。
尚、議論を決定づけた最大のものは、参考資料として提示された日本が生産している最新鋭の空対空ミサイルの値段であった。
使い道の無い
時代遅れになる事が確実な20㎜機関砲を新規開発するよりも、いっそ日本製のミサイルを輸入すれば良いと威勢よく叫んでいたアメリカ空軍高級将校も、その値段を知った瞬間「
このミサイルを日本は3桁を軽く超える規模で備蓄しているのだと言う。
尚、議論の場に参加していた財務省官僚はひきつけを起こした様に、首を左右に振っていた。
アメリカは、ミサイルに関してアメリカ経済の発達と共に進歩させ、自前で開発製造して行く事を強い意思で決定した。
――ブリテン
その輝きの結実として、ブリテンは独自設計による双発双胴型とデルタ翼型の2種類の大型戦闘機を開発する事に成功した。
イギリス空軍としては先行する日本を倣った通常型の戦闘機開発をメーカーに要求したのだが、メーカー側が独自設計に拘って抵抗した為、最終的に
完成した2種類の機体は、高い出力を誇るエンジンのお蔭で要求性能を満たしていた為、ブリテン空軍と海軍はそれぞれ発注を行った。
特徴としては、レーダーによる全天候型の性能を持っている事であった。
この点に於いてブリテンのレーダー技術はアメリカの先を行っていた。
尚、後にブリテンのレーダー技術の先進性に目を付けたアメリカが、ブリテンに対してレーダーとミサイルの共同開発を持ちかける事となる。
これは、レーダーにせよミサイルにせよ、最終的には単独での開発も製造も困難になると言う
ブリテンは、アメリカの提案に乗る形で新型レーダーと空対空ミサイルの共同開発に乗り出す事となる。
――フランス
ジェット機開発に注力したいフランスであったが、その開発はフランスが思う程に進捗する事はなかった。
問題は技術であり予算であった。
1930年代初頭からの戦車開発競争は、陸軍国にしてドイツと国境を接するフランスにとって他のG4よりも優先順位の高いものであった為、航空機開発予算が低調であった。
そこに止めを刺したのが、フランス領インドシナで勃発した
平時体制のままであったフランス予算の余力を、恐ろしい勢いで飲み込んで行ったのだ。
これでは技術開発に回せる予算など残る筈も無かった。
又、1938年より続いたフランスの政治的混乱、
政治情勢の混乱と小規模ながらも国内で頻発した
この為、本格的なジェット戦闘機開発競争が始まった時点で、アメリカやブリテンは勿論、ドイツやソ連と比べても遅れを取っていた。
機体設計に関しては問題が少なかったが、ジェットエンジンの開発に関しては、致命的に遅れていた。
フランスは、素直に日本に泣き付いた。
推力50KN級のジェットエンジンの
当然ながらも日本は技術開発と言う名の技術供与に関しては拒否し(※2)、売却に関する検討を行った。
問題は、日本側が持っているジェットエンジンは高性能であると同時に、性能相応の値段であると言う事であった。
この為、日本製ジェットエンジンの導入を断念する事となる。
代替として、フランスは空母技術の開発で協力したアメリカからジェットエンジンを購入する事となった。
尚、このジェットエンジン購入契約の際にフランスは、現金の他にアフリカでの鉱山採掘権などを用意する事で、ジェットエンジンのライセンス生産権を獲得し、これがフランス製ジェットエンジンの根幹となった。
ジェットエンジンを得た事でフランスのジェット戦闘機開発は本格化した。
とは言え、諸外国に遅れ気味であった為に割り切った開発となった。
アメリカとブリテンの機体が開発着手時からレーダーを装備した全天候型として設計されていたのに対し、フランスはレーダーを装備しない機体として設計される事としたのだ。
戦闘機向けのレーダー開発で遅れを取っていたと言うのも事実であるが、同時に、この新しいジェット戦闘機
この割り切りが、本格的な開発着手が遅かったにも関わらず、フランス初のジェット戦闘機開発がG4他諸国に遅れずに済んだ理由であった。
――イタリア
列強の一角としての矜持から、ジェット戦闘機開発自体は行っていたものの、実用的なジェットエンジンの開発が難航した為、ブリテンからのエンジンの輸入を行った。
ブリテンのアメリカへの対抗心 ―― フランスがアメリカ製エンジンを導入した事を煽って得た契約であった。
但し、此方はフランスとは異なり、完成品の完全な輸入であった。
しかもエンジンの売買契約は、ブリテン製のジェット戦闘機導入を行う対価としての性格 ―― 予備エンジンの購入数を増やしたものでった。
ムッソリーニはイタリアの工業力の限界を良く理解しており、ジェット戦闘機を必要数製造する事は難しいと割り切っていたのだ。
とは言え国の威信の為、イタリア製ジェット戦闘機の開発は続行された。
後発として第1世代戦闘機としては最後に空へと飛び立つ機体となったが、先行するアメリカやフランスの設計から多大な影響を受け、高い完成度を誇るジェット戦闘機として世に出る事となる。
――ドイツ/ソ連
ソ連との共同開発とは、即ち、ソ連が有していた希少鉱物資源を利用したジェットエンジンの開発であった。
この為、ドイツが設計したジェットエンジンの信頼性は向上し、連続稼働時間も延長していった。
だが、推力に関してはアメリカ製やブリテン製に匹敵する水準に到達する事は出来ずにいた。
機体に関してはF-3の欧州展開以前に基礎設計が終わっていた為、先進的なデザインを採用する事無く両翼吊り下げ式のデザインを採用していた。
ドイツ空軍としても、諸外国が開発中のジェット戦闘機の情報は得ていた為、自らが開発中の機体が登場すると同時に旧式化するリスクを理解していた。
だが、ここで設計を改めていてはG4諸国の後塵を拝する事が予想された為、先ずはドイツは
このお蔭で、日本の技術的影響を受けていないドイツ製ジェット戦闘機の開発もG4に遅れる事なく進捗し、1941年にお披露目の日を迎える事が出来た。
この機体はドイツとソ連の共同開発の成果であると宣伝され、両国で量産された。
だがエンジン推力に比べて機体が大きく重かった為、G4諸国のジェット戦闘機との交戦は荷が重く(※4)、その主たる役割は対地攻撃となる事が想定されていた。
この為、最初のジェット戦闘機に続く防空向けの迎撃戦闘機の開発が至上命題として出される事となる。
手元にあるジェットエンジンが非力であるならば、機体を小型化すれば良いと判断し、近距離防空用軽量単発迎撃機の開発が行われた。
此方は、並行して行われていたジェットエンジンの改良 ―― 出力向上に成功した事もあって、G4諸国の主力ジェット戦闘機に抵抗できる能力を得る事に成功していた。
――日本
日本は、列強諸国のジェット戦闘機開発競争をわき目に見ながら呑気に構えていた。
質的な主力であるF-3戦闘機は性能面で隔絶しており、数的な主力であるターボプロップ機のF-5戦闘機は性能的には劣勢となる可能性があるが、
そこに
シベリア共和国である。
シベリア共和国政府は、対峙するソ連がジェット戦闘機を押し立てて来るのに日本連邦がプロペラ機では国の威信が問われ国民は不安を感じると日本連邦議会の場で主張したのだ。
これにグアム共和国(在日米軍)も賛同する事となる。
此方は、自前で装備していた米国製航空機の運用維持費が負担となってきた為、運用コストが掛からない防空戦闘機を求めたのだった(※5)。
両邦国の要求に日本の衆参両院でも議論が発生し、最終的には航空機開発技術の維持を兼ねた日本連邦統合軍(邦国)向けの軽量戦闘機開発計画が立案される事となる。
重視されたのは単価ではなくライフサイクルコスト、運用基盤の貧弱な場所でも運用できる整備性、そして将来発展性であった。
性能そのものよりも、運用が重視された戦闘機であった。
この為、整備性と武器の搭載の簡便さから低翼機となり、エンジンは単発 ―― XF5を基に、多少の性能低下は目を瞑って低価格化したものが採用されていた。
F-9戦闘機として完成する事となる。
尚、そのデザインは、グアム共和国(在日米軍)高級将校が「J・タイガー」と漏らす程には米国製F-5戦闘機と似ていた(※6)。
(※1)
1941年に戦闘機の技術開発を統合し、促進する為にアメリカはアメリカ空軍の創設を決定する。
又、海軍艦載機向けの技術開発の統合と技術共有も積極的に行われる事が定められる。
(※2)
エンジン技術の供与拒否は、エンジンというものが設計のみならず素材精製その他、多岐に亘る技術の集大成である為、安易な供与が大きな問題を呼ぶ可能性が高いと言うのが理由であった。
又、フランスという国は将来的に無思慮な武器売却を行うリスク ―― 商売敵となる可能性がある為、躊躇されていた。
何より、G4の連絡部会に於いて、アメリカとブリテンの連名で抗議が為されたと言うのが大きい。
世界のパワーバランスを取る為にも、技術の共同開発を行うのであればG4の4ヵ国で行われるべきであるとの主張である。
日本としても技術の共同開発 ―― 技術開発を睨んでの、共同研究の解放を検討していた為、最終的には4カ国による技術共同開発の第1号として、ジェットエンジンに関わる基礎研究が行われる事と成った。
(※3)
このミサイル1発の値段が戦艦並と言う数字は、インフレによる値段の高騰と言う
1ジャパン円≠1日本円であると言う部分を無視した、グアム共和国(在日米軍)からの参加者と反ミサイル万能論者が結託して出した、暴投の様な数字であった。
だが、議論の場でその事が気付かれる事は無かった。
(※4)
ジェット戦闘機の開発にしのぎを削った国々は、それぞれマスコミに自らが開発中のジェット戦闘機の性能を概略とは言え公表して居た為、ドイツは自分が将来対峙する相手を
(※5)
グアム共和国に戦闘機が必要な外敵は存在しているとは言い難かったが、在日米軍 ―― 米軍の末裔として、戦闘機の保有は維持しておきたいと言うのが、ある意味で
(※6)
の呟きが元となり更には訛り、グアム共和国(在日米軍)でのF-9戦闘機の
尚、F-9の航空自衛隊内での呼び名は9の番号からナイン、或はカットラスとなっていた。
2020/01/23 文章修正