一方、戦争とは、流刑を伴う政治である
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チャイナの内側では、沸々としたチャイナ政府への反発が圧力を高めつつあった。
1940年に締結されたアメリカ-チャイナ融和条約は、その屈辱的な内容から政府への批判を呼んだが、それがいつの間にか、チャイナ政府の打倒へと過激化しつつあったのだ。
革命への機運であった。
チャイナの大地をアメリカやブリテン、フランスに国土を奪われて抵抗も出来ずチャイナの権威を失墜させ続けている政府は、天命を失っているが故にこの惨状をチャイナに齎した ―― そんな噂が広がっていた。
広げたのは当然、チャイナ共産党である。
チャイナ共産党は、チャイナの主導権を握るにはチャイナ政府が
だが現実はチャイナ共産党にとって非情であった。
肝心のチャイナ政府が、
現実的な対応とも言えるのだが、これではチャイナ政府を打倒する事が出来ぬとチャイナ共産党は頭を抱える事になる。
故に、天命を持ちだしたのだ。
――チャイナ政府
チャイナ政府としては、決して
臥薪嘗胆、国力を涵養し精強な軍を作り上げ、
問題は、その何時かはが、何時になるかが判らないと言う事であろう。
チャイナ政府は冷静に自国と列強、特に
諦観と共にソレを受け入れていた。
だが、チャイナ政府が受け入れていても多くのチャイナ人が受け入れる事は無かった。
偉大なる中華とは中原、世界の中心に居る国と民なのだ。
それが化外の地に住む者どもに劣るなど決してある筈の無い話であった。
にも拘らず差が存在するのは、悪があるから。
天命を失い徳の無いチャイナ政府を戴いているからだ ―― チャイナ共産党の宣伝に、その甘美な内容に、チャイナ人の多くが酔いしれた。
慌てたのはチャイナ政府である。
腐敗してもいたが、同時にチャイナを愛していたチャイナ政府の人間は大いに慌てる事となる。
それなりの高等教育を受けた人間の多いチャイナ政府は、チャイナ人の間で流布されるようになった天命論、革命の行き先が見えていたのだ。
革命がチャイナ人の優秀さを礎にした理論である為、次の政府はその民意に逆らう事無く諸外国と素直に衝突すると言う未来が見えたのだ。
対する諸外国は躊躇も容赦もしないだろう。
その果てにあるのは、何百何千万というチャイナの血が大地を染める事態だ。
故にチャイナ政府は断固とした態度で、国内の人心掌握に乗り出す事となる。
大弾圧の始まりである。
――チャイナ共産党
チャイナ人が抱いた革命への情動に対するチャイナ政府による即座の、そして徹底的な弾圧方針は、チャイナ共産党にとって寝耳に水の驚愕であった。
過去の対外交渉の例から、優柔不断に当初は様子見をするだろうと予測していたのだ。
油断であったと言えるだろう。
チャイナの歴史を紐解けば、時の統治側が大衆を弾圧する事に躊躇した例などトンと無い事に気付けた筈だった。
現実は非情である。
都会の街路で革命を訴えるビラを配れば処断され、人が集まっていれば警官に散らされ、抗議をすれば捕えられる。
都会が駄目なら田舎でとなれば、此方はもう少し容赦が無かった。
頭を抱えたチャイナ共産党は、であれば是非もなしと予定を少し早めて全面的、だがゲリラ的な武力活動を開始する事とした。
武器弾薬は、はるばるソ連から陸路で密輸されてきており、十分であった。
その際にソ連は
日本とアメリカ ―― ユーラシア大陸東部の国家群の注意を引き、少しでもソ連への圧力を低下させる為、と言う狙いを寸毫の誤りも無く理解していた。
言わば火種としての役割だ。
だが、それでも良かった。
チャイナを支配できるのであれば、他所の誰からどう思われようと関係無いのだから。
チャイナの全てを支配しさえすれば全てをひっくり返せる。
その様にチャイナ共産党は確信していた。
ソ連から送られてくる武器には、戦車こそ無かったが旧式化した戦闘機なども含まれて居た(※1)。
チャイナ共産党は、チャイナの北西地域を拠点と定め、軍事組織としての活動を活発化させる事となる。
この地方の掌握を目的とした理由は、辺境としてチャイナ政府の圧力が弱い事と共に、フロンティア共和国との国境線に近く、チャイナ政府が大規模な軍事作戦を躊躇する可能性が高い事が理由であった(※2)。
――チャイナ政府
よりにもよってフロンティア共和国との国境線近くで大規模な戦力を揃えつつあるチャイナ共産党に頭を抱えたチャイナ政府であるが、とは言え手緩い対応をする訳には行かなかった。
チャイナの正統なる主として、叛徒の存在を許しておける筈も無いのだから。
とは言えフロンティア共和国やアメリカの手前、即座に軍を動員し問答無用に鎮圧へ取り掛かれる訳では無かった。
別にアメリカとの間で、チャイナ領域内での軍隊の行動に関して条約の類を結んでいた訳では無い。
だが国境線、国境線から50㎞の非武装が定められている地域の傍でも軍を動かす可能性がある為、事前折衝を行う積りであった。
幾度ものアメリカとの国境線紛争を経験し、チャイナ政府も
並行して情報収集を行った。
アメリカは数度に及んだチャイナ政府との折衝に於いて、最終的にチャイナ軍の行動は治安維持活動であると了解する事と成った。
その頃には情報収集の成果、チャイナ共産党軍の全容も見えていた。
総兵力は約30万。
複数の軍閥を掌握した事で戦車や野砲、戦闘機すら保有する近代的な軍隊(※3)。
それがチャイナ共産党軍であった。
故にチャイナ政府は、動員できる限りの兵を投入する事を決心した。
チャイナ政府直轄の精兵100万に、最新鋭の戦車や戦闘機、果てはアメリカを真似た
チャイナ共産党がチャイナ混乱の根源であろうと見ての事であった。
半分は。
残り半分は言いがかりであった。
チャイナ共産党がいかがわしい革命思想を撒き散らす諸悪の根源であると宣言して討伐する事で、チャイナ人に広がりを見せている革命への心理的賛同をへし折る積りであった。
――
チャイナ政府とチャイナ共産党が前面衝突へと突き進む状況下で、違った動きを見せたのは
フランス領インドシナの戦いで一定の成果を挙げ、偉大なるチャイナの誇りを取り戻しつつあった彼らは、それ故に悩んでいたのだ。
何故? と。
自分たちはフランス人と戦えるのに、チャイナ政府は
素朴な疑問と言えるだろう。
そんな活動家たちの疑問に、
チャイナ政府の
理由が得られたのであれば対応は1つであった。
特にチャイナ南方、フランス領インドシナに近い地域には、武器を持ち、戦闘経験も豊富な男たちが多かった為、即座に火が点く事となる。
チャイナ動乱の勃発である。
(※1)
ソ連から送られた戦闘機は、陳腐化したレシプロ戦闘機どころか複葉機まで含まれて居た。
但し、整備部品は十分とは言えなかった為、その稼働率は高いものでは無かった。
(※2)
尚、これに付随してチャイナ共産党はフロンティア共和国とアメリカと接触し、可能であれば支援を得ようとしていた。
対価はフロンティア共和国の承認であり、以後のチャイナとアメリカの相互承認による不可侵協定の締結であった。
国境線に悩まされる事は無くなると言う意味で、アメリカはソレを魅力的なものと感じたが、とは言えシンクタンクであるセンチュリー機関とグアム特別自治州(在日米軍)から連名で
(※3)
この時点でチャイナ政府はチャイナ共産党とソ連の関わりを察知できずにいた。
ある意味で当然であった。
チャイナ政府と昵懇の関係にあるドイツの同盟国であるソ連が、