085 チャイナ動乱-4
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南チャイナが南京市を攻略できなかった事 ―― 独立国家としての基盤を作れなかった事を日本は問題視しなかった。
チャイナの分裂を期待する日本であったが、既にチャイナは中国と比較して南チャイナを含めて四分五裂どころか6分割状態(※1)であるのだから。
しかも最大勢力であるチャイナ政府はチャイナ共産党と本格的な戦争状態に突入しており、南チャイナが国家としての基盤が脆くあっても早急に問題となる様な状況には無いのだ。
陸の国境を接する事の無い対岸の大火事とばかりに、呑気に眺めていた。
だが、この状況を幸いとして動く者たちも居た。
アメリカだ。
――アメリカ
フロンティア共和国の国境線で度重なった紛争の戦費と密入国者阻止に必要とされる経費は、アメリカにとっても軽い負担では無かった。
これを如何に削減するか。
アメリカ政府では幾つもの検討が行われた。
チャイナとの和解、そしてチャイナの努力による密入国を抑制するプランは早々に破棄された。
この10年に積み上げられてきたチャイナへのアメリカの不信は、それ程に深いものであった。
チャイナにも言い分はあった。
そもそもチャイナからすれば、先祖伝来であるチャイナの大地に侵略してきたのはアメリカであり
とは言え、フロンティア共和国はアメリカとチャイナの間で正式に結ばれた国際条約で独立した国家であるのだ。
国際連盟に正式に加盟もしている。
如何にチャイナ人が感情的に受け入れがたくとも、それを国際社会が受け入れる筈も無かった。
この感情に基づく拗れ、そして何よりもチャイナの悪癖 ―― 物事への判断を恣意的に実施し、自分に都合よく解釈し行動する癖を発揮している事が、アメリカにチャイナとの和解が不可能である事を教えていた(※2)。
最終的に1つの行動が決定される。
フロンティア共和国とチャイナの間に国家を作り上げ、物理的に距離を取らせようと言う判断であった。
とは言え、緩衝国家が自立した国家として成り立つまでに必要とされるコストは決して安価とは言えぬ為、コスト削減と言う視点から見た時に妥当な選択肢とは言えなかった。
この判断を変えたのは、グアム特別自治州(在日米軍)経由で日本から教えられた情報であった。
緩衝国家として仮定されていたモンゴルの地に、世界有数の地下資源、将来に於いて重要となるレアアースが大量に眠っているとの情報であった(※3)。
この情報を得たアメリカ政府は決断した。
――南モンゴル共和国
元よりチャイナ北部のモンゴル地域では独立に向けた機運があった。
チャイナ人の支配に対する反発が強かったと言うのも理由にある。
だがそれ以上に、フロンティア共和国が建国されるに伴って流入してきたチャイナ人によって、従来のモンゴル住人の生活が脅かされる様になったと言うのが大きい。
これはその地理条件から、一獲千金を夢見てフロンティア共和国に密入国を狙った人間が集まってきていたためだ。
又、フロンティア共和国から追放されたチャイナ人が、故郷に戻ることなく、モンゴル地域に居付いたと言うのも大きな理由だ。
活気は増えたが、同時に治安が悪化していたのだ。
この状況にうんざりした地元の民が、独立を口にする様になっていたのだ。
そこに、アメリカが接触した。
チャイナのモンゴル人は、独立に向けて動き出す事となった。
地元の有力者や軍閥を巻き込んでいく。
有力者の多くはチャイナ人であったが、チャイナへの帰属よりも一族の利益を重んじる彼らは、独立で得られる利益に、涎を流してソロバンを弾いていた。
軍閥は簡単であった。
独立独歩の気風がある彼らは、南京の地から好き勝手な指示を出してくるチャイナ政府に強い反発を抱いていたのだから。
特に、アメリカとの戦争やチャイナ共産党との抗争で資金や兵の拠出を強いられ続けてきた事への怒りは深かった。
しかも、供出したにも拘らず与えられるものは何もなかった。
軍閥がチャイナ政府を見限るのも当然であった。
こうした条件が重なった結果、チャイナ北部の独立の火の手はアメリカが点火して半年もせぬうちに大火へと育つ事となる。
(※1)
広大な中国の領域をそのままチャイナとして見た場合、6つに分裂していた。
中央を抑え最大勢力であるチャイナ政府。
北西部に基盤を持つチャイナ共産党。
南沿岸域を掌握しつつある南チャイナ。
北東部でアメリカの庇護下にあるフロンティア共和国。
西方の日本の支援によって独立を果たした東トルキスタン共和国。
そしてチベットだ。
チベットはまだ完全に独立した訳では無いが、チャイナの弱体化へ向けた努力の一環として日本がチベット独立派に接触しており、武器の融通のみならず軍事教官の派遣、その他もろもろの支援を行っていた。
本格的な独立に向けた武装蜂起を行っていない理由は、日本の諸外国支援向けの外交資源が東トルキスタン共和国絡みで消耗していたと言う事が大きい。
如何に日本が強大であるとは言え、1国を独立させて自立させるまで支援すると言う事は簡単では無いし、時間の掛かるものであったのだから。
特に速成ながらも内政向けの人員 ―― 所謂官僚機構の構築は、本当に大変なものであった。
内閣府に設けられている情報組織隷下の研究機関では10年20年と時間が掛かるだろうとの報告を上げていた程であった。
簡単に権力争いを通り越して武力抗争すら始めかねない人々を宥め賺して、ケツを叩いて、日本から派遣された東トルキスタン共和国支援官僚団は必死になって仕事をしていた。
だがそれでも、東トルキスタン共和国がウイグルの地を完全に掌握するまでには至っていなかった。
それが、チャイナ共産党とソ連との東トルキスタン共和国内を経由する
唯一、順調に進んでいたのは独立に向けた軍組織の構築位であった。
こちらはシベリア共和国軍の建軍などで経験を積んできた自衛隊なればこそであった。
尚、装備に関してはインドの安定に寄与するという理由でブリテンを巻き込み、インドなどで流通していた旧式装備を買い上げて供与していた。
とは言え、それで全てを賄える筈も無いし、一般には流通しない機関銃や野砲などの問題がある為、日本製の武器も供与されてはいた。
尚、日本製の武器とは言うが、正しい意味での
日本はシベリア共和国の日本連邦への編入後、対ソ連を前提とした膨大な数の装備を整える必要性からウラジオストク近郊に軍需工廠を設けていたのだ。
10Km四方はあろうかと言う、日本本土では考えられない程に広大な敷地が用意されたウラジオストク軍需工廠であったが、シベリア共和国軍向けの装備製造が一段落すると、暇を持て余す事となる。
その為、
そしてフランスへ提供された96式装輪装甲車、予備装備として保管されていた同車両200両が整備と改修されたのも、本ウラジオストク工廠であった。
(※2)
アメリカの判断材料には、グアム特別自治州(在日米軍)から送られた、中国100年史の情報もあった。
世界第2位の経済大国に成り上がるまでの経緯、成り上がってからの傍若無人なふるまい、そして米国との全面的な対立。
アメリカはチャイナを、手を携える国家として不適格であると判断していた。
(※3)
日本はレアアースの情報を、アメリカがチャイナ分割へ前のめりになる為の餌として使っていた。
この時点で日本は、海底からのレアアース回収技術を確立させて居た為、チャイナにある地下資源はさして魅力的なものでは無かったと言うのが大きい。
それよりは、アメリカがチャイナの大地に縛られて足抜け出来なくなる方が、日本としては利益が大きかった。
日本の国内には、アジアは日本人の利益圏であり、その独占へと向けた努力をするべきだと言う声が一定数見られていた。
ある種の
利益を独占すると言う事は、面倒事も全て背負い込むと言う事だからだ。
アジア ―― ユーラシア大陸の面倒事と言えばソ連とチャイナと言う2つの国家だ。
それを日本一国で対処するなどという事は、面倒などと言う言葉で言い表す事は出来ない事態と言えるだろう。
日本は
共存共栄の美名の下、多少の利益と共に応能負担とばかりに出来る国家へと面倒事を押し付ける気満々であった。
それが、アメリカの背中を押した理由であった。
2020/02/19 文章修正