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即座に北方に拠点を置いていた軍閥に対して討伐を命令しようとするが、果たせなかった。
連絡を図るも電話には出ず、使者を送っても門前払いを受ける始末だった。
何をしているのかとチャイナ政府内の不満が沸点に到達する寸前、独立運動組織がラジオ放送を行った。
チャイナに混乱を齎し続けているチャイナ政府への非難、独立に向けた理念の公表、独立を図る領域の宣言、国際社会に向けて民族自決に基づく行動への支援を訴える内容などが並んでいた。
ありきたりな言葉を連ねた放送に、チャイナ政府の人間が動かされる事は無かった。
チャイナの歴史に於いて、時の為政者に叛旗を翻す者は佃煮に出来る程に居たのだから。
今代に於いて、その末席に連なり、破滅する者が出て来ただけだ。
考える事は如何に鎮圧するか、そして鎮圧を実行するべき軍閥が何故か反応を見せないと言う事への疑問であった。
その回答が、ラジオ放送の最後に与えられた。
南モンゴル独立委員会を自称する集団に名を連ねていたのだ、軍閥の首魁が。
寝返っていた事を知ったチャイナ政府は激怒した。
必ずやこの恥ずべき叛徒を撃ち滅ぼさねばならぬと決心した。
だが問題は、討ち滅ぼす為の軍勢であった。
現時点でチャイナ政府軍は、各軍閥を併せて150万の将兵が居ると公称していた。
だがその中で約34万余りの兵は、動員する事の出来ない警察的な戦力 ―― 地方や軍閥の警備部隊であった。
残るは約116万だが、此方も自由に動かせる訳では無かった。
チャイナ共産党との戦いに約90万の兵が動員されており、更には南チャイナに対する対応で20万の兵が投入されていたのだ(※1)。
今現在で、チャイナ政府が黄河以北で自由に動かせる兵は10万と居なかった。
約4個師団の兵、だが同時にドイツ式の訓練を受け装備を持った部隊であり、地方の軍閥や蜂起した民衆を潰すなどはそう難しい話では無い、
南モンゴル独立派が拠点とする場所が、フロンティア共和国との国境線付近の都市に置かれていなければ。
そこは、アメリカとの間で結ばれた条約 ――アメリカ-チャイナ1940 融和条約によってチャイナ政府軍が武装しては入れぬ
これにはチャイナ政府も頭を抱えざるを得なかった。
融和条約を破り、非武装地帯の
望む者の居ない、チャイナとアメリカの全面戦争となる可能性すら存在していた。
チャイナ政府は可能性に恐怖した。
既にチャイナ共産党に南チャイナと干戈を交えているのだ。ここで更にもう一つ敵を増やす余裕は無かった。
それも相手は
チャイナ政府は、
だが同時に、勝てると断言する事が出来ない事を自覚してもいた。
それ故に、チャイナ政府が最初に行った事は、南モンゴル独立派へ対して分離独立の愚を説いて、武器を捨てて帰順する事を望むと言う穏当な内容の
――チャイナ共産党
チャイナ共産党が未来に支配するべき土地の分断を認めるが如きチャイナ政府の行動は、チャイナ共産党として断固として認める事の出来ぬ話であった。
とは言え、現状で3倍近い兵力差でチャイナ政府軍から攻められている状況では、出来る事など限られていた。
別段、会戦などでチャイナ共産党軍が致命的な敗北を喫した訳では無い。
そもそも、大規模な会戦からは徹底的に逃れる戦略 ―― 人民の海に潜り、地積を防壁とするゲリラ戦を行っていたのだ。
決定的な敗北などあり得なかった。
このゲリラ戦あればこそ、装備のみならず兵の質と数でも劣るチャイナ共産党軍が、チャイナ政府軍に抵抗する事が出来ているのだと言えた。
だが決定的な敗北こそ免れていても、地積を防壁とする遅滞戦術は支配領域を常に失い続けているのと同義であった。
チャイナ共産党の支配領域にはまだ余裕があるが、それでも何時かは追いつめられてしまうだろう。
チャイナ共産党指導部は現状に危機感を抱いていた。
その打開策は1つ。
チャイナ政府軍の攻勢正面をチャイナ共産党から離すのだ。
攻勢が止まれば仕切り直しも図る事が出来るだろう。
その為の奇貨として南モンゴルの独立運動を利用しようと決断した。
――国際連盟
南モンゴル独立派の声明に対していち早く好意的な反応を示したのはアメリカであった。
アメリカは大統領談話として、アジアに民族自決の思想に基づいた新しい民主主義国家の誕生を歓迎すると内容を公表した。
そこには、アメリカとして南モンゴル独立派との対話を行う用意がある事も含まれて居た。
国際社会 ―― 特に
即ち、南モンゴル独立派の
好意的に受け止めたのは言わずともがな、
日本は、楽しいチャイナ分割ゲームに参加者が増える事に手を叩いて喜んでいた。
ブリテンは、取りあえず
フランスは、苦労させられた
対して
ドイツは、チャイナが本格的な紛争状態に突入する事で、
ソ連は、事実上の多民族国家であるが為に、民族自決の原理を掲げた独立運動へ
それ以外の国家 ―― 例えばイタリアは、世界の向こう側での出来事であると興味を示す事すら無かった。
誰もチャイナに同情する事は無かった。
だが同情は無くとも、打算による加勢はあった。
ソ連である。
ソ連はアメリカの行いに恐怖したが為、それを再発させない様にと世界を巻き込む事を決意したのだ。
その舞台に選んだのは国際連盟であった。
国際連盟総会の場にてソ連代表は、アメリカによる
国際連盟総会の場は紛糾する事になる。
ソ連に複数の国が加勢の声を上げたからだ。
国際連盟を支配する安全保障理事会
この為、国際連盟総会でソ連の緊急動議は却下される事無く、だが同時にソ連の望んだ声明が採択される事も無く、議論が交わされる事となった。
主題は
国際連盟が、その加盟国や非加盟国で発生した人道の関わる問題に対してどう対処するべきなのかと言う議論だ。
それは幾度も国際連盟の場でも議論された、内政干渉と言う言葉の定義 ――
――アメリカ
喧々諤々とした議論が国際連盟総会の場で繰り広げられるのを横目に、
フロンティア共和国政府は、公然と政府公使を南モンゴル独立派へと派遣し、
南モンゴル独立派はフロンティア共和国の提案を快諾し、即座に会議の開催を決めた。
しかも開催場所や日時すらも即決で決められた。
アメリカによる
議論が進まぬ理由は、多くの代表が正義を心根に置いて真剣にやればこそであったが、一般の人々の目には
激論の交わされる国際連盟総会をしり目に、南モンゴル独立派と
此方も、実にあけっぴろげであった。
その様は、交渉の場にフロンティア共和国やアメリカ日本、果てはチャイナのマスコミまで連れ込んでいる辺りにも表れていた。
しかも、歓迎式典は当然として両代表による会談までマスコミに公開されたのだ。
情報の提供と言う意味で至れり尽くせりの
批判的な色彩を加えたのは、唯一、チャイナのマスコミだけであった。
そんな会議の場で南モンゴル独立派は、マスコミに向けてチャイナからの離脱と民族自決への渇望を熱く語った。
チャイナ人と歴代チャイナ政府による搾取と併せて、だ。
歴史を知るチャイナ人からすれば南モンゴル独立派 ―― モンゴル系チャイナ人の主張は噴飯物であったが、その判りやすい
国際社会の、世界中の国々の世論が南モンゴル独立派支持へと変わった。
国際的な世論の変化は、国際連盟総会の議論の流れも変えた。
内政干渉への問題の是非はとも角として、この眼前の南モンゴル独立派に関しては支持しても良いのではないか、と(※4)。
アメリカの目論み通りであった。
――チャイナ
蒋介石はアメリカに続いて国際社会に激怒した。
その怒りのままに痛飲した。
翌日、赤ら顔のまま部下に対し内モンゴルは化外の地であり、彼らは蛮族らしくチャイナの徳を拒否したのだと語った。
部下も、その内容を渋々ではあったが受け入れた。
チャイナ政府軍参謀団は、安堵と共に受け入れていた。
ある意味で現実的な対応であった。
戦争の回避を優先したチャイナ政府の判断であった。
問題は、民主主義国家とは言えぬチャイナであったが、国民世論の動向を無視できないと言う事。
そしてチャイナ政府の
チャイナ共産党は、チャイナ政府の判断を嘲笑うかの様に世論戦を開始する。
諸外国の走狗、チャイナの伝統を穢す分離独立派からチャイナ北辺を解放するべきである ―― チャイナ政府などの諸外国との交渉を重ねる事で、現実を理解していた人間はまだしも、そうでないチャイナの一般大衆は
チャイナ政府は頭を抱える事になる。
(※1)
この時点で南チャイナと対峙するのは20万の軍と警備部隊から引き抜いた10万の、30万の将兵であった。
数字としては大きいが、守備範囲が広い ―― 長江以南と沿岸域へと広域的に展開する必要があった為、南チャイナに対して攻勢に出られる程の戦力では無かった。
又、チャイナ南部の都市農村がチャイナ政府軍と南チャイナ軍の両軍による徴発によって物資の備蓄が著しく低下している為、軍の能動的な活動を支える力が低下していたと言うのも大きい。
この為、チャイナ政府は南チャイナ討伐を、チャイナ共産党討伐終了後に予定していた。
それまでは物資の備蓄と守勢攻撃に、チャイナ政府軍の行動を限定させる腹積もりであった。
(※2)
あけっぴろげも何も、元から南モンゴル独立派の背中を押して独立運動 ―― 武装蜂起を行う様に誘導したのがアメリカである。
それ故に正々堂々と正面から関係を持つ事で、裏側の事情を国際社会の場に対して誤魔化せるのだと言う認識をアメリカは抱いていた。
だが、人はそれを
(※3)
民族独立と言う美名と正義は、
この理念あればこそ、世界大戦の後に独立を果たせた国家があった。
まがう事無き正義。
だが同時に、正義であれば全てを認められる訳では無かった。
多くの国が多かれ少なかれ、或は規模の大きさを問わずとして国内に民族問題を抱えていた為、そこを正義の名の下で
国際連盟総会が紛糾するのも当然であった。
(※4)
同じ民族独立を掲げたベトナム独立派が、世論の支持はおろか独立運動の是非が議題となっていた国際連盟総会で話題にも上がらなかった事と、ある意味で対照的であった。
誰もが
哀れ、ベトナム独立派は国際社会に於いて孤児であった。
ドイツ、或はソ連に余力があれば、或は支援もあり得たが、現状でそれを期待する事など出来る筈も無かった。