タイムスリップ令和ジャパン   作:◆QgkJwfXtqk

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087 チャイナ動乱-6

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 チャイナ政府とフロンティア共和国-アメリカとの全面衝突を画策するチャイナ共産党であったが、チャイナ共産党の領域がチャイナ政府軍90万によって包囲されている以上は、現地に纏まった規模の工作部隊を送り込む事は難しかった。

 そもそも、フロンティア共和国もアメリカも南モンゴル独立派への手厚い支援を宣言はしているが軍事部隊をチャイナの領土内には進出させては居なかった。

 これではチャイナ政府軍とアメリカ軍とを衝突させる事は難しかった。

 頭を悩ませたチャイナ共産党。

 最終的には()()()を投入する事とした。

 ソ連から供与された双発レシプロ爆撃機だ。

 他の3機の戦闘機(複葉機)と一緒に1機だけ、分解され部品の姿で送られて来ていたのだ。

 ()()()と名付けられていた爆撃機は、チャイナ共産党幹部が自らの非常時脱出用機として確保していたのだ。

 それを投入する決断をしたのだ。

 狙ったのは南モンゴル独立派の根拠地だ。

 チャイナ共産党の領域から侵出するには航続距離が厳しい為、爆弾はごく少数となった。

 その代わりチャイナ民族の大団結への帰順を要求する旨の掛かれた紙 ―― (ビラ)爆弾を搭載する事と成った。

 チャイナ政府軍機に偽装する為、塗装も国籍マークも変えた機体は、チャイナ共産党の希望を載せて飛ぶ事となる。

 

 

――空爆

 白昼堂々と低空で侵入し、機体を多くの人間の耳目に晒しながら行われた南モンゴル独立派の拠点への爆撃は、成果を挙げた。

 さもありなん。

 南モンゴル独立派に戦闘機はおろか防空施設 ―― 対空攻撃手段も無かったのだから失敗する理由が無かった。

 拠点中にビラを撒き、拠点の町にあってひときわ大きな建物に爆弾を直撃させたのだ。

 純軍事的には大成功であった。

 問題は、その大きな建物が南モンゴル独立派が使用する施設でも無ければ軍事施設の類でも無かった事だった。

 病院であったのだ。

 女性や子供、老人。

 老いも若きも、怪我をした者も、病気をした者も、その少なからぬ人々が傷つき、死んだ。

 その惨状を世界中から集まっていたメディアが目にし、それぞれの国へと発信する事となる。

 チャイナの蛮行を非難する声が世界中に溢れる事となった。

 多くのマスコミ関係者が持っていた日本製のカメラとフィルム(※1)は、爆撃機の胴体に付けられたチャイナ政府軍機を示す国籍マークを鮮やかに捉えていたのだから。

 フロンティア共和国政府は、即座に人道に基づいた支援を宣言した。

 アメリカや日本も()()()()()を宣言する。

 国際連盟の総会でも、警告も無しに病院に空爆を行った事が問題であるとされた。

 総会での議論で()()()()()()と言う概念も提唱され、この新概念に基づいてチャイナの行動が批判されるに至った。

 国際連盟総会の場の空気がこうもチャイナに批判的になっては、流石のソ連(反G4主義者)とて“アメリカ(ジャパン・アングロ)の覇権主義による被害者チャイナ”などと言う従来の主張を繰り返す事は出来なかった。

 国際世論は、チャイナ批判一色に染まる事となる。

 対してチャイナの世論は、政府への賛歌に染まった。

 チャイナの民衆は、その大地を侵す外夷(ジャパン・アングロ)に対し弱腰であったチャイナ政府へ不満を高めていた。

 そこにチャイナ政府は、チャイナからの分離独立と言う王道に背いた叛徒に対し空爆と言う絶対の意思()を示してみせたのだ。

 これを支持せぬ筈が無かった。

 そしてチャイナ政府は、大いに混乱していた。

 

 

――チャイナ政府

 国内からの称賛と国外からの批判を浴びたチャイナ政府が先ず行おうとしたのは事実関係の確認、そして犯人探しであった。

 だが、事態はその様な事を悠長に行える程にゆっくりとしてはいなかった。

 フロンティア共和国が、()()()()部隊を南モンゴル独立派本拠地へと派遣する事を宣言したのだ。

 人道支援部隊は()()()()()の高い部隊だ。

 要するに、フロンティア共和国軍の医療部隊に護衛部隊が付いた部隊(ユニット)であった。

 その意味する所はフロンティア共和国軍の越境である。

 チャイナ政府として断じて許せる話では無かった。

 駐チャイナフロンティア共和国大使を呼び出し、フロンティア共和国の行動はどれほどの美名を付けたとしても明白な侵略であると厳重な抗議を行おうとした。

 だが出来なかった。

 コーカソイド系のフロンティア共和国大使が開口一番に行ったのは、チャイナ政府の()()に対する非難であったから。

 その上で、文明国として未開国家の蛮行は断じて許容する事は出来ないとまで宣言された。

 チャイナ政府は面食らい、そして怒りに震えた。

 蛮行云々はどうでも良かった。

 只、自らの国を()()()()などと罵られた事が許せなかった。

 チャイナ政府の矜持を持った外交代表は、外交官の役目を忘れたかの様に血相を変え、怒鳴る様に自衛権の行使を宣言した。

 それは事実上の宣戦布告である ―― そうフロンティア共和国大使は冷静に指摘した。

 双方ともに血圧の上がった状態で行われた対話は、だが最終的には決裂(開戦)の寸前で立ち止まる事が出来た。

 1つは、フロンティア共和国が派遣する部隊が、医師こそ軍医ではあったが、純然たる善意に基づいた義勇であったと言う事。

 そして護衛部隊が軍部隊では無く(果てしなく類似ではあるが)、民間軍事企業(PMSC)が担当すると言う事であったのだ。

 チャイナへの配慮、振り上げた拳の下ろし所は用意されていたのだ。

 全てを飲み込んで人道支援部隊の受け入れを口にする蒋介石。

 だが全ては終った(メデタシ メデタシ)、そんな訳は無かった。

 フロンティア共和国大使が、この発端となった非人道的な爆撃の責任の所在を口にしたのだ。

 外交代表は、その言葉に何も答える事は出来なかった。

 チャイナ政府部内でも責任の追及 ―― 実行者の究明は行われていたのだが、現時点では一切が不明であった。

 その事を外交の場で馬鹿正直に言える筈も無かった。

 この為、外交代表はある意味で最悪の言葉を返事とした。

 チャイナの()()()()である、と。

 この一言がフロンティア共和国、そしてアメリカに対して、かの爆撃を実行したのがチャイナ政府であったと()()させる事となったのだから。

 

 

――アメリカ

 アメリカは当初、チャイナ政府の姿勢からなし崩しの形で南モンゴルの独立が果たせるのではないかと見ていた。

 形式としてチャイナ内の自治国のまま、だが最終的にアメリカの影響下にある独立国家としての立場を得ると言う形だ。

 チャイナの面子とアメリカの実利を両立させる()()()()()()()等と認識していた。

 その認識を壊したのが、南モンゴル独立派拠点への爆撃であった。

 事前の警告も無しに行われた爆撃は、チャイナ政府の強い意志が込められているとアメリカは認識した。

 それは、戦争のリスクが高まる事を意味していた。

 グアム自治州(在日米軍)からも警告のレポートが出されていた。

 だがアメリカは、己が試算した、南モンゴル領域を掌握する事で得られる経済的な好影響を鑑み、そのリスクを敢えて侵す事を決断した。

 将来の戦略物資であるレアメタルの確保は、アメリカ経済の未来に関わると言う認識を抱いた為であった。

 又、アメリカ軍の将校の一部には、チャイナとの戦争を好機と捉える人間が居た。

 シベリア共和国独立戦争以来となる名誉の稼ぎ時、と言う様な認識だ。

 しかもシベリア共和国独立戦争とは違い、先進化したアメリカ軍単独で後進国(チャイナ)を殴る事になるのだ。

 簡単に英雄に成れる素晴らしい戦争(ビッグ・チャンス)の到来だと認識したのも仕方のない事であった。

 様々な理由からアメリカは、期待を込めて戦争の準備に取り掛かる事となる。

 

 

――国際連盟総会

 世界中に広まったチャイナへの非難の世論、その民意に押される形で国際連盟総会は1つの結論と1つの行動を選択した。

 結論は、国際連盟加盟国が一丸となった、チャイナに対する非難声明を発表すると言う事(※2)。

 行動は、チャイナ政府と南モンゴル独立派への対話の提案であった。

 結論は兎も角として、行動に関してはある意味で玉虫色的なものであった。

 とは言え、それまで自らが国際連盟加盟国と非加盟国を問わずタブーとしていた内政干渉の分野に踏み込んだ提案であり、国際連盟総会の場が理想主義から実際的なものへと変化しつつある事を示していた。

 対話の場所は、自由上海市が選ばれた。

 いつの間にか国際連盟の管理都市となっていた上海であるが、そうであるが故に交渉を舞台とする事で、国際連盟の指導力(イニシアティブ)が発揮されやすいだろうとの判断があった。

 又、それ以外にも、そもそもアジアで外交の場として使える()()()の都市が他に無いと言うのも理由にあった。

 チャイナ政府からすれば日本やアメリカの影響下(G4の勢力圏下)にある都市は論外であったし、南モンゴル独立派にしてもチャイナの都市で行おうとすれば暗殺を警戒するだろう。

 この提案に併せて自由上海市に駐屯するイタリア軍部隊(海兵連隊)(※3)に対し、警備を厳重に行う様に要請する事と成る。

 

 

――チャイナ共産党

 南モンゴル独立派の拠点爆撃に成功し、チャイナ政府とフロンティア共和国/アメリカの関係悪化に歓声を上げたチャイナ共産党であったが、それが戦争へと繋がらなかった為、失望する事となる。

 チャイナ政府軍からの攻撃は、低調にはなったものの、その包囲が解かれた訳でも無い為、未だ苦境に陥ったままであったと言うのも大きい。

 この為、第2の矢、第3の矢を用意する事となる。

 チャイナ政府軍の包囲下に無い、隠れ潜んでいたチャイナ共産党組織に対し、上海での対話を破壊する様に厳命した。

 又、再度の南モンゴル独立派拠点への爆撃を行う事も決定した。

 とは言え、即座の出撃は不可能であった。

 無傷で生還した爆撃機であったが、ソ連から持ち込まれたエンジンの消耗品などは少なく、整備出来る人間も十分では無かった事が理由であった。

 チャイナ共産党は、ソ連に対して更なる支援を要求する事と成る。

 

 

――ソ連

 ユーラシア大陸東側で発生した危機は、ソ連の希望通りに推移していた。

 アメリカとチャイナの対立激化は、シベリア共和国の後背を支える2つの柱の1つが弱まる事を意味するのだ。

 ソ連にとって喜ばしい話であった。

 問題は、その対立の激化を更に促す為の支援をチャイナ共産党が要求している事であった。

 具体的には更なる爆撃機の供与、戦車の提供、武器弾薬の融通。

 その要求(欲しいモノ)リストを見たソ連のチャイナ共産党との窓口役は、余りにも厚顔無比な内容に怒るよりも先に呆れる始末であった。

 確かに装備の更新で余剰となった旧式の戦闘機や爆撃機、戦車などは存在していたが、それらも訓練に用いられたり売却されたり、或は鋳つぶして再資源化するソ連の大事な資産(※4)なのだ。

 チャイナ共産党(クレクレ乞食)の望むままに供与などする筈も無かった。

 とは言え、今のソ連にとってチャイナ共産党は大事な協力相手(子分)である為、その要求を無下にする訳にもいかず少なくない武器弾薬の提供を約束する事となった。

 

 

――自由上海市対話

 各国各勢力の思惑が入り乱れた中、開催されたチャイナ政府と南モンゴル独立派の対話は、最初っから紛糾する事となった。

 南モンゴル独立派が、拠点爆撃への謝罪と犯人(パイロット)の引き渡しを要求したからである。

 無論、色々な意味でチャイナ政府が受け入れられるものでは無かった。

 この為、チャイナ政府側は一言も答える事無く、チャイナからの分離独立を図る南モンゴル独立派を面罵するに至った。

 とは言え、即座に戦争に突入しそうかと言えば、そう言う訳でも無かった。

 互いに落としどころを探っている部分があった。

 戦争を何とか回避し、自分の主張を相手に飲ませようと努力し合う。

 正に外交が行われていた。

 だが5日目の朝、全てを台無しにする事態が発生した。

 テロだ。

 チャイナ共産党の秘密部隊が用意した爆発物を満載した自爆車両が、南モンゴル独立派代表団の乗った車列に突撃 ―― 自爆したのだ。

 自由上海市の流通の多い大通りでさく裂した爆弾は、死者重軽症者505名と言う大惨事を巻き起こす事となった。

 当然、南モンゴル独立派の面々も多くが即死した。

 そして犯行と同時に、自由上海市のみならずチャイナの主要都市で、チャイナからの離脱を図る南モンゴル独立派に対する制裁であると言う事の書かれたビラが盛大にまき散らされた。

 それはまるで、チャイナ政府が爆殺を行ったが如き書き方をされたビラであった。

 会場へと向かう途中に拾ったビラに、事態を理解できないチャイナ政府代表団であったが、そこを暴漢の一団が襲った。

 南モンゴル独立派代表団のかたき討ちだと、口々に叫んでいた。

 護衛として付いていたイタリア海兵連隊によって、暴漢は撃退され、幸いな事に死者は出なかったが、それでも負傷者は多数出た。

 文字通り、対話の舞台は爆散する事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 日本は、利用にデジタル環境を必要とするデジタルカメラの輸出に関しては諦めていた。

 その代わり、古参のカメラメーカーなどはこぞって新しくフィルムカメラを製造し、フルカラーのフィルムと共に輸出していた。

 一般(富裕層)向けに洒落たデザインを採用したコンパクトカメラの売れ行きも好調であったが、それ以上にマスコミ(映像報道関係者)向けに発売された機能を優先した無骨な一眼レフカメラは既存カメラを一掃する勢いで広がっていた。

 特にG4(ジャパン・アングロ)の領域では、日本製を使わない者は居ないと言う程に売れていた。

 

 

(※2)

 この決議の際、ソ連は棄権していた。

 いかな独裁国家のソ連とは言え、国際世論に対して真っ向から反旗を翻す選択を出来る程の国力を持っている訳では無い事の証拠であった。

 反G4筆頭と呼べるソ連がこの体たらくであった為、どの国も決議に於いて反対の票を出す事は無かった。

 

 

(※3)

 自由上海市に平時から駐屯する戦力は、イタリアの海兵連隊だけとなっている。

 イタリアの部隊が世界の反対側へと展開する事になった理由は2つある。

 1つは、チャイナの国際連盟離脱時に行われた国際連盟自由上海市総督部とチャイナ政府との交渉の結果であった。

 チャイナの国民世論と警戒感から、チャイナ政府が国際連盟自由上海総督部に対して上海に駐屯する軍はG4以外が出す事をお願いしたいと泣き付いたのだ。

 国際連盟自由上海総督部側はそれを受け入れた。

 但し、国際連盟自由上海総督部が緊急時と判断した際にはチャイナ政府の了解を得ずとも日本やアメリカなどの部隊を配置させる自由があると言う事を前提として、であった。

 又、その内容は書類として残されると共に、公開される事とされた。

 チャイナ国民に対しても公開される事に、チャイナ政府は難色を示した ―― チャイナの民の自尊心を傷つけるものであると主張したが、この点に関して国際連盟自由上海総督部が折れる事は無かった。

 国際連盟自由上海総督部の中で日本人出向者(日本国外務省スタッフ)が、文章にもせぬ秘密条約としていた場合、土壇場でチャイナ政府が戦力配置の自由に関する権限を反故にする可能性が高いと()()に主張した結果であった。

 結果、緊急時に於いてチャイナ政府が判断を誤らぬ(スケベ心を出さぬ)様に太い釘が刺される事となったのだ。

 2つ目は、国際連盟安全保障理事会理事国としてイタリアに要求された献身(オナー)であった。

 イタリアは安全保障理事会の名誉理事国となっていた。

 常任理事国(G4)の様な権限(議決への拒否権)こそ有しないが、それに準じた名誉と権利を持つ常任の理事国となっていたのだ。

 その対価、世界への献身が1個海兵連隊を世界の裏側へと常駐させる事であった。

 常駐させるのが師団規模であればイタリアとしても苦しかったが、1000人にも満たぬ小規模であり、しかも駐屯に掛かる経費は国際連盟から出される為、問題は低かった。

 又、派遣されているイタリア人将兵の士気も低くは無かった。

 それどころか派遣期間中の短期休暇などの際に、特権的に近隣の日本への旅行や買い物が認められていたりする為、人気の配置となっていた。

 

 

(※4)

 シベリア共和国独立(シベリア地帯を失って)以降、ソ連の経済や資源の状況は余裕を失っていた。

 人口(人材)の流出、世界経済(ジャパン・アングロ)との対立、軍事予算の圧迫がソ連経済の足を引っ張り続けていた。

 この状況下に於いてチャイナ共産党が望む様な、チャイナ共産党軍を近代化させられる規模の軍事物資を、売却では無く融通する事など出来る筈も無かった。

 

 

 

 

 

 


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