タイムスリップ令和ジャパン   作:◆QgkJwfXtqk

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094 チャイナ動乱-13

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【挿絵表示】

 

 

 国際連盟で議決された、国際連盟加盟国に求められる積極的人道活動への参加要請とは、即ち、軍事力の派遣であった。

 無論、戦争の正面に立てと言う要求では無いが、幾ら人手があっても過剰となる事は無い後方支援への部隊の派遣が望まれたのだ。

 国際連盟安全保障理事会隷下に南モンゴル人道支援委員会(司令部)が設けられ、各国からの部隊を募る事となった。

 その詳細が明らかになると共に、小は連隊規模から大は師団規模まで部隊派遣を宣言する国家が続出する事となる。

 これは、南モンゴル人道支援活動の活動資金を国際連盟(G4)とアメリカが全額負担する為、態の良い出稼ぎ(アルバイト)になる為であった。

 アメリカ政府は、この状況に笑いながら金を用意した。

 金如きで兵隊を買えるなら、札束でアメリカの若者が流す血が減る(未来の有権者を守れる)ならば幾らでも刷ってくれてやろうと言うのだ。

 アメリカは、正に国力の戦い(横綱相撲)を見せつけるのだった。

 

 

――南モンゴル西方領域航空戦(D-Day+31~45)

 シベリア共和国軍航空隊(日本国航空自衛隊)がフロンティア共和国航空基地に展開し、作戦行動を開始すると共に、アメリカ空軍爆撃機隊の捜索任務での被害は劇的に低下する事となった。

 ()()としてモンゴル国上空を飛ぶE-767早期警戒管制機の(レーダー)が南モンゴルの領域、その尽くを収めた為に、完全にチャイナ政府軍戦闘機部隊を封殺する事が可能になったのだ。

 それまでもレーダーによる空中からの監視と言う意味ではアメリカ空軍もE-24空中哨戒機を投入していたのだが、その性能(100年の技術革新)の差 ―― レーダー能力と管制能力、そして何より通信能力の隔絶が、チャイナ空軍機の活動を早期発見する事に繋がったのだ。

 そして発見してしまえば、戦闘空中哨戒任務(CAP)に当たっていたF-5C戦闘機が即座に迎撃に向かい、これを撃墜した。

 航続距離の問題に関してはKC-46A空中給油・輸送機を飛ばす事で対処しており、このお蔭でF-5C戦闘機は5機が常時遊弋(オン・ステーション)出来ていた。*1

 消費する燃料に関しては日本で備蓄されていたものが()()()()()で売却され、サービスとしてフロンティア共和国の港までアメリカの戦艦並に巨大な日本の()()タンカーの手で運ばれていた。

 又、前線への輸送に関しても日本は支援を行った。

 民間軍事企業(SMS社)を介する事で面倒な法律上の問題を棚上げにして、日本連邦統合軍のもののみならず、日本国内で使用されていた大型タンクローリー/タンクトレーラーを臨時に借り上げて投入していたのだ。

 チャイナとの戦争の泥沼化を恐れて支援要請を出したのはアメリカであったが、日本の対応はアメリカがチョッと引くレベル(米帝ムーブの発露)となっていた。*2

 かくしてアメリカの気分は兎も角として、日本の支援によって、南モンゴルの航空優勢は急速にアメリカ側へと傾いていく事となる。

 対するチャイナ。

 ある日突然に始まった異常、出撃した戦闘機が戦果を得るどころか尽くが未帰還機となる状況に、チャイナは悟った。

 ()()()()()()()()

 全く同じであったのだ、ドイツの軍事顧問団経由で得たソ連分裂戦争(シベリア独立戦争)でソ連空軍が陥った状況 ―― ()()にも接敵できなかった機体以外、全て帰還しないと言う状況と。

 チャイナ政府軍司令部は恐怖した。

 とは言え怯えたままに状況を座視する訳にはいかず、チャイナ政府軍参謀団はドイツの軍事顧問団と共に対応する事を試みていく。

 先ずは投入する戦闘機を増やしてみたが、撃墜される戦闘機の数が増えただけに終わった。

 1個飛行隊を丸ごと投入して、その悉く ―― 1機たりとも戻らなかった。

 続いて、空を飛ぶ時間が長ければ迎撃されるのだと想定し、南モンゴルに航空基地を設営して対応しようとした。

 設営した翌日に、アメリカ軍から爆撃を受ける事となった。*3

 最終的にチャイナは、2つの決定をする。

 1つは短期的な対応。

 新鋭のジェット戦闘機が完成するまで南モンゴルの地では積極的な航空戦は仕掛けないと言う事。

 もう1つは中期的な対応。

 ドイツ軍事顧問団の提案を基に考案された、簡便で小型、飛行場以外の場所からでも運用出来て奇襲的に使える近距離迎撃型ロケット戦闘機(IRFコンセプト)開発(ドイツへの発注)である。

 IRFコンセプトは、ある意味で地対空ミサイルの走りとも言える、先進的な発想であった。

 問題は、いつ完成するかは判らないと言う事であったが。

 

 

――南モンゴル 東ユーラシア総軍前進限界(D-Day+32~46)

 西進を続ける東ユーラシア総軍第1軍団と、その側面を守る第2軍団であったが、開戦から1ヵ月を越えると共に限界を迎えつつあった。

 燃料の問題では無い。

 日本の支援(日本製タンクローリー/トラックの投入)もあって、完全な機械化が成されている第1軍団にせよ第2軍団にせよ、潤沢とまではいかないが、必要十分な程には燃料を筆頭とした各種物資は支給が成される様になっていた。

 掌握した南モンゴルへの支援物資も、国際社会(日本連邦)からの支援によって当座の必要量は確保出来つつあった。

 にも拘らず、東ユーラシア総軍の前進は限界に達しつつあった。

 チャイナ政府軍の抵抗が激化した訳では無い。

 単純に()()()()()が表面化しだしたのだ。

 現時点で東ユーラシア総軍で実働しているのは8個師団2個旅団だけであり、中でも前進する第1軍団の側面 ―― 総延長が800㎞を越えた側面を守る第2軍団の兵力は3個師団2個旅団だけなのだ。

 空からの支援を受け、見晴らしの良い場所を中心に展開し、完全に自動車化された部隊であればこそ機動力に支えられた警戒/防衛線を敷く事が出来ていたのだが、それは余りにも薄く、度々チャイナ政府軍騎兵部隊の侵入を許す事に繋がっていた。

 1個の師団/旅団辺り150㎞を超える長さを警備し、敵の侵入を阻止せよと言うのが無理難題なのだ。

 又、この状況を見たチャイナ政府軍北鎮守護軍も()()()()()()()()()()に備えた戦略的助攻として、東ユーラシア総軍第2軍団へ積極的な戦闘を仕掛けていた。*4

 戦車を含む機械化された戦力で構成された嚮導団を持った北鎮守護軍の攻勢に、警備を目的としたジープ/トラックが主体の自動車化軽歩兵部隊の集まりでしかない第2軍団は後退を余儀なくされていた。*5

 特に、兵の質と言う面で朝鮮(コリア)共和国義勇師団に劣っていたバルデス国部隊、その第7自動化旅団が嚮導団の攻勢正面となってしまい、散々な被害を出す事になった。

 嚮導団が増強2個連隊程度の戦力であった為、包囲などされる事無く撤退に成功したが、将兵の3割が死傷する大損害が発生していた。

 各部隊の対装甲火力が不足するならばと、航空機による支援 ―― 爆撃や対地攻撃が行われたのだが、チャイナ政府軍航空隊の頑強な抵抗と徹底した対空擬装によって、十分な成果を上げる事は出来なかった。*6

 とは言え北鎮守護軍の司令部は、被害こそ抑えられてはいてもアメリカが投入してきた航空戦力の規模に驚き、空爆による被害を拡大させない為に30㎞程前進した所で攻撃を終息させたのだった。

 チャイナ政府は、この一連の戦いを“黄河北会戦”と命名し、北京市防衛の成功であり勝利であると大々的に宣伝した。

 対する東ユーラシア総軍司令部は、この戦線の後退自体は否定的に受け止めなかった。*7

 問題として認識したのは第2軍団の質、現時点で貴重な戦力であるが装備も編成も補助戦力、警備部隊の域を出ない事であった。

 貧弱な装備で北鎮守護軍に立ち向かった朝鮮(コリア)共和国義勇師団であったが、日本連邦統合軍による教育の成果 ―― 兵の質を示すように強固な抵抗を行い、白兵戦の最中には逆襲すらしていた。

 チャイナが命名した黄河北会戦で第2軍団が全面的な壊乱に至らなかったのは偏に、兵の健気さがあったと言えるだろう。*8

 何にせよ、東ユーラシア総軍の状況が安穏として居られない ―― 政治的な要求があるとは言え、容易に前進を選べなくなりつつあると言う事が露呈していた。

 更に凶報は続く。

 北鎮守護軍との交戦で少なくない被害を出した第2軍団は、その警戒/防衛戦を寸断されてしまい、その回復に時間が掛かっていた。

 その間隙を突いて第1騎兵軍第3騎兵師団*9が南モンゴル東方域に侵入を果たしたのだ。

 こうなっては東ユーラシア総軍は前進するどころでは無くなったのだった。

 

 

――南モンゴル西方域運動戦

 東ユーラシア総軍第1軍団の前進が完全に停止したが、同総軍司令部は南モンゴル西方域で跳梁するチャイナ政府軍騎兵部隊への対応を、陸上部隊の投入を諦める積りは無かった。

 航空部隊による捜索と空襲は一定の成果を挙げてはいたが、チャイナ政府軍騎兵部隊の活動を封殺するには至っておらず、地面を一歩一歩と踏み固める(染め上げる)陸上部隊がやはり大事であったのだ。*10

 この対応に東ユーラシア総軍は、第1軍団に先行する形で展開力に優れた装輪部隊を投入する事を決断する。

 空の目と共に、地上からも捜索し、チャイナ政府軍騎兵部隊の撃滅を図るのだ。

 中心となるのはフロンティア共和国に到着していた増援 ―― グアム特別自治州(在日米軍)第501機械化師団隷下で、展開力に優れた装輪装甲車(Type22 MAVファミリー)を装備する第501偵察大隊となる。

 これに第2軍団から無理矢理に抽出した2個の自動車化歩兵連隊*11を組み込んで、第501増強偵察旅団戦闘団を編成した。

 主たる役割は、小隊以下の小規模部隊に分かれて南モンゴル西方域を縦横に走り回り、チャイナ政府軍騎兵部隊捜索を行う事であった。

 撃破に関しては航空部隊を誘導しても良いが、そもそも第501偵察大隊は16式機動戦闘車や22式歩兵戦闘車といった火力に優れた車両を保有している為、単独での撃破も余裕でこなす事が期待出来た。

 尚、第501増強偵察旅団戦闘団が消費する燃料弾薬食料などに関しては、第1軍団で責任を持って輸送し支援するものとされた。

 南モンゴル西方域の戦いは新しいステージへと入る事となる。

 

 

――南モンゴル独立派(D-Day+32~)

 南モンゴルの地で好き放題に跳梁するチャイナ政府軍騎兵部隊。

 その活動によって、南モンゴルの地は混乱の坩堝へと叩きこまれていた。

 既に経済活動は破綻し、物流は止まっている。

 小さな村々は襲われて亡ぶか、それとも食糧の不足で亡ぶかと言う所まで追い詰められつつあった。

 開戦してたった1月余りで陥った苦境に、南モンゴル独立派の住人たちの戦意は逆に燃え盛っていた。

 それぞれの町では自警団を組織し、食料を管理し、その上でアメリカに対して速やかな救援が困難であるなら武器だけでも送る様に要請した。

 又、生き残っていた小さな村々に対しては、村を捨てて大きな町へと身を寄せる様に指示を出した。

 村を捨てる村人たちは、自らの手で運び出せぬ食料や家に火を放ち、せめてものチャイナ政府軍騎兵部隊への嫌がらせと共に、チャイナへの報復を誓うのだった。

 アメリカは南モンゴル独立派の要請を受けて、大量の武器弾薬を空輸し供与していった。

 南モンゴルは修羅の大地へと変貌を遂げた。

 

 

 

 

 

 

*1

 本任務に於ける燃料の供給はアメリカが担当していた為、戦闘機をたった5機飛ばし続ける事に必要な燃料を把握できていた。

 整備と予備を含めて5セット25機の戦闘機。

 予備を含めて3セット6機の空中給油・輸送機。

 予備を含めて3セット3機の早期警戒管制機。

 この他、予備部品を前線基地へと運び込む輸送機たち。

 それらを動かす為に垂れ流すが如き燃料の消費に、それを平然と(涼しい顔で)実行する日本に、未だ戦時体制に突入していない(全力全開モードの余地を残していた)アメリカは恐怖していた。

 そんなアメリカの反応に日本は、自分たちが米国を見る気分とそっくりだと感慨深いものを感じていた。

 尚、グアム共和国(在日米軍)高級士官は、この倍くらいは用意した方が安全ではないかと内心で思っていた。

 元祖物量の申し子、米軍士官は()が違っていた。

 

*2

 日本の思惑は当然、アメリカの対チャイナ戦争の早期決着である。

 チャイナが増え(分裂す)るのは実に望ましいのだが、その過程でアメリカが疲弊して(反戦機運が盛り上がって)しまうと、この後に控えるであろう対ドイツ・ソ連戦争に甚大な影響が出てしまうと言うのが、その理由であった。

 日本は、開戦して1月余りの状況を見て、()のアメリカの戦争遂行能力に危機感を抱いていたのだ。

 それは、1つの事を日本が忘れていた為の懸念であった。

 米国が本気モードになったのは、日本帝国に横っ面を全力で殴られて(パールハーバーされて)以降だったと言う事を。

 

*3

 日本の偵察衛星による情報に基づいた爆撃である。

 チャイナ政府軍が必死になって行った物資の集積は、アメリカ空軍爆撃機隊による1度の攻撃で灰燼へ帰した。

 

*4

 軍事的な目的の他、チャイナ政府が開戦劈頭から国土を失っていく状況に意気消沈したチャイナ国民を盛り上げる為、戦争を勝利するその日まで戦い抜く為の民心慰撫として勝利を、吉報を求めたと言う政治的な側面も大きかった。

 

*5

 嚮導団とはチャイナ政府軍の機械化部隊を嚮導する為に、ドイツ軍事顧問団の肝煎りで編制された部隊である。

 装備するのは、Ⅳ号戦車でもC型Ⅲ号突撃砲でも無く、Ⅲ号戦車C型。

 純然たる中型戦車であり、攻勢任務を行える部隊であった。

 

*6

 アメリカは日本の航空戦を模倣し効率的な空爆を行うとし過ぎていた事も、この戦いに於ける効率の低さに繋がっていた。

 日本の対地攻撃は、先進的な通信ネットワークに支えられているからこそ、シベリア独立戦争で絶対的(スマート)な効果を発揮できたのだから。

 とは言え、効率が低いなら数を増やせばよいとばかりに戦闘機までも対地攻撃任務に投入し、猛爆撃を敢行した。

 

*7

 敗北の責任を、現東ユーラシア総軍司令官が前任の司令官に全て押し付ける事に成功していたと言うのも大きかった。

 

*8

 傭兵稼業で来ていたコリア系日本人が、そこまでの献身を行ったのは、1920年代から脈々と続いていた朝鮮(コリア)共和国の稼ぎ頭としての誇りと、アメリカが行っていた死傷者への手厚い補償あればこそでもあった。

 名誉と金。

 即物的な、だが確たる利益が朝鮮(コリア)共和国傭兵部隊の勇名を支えていた。

 

*9

 師団と命名されてはいるが、その実態は小隊規模部隊の集まりであり、その総数は2000名にも満たない。

 兵も、第1騎兵師団と命名された部隊の成功を見て各軍閥から急遽かき集められた者達であった為に質も悪く、軍装すらも纏っていない者も居た。

 その様はチャイナ政府軍高官ですら、()()()()と酷評する程であった。

 だが今、チャイナ政府軍が望んで居るのは、南モンゴル東方域での治安の悪化と物流の混乱を引き起こす野盗働きであった為、ある意味で適任であった。

 

*10

 空襲の効果が限定的となっている背景には、チャイナ側が空襲が活発化すると共に部隊を更に細分化させる事で、空の目から逃げようとした事が大きかった。

 如何にアメリカとて、10騎と居ない、軍服も着ていないだけの集団を無差別に空襲をする事は憚られたのだ。

 

*11

 抽出元の部隊は、被害の比較的少なかった第102義勇師団だ。

 その将兵が朝鮮(コリア)共和国軍の一員として日本連邦統合軍に参加し、第501機械化師団(在日米軍)将兵との連携にも慣れている事が、抽出の理由となった。

 又、被害の受けていない第1軍団の歩兵部隊から抽出されなかった理由は、第1軍団の歩兵部隊は半装軌装甲車を装備する(展開力で自動車化部隊に劣る)機械化歩兵部隊であった事が理由であった。

 




2020/04/04 文章修正
2020/04/05 文章修正

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