「今日も今日とて、偉いわね」
「いえいえ」
掛けられた声を気に留めることもなく、雑巾を丁寧に絞る。
朝からの窓拭き。雨が降ろうが雷が鳴ろうが、たとえ槍が降ろうが俺は辞めるつもりはなかった。
今日は雪の降る朝だった。昨晩から降り出したそれは一夜で街を銀世界に変えてしまった。手が痺れたような感覚。冷たい水に浸った手が、外気に触れて、体温が奪われる。
ほう、と息をつく。蒸気機関車の吐き出すスチームの様に白くなり、そして空に溶けていく。
「……やるぞ」
誰に聞かれる事もない、小さな声で自分に活を入れる。そうして、冷え切った窓に雑巾を滑らせていく。
「君、どうして消しゴムを取っていこうとしたんだい?」
ガキの頃の俺ん家は貧しかった。親父は賭博に現を抜かし、お袋はパートで俺と弟が食べる分だけのお金を稼いで来ていた。周りからは余り良い目で見られなくても、母さんと、俺と、弟で食卓を囲む。俺はこれで幸せだった。だけど、安時給で働かされる母さんは少しでも稼ぎを増やそうと無理をしていたのだろう。雪が降る日に職場で倒れて、そのまま家に帰って来なかった。葬式に親父の姿は無かった。親類に俺たちを引き取ろうとする人なんていなかった。
俺は中学で学生を終えた。せめて弟だけでも食わせよう。そう思って働き出すけど、中卒のガキを雇うところに真っ当な場所は無かった。日が昇る前から、街灯がまもなく消えようとする頃まで必死に働いて、それでも弟の給食費と教材費を払えば朝夕の飯をやっと食べれるだけだった。余裕なんて到底有りはしなかった。
ある日、俺が玄関を潜ると弟の泣き声がした。部屋にすっ飛んでいくと体育座りで頭を伏せていた。
訳を聞こうとすると、弟は、何かが乗った手のひらを目の前に差し出した。
砕けた、消しゴムだった。
弟は学校で虐められていたらしい。確かに見窄らしい格好だったけど、誰よりも必死に努力して、先生達からも一目置かれる存在だった。それがいじめっ子達の何かに触れた。そして、今日、休み時間にふざけて消しゴムを千切られたらしい。誰よりも、多分俺よりも優しい弟は怒ることも出来ず、ただただ涙を浮かべながら、その場を凌いだのだろう。
「よし、俺が買ってきてやる」
「でもお金……」
「心配するな。何とかする」
嘘だった。なんとか出来るほど俺の財布にお金は無かった。給料日前、タイミングが悪かった。
先生達に頼りたかったけど、これまでも散々お世話になっていたから、これ以上迷惑をかけるわけにはも行かなかった。頼る大人なんて、誰一人居なかった。
そして俺は、最低な行為に及んだ。
「黙って持って行くのは犯罪なんだぞ。『万引き』」って言うんだ」
「……ごめんなさい」
「ごめんなさいで済むなら警察はいらん……と言いたいけど、私はそんなに鬼じゃないよ」
俺の目の前に座ったおじいさんは、優しそうな苦笑いを浮かべた。
近所の文房具店。俺は消しゴム一個をズボンのポケットに素早く突っ込んで立ち去るつもりだった。だけど、通りすがりのおばちゃんに見つかった。首根っこ引っ下げられ店主のおじいさんの所に連れて行かれた。
「どれ、なにか事情があるんだろう? 君の話聞かせてもらえるかな?」
僕はありのままに話した。親父が居なくなったこと。母さんが死んでしまったこと。がむしゃらに土を掘って、重い建築資材を運んでも、雀の涙のお金しか貰えなかったこと。そして、弟が消しゴムを壊された事。
最後の方は声が湿っぽかった。兄貴がこうだったらダメだとなんとか涙を堪えた。
「そうか、辛かったな。でもな、ダメなことはダメなんだ」
「はい」
「弟くんも君がそんなことしてまで持ってきた消しゴムを喜んで受け取れるのかな?」
俺は警察に突き出すなんて言われても文句を言えなかった。おじいさんの言う通り、俺は罪を犯したのだから。でも、おじいさんの口から次に出てきた言葉は違った。
「はいこれ」
「え?」
おじいさんは俺の前に一つ物を置いた。消しゴムだ。
「君が買うんだ」
「でも……」
「お金が無いなら働くしかない。無論私の店でね」
おじいさんは優しく微笑んだ。
「後払いって奴だ。そうだ、どうせなら君と弟くんもうちに住んだらいい。ご飯ぐらいは出せるし、風呂だって入れるよ」
「なんで、俺たちなんかに」
「君達が頑張る人間だったからだ。よく頑張ったね」
葬式の日にも流さなかった涙を、俺はずっと流した。ボロボロ泣いた。
おじいさんの奥さんも俺たちを引き取ると聞かされた時、はじめは驚いていたけど、それでも温かい手を差し伸べてくれた。
その日から、俺は文房具店の従業員として、ひたすら働いた。裏方の仕事を手伝う形だったけど、とにかく一生懸命働いた。あとから聞いたけど、おじいさんとおばあさんは子供に恵まれ無かったらしい。二人は俺たちを実の子供の様に、時には厳しいけどしっかりと育ててくれた。
そして、15年が過ぎた。
おじいさんとおばあさんはこの世に居なくなり、弟も高校、大学を出て国の研究機関に務めている。それでも俺は文房具店で働いている。店主という肩書きだけど、俺の中ではおじいさんがまだ店主だった。俺はあの日犯した罪をまだ償いきれていないと思っていた。だから、おじいさんたちの形見のこの店を、俺は自分の手で守っていた。
「おはようございます」
後ろを小学生達が通って行った。挨拶を掛けてくれたので、「おはよう」と返す。何気ない冬の朝。母さんが天国に行った日もこんな雪がひたすら降っていた。
窓、ドア、そして看板。隙間まで拭きあげ、日課の掃除は終わろうかという時に卸入れ業者がやって来た。
「ちゃす、注文の品持って来やしたよ」
「ありがとうございます」
店先に置いておくようお願いをして、バケツを片付けた。戻ってくると業者は居ない。中に入ったすぐにあるカウンターの脇に、段ボールが置いてあった。
開けると、消しゴムが一番上にあった。俺が盗ろうとした物と同じやつ。
「ありがとうな、おじいさん」
ふとおじいさんの居た頃の店を思い出し、俺は小さく笑い、壁にかけてある写真を見た。俺と弟、おじいさんとおばあさんの四人。
おじいさんとおばあさんは笑っていた。