資料 恋姫時代の後漢   作:所長

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 資料を探している途中であるとか解釈が難しくて投げ出しているものとかいつかまとめたいと思っているものとかを列挙してみました。
 長い間土木工事の項目を充実させたいと思っていたのですが、歴史書には出来上がった瞬間と出来上がった物の名前くらいしか書かれていない(ほとんどの工事が1行どころか10文字程度でしか扱われていない)ので、1を書くために20くらいの資料と照らし合わせなくてはならず、心が折れそうです。


まとめつつある後漢時代の後漢

■土木工事

 206年(建安11年)10月頃?

 建安十年に鑿渠して(溝を掘って)幽州内陸部間に呼沲(こた)から泒水(こすい)に平虜渠(へいろきょ)を通した。

 渤海湾から内陸部へ洶河(きょが)口から潞河(ろが)に泉虜渠(せんろきょ)を通した。別名、泉州梁(せんしゅうりょう)。

 幽州には袁紹によって取り立てられた異民族・烏丸(うがん)の酋長らがおり、彼らの多くは単于(役職名)に任ぜられた。中でも遼西郡の蹋頓(とうとつ)の勢力は大きく袁紹にも厚遇されていたため、袁紹の没後にその息子たちは彼を頼って逃げ延びた。国境を越えて侵入を繰り返す彼ら烏丸に、曹操は長らく悩まされることになる。

 平虜渠と泉虜渠は北方平定のためのインフラ整備であり、魏書・武帝紀には蹋頓討伐のために曹操が建設したと記される。

 

 220年(黄初元年)8月から9月? 曹魏の時代。

 魏王(曹丕)によって豫州刺史に任じられた賈逵は運河を通して灌漑事業を行い、これを成功させたとして称えられた。

 

 225年(黄初六年)3月 曹魏の時代。

 文皇帝(曹丕)は(豫州汝南郡)召陵県に討虜渠を通じさせて許昌に帰った。とても淡泊な記述である。あっという間だったのだろうか。

 これはおそらく袁家本拠にて長らく続いていた反乱を鎮圧するため淮水上流域への兵員の輸送能力を上げると共に、灌漑事業によって民心を掴もうと目論んで行ったことであると思われます。

 

 233年(青龍元年)、春から秋? 曹魏の時代。

 晋書『宣帝紀』に曰く成国渠を掘削し、臨晉陂を築いた。

 成国渠は司隸扶風郡陳倉県(侯国)から郿県付近の渭水支流から流れだし、京兆尹長安県と馮翊郡池陽県の間で涇水に流れ込む大運河。灌漑事業は扶風郡槐里県にまで及んだとされ、工事の範囲は幅2~30㎞、全長は100㎞を超えていたものと思われる。

 この事業は、諸葛亮による北伐に悩まされていた時期に実施されており、第一次北伐の起こった228年春以降に始まったと考えられる。司馬懿がこの地の防衛の任に着いたのが231年春であり、『宣帝紀』で司馬懿の功績とされていることから231年の祁山の戦い以降に整備が始まり、諸葛亮が233年冬に糧食を調達し234年春に攻めていることから、234年の収穫(麦ならば前年秋植え)に間に合っていた可能性が高い。

 

 

 

■技術

 輸送。

 孔明が作ったと言われる荷車『木牛流馬』が有名。一輪車から四輪車がある。ただし、蜀の道というのは他の地域に比べて細いため、より細い形状で作られたと思われる。

 木牛は1年分の食料を積んで1日20里を進み、人は大して疲れないと言われる。

 1年分の食料とは玄米18石、約306㎏のこと。20里は8.3㎞。時速1から2㎞くらいの速さで進むのだろう。

 流馬は積載量が倍近くになったようだ。

 

 武器。

 連弩。紀元前300年とかそれ以上前からあったようだ。紀元前200年頃には使用されていたという記録が残る。

 こちらも孔明が発明したと言われる元戎が有名。一気に10本ほどの矢を打てるという兵器。弩は比較的簡単に扱えるため、兵士が最初に使い方を習う武器。

 射程は短く35メートルほどしかない。鎧を貫けないので、賊など鎧を着ていない相手にのみ用いられた。

 明光鎧(めいこうがい)、黒光鎧(こくこうがい)、裲襠甲(りょうとうこう)

 

 

 

■礼

・拝揖

 拝礼との違いがわからず。

 

・拝礼

 両手を重ね、手の甲を相手に向けて掲げ、頭を深くたれる。

 君主の命令を拝命する時に使用される。

 

・揖礼

 両手を重ね、手の甲を相手に向けて掲げて上下に振りつつ腰を余り曲げず頭を下げる。

 普段の挨拶などに使用される。

 

・拱手

 吉事は左手を上、凶事は右手が上になるよう両手を重ね、手の甲を相手に向け掲げる。

 祝事や弔事に使用される。老子時代から存在していたと言われる。

 

・拱揖

 両手を重ねて頭を下げる。作法や用途は不明。

 

 

 九拝という礼拝法は稽首、頓首、空首、振動、吉拝、凶拝、奇拝、褒拝、粛拝からなる。

 

・頓首

 土下座に近く、額で地面を打ち付ける激しい礼。

 君主(帝)への直訴や、重い謝罪など命がけの場面に用いられる。

 

・稽首

 土下座に近く、額を地面に触れるまで下げる。

 君主(帝)の命令を拝受する際や、深い謝意を示すなどに用いられる。

 また、さらに畏まった場面、任官などの際? には、再拝稽首と呼ばれる最上位の礼を用いた。再拝稽首では両手を重ね、手の甲を相手に向けて掲げつつ稽首を行い、頭を垂れたまま腕を上下に二度振って礼とした。

 

 

 

■袁術

 僭号し「仲家」を名乗ったと言われるが、陳寿によれば「仲家」は「仲皇室」の意味であり国号は「仲」のみとするのが正しい。また、李賢の『後漢書』注釈によれば「仲」は「沖」と書かれることもある。

 儒教の教典、五経のひとつに『書経』というものがあり、その中の金縢篇に「惟予沖人弗及知」という一文がある。「思い返すに私は沖人(幼い子)だったので知らなかった」というような意味。「予沖人」は同じく『書経』盤庚篇の『下』にも登場するが、ここでの意味も「幼子のように無知な私」という謙称であり、天子が自らを謙遜して指す言葉でもある。これらを根拠に、袁術が行った「沖」の自称をそれと知らない何者かが国名として紹介したのだとか、「仲家」は「未だ立ち上がったばかりの我が国」という意味の謙称であるとする解釈もある。

 余談になるが、陳寿が袁術について記したこの項で、補足として『(「仲家」と同様に)公孫述が「成家」と号したが、国号は「成」である』というようなことが書かれており、記述を混同して袁術の名乗った国号を「成」と勘違いしている解説もあるようだ。

 

 

 

■グッズ

・後漢(朝廷軍)の軍旗 蚩尤旗(しゆうき)

 真っ赤な旗を指す。

 

・皇帝の旗 旌旗(せいき)

 旄牛(からうし)の尾を編んで旗飾りとし、鳥の羽などを垂らした旗。星旄(せいぼう)とも。

 

・皇帝の御料車 黄屋車(こうおくしゃ)

 内側に黄色の絹を張った車。屋根付き。

 

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