『ナイショの話』 やはり俺の北宇治高校吹奏楽部の生活はまちがっている。 作:てにもつ
俺が大学に入学して、時はすでに十月。少し夜に家を出ては肌寒くなってきたかなと言うくらいの時期に、その電話は掛かってきた。
「…もしもし」
「あ、もしもし。ごめんね、比企谷君。今大丈夫?」
「はい。大丈夫ですけど…。傘木先輩ですよね?」
「うん。そうそう。こんばんは」
「あ、はい。こんばんは。優子先輩のことですか?」
「うん。よく分かったね?」
「そりゃ優子先輩から掛かってきてて、出たのが傘木先輩だったら結論それしかないでしょう?」
「そっか。うん。そうだ」
「あの人、結構酔っ払ってます?」
「酔っ払っててテンションが高い。夏紀とどっちが多く飲めるか勝負するんだー、とか言い出してからかなり飲んでたからね」
やっぱりかあ。今日のバイトが終わった後に、優子先輩と同じく絶賛大学生活満喫中である傘木先輩と夏紀先輩の二人と飲むから帰るのが遅くなると聞いた時からこうなることは想像できていた。
傘木先輩は中々真面目だから、まだ十九歳で酒を飲まない。よって、飲むのが二十歳をすでに迎えているあの二人であればどうなるか。こうなる。
酔っ払うと色々な人がいるというが、総じて二段階右折だと俺は思う。例えばめっちゃテンションが上がって、落ち着いたらトイレにこもるやつ。こいつは一番厄介。もしくはべらべらしゃべり出して、しばらくしたら泣き出すやつ。それが女だった場合は私の心の隙間空いてるから、誰か貰ってーっていうタイプもいるから簡単に騙されてはいけない。そういう女ほど軽くて、キャパシティどんだけ広いのってくらい、色んなやつに心の隙間空けまくってる。
それが吉川優子の場合、妙にテンションが高いのは第一段階なのだ。第二段階はまだこれから。
深くため息を吐いた。おそらく今日書くことにしていたレポートを終わらせることはもうできないだろう。
「夏紀先輩は大丈夫ですか?」
「うん。夏紀も顔赤くていつもより……うるさい」
「そっすか。……なんか優子先輩と夏紀先輩がご迷惑かけてすいません」
傘木先輩には本当に申し訳ない。程々のところでやめればいいものの、特にあの二人が飲んで酔うとどちらもダルいのだ。夏紀先輩はうるさいし、優子先輩はやたらテンションが上がる。
「ううん。三人で飲むの、楽しかったし。むしろ私こそ電話かけちゃってごめんね。いや、私がかけたんじゃないんだけど…」
「分かってます」
「優子が比企谷君に電話して迎え来て貰いたいっていうからさ」
「あの人、俺のこと奴隷か付き人かだと思ってるんですかね?」
「いや、普通に彼氏だと思ってるんじゃない。さっきまで散々惚気られてたし」
「……」
「なんかあんまり学校――」
「希美!スマホ返してよ!出たんでしょ!」
通話をしているスマホ越しに聞き慣れた甲高い声が聞こえてきて、思わず耳から離した。
「あ、うん。今代わる」
「ちょっと夏紀!私のこと離しなさいよ!」
「やだねー」
「何でよ!?キモいし、暑いし、キモいんですけど!」
「あんたが嫌がることをしたいから」
「はあぁー!性格わっる!しかも酒臭いのよ!離して!」
「酒臭いのはあんたもでしょ!」
「このっ!離して!私は八幡と――」
こめかみを押さえた。これをどこかの道ばたでやってると考えると本当に恥ずかしい。
「って現状かな。うん」
「……大学の近くの居酒屋で飲んでたんですよね?」
「今は駅にいるんだけど」
「わかりました」
「来てくれるの?」
「はい。五分もあれば着くのでそこで待ってて貰っていいですか?」
「ありがとう。……優子ー。今から比企谷君来るってさー」
「やったあ!帰りコンビニ寄ってプリン買ってもらおっと」
「違う違う。比企谷は今から私と希美と一緒にもう一軒行くから」
「行くわけないでしょ。二人ともまだ未成年ですー」
「そんなもんわかんないって。二人とも大人っぽいし。比企谷なんて、会社帰りの上司にこき使われたサラリーマンみたいな目してるし」
「飲ませるのは本当にやめてよね。大体、なんであんたと希美と三人で私がいないのよ?」
「そりゃ優子ちゃんはさっき私より飲めなかったでしょ?敗者は一人で帰って?」
「な!?夏紀は全部ちょっと残してたじゃない。ちょい残しよ、ちょい残し!」
ギャーギャーギャーギャー続くやり取りに傘木先輩の困り顔が頭をよぎった。
「あの、すぐに行きます」
「…うん。お願い」
幸いにも、三人が飲んでいた場所はここから近い。やれやれと重たい腰を上げて、きちんと整理された、やたら可愛らしいグッズで溢れる玄関を出た。
「……さむ」
タクシー代払ってでもタクシーで帰ってきて貰うべきだったと後悔したが、もう遅い。早く行かなければ、傘木先輩があんまりにも不憫だ。酔っ払い二人を相手にする素面の辛さは、優子先輩と夏紀先輩が飲めるようになってから嫌と言うほどに痛感した。
せめてあともう一人いれば。そう思って真っ先に思い浮かぶのは、鎧塚先輩だった。しかし鎧塚先輩だけは、何だかんだでよく一緒にいた彼女ら四人の中で唯一音楽大学に進学した。音楽系の大学というのは、俺たちが通う適当に過ごしてりゃ卒業できるような普通の大学よりもどうも大変らしく、都合を合わせるのは中々難しいそうだ。
「大体、なんで大学生にもなってそんなふわふわした服着てるわけ?恥ずかしいよー?」
「あんたこそ、何も分かってないわね。こういうの今、流行ってるから」
「それはチャオに載ってるんでしょ?そんなんじゃ、比企谷にも捨てられるんじゃない?服もダサいし、うっさいし」
「んなわけないでしょ!可愛いって言ってくれますー」
「もうやめようよ。二人とも……」
三人とも紛うことなく美人なはずだ。高校の時から化粧なんてほとんどせずとも元がいいから可愛かったのに、大学に入ったら化粧という武器も身につけて行くところ注目の的。現に三人とも男に誘われたことは一度や二度ではないことを俺は知っている。それでも今、男どころか通行人が一切近付かないのはやはり、あの二人のハイパーボイスの効果以外の何物でもない。
まあ男が寄らずにいるのは、彼氏としては不安がなくて良いのだが、この光景を見ると別の意味で不安になる。
もう今から二年前になるのか。優子先輩が部長、夏紀先輩が副部長をしていた夏を終えてから。二人と一緒に部の運営に携わっていたからこそ、あの一年間ですっごく大人になって遠い存在になった気さえしていた時もあったのに、やはり人は退化していく生き物である。
だから、俺も高校の時は朝練行ってたのに、大学は寝坊しまくって授業を休むのも、それを小町と母さんに嘘吐いて誤魔化すのも仕方がない。仕方がないのよ…。
「お待たせしました」
「あ。比企谷君!」
傘木先輩の声で二人が俺を見た。
「八幡!やっと……ってちょっとあんた!いい加減離せってば!」
「むりー」
「何でよ!」
「むりー」
「だからなんで!」
「むりー」
「聞いてよ!?」
騒がしい二人は置いといて、俺が来て本当に安心したような顔をしている傘木先輩に謝らないと。
「傘木先輩。ご迷惑かけていたみたいで申し訳ないです…」
「ううん。本当に楽しかったんだ!」
「それなら良かったですけど」
「うん。…途中から、面倒くさかったけど…」
「わかりますよ。たまに夏紀先輩が来るときそうですもん。
最初コンビニで買ってきたつまみを焼いたりしたりして、アレンジしてるときは楽しいんですよね。ただ缶を結構空け出すと、ダル絡み凄いし、うるさいし。それも優子先輩も夏紀先輩もお互いがいると加速度的に酔っ払うから…。ついこないだなんて、ちょっと二人の相手疲れたからベランダ行ってたら何故か鍵絞められてて、しかも二人とも疲れて寝てて。だからたまたま優子先輩が起きるまで、一人で外に…」
「…比企谷君。今度、優子に内緒でご飯奢るよ。慰め合おう」
「…なんか俺の方がすいません。気を遣って貰っちゃって」
傘木先輩の優しさがしみる。あの日、本当に辛かったな…。夜三時にスマホもなしでベランダに…。
『ベランダに一人』って歌詞とか、小説とかでよく目にしたり聞いたりするけど、あれはダメだ。そんな軽々しく使ってはいけない。少なくともあれを経験するまで使わないで、お願い。
「でもさ、吹部の時から私はずっと思ってたけど、やっぱり優子と比企谷君はいいね。上手くやってるじゃん!」
「……ちなみに何を聞きました?」
「優子酔っ払うと元から明るいのにもっと元気になるから、楽しそうに色々話してたよ!
優子の一人暮らしの家に最近はほとんど毎日いるとか、でもそれも申し訳ないからって逆に二人で休みの日は比企谷君の家によく行って比企谷君の妹と三人で遊んでるーとか。家から中々出ようとしないで面倒くさいけど、結局最後は映画でもショッピングでも遊びに行ってくれるって喜んでたし。
あ。でも逆に優子の実家には中々行こうとしないっていじけてたよ」
「いや、行きにくいもんなんですよ。男からしたら彼女の実家はラスボス前の城みたいなもんですからね?」
「それは大げさなんじゃ…」
「八幡!」
「うおっ!」
話していると目の前から亜麻色の髪の二十歳が飛びついてきた。ふわりと香る嗅ぎ慣れた女の子の臭いはいまだにドキドキとしてしまう。一緒に酒の臭いも香ってくるから、また別の意味でもドキドキしてしまう。
「良かった。八幡がいる」
「死んじゃったみたいなあれじゃないん……」
「ねえねえ。聞いてよ聞いてよ」
「いや、むしろ俺の話も最後まで聞いてよ。まあいいですけど。何ですか?」
「夏紀がズルしたの」
「は?」
「私より多くお酒飲もうとして、絶対全部ちょっと残すの。ズルいでしょ?」
「……」
「……ズルいよね…?」
「……」
「……んぅーっ!」
「はは。ほら優子。比企谷別に狡くないってさー」
ケタケタと笑う夏紀先輩に、優子先輩は悔しそうに目に涙を溜めた。可愛い。この顔が見たかったから、何も言わなかったみたいなところがちょっとある。最低?ほっとけ。可愛いの前では何でも許される。萌え豚の暗黙の了解だ。
「比企谷もご苦労なことで。わざわざ迎えになんて来なくてもいいのに」
「じゃあ迎えに来させるくらいに飲まないでくださいよ」
「はは。ごめんごめん。あ、そうだこないだのことも謝っとかないと」
「こないだの事って?ベランダに閉じ込めたことですか?」
「それもだけど、比企谷の気に入って飾ってた何かのフィギュアみたいなやつ、落として壊しちゃったんだよね?」
「え?」
「え?」
沈黙が場を支配した。そのフィギュアってまさか、俺がゲーセンで一目惚れして三千円かけて取ったおっぱいタイツ師匠じゃないよな!?
「ねえ、もう帰ろうよー」
「そ、そうだね。帰ろう」
「待って下さい夏紀先輩。こういう時だけ優子先輩に乗っからないで!」
「私は希美に送ってって貰うから。優子のことは頼んだよ」
「え?私?まあ別にいいけど」
「じゃあまた次は比企谷も一緒に飲み行こう!って言っても比企谷はソフドリしか飲めないけど」
「次があるかは帰った後にフィギュアの状態を確認してからによりますね…」
「そ、それじゃあね。比企谷君、優子」
「うん。ばいばーい。また飲み行こう」
「うん。わかったー」
「傘木先輩、ありがとうござました」
二人は颯爽と俺たちに手を振って駅に向かっていった。逃げ足だけは速い。
だがこうして割とあっさりした解散でなければ、また優子先輩と夏紀先輩が喧嘩をおっぱじめる可能性があった。そう考えると、あそこで夏紀先輩を逃すのはそんなに悪い選択ではなかったのだろう。
「優子先輩、歩けますか?」
「歩ける」
歩けるなら、答えながら繋いできたこの手は何なんですかね?
「楽しかったですか?」
「うん。楽しかった。特に希美とは合うの、久しぶりだったから。久しぶりって言っても、大学ではちょくちょく合うし、一緒にご飯行ったのも二ヶ月ぶりくらいだけどね」
「それ久しぶりって言わないですよ?」
「言うもん。だって高校の時は毎日会ってたんだよ?」
「二年以上も前の話ですけどね」
「去年ももうちょっと頻繁に合ってた。八幡が部活で忙しかったし、引退しても受験勉強あったし」
「その言い方だと、まるで傘木先輩と会わなくなったのが俺のせいみたいになってませんかね?」
「ふふふ」
優子先輩の頬は酔っ払っているせいで赤い。これはわざとなのだろうが、ふらふらと歩くことで俺と繋いでいる手に引っ張られるのを楽しんでいる。
くっついては離れて、くっついては離れて。しばらくしてそれも飽きてきたのか、繋いだ手はそのままに俺の腕に身体を預けてきて、上目使いで俺に甘えるように問いかけた。
「今日は私のことお持ち帰り?」
「むしろ俺が優子先輩の一人暮らしの部屋に行くんだからお持ち帰りされてる側ですよね?」
「確かに。じゃあ送り狼」
「狼…。悪い響きじゃないですね」
「全然似合わないけど」
「いやめっちゃ似合うでしょ?大学でも一切友達を作らない。一匹狼と言えばまさに俺じゃないですか?」
「同じ大学に塚本いるでしょ?それに一匹じゃないじゃん。今だって、送り狼じゃん」
「送り一匹狼です」
「意味わかんないんですけどー」
「でも今日は送ってくだけです」
「えー!?泊まってってくれないの!?」
「レポートやんなくちゃいけないんですよ」
「そんなの明後日でいいじゃん!私も教えてあげるし」
「俺たち学部全然違うじゃないですか」
「いーじゃんいーじゃーん」
「それに酔っ払いの相手面倒くさいんですもん」
「二年以上付き合ってる彼女に対して冷たい…。あ、そうだ。私が今日は比企谷家にお邪魔させてもらえば――」
「やっぱり今日は行かせてもらいますね」
「なんで!?」
「だって酔っ払った優子先輩が小町にいらないこと色々と話すと、後からボロボロに言われた挙げ句に家で居場所がなくなるんですもん。
ボッチにおいて一番手放しちゃ行けないもの、それは家族との絆です。大学とか言う時間が有り余ってそれを謳歌できる最高の環境に身を置かせてくれているにも関わらず、それを本分だやら、今はそれでいいんだやら言って甘やかしてくれて、その上に三食に自由に使える部屋を貸してくれるサービス付き。これは今の若者が社会に出ないで親の脛を囓り続けるのもわかりますね。
だからこそ、そんな立場を危うくする優子先輩を近付かせるわけには行きません」
「さっき自分のこと一匹狼とか言ってたくせに。一匹どころか依存しまくってるじゃん。それに、そもそも私そんな酔っ払ってないんだけど」
「まあ確かに。前に一回あったときみたいにべろんべろんではないですね」
「ちょっと。その話はしないで」
「ああ。もうそんな気にしてないんで俺はいいっすよ。
酒飲めるようになったばっかりの時だったから仕方ないですよね。トイレから出てこれなくなっても」
「本当にやめてよ。次の日死にたくなったんだから」
「でも俺が介抱して良かったじゃないですか?」
「むしろ介抱してくれたのがあんただから嫌だったの!一人とか、まあまだ夏紀なら良かったけど。よりによって八幡の前で吐くなんて…」
おっと。本当に俯いて泣きそうになっているからこの話はやめないと。
「あの時の話蒸し返すとか信じられない。そういうところ、本当に大嫌い」
「真顔で大嫌いはやめてください。このまま目の前の赤信号に飛び出しそうになるんで」
「嘘よ。大好き」
「……はいはい」
「あー。照れてる照れてるー。あはは!」
「本当に酔っ払い面倒くさい……」
「ただいまー!」
「たでーま」
『お帰り』の返事はない。むしろ、あったら怖い。何だかんだで同棲みたいになりつつある、この部屋の家主と俺が揃って帰ってきたんだから。ポケットの中に入っている、この部屋の鍵は俺と優子先輩しか持っていない。
見慣れた可愛らしい玄関に靴をそろえて脱いだ優子先輩は、ぱたぱたとリビングに向かっていった。一応酔っ払っていても整理整頓をきちんとする辺り、これは習性みたいなものなのだろう。大変素晴らしいことです。
「あ、ねえ八幡」
リビングの電気をつけた優子先輩がニヤニヤと笑いながら俺を手招きした。
「なんすか?」
「さっき送ったら帰るつもりなんて言ってたくせに、パソコンうちに持ってきてるじゃん。迎えに来てくれるまでうちでレポート書いてたって事でしょ?最初から泊まって行く気だったんだ、この捻デレさんめー」
「…まあ。絶対今日は迎えに来てって言われるって思ってましたから。そんでその後は泊まってく流れになりそうだなって。うん」
「もう。だったら最初から素直に泊まるつもりでしたって言いなさいよー」
ぽすぽすと胸を叩かれる。
それを手で抑えて、俺は使い慣れた水色のクッションに腰を降ろした。ドーナッツのように真ん中が空洞になって座りやすいクッションはピンク色の優子先輩のクッションとお揃いだ。
座って、落ち着いて部屋を見渡してみると小っ恥ずかしいお揃いの物も増えてきたのだと実感する。キッチンに置いてあるマグカップや普段使いの箸や、折角行ったんだから買おうよとノリで買ってしまったディスティニーランドの人形。
棚の上に並べられた吹部時代の表彰状と、数々の写真。一番大きな写真は優子先輩が部長だった俺が二年次の時の全体写真だ。優子先輩の隣に写る夏紀先輩を含めて制服を着ていることに懐かしさを覚える。当然だがもう二年間、制服姿の一つ上の先輩を見ていない。
他にも香織先輩と俺たち二人で写っているものや、一年の時はまさかこんな写真撮るなんて考えもしなかった、高坂と三人で撮った写真もあった。
そんな写真の隣に置かれている置き時計は、俺が優子先輩が一人暮らしを始めると聞いた時にプレゼントしたものだった。悩みに悩んで送ったその時計は、正直そこまで高価な物ではなかったのに、今でも頑張って働き続けて優子先輩の生活を見守ってくれている。
「ねえ。何する?録画してたドラマの続き見る?それかせっかくスイッチ買ったし、マリカ?」
「優子先輩がやりたいのでいいですよ」
「うーん。マリカは八幡に負けるとムカつくし、夏紀をぼこぼこにするためのものだから辞めましょう」
「なんか夏紀先輩、優子先輩に負けるの悔しすぎて買おうか検討してるみたいですよ?」
「そうなの?バカだねー。オンラインで私と勝負したら、夏紀、家で一人で悔しがることになるのに」
「意外とすぐ抜かされそうな気がしますけどね」
だって優子先輩、ドリフトしないし。アイテムゲーと言われているこのゲームだが、そのアイテムでのラッキー勝利が異常に多い優子先輩は、ドリフトを練習してミスって負けている夏紀先輩に抜かされる日は近いのではなかろうか。
でもそうなったらそうなったらで、今度は優子先輩もドリフトするんだとか言い出して、練習に付き合わされそうな気がする。徹夜で。
「こないだ途中で見るのやめた映画見よー」
「うっす」
「ってわけでつけるのは任せたわ」
どうせ今回も途中で見るのを中断するんだろうなーなんて思いながらも、リモコンを押して録画リストの中からお目当ての映画を選ぶ。こてこての胃もたれしそうな恋愛映画は俺の嫌いな物ではあったのだが、意外と見てみれば面白い。『こんなのあるわけねえだろ』とか、『こんな男、俳優だから顔がいいだけで実際にいたら最低のクズ野郎だぞ』とか一人でツッコミを入れるのが。
意外でもないが、優子先輩もこの手の映画はそんなに好きではないはずなのに、それでもこうして録画して見るのは話のネタで、会話をするための半ば義務感のようなものらしい。
大学生はドラマを卒業しても俳優は卒業できない。多分、高校の時のアニメオタクが大学でやたら声優のイベントに参加をし始めるのと同じ現象なのだろう。
「俺、飲み物飲みますけど、なんかいれましょうか?」
「ううん。いらない」
「分かりました」
「うん」
「……」
「……」
「…いや、あの。うんじゃなくてどいてもらっていいですか?」
「えー」
優子先輩は映画を再生して、早一分と経たずに見ていなかった。何かしようと言いだしたのって、あなたでしたよね?
「抱っこー」
「……」
「抱っこー」
「……」
なるほど。これはもう来てしまったか。第二段階が。
吉川優子の習性。お酒を飲むといつもより元気になる。しばらくして状態変化。やたら甘えん坊になる。
酒は人の隠している部分をさらけ出すだけだと言うが、もし本当にそうであるのならば納得かもしれない。部活やってたときはまだしも、今は高校の時ほどエネルギーを発散する物がないから元気になるじゃん。そんで普段は隠そうとしてるけど、独占欲強いし甘えたがりだから、しばらくしたら元気から一変してこの第二形態に切り替わる。
優子先輩を見てると、つくづく思うことは自分が酒を飲んだらどうなるのだろうという恐怖だけである。世に漠然と存在するつまんないやつらは青い鳥のマークのSNSでつまんないことを呟いてはハートを貰って承認欲求を満たされた気になっているが、俺には百四十文字なんかじゃこの世界を呟く事なんてできない。足りなすぎる。だから、酒の効果でそれを全て発散しそうだ。
そんなことを考えている間にも、優子先輩はピンクのクッションから腰を上げて、俺の足の上に腰を降ろした。
「抱っこー」
「……はぁ」
ふんわりと香る優子先輩の臭いは狡いと思うんだ。だってこれ、もはや人の神経を操る効果があるんだぜ。小町も比企谷家に優子先輩が泊まり来て、同じベッドで寝るときはついつい布団の中で抱きしめちゃうって言ってたもん。
さらさらの亜麻色の髪が俺の胸にすっぽりと収まる。
「あ、優子先輩。リボン取らないと」
「取って」
言われるが儘に大学に入っても変わることのない優子先輩のトレンドマークであるリボンを解く。この瞬間が、俺はたまらなく好きだ。
高校の時の付き合う前から、優子先輩が頭にリボンを巻いていたがそれを取っている姿を見たことがなかった。合宿の時さえ、風呂と寝るとき以外はヘアバンドを巻いていたし。
だからこそ、俺は未だに初めて見たときの優子先輩の髪がストレートに下ろしてある姿を思い出せと言われたら思い出せる。リボンがお気に入りだという優子先輩は勿論リボンが似合っているし、ついていないといないで違和感があるけれど、それもあってか髪を下ろした優子先輩の破壊力は地球が破壊されてもおかしくないレベル。
「やん。くすぐったいよ」
髪を下ろした優子先輩の顔を見たくて首に触れた。そうすれば、くすぐったがって俺の方を向くことも知っているし、それが嫌いでないこともわかっている。
この髪を下ろした優子先輩を知っている男は、きっと俺しかいないから。
そんなことを考えているのは、もしかしたら優子先輩と一緒にいる時間が長くて、考え方が移ったしまったのかもしれない。でもそれに、俺の心は嫌悪感を示すことはなかった。
酔っていることもあって、頬を染めた優子先輩は俺に問いかけた。
甘い囁きが耳朶に溶けていく。
「ねえ、えっちする?」
「いや、優子先輩疲れてるでしょ?」
「ううん。そんなことない」
「それにもう時間も結構遅いし」
「別にいいでしょ?今日くらい」
「何で今日はそんな乗り気なんですか?」
「んー。別に。でも迎え来てくれたのは嬉しかったし、今日は一日楽しかったし」
「それがそういう気分に繋がるもんなんすか?」
「うん。だからちゅーして?」
この酔っ払い第二形態の何が面倒くさいって。
甘えん坊で上目使いで真っ白い肌が紅潮してて髪も下ろしてて酒臭さよりもいい臭いが優ってて積極的で可愛くて目もいつもより濡れていてあざとくて。結果として、いつも誘われても誘われなくてもやるところまでやってしまうところなんだよな。
面倒くさいと心の中で考えるのは、ある意味自分へのリミッターだ。本当は面倒くさくなんてちっともなくて、嬉しいし気持ちがいいし幸せだけれども、それでも自分を客観視して面倒くさいと一線引かなければ、優子先輩に溺れてしまって墜ちるところまで墜ちてしまう。それはダメだ。怖い。
だから俺は自分の気持ちに嘘を吐く、面倒くさいなんて、かっこつけて。愛しくて可愛い先輩の柔らかい唇に、俺はゆっくりと自分の唇を重ねた。
翌朝はベッドの中で目を覚ます。裸の俺の隣には、真っ白の肌をあられもなく晒している優子先輩。髪で少しは隠れているものの、ほぼ丸見えのうなじ。胸は布団で隠れているが、隠れていない。言うなれば週刊誌のグラビアくらい際どいギリギリライン。布団さえめくれば一瞬でアウトだ。可愛い女の子は何着たって可愛いけど、こうして何も着ていなくたって可愛い。素材の味が活きる的なやつ。
こんな朝を迎えるのは別に珍しいことではない。一週間に一回くらいはある。だからさほど驚くことはないけれど。
「げ。やっちまった」
俺が上げた置き時計は朝の十時を示していた。一限はとっくに始まっている時間である。
俺が起きたことを敏感に感じ取って、もぞもぞと動いた先輩を、さて起こそうか起こすまいか。このベッドで陽の光が差し込んで、綺麗な髪がキラキラと光っているように見える優子先輩は安らかに眠っている顔も相まって、川島と小町に負けず劣らずの天使っぷりである。よし決めた。起こさない。
多分優子先輩なら、『まだ起きない。ダルいし』とかいって布団から出ようとはしないだろう。
「……」
静かに身体は起こさないで部屋を見渡してみれば、昨日買ってきて冷蔵庫にしまい忘れたコンビニで買ったプリンや、行為で使ったものを全て放り込んだ治安の悪いゴミ箱。服は脱ぎっぱなし。落ちているベージュのリボンに、『あれ。いつから優子先輩、そんな際どいの履くようになってたっけ』って冷静に考えると泥沼にはまりそうな下着も散乱している。
本当に怠惰で、誰かから見ればしょうもない大学生活。
だからこそ、俺はまた目を瞑った。この幸せな生活を享受するために。